後篇
「唯人ー、光希のこと駅まで送ってやってくれる?」
ライブ終了後、自分の伝手で観に来てくれた人たちに礼を言っている最中。演者と客が入り乱れる喧騒から、ぱっと陽介が出てきて言った。
光希は、ライブには高校の友人と来ることが多かったが、今日は一人で来たという。時刻はもうすぐ二十二時。最寄り駅までは五分もないけれど、念のため送ってやってくれと。
「なんで、俺? 陽介が送るんじゃ駄目なの」
「俺はまだライブの精算とかあるからさ、頼むわ。仲良かったよな? 康之とはあんま絡みないし」
「まあ……いいけど」
陽介は、たぶん本当に何も考えていないんだと思う。陽気でさっぱりして、裏表のないやつだから。俺の微かな動揺にも気づかず、「じゃ、よろしくー」と言い残してさっさと行ってしまった。
先ほど陽介が出てきた場所に目を戻すと、少し低い位置に、兄とよく似た人懐っこそうな顔があった。
「ほんと久しぶりだね、唯人さん元気だった?」
「おー」
他愛ない会話をしながら、駅までの道を歩く。
久しぶりなんて言うわりに、彼女はまるで昨日会ったばかりみたいなテンションで。一年以上顔を合わせていなくても、案外変わらない感覚で話せるものだ。
でも、完全に同じかというと違う。彼女はいつものポニーテールではなく、髪を結わずに下ろしていた。その上から大判のマフラーを巻いているから、後頭部の髪がぽこっと丸く弛んでいる。制服に重ねた紺のダッフルコートも大きめで、全体的にもこもこだ。華奢なぶん、着込むとそう見えるのかもしれないけど。
駅まで続く商店街のアーケードは、昼間の賑わいが嘘のように静かだった。ぽつぽつと家路につく人や、変な時間に犬の散歩をしているおじさんとかとすれ違う。
シャッターの閉まった通りが白色の常夜灯に照らされる様子は、くすんで、どこかスタジオの待合スペースにも似ていた。
「ライブ、どうだった? ……ラストのは、前回初めてやった曲なんだけど」
つとめて平静に、気になっていたことを聞いてみる。
すぐに、それまでの雑談と同じトーンで「よかったよー」という返事。それから少し間を置いて、彼女は言った。
「ずっと続けばいいのに、って思った」
俺は咄嗟に横を振り向く。
だが、彼女は前を向いたまま歩き続けている。その横顔は、グレーを基調としたチェックのマフラーにちょっと埋まっていて、三月の夜風を浴びた鼻先はほんのり赤い。
――……なんで、わかるんだろうな。
いつもなら、サビのメロディーがぐっときたとか、ベースが二番から違う動きをするのがカッコいいとか、何かしら「曲」についてのコメントがくる場面だ。なのに。
一言だけ返ってきた感想は、よりによって俺が紛れ込ませた本音。できれば、気づかないでくれとも思っていたもの。
だって、消えてしまうんだから。春から俺はどこにでもいるサラリーマンになって、進学する彼女はきっと新しい世界を知る。ベース片手に曲を書いていた兄の友人のことなんて、すぐに忘れてしまうんだろう――
「ねえ、唯人さん」
名前を呼ばれて我に返ると、そこはもう駅だった。
複数路線の乗り入れがあり、付属の商業施設にも力を入れている駅構内は明るい。くすんだ夜の商店街とは違って、皆いったいどこに隠れていたんだと思うほど、急に人混みが出現する。
改札の手前で立ち止まった彼女は、コートのポケットからスマホを取り出した。
「連絡先、聞いておかなきゃと思って。前回のライブのあと、知らなかったことに気づいてびっくりしちゃった」
言われてみれば、俺らは互いの連絡先を知らない。……いや、本当言うと、俺のほうはそのことに気づいていた。
でも、それでいいと思っていたし、今もそう思う。
彼女は兄からスタジオ練習日を聞いて来ていたのであって、俺と約束していたんじゃない。彼女が来てしまうから、俺はお守り役として仕方なく付き合っていただけで。
――あの時間は、もう終わったんだ。だから、
「ごめん」
「え?」
「スマホ、店に置いてきちゃったから。おしえられない」
「……そっか」
俺は、最後の嘘をついた。
♪
ライブハウスに戻ると、場の盛り上がりはまだ続いていた。観客が帰ったあと、残った出演者たちでちょっとした打ち上げ状態になっている。学生のイベントに慣れた店だから、こうしたゆるい時間も許してもらえる。
カウンターで、陽介がここの名物カレーを頬張っていた。周りには康之や他のサークルメンバーが立っていて、飲みながら談笑している。
「あ、唯人、ありがとなー。カレー食う? 食うならお礼に奢る、けど……」
戻った俺を見つけて、陽介が声をかけてくる。が、その声はなぜか尻すぼみになって。目の前に着いたときには絶句していた。
カレーのスプーンを置いた陽介は、数秒かけてまじまじと俺を見つめる。それから、いつになく神妙な面持ちで口を開いた。
「あのさ、俺もたまには兄貴らしいこと言ってみようかなって、そんなテンションで聞くけど。……唯人、もしかして光希のこと泣かした?」
「…………は? いや、そんなことするはずない。……と、思う」
思いもよらない陽介の言葉を否定しながら、けれど、途中から自信が消えていく。
着ているマウンテンパーカーのポケットに手をやると、スマホの感触がある――さっきのが嘘だと知ったら、彼女は泣くのだろうか。
陽介は再びじっと俺の顔を見て、言った。
「じゃあ、唯人はなんでそんな泣きそうな顔してんの」
――……泣きそう? 俺が?
何も言えないでいると、陽介は困ったように眉尻を下げ、恐る恐るといった調子で言葉を続けていく。
「あー……、ごめん、俺そういうの鈍いからさ。送ってくれとか、余計なことした? でも、光希楽しみにしてたんだよ。今日のライブも、唯人に会うのも。……あ、待って」
カレー皿の隣でスマホが震えた。陽介が届いた内容を確認し、読み上げる。
「光希からだ。“唯人さんに言い忘れちゃったから伝えておいて。スタジオ練習のとき、いつも勝手に押しかけちゃったのに付き合ってくれてありがとう。唯人さんのおかげで楽しかった”、って」
「…………」
店内にはBGM代わりに、今日のライブ録音が流れていた。
俺らの演奏のラスト。最後に残るベースの音は、調の主音に終着しない。四番目の音へと浮いて、行き場をなくしたように、――あるいは続きを求めるかのように、空を漂って消えゆく。
「えーと、ケンカとかじゃないんだよな? 光希が変なこと言った? なんか、せっかく最後のライブなのに、そんな顔させてごめん」
「――いや、」
どんどん困惑が深くなっていく陽介の言葉。それを、思わず遮った。
「……謝ってくる」
「何、どういうこと」
「陽介んち、最寄りどこだっけ。帰らないで駅で待っててって光希に伝えといて」
「え……、今!? あー、わかったけど」
陽介兄妹の家の最寄り駅を確認すると、楽屋から荷物を引っ掴んでライブハウスを飛び出した。ベースは店に預かってもらい、明日取りに来ると約束して。
走った。くすんだ商店街を抜けて、BPM120で点滅する信号を渡って。
どうせ消えてしまうんだから、忘れ去られてしまうんだから、なんて。
――失われてしまったら、それは意味がないものなのか?
駅構内の人混みを縫って、ホームまでの階段を一段とばしで駆け上がる。
さすがに息が切れて、のぼりきったところで呼吸を整え、それから電光掲示板を見ようと顔を上げて――
「…………何してんの」
「それは私のセリフ。唯人さんひとりでどうしたの? 打ち上げは?」
駅のホーム、数歩先のベンチに、さっき別れたばかりの顔が座っていた。
送ったあと店に戻ってまた駅まで来て、十五分弱くらいか。なんで、まだ帰りの電車に乗っていないんだろう。
「余韻に浸ってたの。ほら、遠足は帰るまでが遠足って言うでしょ? ライブも帰ったら終わっちゃうかなって」
屈託なく言う彼女の手元には、ペットボトルのいちごオレがある。
周囲には、無数の音が散っていた。ノイズ混じりの駅構内放送、リズミカルな発車メロディー、電車の開閉音、人々の足音や話し声。日常のなんでもない音たちが、夜の湿り気を帯び、重くくぐもって落ちていく。
「――ごめん」
「え?」
彼女は泣いていなかったし、普段となんら変わりなかったけれど。唐突に謝る俺を見て、少しだけ目を見開いた。
隣に腰を下ろして、彼女が初めて感想を伝えに来てくれた日のことを思い出す。
ライブで聴いた曲に感動して、俺に直接感想を言わねばと思ったと、息を弾ませて。素直な言葉を惜しみなく聞かせてくれた。
自分が好きなものについて感想を言うだとか、他の誰かにありのままの想いを伝えるなんてのは、すごく難しいことだ。少なくとも俺にとっては。
やすやすと本音を明かして、相手と違ったら、拒絶されたらどうしようという気持ちが付き纏う。
でも、彼女はそれをしてくれていたのだ、いつも。
音楽という形で、ありきたりな言葉やメロディーの中に隠すことしかできない俺の心まで、すくいあげて。
だから俺も言わないと。
「ごめん、さっきのスマホ忘れたって、嘘。……がっかりされると思ったんだ。音楽やってる大学生が珍しくて興味持ってくれたのかもしれないけど、卒業してベースやめた俺なんか、連絡とったって面白くないだろ。ただのサラリーマンになった姿をカッコ悪って思われて、そのままフェードアウトして忘れられるくらいなら、最初から興味とか持たないでくれって。でも、」
回送列車が通る轟音に一旦言葉を切り、タイミングを見て続ける。周囲の雑音に呑み込まれないよう、声を張って。
「嬉しかった。自分なりに精一杯作った曲を、気に入ってもらえて。スタジオ練前の、あの時間が楽しみだった。……ずっと続けばいいって思った。これは本当。だから、お礼を言うのは俺のほう。ありがとう」
気づけば彼女の顔からは表情が消えていた。
俺の言葉が最後まで終わるのを待って、彼女はひとつ、大きく頷く。それから、笑顔が現れる。スタジオの待合スペースで何度も見た表情。
「よかった。迷惑だったかなって、ちょっとだけ思ってた」
「迷惑とか、そんなん思ったことない」
「そっか。……じゃあ、また連絡してもいい?」
「いい、けど……俺もう音楽やらないよ。そのへんのだっさいサラリーマンになるよ」
「うん、いいよ。社会人になった唯人さんに会ってカッコ悪いなって思ったら、面と向かって“カッコ悪い”って言うから。私嘘つくの下手だし」
「え……」
何を恐れていたんだろうと、肩の力が抜けていく。
――なんだ、そうか。冴えない俺のことも、彼女はちゃんと正面から笑ってくれるのか。
連絡先を交換して、次の電車が来るまではすぐだった。閉まった電車のドア越しに、手を振る彼女を見送る。
他愛ない話はまだいくらでもできたけど、遅くまで引き留めるわけにいかないから。時間は一瞬で、名残惜しい。
去りゆく車体が起こす風の中、ぷわーんと間延びした警笛が、尾を引いて夜に溶けていった。その余韻をしばらく眺めて。
自宅方面へ走る路線に乗るため、別のホームへと移動する。人気の減った階段に、足音が、とん、とん、と小さく響いて消える。
……いつかは。こんな時間も、想いも、消えてしまうのかもしれない。彼女との関係が続くにせよそうでないにせよ。
どんな音も、生まれては消え、生まれては消えて。言えた想いも、言えなかった想いも、本音も嘘も、いずれなくなるという点では等しく同じ。
終わらないものなんてない。変わりゆく季節の中、忘れていくのだろう。だけど――
マウンテンパーカーの襟に口元を埋めて、声を出さずに曲を口ずさんでみる。流れる音楽は漂って、三月の夜気に吸い込まれる。
生まれた瞬間から消えていく、なくなることがわかっているもの。
だけど、ここにあったことは本当で。いつかすべてなくなって誰にも思い出されなくなったとしても、この一瞬があったことは変わらない。
不意にざわめきを感じて振り返ると、数人の学生がこちらへ向かって来ていた。軽音サークルのメンバーだ、打ち上げは終わったらしい。
陽介は別路線だからいないけど、代わりにというのか、康之が俺を見つけて片手を上げた。
ポケットでスマホが震える。
取り出して見ると、光希からだ。ゆるい線で描かれた猫のスタンプが、「またね」と伝えていた。
刻一刻と流れてゆく、日常の時間。
きっと、今この瞬間も。どこかで誰かの音が、鳴っては消えている。
♪ ♬ ♪ . . .