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婚約破棄された悪役令嬢ですが、追放先の辺境で拾われた氷の将軍に溺愛されています

作者: 夢見叶

 王太子殿下に婚約破棄を言い渡されたのは、

 わたくしが前世で推しキャラだった氷の将軍のルートに、ようやく辿り着いた、その夜会でのことでした。


「リアナ・フォン・グレイス! 公然と聖女ミリアを侮辱した罪により、この場をもって婚約を破棄する!」


 眩いシャンデリアの光の下、エドワード殿下は実に誇らしげに宣言なさる。

 周囲の貴族たちは、蜂蜜に群がる虫のようにざわめき、目を輝かせてこちらを見ていた。


 ――ああ、来ましたわね。断罪イベント。


 心の中で、わたくしは静かにため息をつきました。

 前世でやり込んだ乙女ゲーム『クリスタリアの聖女』。今いるこの世界がその舞台だと気付いたのは、十歳の頃です。

 公爵令嬢リアナ・フォン・グレイスは、物語の典型的な悪役令嬢。

 聖女ヒロインをいじめ、婚約者である王太子の心を傷つけた挙げ句、華々しく断罪される役どころ。


 そして今、シナリオ通りにわたくしは断罪されている――ように見えますわね。


「殿下、ひとつだけ訂正させていただいてもよろしいから?」


 わたくしはできる限り優雅に、スカートの裾をつまんで一礼した。


「訂正だと? まだ言い訳をするつもりか、リアナ!?」


「わたくしが押したのは聖女ミリア様ご本人ではなく、その背後から短剣を構えて近付いていた刺客の腕でしてよ。……残念ながら、殿下の位置からは死角になっていたようですが」


 会場が、さらに大きくざわめく。

 ミリア様は青ざめた顔で、自分の背中をさすっていた。昨夜、護衛の騎士に押し付けられた偶然の転倒で知った痛みとよく似ているのでしょう。


「っ、リアナ、嘘をつくな! ミリアはそんなこと、一言も……!」


「ミリア様はご自分を狙う者などいないと信じておられますもの。だからこそ、わたくしは影から対処してまいりましたの。王家とこの国のために」


 それは真実だ。

 この一年、わたくしはグレイス公爵家の情報網を総動員して、聖女暗殺を企む貴族派閥の証拠を集めてきた。

 殿下が聖女に夢中なのは、ゲームと同じ。けれど、それゆえに周囲が見えなくなっているのも、ゲーム以上でしたから。


「――黙れ!」


 エドワード殿下は、わたくしの言葉を怒鳴り声でかき消した。


「その舌でいかほど巧みに取り繕おうと、私の目はごまかせぬ! ミリアは怯えていた! それがすべてだ!」


 殿下の背後で、ミリア様が小さく震えながら殿下の袖を掴んだ。


「エド……リアナ様、怖かったの。本当に……」


「見ろ、彼女はこうして怯えている! お前の偽りの善意など、この国に不要だ!」


 ……あらあら。

 自覚がないタイプの思考放棄、ですわね。これはもう手遅れかもしれません。


 父――グレイス公爵は、会場の隅で静かに目を伏せていた。

 この断罪劇が茶番であることを、彼はとうに察しているはず。それでも一言も発せられないのは、王命がすでに下りているから。


「リアナ・フォン・グレイス。お前には王都より北方辺境への追放を命ずる。そこにて、己の罪を悔い改めるがいい!」


 ざわめきが、歓声へと変わる。

 悪役令嬢が追放される結末は、娯楽として美しいのでしょう。


「……承知いたしましたわ、殿下」


 それでも、わたくしは微笑んだ。

 ゲームのシナリオでは、リアナは修道院送りになっていたはず。でも追放先が北方辺境に変わったのなら――


(ようやく……お会いできますのね。氷の将軍殿)


 わたくしの前世の記憶が、冷えた北の夜空の下に立つ寡黙な将軍の姿を鮮明に映し出していた。


***


 北方辺境へ向かう馬車は、想像していたような粗末な囚人車ではなかった。


 振動を抑えるための工夫が施され、中で毛皮の敷物まで敷かれている。

 窓から見えるのは、整然とした騎士隊列。彼らが護衛として同行していることは一目瞭然だ。


(……ゲームと違うところ、その一。扱いが妙に丁寧ですわね)


 王都からかなり離れた頃、馬車がふと止まった。

 御者の声と、外の騎士の掛け声。何かあったのかとカーテンをわずかに開けたわたくしの視界に、彼は現れた。


 黒い軍馬。雪のように白い髪。冷えた湖のような鋼色の瞳。

 深い紺の軍服に、銀の装飾。肩にかかる白いマント。


 ――オスカー・ヴァルト。


 北方辺境ヴァルト公爵家当主にして、この国最強と謳われる将軍。

 ゲーム『クリスタリアの聖女』では、隠しルートでのみ攻略可能な、裏ボス兼推しキャラ。


(ああ、本物……立って動いてる……声まで渋くて素敵……!)


 心の中で取り乱しながら、外では涼しい顔を心掛けた。


「グレイス公爵令嬢殿で間違いないな」


 低い声が、馬車の扉越しに響く。


「はい。リアナ・フォン・グレイスでございますわ」


 わたくしが答えると、馬車の扉が開かれた。

 冷たい風とともに現れたオスカーは、噂通りの無表情だったが、その瞳には静かな観察の影が宿っている。


「遠路ご苦労だった。……こちらへ」


 差し出された手。

 粗末に扱われる覚悟をしていた身には、あまりに丁寧で戸惑うほどだった。


 馬車から降りると、足元に雪がきしむ。

 北方の空は、王都とは比べものにならないくらい澄んでいた。


「オスカー・ヴァルトと申す。この北方辺境を預かっている」


「お噂はかねがね。……お招きいただき、光栄ですわ」


 思わず本音が漏れかけて、慌てて「お招き」の部分を飲み込む。

 いけません、本音のわたくし。あなた今、追放されてきた罪人ポジションですのよ。


 オスカーはちらりとわたくしを一瞥し、ふとマントを外した。


「ここは王都より寒い。防寒具は支給されているか?」


「最低限のものは馬車に……」


 言い終わるより早く、厚手のマントがわたくしの肩にかけられていた。


「それでは足りん。凍えられても困る」


 ぶっきらぼうで、けれど乱暴ではない手付き。

 マント越しに伝わる体温に、心臓が少しだけ跳ねる。


(ああもう、推しが優しい……感謝しかありませんわ……)


 前世で、わたくしはこの男に何十時間も課金しながら好感度を上げ続けた。

 しかしゲームの中の彼は、最後まで王都に裏切られ、反乱の末に倒される悲劇の人でもあった。


(今度こそ、そんな結末はさせませんわ)


 マントを押さえながら、わたくしは静かに決意を新たにした。


***


 ヴァルト公爵家の居城は、寒冷地仕様の堅牢な城塞だった。


 石造りの厚い壁。雪除けのための屋根の形。

 兵士たちの動きは無駄がなく、訓練された軍のそれだった。


 到着早々、わたくしは客間ではなく、なぜか執務室に通された。

 窓際には、王都からの封蝋付きの書状が山積みになっている。


「まずは、これを確認しておこう」


 オスカーが一通を取り上げ、封を切る。

 読み終えると、彼は無言で暖炉へ歩み寄った。


 ぱち、と火花が散る。

 封書は炎に飲まれ、瞬く間に黒い灰へと変わっていった。


「……今のは?」


「王都からの指示だ」


 オスカーは淡々と言った。


「『罪人たるリアナ・フォン・グレイスを、辺境にて厳しく拘束し、最低限の生活のみ与えよ』『必要とあれば、その身柄を処断することも厭わぬ』……といったところだ」


 彼の声には微かな嫌悪が混じっていた。


「処断、とは物騒ですわね」


「そのような真似を、俺の領内でさせるつもりはない」


 氷のような瞳が、わずかに細められる。


「王都は、こちらの地理も状況も知らん。罪を着せ、追いやればすべて解決すると思っているらしい」


 その言葉に、わたくしは小さく苦笑した。


「王都というものは、いつの世も似たようなものですわ」


「……そうかもしれん」


 オスカーは一度息を吐き、こちらを見据えた。


「公爵令嬢殿。王都はお前を“罪人”と呼ぶが、俺にはそうは見えん。王都から届いた報告書と、こちらで独自に集めた情報を照らし合わせると――むしろ、お前は聖女を狙う陰謀をいくつも未然に潰している」


「まあ。そこまでご存知で?」


「北方と王都は遠いが、情報が届かぬわけではない。……俺は、恩人を粗末には扱わん」


 恩人。

 そう呼ばれて、胸の奥が少しだけ温かくなった。


「そこで提案がある」


 オスカーは机に両手をつき、言葉を選ぶように口を開いた。


「お前を罪人のまま預かれば、王都は何かと口を出してくるだろう。だが――」


 一拍置いて、静かに続ける。


「俺の妻として迎えれば、事情は変わる」


 空気が、ふっと変わった気がした。


「……妻、でございますか?」


「形式だけでも構わん。公的には『王太子の元婚約者を保護するための政略結婚』という形になる。そうなれば、王都も軽々しくお前に手出しはできんはずだ」


 それは、保護の提案だった。

 同時に、ゲームのシナリオには存在しない、新しいルートの扉でもある。


「もちろん、嫌ならば無理にとは言わん。俺も領地も、お前を守ることを約束するが……王都はしつこい」


 淡々とした口調の裏に、彼なりの焦りのようなものが透けて見えた。


(ゲームでは……)


 わたくしは脳内で、前世の記憶をめくる。

 オスカー・ヴァルトは、王都に見捨てられ、補給を断たれ、民を守るために反旗を翻した。

 それが氷の将軍・反逆ルートの始まりだった。


 もしここで、彼が王都に対して更なる不信感を抱けば――シナリオは、あのバッドエンドへと向かうかもしれない。


(そんなの、絶対に嫌ですわ)


 彼には幸せになってほしい。

 それは、前世から変わらない、わたくしのわがままな願いだった。


「……ひとつ、お伺いしてもよろしくて?」


「なんだ」


「このお話、ほんの少しでも、殿下への当てつけが含まれている、なんてことはございませんわよね?」


 冗談めかして笑ってみせると、オスカーは一瞬だけ言葉を詰まらせた。

 わずかに視線が泳ぐ。


「……全く含まれていないとは、言い切れん」


「まあ正直者」


 思わず笑みがこぼれる。


「でしたら、わたくしからもひとつ、お願いがありますの」


「?」


「この結婚、たとえ契約結婚と銘打っても結構です。ですが――お互いを尊重し合う形で、終わらせましょう」


 オスカーの瞳が、ふっと和らいだ。


「ああ。約束しよう」


 その手が差し出される。

 わたくしがそれを取ると、指先に彼の体温が直に触れた。


 こうして、わたくしは氷の将軍と契約結婚を結んだ。

 王都にとっては厄介払い。

 でも、わたくしにとっては――推しとの共同生活の始まりである。


***


 契約結婚と言いながら、その日々は思っていた以上に穏やかで、温かかった。


 辺境の朝は早い。

 まだ日も昇りきらぬうちから、兵士たちが訓練場で木剣を打ち鳴らす音が響く。


「リアナ殿、おはようございます!」


「おはようございますわ。今日もお元気そうで何よりです」


 最初は「追放された悪役令嬢」という目で見られていたが、

 怪我人の治療や、兵舎の衛生改善、食事の栄養バランスの見直しなどをしているうちに、兵士たちとの距離は自然と縮まっていった。


「奥方様、この湿布、本当に効くな! 昨日の捻挫がもう……!」


「奥方様の煮込みも最高です!」


「まあまあ、殿方を一瞬で元気にするのは得意ですのよ?」


 軽口を叩きながら、わたくしは兵士たちの包帯を巻き替える。

 その手元から、淡い光が溢れ出した。


「……っ、おお。痛みが引いた……」


「本当に、聖女様みたいだ……」


 聖女、という言葉に、わたくしは苦笑した。


 わたくしには、生まれつき強い“癒しの力”があった。

 ゲームのステータス画面で言うならば、回復魔法と聖属性の値がカンストしているレベルで。


 でも、王都ではその力がまともに測られたことはない。

 「悪役令嬢」に聖女の適性があるなど、誰も考えもしなかったから。


(まあ、今さら知っていただかなくても結構ですけれど)


 ここでは十分に、役に立てているのだから。


 そんな日々の中で――オスカーとの距離も、少しずつ、けれど確実に縮まっていった。


「この書類のここ、税率を下げておられるのは?」


「雪解け前に税を重くすれば、農民は春の種もみを買えなくなる。短期的には収入が増えるが、二年後に飢饉が来る」


 執務室で、わたくしが提案した税改正案を見たオスカーは、ほんの少しだけ目を見開いた。


「王太子妃教育の中で、領地経営も学びましたの。……殿下はあまり興味を示されませんでしたけれど」


「惜しいな」


 ぽつりと漏れた言葉に、わたくしは首を傾げる。


「何がでございます?」


「王太子の隣に立つべきは、お前のような女だったろう」


 不意打ちのようなその一言に、胸がきゅっと締め付けられた。


「今さらですわ」


「そうだな。……今さらだ」


 窓の外には、雪を照らす夕日。

 その横顔は、氷ではなく冬の日差しのように柔らかかった。


***


 そんな穏やかな日常が続いていたある日。

 北の砦に、緊急の報せが飛び込んできた。


「魔物の大規模な群れが、国境線を突破しつつあります!」


 伝令の騎士が息を切らしながら叫ぶ。

 オスカーは即座に立ち上がり、地図の前へと歩み寄った。


「数は?」


「確認できているだけで数百。中心に、上位種と思われる影が……!」


「……王都は?」


「南方から王太子殿下が増援を率いて向かっておられると」


 オスカーの眉が僅かにひそめられた。


「間に合わんな。こちらだけで迎え撃つ」


「オスカー様! さすがにそれは……!」


 副官が声を上げる。

 しかし、オスカーは首を横に振った。


「ここを抜かれれば、王都へ続く街道まで一気に雪崩れ込む。

 王太子軍を待つ余裕はない」


 彼の判断は、将軍として正しい。

 だが――


(ゲームだわ)


 前世の記憶が、嫌な形ではっきりと蘇る。


 魔物の群れ。無理な防衛戦。

 補給を約束したはずの王都が、何らかの理由で支援を送らず、オスカー軍はギリギリの戦いを強いられる。


 その結果、彼の心は完全に王都から離れ、反乱へと傾いていく。


(……今度こそ、あの流れにはさせません)


「オスカー様」


 わたくしは一歩前に出た。


「わたくしも戦場へ連れて行っていただけますか?」


「危険だ」


 即答だった。


「それは承知の上ですわ。

 ですがわたくしの回復魔法は、多少なりとも役に立ちます」


「前線に出すわけにはいかん」


「では、後方の救護所で。兵の治療と、結界の維持をいたします」


 オスカーはわずかに考え込み、やがて静かに頷いた。


「……必ず、俺の背中から離れるな」


「ふふ、それでは殿方の邪魔になってしまいますわ。

 でも、なるべく近くにおります」


 わたくしが微笑むと、彼は一瞬だけ目を伏せた。


「……こういう時だけ妙に肝が据わっているな、お前は」


「悪役令嬢は、修羅場で育つものですのよ」


***


 雪原の向こうから、黒いもやのような影が迫ってくる。

 それはやがて形を持ち、牙や爪、角や翅を持つ魔物の群れへと変わった。


「全軍、構え!」


 オスカーの号令が響く。

 その声は冷静で、揺らがない。


 わたくしは後方の丘に設けられた救護所で、結界を展開していた。

 兵士たちが負傷者を運び込むたびに、その傷を癒していく。


「奥方様! こいつは重傷です!」


「運んで。――《聖光治癒》」


 手をかざすと、柔らかな光が溢れ出す。

 折れた骨が繋がり、裂けた肉がふさがっていく。


「す、すげえ……」


「本当に聖女様みたいだ……」


「まあ、悪役令嬢に転職いたしました聖女ですのよ」


 そんな冗談を言っている余裕は、正直ほとんどなかった。

 魔物の数は多く、その一体一体が強い。


 それでも――オスカーの軍はじりじりと押し返していた。


(やっぱり、この人は、最強ですわね)


 対巨獣用の大剣を振るう彼の姿は、ゲーム画面の中よりももっと雄々しく、美しかった。


 そこへ。


「エドワード殿下の軍が……! 南から到着しました!」


 伝令の声が響く。

 雪煙を上げながら、王都軍の旗がなびいている。


 その先頭には、見慣れた顔があった。


「エドワード殿下! 聖女ミリア様もご一緒です!」


「聖女が来た! これで勝てるぞ!」


 王都からの兵士たちが歓声を上げる。

 ミリア様は白いドレスに純白のマントを羽織り、杖を握りしめていた。


「ミリア、聖なる光で魔物を退けてくれ!」


「う、うん……! わたしに、できる限り……!」


 震える声。

 杖の先に光がともり、やがて前線へと放たれる。


 ――しかし、その光は途中で揺らぎ、霧散した。


「え……?」


 ミリア様の顔から血の気が引く。


「どうした、ミリア!? もう一度だ!」


「ご、ごめんなさい……! 魔力が、うまく……!」


 彼女の聖女としての力は、ゲームでも初期値ではそれほど高くなかった。

 育て方次第でいかようにも強くなるのだけれど――現実の彼女には、その余裕も指導役も与えられていない。


 焦りと恐怖を纏ったままでは、力をまともに引き出すこともできないだろう。


 前線が、押され始める。

 オスカーの軍だけでは抑えきれず、王都軍がずるずると後退していく。


「このままでは、結界が……!」


 救護所のテントが揺れた。

 遠くで、魔物の咆哮。


 わたくしは深く息を吸い込んだ。


「――《聖域展開》」


 胸の奥から、熱と冷たさが入り混じったような感覚が溢れ出す。

 光が、雪原一帯を覆うように広がっていった。


「な、なんだ……?」


「眩しい……! だが、温かい……」


 兵士たちがざわめく中、魔物たちの動きが鈍った。

 光に触れた魔物は苦しげにのたうち、やがて霧のように消えていく。


 上位種と思しき巨大な影も、一瞬動きを止めた。


「……あれは、聖女の結界か?」


 前線で剣を構えながら、オスカーが振り返る。

 その視線の先――丘の上で、わたくしは両手を掲げていた。


「辺境を荒らすのは、おやめくださいませ」


 誰にともなく呟いた言葉は、風に乗って雪原に溶けていった。


 光の中で、兵たちの傷が癒えていく。

 疲労に沈んでいた瞳に、再び闘志が宿る。


「今だ! 一気に押し返せ!」


 オスカーの号令と共に、北方軍が再び前へと進んだ。

 王都軍も遅れまいと剣を振るう。


 ――こうして、魔物の大群は辛くも撃退された。


***


 戦いが終わった後の空気は、いつも奇妙な静けさを含んでいる。

 雪原には、魔物が消えた後の黒い染みだけが残っていた。


 臨時に設けられた野外の会議用テントには、主要な指揮官たちが集められていた。


「見事な戦いぶりであった、オスカー・ヴァルト将軍!」


 エドワード殿下は、相変わらず調子よく笑っていた。


「聖女ミリアの力も、見事であった! なあ?」


 ミリア様は、ぎこちない笑みを浮かべている。


「わ、わたしは、その……少ししか……」


「謙遜するな。お前の力があったからこそ――」


「失礼ながら、殿下」


 オスカーの低い声が、殿下の言葉を断ち切った。


「今回、戦線の維持と勝利に決定的に寄与したのは、我が妻の結界と治癒魔法だ」


 テントの視線が、一斉にこちらへ向けられる。

 わたくしは一歩前に出て、ドレスの裾を持ち上げた。


「ご挨拶が遅れましたわ。北方辺境ヴァルト公爵夫人、リアナ・ヴァルトと申します」


「り、リアナ……?」


 殿下の顔から、血の気が引いた。


「なぜ、お前がここに……い、いや、それより、“妻”とはどういうことだ!?」


「言葉通りの意味ですわ、殿下」


 わたくしは柔らかく微笑んだ。


「殿下がわたくしの婚約を破棄なさり、辺境へ追放してくださったおかげで、わたくしはオスカー様と出会い、こうして共に辺境を守る者となりましたの」


 ざわめきが広がる。


「ば、馬鹿な……! お前は罪を犯し、聖女ミリアを傷つけた……!」


「殿下」


 わたくしは、ほんの少しだけ笑みの角度を変えた。

 社交界で冷笑と呼ばれる、それでも礼儀だけは保った微笑み。


「あの日、わたくしが押したのはミリア様ではなく、その背後から短剣を向けていた刺客でしたわ。その証拠はすべて、グレイス公爵家の書庫に保管してございます。……確認なさったかしら?」


「な……」


「それだけではございません。ミリア様を偽聖女として祭り上げ、この国の信仰と税を牛耳ろうとしていた貴族派閥のことも」


 殿下の目が、わずかに揺れた。


「……なんのことだ」


「たまたま失われた予算書類。たまたま消えた献金の記録。

 わたくし、退場させられる前に、念のため王都の監査官宛てにコピーを送っておきましたの。昨日あたり、ちょうど王都に届いている頃でしょう」


 虚を突かれたように、殿下は言葉を失った。


 テントの隅で控えていた近衛騎士の一人が、顔をしかめる。


「……殿下。確か本日未明、王都より緊急の伝令が到着しておりましたな。聖堂財務官およびその周辺貴族の一斉摘発についての報せが」


「黙れ!」


 殿下は怒鳴りつけたが、その声には先程のような自信はない。


「ど、どのみち、お前のしたことは許されぬ! ミリアを怖がらせたのは事実だ!」


「ミリア様」


 わたくしはそっと視線を向けた。


「……今でも、わたくしが怖いですか?」


 彼女は小さく震え、殿下の袖を掴む手に力を込めた。


「こ、怖い、です……。わたしを突き飛ばして……」


「では、一度深呼吸をなさって。目を閉じて、あの日のことを思い出してみてくださいませ」


 ミリア様は、おそるおそる目を閉じた。

 わたくしは彼女の隣に歩み寄り、そっとその手を取る。


「あなたの背中に、冷たい気配を感じませんでした? 鋭い、金属の光。そして次の瞬間、誰かがあなたの肩を掴んで、引き寄せたはずですわ」


「……」


「床に倒れた時、耳元で短く鋭い悲鳴が聞こえませんでした?」


 ミリア様の眉が、わずかに寄る。


「……き、聞こえ、た……。わたしじゃなくて、後ろで……だれかが……」


「刺客は、あなたを盾にしようとしたのです。その腕を、わたくしが打ち払いました。あなたの肩を掴んで引き寄せたのも、わたくしです」


 ミリア様がゆっくりと目を開いた。

 その瞳には、混乱と、かすかな理解が浮かんでいる。


「あ……れ……? でも、みんな……リアナ様が、わたしを突き飛ばしたって……」


「殿下がそう仰いましたからね。誰も、あなたご本人の言葉を聞こうとなさらなかった」


 わたくしは肩をすくめた。


「……エド?」


 ミリア様が、不安げに殿下を見上げる。


「ぼ、僕は……お前が泣いていたから……お前を守らねばと……!」


「そう、殿下は優しい方ですわ。

 でも、優しさと正しさは、時に別物ですのよ」


 殿下の顔が赤くなったり青くなったりする。

 その様子を眺めながら、わたくしは静かに宣告した。


「――殿下。わたくしはもう、あなたの婚約者ではありませんし、王都の悪役令嬢でもありません。ただ、辺境を守るヴァルト公爵夫人として、ここにおります」


「り、リアナ……戻ってきてくれ!」


 突然、殿下が叫んだ。


「お前の話が本当なら、僕は……僕は誤解していたことになる!すべてはあの貴族たちの陰謀だ! ならば、今からでも……!」


「今からでも、ですって?」


 笑いが零れた。

 自分でも驚くほど、冷えた笑いだった。


「殿下は、わたくしを一度『不要』と断じて捨てられました。

 その手を、都合が悪くなったからといって、また伸ばされるおつもり?」


「ぼ、僕は王太子だぞ! お前を正妃として迎えることも――!」


「申し訳ありませんが」


 その言葉を遮ったのは、オスカーだった。


 彼はわたくしの隣に歩み寄り、その肩を抱き寄せる。

 その動作は自然で、迷いがなかった。


「リアナは、俺の妻だ」


 氷の瞳が、真っ直ぐに殿下を射抜く。


「先程も言った通りだ。王太子殿下が捨てた罪人を、俺は救い、共に戦ってきた。彼女はこの地で兵の傷を癒し、魔物から領民を守り、今日もこの戦線を保たせてくれた」


「お、お前になにが分かる!」


「少なくとも、戦場で誰が何をしていたかは、俺の方がよく見えている」


 静かな声だった。

 けれどその一言は、王都の王太子に対する宣戦布告にも等しい。


「殿下。貴殿は聖女を守ると口では言いながら、その力を育てることもせず、真に守ろうとした者を追放した。その結果、この国は今日、滅びかけた」


「……」


「北方は今後、俺の裁量で守る。王都は必要な物資と兵站を送り、余計な口出しはしないでもらいたい」


 テントの空気が張り詰める。

 しかし、誰もそれを否定できなかった。


 王都軍の兵士たちもまた、戦場で何が起きたかを、この目で見ているのだ。


 沈黙の中、殿下はわたくしを見た。


「リアナ……本当に、戻るつもりはないのか……?」


「ええ」


 迷いはなかった。


「殿下が捨てられた悪役令嬢は、辺境でようやく居場所を見つけましたの。わたくしの隣で共に歩んでくださる方は、もう決まっています」


 そう言って、わたくしはオスカーを見上げた。


「だから……殿下。どうかミリア様と共に、この国の“表側”を守って差し上げてくださいませ。裏側と、北の境界は、わたくしたちが引き受けますわ」


 殿下は唇を噛みしめ、やがて項垂れた。


 ミリア様は、戸惑いながらも小さく頷く。


「エド……わたしたち、ここで足を引っ張ってばかりだったよね……。リアナ様みたいに、ちゃんと……」


「ミリア……」


「わたし、聖女として、ちゃんと勉強する。だから、リアナ様に恥ずかしくないように、ならないと……」


 彼女は、少しだけ大人びた顔で微笑んだ。


「リアナ様。ありがとうございました」


 その言葉に、わたくしは微笑みを返した。


「どういたしまして。あなたが本物の聖女になられる日を、辺境からお祈りしておりますわ」


***


 王太子一行が去った後、辺境にはいつもの静けさが戻ってきた。


 夕暮れの城壁の上。

 雪原の向こうに沈みゆく太陽が、空を赤く染めている。


「……疲れたか?」


 隣で、オスカーがぽつりと呟いた。


「少しだけ、ですわ」


 わたくしはマントを握りしめ、深呼吸をした。


「でも、不思議ですの。殿下と決別して、ようやく本当の終わりを迎えた気がいたしますわ」


「本当の終わり?」


「悪役令嬢としての役目の、です」


 城壁の下では、兵士たちが笑い合いながら片付けをしている。

 あの輪の中に自分も混ざっている光景が、自然と想像できた。


「契約結婚だと言っていたな」


「はい。政略と保護のための」


 わたくしが頷くと、オスカーは少しだけ視線を逸らした。


「……俺の方は、とっくに契約からは外れていたらしい」


「え?」


「最初は、そう思っていた。辺境を守るため、王都への抑止力として、そしてお前の保護のための契約だと」


 彼は言葉を探すように、ゆっくりと続ける。


「だが、一緒に過ごすうちに気づいた。お前が兵たちの名前を覚え、一人ひとりの好物を把握し、夜遅くまで書類に向き合っているのを見て……」


「見ておられたんですの?」


「見ようとしなくても目に入る」


 そう言って、わずかに口元を緩める。


「戦場で結界を張り続けていたお前を見た時、心底焦った。

 もしあそこで倒れでもしたら、と思うと……今でも胸が冷たくなる」


 それは、氷の将軍らしからぬ、どこか不器用な告白だった。


「リアナ」


 名前を呼ばれて、胸がとくんと鳴る。


「俺は、お前が契約だからここにいるのだと思うと、もう耐えられん」


 鋼色の瞳が、真っ直ぐにわたくしを見つめる。


「――この先も、俺の隣にいてくれないか。契約ではなく、俺個人の願いとして」


 辺境の風が、ひゅう、と鳴いた。

 頬に当たる空気は冷たいのに、胸の中はじんわりと温かい。


「……オスカー様」


 わたくしは、そっと微笑んだ。


「契約だから、なんて、一度も思ったことはございませんわ」


「え?」


「最初からずっと、この人の隣にいられたらいいなと思っておりましたの。前世から推していた相手ですもの」


「……前世から?」


「あら、聞き流していただいて結構ですわ。

 ともかく――わたくしも同じ気持ちです」


 言葉にすると、胸の奥が少しくすぐったくなる。


「この先も、あなたの隣で、あなたと一緒に辺境を守っていきたい。氷の将軍の妻としてではなく、一人の女として、あなたを選びたいのです」


 オスカーの目が、驚きと喜びで揺れた。


「……そうか」


 彼は一歩近付き、迷うように、けれど決意を込めて、わたくしの頬に触れた。


「今さらだが、言わせてくれ」


 氷の将軍らしからぬほど、慎重で優しい手つきだった。


「リアナ。俺はお前を愛している」


 辺境の風の音も、雪の軋む音も、すべて遠くに感じた。


「はい。――わたくしも、あなたを愛していますわ」


 そう告げた瞬間、彼の腕がわたくしの腰を引き寄せる。

 唇が触れ合うのは、本当に一瞬のことだった。


 けれど、それだけで十分だった。

 契約ではない、二人の選んだ関係の始まりとしては、これ以上ないくらいに。


***


 ――こうして、悪役令嬢リアナ・フォン・グレイスは、この世から消えた。


 代わりに生まれたのは、

 氷の将軍の妻にして、辺境の聖女と呼ばれることになる女。


 その名は、リアナ・ヴァルト。


 王太子殿下がかつて捨てた“悪役令嬢”は、今日も北の空の下で笑っている。


 ――愛する人と共に。ハッピーエンドの、その先で。

ここまでお読みいただきありがとうございました!

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