前篇
――言葉にできなかった想いは、どこへ行くのだろう。
嘘に紛れ込ませた本音。それは、もはや嘘ということになるだろうか。
大学三年生の秋、「引退ライブ」と題したものを最後に、俺らのバンド“トリプルワイ”は解散したはずだった。何も特別な理由はない。元々軽音サークル内で組んだバンドだ。運動部が夏の大会で引退するのと同じように、自然と、就活に向けて。
だけど、その感傷に浸る間も大してないうちに。翌日、(元)バンドリーダーである陽介は、大学で俺を見つけるなりあっけらかんと言い放った。「おー唯人、卒業公演のハコ押さえといたから。卒業前の三月な。それまでにちゃんと就活終わらせとけよ!」
だから、今。無事就活を終え、卒業を間近に控えて、結局俺はまたベースを持ってステージに立っている。
ライブハウスのキャパはスタンディングで100程度。一般的に大きくはないが、俺たちアマチュアの学生には十分広いほう。ステージの高さは階段の一段にも満たない、客席との距離はほぼゼロ。
客席照明が落ちて、ステージ側だけが照らされる。初ライブのときは眩しくて、ほとんど何も見えなかった。暗い夜道でハイビームの車に遭遇したみたいな感じ。
今は、薄暗い客席に誰がいるかうかがうくらいの余裕はある。同じ出演者でもある、軽音サークルの別バンドのメンバー、大学の友人たち、誰かしらの親、それから――
俺の音楽は今日で最後。今度こそ、本当に最後だ。
♪
「唯人さんはこれから就活でしょ。頑張ってね! 私も受験、頑張るから」
「おー……」
一年と少し前、“引退ライブ”の終了後。ライブを観に来ていた陽介の妹光希が、俺に声をかけてきた。
あっさりしたものだ、と思った。……正直言うと、ちょっと面食らったくらいだ。それまで一年半ほどの間、彼女とは不思議な交流があったから。
きっかけは、彼女の兄陽介の忘れ物。俺らのバンドは時々、大学外のスタジオで練習する習慣があった。そこへ兄の忘れ物を届けに来た日をきっかけに、光希はその後もスタジオへ現れるようになった。
特に用事はないはずなのに、毎回。それも、練習が始まる一時間とか二時間も前に。かといって練習自体を見学するでもなく、開始時間になると帰っていく。
必然的に、彼女の“お守り”は俺の役目となった。スタジオ練習を入れるのはたいてい金曜の夕方か夜。俺以外のバンドメンバー二人は、授業との兼ね合いで時間ギリギリに到着することが多いから。
スタジオ建物内の待合スペースで、テーブルを挟んで座り、同じ時間を過ごす。俺が譜読みをする傍ら、彼女は手帳を取り出して何かを書きつけたり、高校の宿題をしていたり。時々彼女から個包装のチョコレートやらクッキーやらが差し出されて、俺はそれを受け取る代わりに、自販機で紙パックのジュースを奢ってやる。
そのまま静かに一、二時間。彼女に言わせれば「こういうとこ来る機会ないから面白い」らしいけど、いったい何がそんなに面白いというのか。
正直、俺が兄なら心配すると思う。いや、女きょうだいいないから実際の感覚がどんなもんかはわからないけど。くすんだ蛍光灯、煙草のにおい。どことなく寝不足そうな男どもが、音楽談義という名の雑談を延々繰り広げている場所。
そこでの彼女は完全に異分子だ。つい目が引きつけられるポニーテールは、カラーもパーマもなしの健康的な黒髪。いわゆるお嬢様学校の制服はいつ見ても、今さっきクリーニングから上がってきたようにピンとしている。まるで、この世には悪い人間もいるなんてことは知らないみたいな、無邪気な顔で笑う。
彼女をあんな雑然とした場所にひとりでいさせられない。そうした責任感からか、――あるいは。
とにかく俺は、スタジオ練習の日には毎度大急ぎで大学を出る羽目になった。わざと眉間にシワを寄せ、面倒そうな表情をつくって彼女に会う。
けれど、相手は懲りない。かえって楽しそうに笑い、俺が買い与えた紙パックのいちごオレを両手で包み込む。バンドのオリジナル曲、俺が作った曲を、「好き」だと褒める。
約束してもいないのに、その時刻そこに来ることを互いが知っていて。だけどスケジュール帳に書かれることはない、名前のつかない不思議な時間。
バンドの“引退ライブ”が終わるってことは、つまりあの時間も終わるってこと。当時大学三年だった俺には就活が待っていて、高校二年の彼女は受験生予備軍。
それをあっさり「就活頑張ってね」なんて、……彼女の言うとおりなんだけど。ああ、俺だけだったかと、少し力が抜けた。まあそうか、とも思った。
清流の中で育ってきた彼女には、物珍しさが興味を引いたんだろう。未知のものというフィルターがかかって、カッコよくすら映ったかもしれない。ごちゃごちゃした音楽スタジオとか、地下の埃っぽいライブハウスとか、そこで藻掻く冴えない男子学生も。
一瞬で通り過ぎていった。でもきっと、それでよかった。
ベースを手放して無個性なリクルートスーツに身を包んだ俺は、心置きなく就活に専念した。この先彼女に会うことはないのかもな、そう思った。
けど――
♬
迎えた卒業公演。無意識に、俺はいつもの場所に目をやってしまう。
客席のど真ん中よりやや下手側にずれた席。その定位置に、光希は今日もちゃんと座っていた。
一曲目、二曲目……合間、陽介の底抜けに明るいMCを挟みつつ、ライブは進んでいく。
彼女は無表情。普段の、口角が上がったのがデフォルトみたいな様子はどこへやら。瞬きもせず、じっとステージを見上げている。
でも、これも相変わらずだ。スタジオ待合スペースで過ごした時間の何度目か、何かの話の流れで言っていた。
「私、集中するとこわい顔になってるみたいなんだよね」
「あー……、だからか。俺らのライブで初めて見かけたとき、つまんないのかなって思った。なんか客席にめっちゃ真顔の子いるな、って」
「え、待って、ステージの上からってそんなに見えるものなの? 恥ずかしい。今度からはちゃんと顔つくっていくから!」
「何それ、そんなことしなくていいって。……普通に、嬉しいし。真剣に聴いてくれてたってことだろ」
毎回、音楽評論家もびっくりの“こわい”顔で聴いていって。次、待合スペースで会うときに感想を伝えてくれる。
大学で音楽を始めた俺には、そんなに大層な曲は作れない。これまでに聴いてきた流行りの曲とか、王道のコード進行や詞の言い回しを調べたりしながら、なんとか組み合わせて形にしているだけだ。だけどそれは、いい加減にやっているかっていうとそうではなくて。
それなりに苦労して作ってる。素人が持てる力の精一杯で、誰かに「なんかいいな」って聴いてもらえる曲ができたらと。そこに時々少しだけ、自分なりのアレンジを入れてみたりもする。
どういうわけか彼女は大概、俺がいちばん苦心した部分やこだわりポイントを見抜いてくる。それで驚く俺を見て、得意そうに笑うんだ。
そんな時間が、好きだった。いつか終わるってわかっていても。
――でも。この曲の感想は、聞けなかったな。
ライブは終盤に差しかかっていた。ラストの曲は、前回の引退ライブで初めてやった曲。その後、彼女に会う機会はなかった。つまり感想は聞けていない。
客席からの「えーもう終わりー?」というお決まりの掛け合いのあと、康之のドラムカウントで曲が始まる。
BPMは120ちょい。ゆったり歩くのには速いけど、走り出すほどじゃない。ベースは八分音符でルートを刻む。何食わぬ顔をして歩きながら、胸の奥では少し逸っている鼓動みたいな。
サポートギターに高音域のリフを入れてもらってキラキラさせたところに、ドラムは基本のエイトビート。年齢のわりに落ち着いて安定感がある康之のリズムは、地に足をつけて俺らを歩かせてくれる。――陽介が歌い出す。
俺が書いた感傷的な詞は、陽介の明るさでふわっと浮かぶ。濃い藍色の夜に、橙色の街灯が灯っていくように。なんていうか……、なんだかちょっと青春みたいだ。
夏、紙パックのいちごオレをストローですする彼女を横目で見ながら、この曲の詞を書いた。いつものように、どこかで聞き齧ったありきたりな言葉を並べて。……それから、紛れ込ませたほんの少しの本音。
それまで何の音楽経験もなかった俺が、大学で始めたバンド。サークル活動なんて一時のお遊びだろう、なんて言われればそれまでだ。事実プロを目指しているわけじゃないし、なれるはずもない。卒業したら終わりというのは最初からわかってる。だけど。
初めて、自分から打ち込めるものを見つけた。出来のいい兄貴の影とか親からの期待とか、知らず知らず自分の人生に食い込んでいたものをすべて忘れて。
どこまでも真っ直ぐバンドのことしか考えていない、名前のとおり太陽みたいな存在の陽介に、半ば強引に引っ張られて。冷静な堅実家タイプなのに、その腕なら俺らよりもっと上手いやつと組むこともできたのに、「上手いだけのやつとやるより気持ちのあるやつとやりたい」とか言う康之の熱に触れて。
“一時のお遊び”がなんだ? だからってテキトーにやってるわけじゃない。俺にとっては全部が全部、本気で、大切な時間だったよ。
いつか終わるってわかっている、その全部が。
そして――そんな中に生まれた曲を「好き」だと言ってくれた、君との一瞬も。
『終わらないでくれと願った』
俺の僅かな本音が、陽介の歌にのる。
音は、不思議だ。生まれた瞬間から消えていく。
だから、なのか。なのに、なのか――