長恨
その数日後、斉王は没して「威王」と諡された。人々が神妙な面持ちで喪に服している間に田忌と孫臏は斉に再入国を果たす……鄒忌や公孫閲はその事態に愕然としたが、すでに太子辟彊に取り入り、彼を擁立して次代の王とすることを宣言されては、反論はできなかった。こうして斉は再び軍事国家として覇権争いへ参入する意思を示すこととなったのである。
一方秦では衛鞅が大良造に任じられる。大良造とは軍政の大権を握る爵位で、当時における秦の官職としては最高位である。彼の変法の成果がどれだけ評価されたか、この事実だけでもわかるというものであろう。そして注目すべきは、いよいよ彼に軍指揮の権限が与えられたことである。ついに衛鞅は魏に攻め込む決心をした。
しかしそれらのことを、龐涓は知らない。斉の動向、秦の野心……それらを知る機会は彼に与えられなかったのである。
一
衛鞅の新法は次第に効力を発し、人々はその結果に喜ぶようになったという。市中に喧噪がなくなったことは紛れもない事実であった。しかしそれが自由を失った結果であることに気付く者はおらず、秦の人々は浮かれ騒いでいた。当初不便だと主張していた者たちも、掌を返すように衛鞅を賞賛した。
しかし衛鞅は彼らをすべて辺境へと追いやった。
「こいつらは教化を乱す輩である」
法に対する論評を下すなどもってのほか、便利か不便かを論じるなどは論外である。貴様らは粛々と法に従っておればよいのだ、と衛鞅は言いたかったのだろう。これが事実上の恐怖政治であることに、人々はようやく気付くこととなった。相互監視と密告が民の義務であり、それを当然のこととして受け入れることが、彼らのさだめなのである。
「考えられぬ」
白圭から注意を促された龐涓が魏公罃に報告したところ、その返答がこれであった。第一声として放たれた感想としては、報告した龐涓を落胆させるに充分な言葉であった。
「考えられぬ、とは……?」
当惑した龐涓の口からまるでこだまのように放たれた質問に、魏公は答えた。
「将軍の言う衛鞅とは、公叔の葬儀を取り仕切っていた男のことであろう。あの者が、自分の思いのままに民を操るなど、信じられぬと言っているのだ。たとえその者が優れた法を整備し、厳しい罰則を用意したとしても、そうそう簡単に社会が変化するとは思われぬわい。そもそも秦は胡のはびこる蛮族どもの地であるゆえ、統御するには容易ではあるまい」
「恐れながら、だからこその法整備でありましょう。臣が思いまするに、秦の民は蛮族であるがゆえに、余計な知恵がありませぬ。我々が尊重する義や礼、孝の精神などを持ち合わせておらぬがために、法の教えるところは逆に浸透しやすいかもしれませぬ。それにあわせて秦の兵は精強です。秦国内の生産が強制的に強化され、兵の盾や甲冑が厚く、剣が硬くなれば、我が軍の優位性は脅かされると思われます」
龐涓は衛鞅の能力についてはあえて黙殺し、法の影響力についてのみ論評した。衛鞅が実は有能な人物であったと主張すれば、かつて彼を採り上げなかった魏公の判断を批判することになる。しかしあえて龐涓が口に出さずとも、魏公はその事実を認識していたのだろう。口調は非常に投げやりなものだった。
「ならばそこもとが思うように対処せよ」
龐涓は魏公の言葉に呆然とした。
「は?」
「先に言っておくが、大梁の防衛を疎かにしてはならぬ。斉と戦ったときのようなことがないように……あのときは実に肝を冷やした」
魏公が言うように、龐涓は邯鄲攻略の際に大梁が有する戦力のほとんど動員して対応したことで、斉にそれを突かれる形となった。再びその轍を踏むわけにはいかなかった。
「しかし、秦に対抗するためには国境を守備する現地の部隊だけでは足りません。私が自分の部隊を連れていかないことには……」
「将軍が出征するのは構わぬが、そのかわりに大梁を防衛するための部隊は充分に用意せよ」
魏公は簡単に言うが、龐涓にとってそれは至難の業である。無から有を生じさせるような奇術を彼は持っていない。
「わからぬのか、将軍よ」
魏公は含みのある笑いとともに、龐涓に語りかけた。龐涓は頷くばかりである。
「邯鄲を放棄して、兵を戻せばよいのだ」
あっさりと言い放った魏公に対して、龐涓は一瞬殺意を抱いた。あれほど苦労して得た邯鄲の統治権を放り出せと言うのである。龐涓は反論しなければならなかった。
「邯鄲を占拠しているという事実は、単にその地を治めているというだけにとどまりません。そこに我が軍が駐屯しているというだけで、東方の斉や北方の燕に対して睨みをきかせられるという牽制の効果もあるのです。ひいては、我が国が覇権国として存在するための重要な鍵となる地と言えましょう。そのことを今一度お考えになって頂ければ……」
「だが実際のところ、現在の邯鄲は単なる軍事拠点に過ぎぬ。住民は趙国内の各地に疎開してしまい、租税も入らないから我が国にとって旨味も少ない。将軍はそれでも軍事拠点は必要だと言うだろうが、斉は田忌が逃亡して以来、我が領土に攻め込もうとする意志を見せていないではないか」
「それはいまのうちだけでございましょう。いつなんどき彼らが行動をするかはわかりません。それに……邯鄲の住民が疎開したのであれば、魏の民を移住させればよいではないですか。彼らが邯鄲で子を産み、人口も増えれば生産物は大梁の宮殿にもたらされます。占領政策が実を結ぶには長い時間が必要なのです。よって、邯鄲を放棄することには反対致します」
「そのように長くは待っておられぬ。いま、秦が攻めてきたらどうするのか。ほかによい手があるというのか。妙案があるというのなら別だが、そうでないのならば余の言うことを聞け」
「……邯鄲を放棄したのち、斉が攻めてきたらどうするのです」
「そのときはそのときに考えればよい。いずれにしても今すぐ奴らが攻めてくることはない。我々にとって幸いなことに、斉王が死んだと聞いている。喪に服している間は奴らも動くまい」
魏公は見通しが甘い、と考える龐涓であった。しかし彼にこれ以上反論するすべはなく、命令を聞くしか道はなかった。
この結果、邯鄲はいともあっさりと……趙に返還される運びとなったのである。
邯鄲駐屯軍の指揮をしていた太子申は、突然の帰国命令に不満を鳴らした。
「こんな一貫しない政策があるものか。邯鄲を攻略するにあたって、我々は多くの犠牲を出した。彼らに顔向けできないではないか」
その思いは龐涓も同じである。しかし、彼はあえて太子をなだめた。
「既に決まったからには、従うのが臣下のさだめというものでしょう。ここで我々が内輪で揉めると、それを知った諸国につけ込まれます。斉はいずれ、攻勢を強めてくるでしょうから、そのときに備えて準備を怠らないようにしておくべきです」
「邯鄲に拠点を置いていた方が、それをしやすかった、と言っておるのだ」
「さもありましょうが、このような問題で魏国が内側から瓦解することは……私としては防がねばなりません」
太子申は申し訳なさそうな表情をした。
「将軍は公族でもないというのに、この国の将来を誰よりも心配しておられる。私も見習わねばならぬな。言いたいことばかりを言って悪かった」
龐涓は首を横に振った。
「なに、私はただ安定を望んでいるだけですよ。せっかく魏国に仕官したのだから、せめて自分が死ぬまでは国が存続してほしい……ただそれだけです。いや、しかしこのような言い方は太子に失礼でした。ですが本当にそうなのです」
「構わないさ。誰もがそのように望めば、結果的に魏国は生き存える。口先だけで忠誠を唱えても、行動が伴わなければ何も変わらん」
「そう言って頂ければありがたく思います。つきましては太子……。太子は兵に人気がおありです。だからというわけではありませんが、ぜひ長生きして国政を見る立場におなりください。無論このままいけば問題なくその立場におなりでしょうが……」
「死ぬな、というのだな?」
龐涓はこくりと頷き、その意味を詳しく語った。
「私は、これから秦に対抗するために西へ向かわなければなりません。都の大梁を不在にし、その防衛を太子にお願いすることとなります。防衛に関して私が太子に求めるところは……くれぐれも斉の挑発に乗らないように、ということです。田忌や孫臏が復権して、斉の兵権を再び握ることも考えられます。そのときは、防衛に徹して動かないことを徹底して頂きたいのです」
「それはわかったが、なぜその点にこだわるのか。いざ斉が戦いを挑んできたとき、それを受けてはならないのか」
「現在の魏国には、東西の二つの国を相手に同時に戦うほどの器用さはありません。斉を相手にすれば秦が反対側から攻め込み、秦を相手にすれば斉が攻め込むでしょう……。東西の領地の失陥は最小限の被害であればそれを受け入れ、戦局を拡大させないことに徹するべきです」
しかしそれではいずれ魏国はじわじわと領地を削り取られ、やがては滅亡の憂き目を見ることになる。龐涓はそれを防ぐために南方へ出兵する用意を調えておくべきだと主張した。
「失った領地を他で補おうというのか。将軍もなかなかあくどいことを考えるものだ」
「確かに侵略などしないで済ませればそれに越したことはありません。ですが、現実的には難しい。領地がなくなれば我々は敗れ、民は飢える。他の国も同じことでしょう。その中にあって太子は魏軍の核として存在してもらわなければなりません」
無論これは世継ぎとして自覚ある行動を太子に求めた言葉である。むやみやたらと戦場に身を晒した結果、不意に命を落とすようなことがないように……魏国の永続を願う龐涓の忠告であった。これを受けた太子申は、西へと出兵する龐涓を送り出したのち、邯鄲を返上したのであった。
二
龐涓が西へ旅立って、娟はひとり残ることとなった。以前なら旦がいて、寂寥を感じることも少なかったが、いまや彼もいない。娟は本気で衛鞅を恨んだ。
「あの人も結局は、自分のことしか考えていなかった……。公叔さまにお世話になっておきながら、裏切って敵対するような行動をするなんて」
公叔痤が生涯をかけて守り抜いてきたものを、弟子とも言える存在の衛鞅は破壊しようとしているのである。娟ならずとも彼のことを知る人物ならば、怒りを覚えようというものであった。
「将軍はうまく対処してくれるかしら……」
だが龐涓には敵が多い。秦の衛鞅のみならず、斉には田忌や孫臏がいる。しかも国内では魏公があてにならない。邯鄲が放棄されたという噂を聞いたとき、娟はこの国がどこへ向かっているのか、信じられなくなった。
もともと邯鄲への侵攻に賛成だったわけではない。しかし道徳的な問題を差し置いて侵攻した限りは、何らかのよき結果をもたらすべきだと考えていた。それがいとも簡単に放棄されるとは、魏国自体が統治という手段を軽く見積もっている証拠だと感じる。
だがやはりその直接的な原因は秦の野心にあると言えよう。衛鞅は秦国内の問題に対処するばかりでなく、魏国の領土への野心を示したという事実は、彼女を真剣に怒らせた。
衛鞅がすでに旧都安邑に向けて軍を発しているという噂が、彼女の耳にも届いていたのである。
「あの人……絶対に許さないわ」
娟はなにかを決意したかのように、憤然として言い放った。
旦は白圭に伴われて、邯鄲へ入った。趙に返還され、もとの住民が戻って来つつあるとの知らせを受け、そこでひと儲けしようというのである。
「なんだか人の不幸につけ込むみたいで気が引けるなあ」
「それが商売というものだよ。本当に貧窮している者は商品を買えないが、余裕がある者は財力に応じて買ってくれる。我々は弱者からは何も取らない。そのかわりに何も与えないが……しかし宮殿に住む輩は、貧窮している者からも奪う。我々は、奴らよりはましな存在だ」
「貧窮している人たちを助けてあげたくなることはないのですか? 商売抜きで」
「我々の商品を買った者が、その人たちに分け与えることはあるだろう。住民たちは相互扶助の感覚を持つのが普通だから……それがなぜだかわかるか? 宮殿の官吏が常に税を厳しく取り立てるからだ。わし自身が助けてあげたいと思うことは確かにあるが、それをすると商売をする上でどうしても不公平が生じる。だからそのようなときは住民同士が助け合うものと信じて、なにもしないのだ」
「なるほど」
「この時点で邯鄲に戻ってくる者たちは、他に比べて余裕のある者たちだ。官吏の家族などがよい商売の相手になるだろう。楚では散財した形となったから、ここで取り返さないといけないな」
そこで辺りを見回した白圭は、偶然にも隊列を組んだ集団を目にした。おそらく帰還した官吏の一行だと判断した彼は、これ見よがしに商品を道端に広げ、即席の市を作り上げた。聞けば、斉に赴いたのちこれまで帰還できなかった使節団の一行だという。
彼らは長い旅路の中で腹が空いていたのであろうか、すぐに食べられる果実などを好んで手に取った。使節団の長は気前よく配下の者たちの支払いを請け負い、小袋に詰めた布銭を白圭に手渡した。
「代金としては少し過剰な気もするが、無事帰還できたことで私自身も気持ちが大きくなっている。遠慮せずに受け取ってくれ」
「ありがたく頂戴します」
白圭は恭しげに代金を受け取り、深く一礼した。それに気分をよくしたのか、相手は唇も滑らかに述懐を始めた。
「斉では面白くない思いをした。まったく、他国に救いを求めることがこれほどの屈辱を覚えるものか、と思い知らされる毎日だった。特に孫臏という軍師は生意気な男だった」
「失礼ながら、あなた様は……?」
「おう、自己紹介がまだであったな。わしの名は李曇という。趙侯から使者の任を受けて斉へ渡った。いま、こうして邯鄲は開放されたわけだが、やはり自国の領土は自分たちで守らなければならないと気付かされたところだ」
旦は一連のやりとりを見守っていたが、邯鄲の領有権ひとつを取ってみても、さまざまな立場の人が大いに悩まされてきた事実に気付いた。その奪取を望んできた公叔痤や龐涓の手が、白いとは言えないことに衝撃を受けたのである。
そのとき、李曇を迎えに来たと思われるひと組の男女の姿が見えた。女性の腕には赤子がある。
「父上……」
声をかけたその男の名は、李璣という。傍らの女性はその夫人であり、李曇から見て息子夫婦であった。
「息子よ、無事であったか」
気分が高揚している李曇は、満面の笑みで彼らを迎えた。当然その視線は夫人の抱く赤子に向かった。
「生まれたのか。男児か」
「はい。牧と名付けようと思いますが、父上に許可を頂きたく思います」
牧とは本来は牧場の意味であるが、それが転じて広い地域を管理する長官を指すこともある。李璣は息子が将来そのような地位に就くことを願ったうえで、この名を選んだのであろう。しかし李曇はこれを野心が明らかだという理由から、字(通り名)とするよう助言し、正式な名として繓という文字を与えた。洗う、という意を含んだ文字で、清廉であれと願ったのである。
「趙国の未来を担うような男に育ってもらいたい。育てるのは璣よ、お前の役目だぞ」
璣が頷くと、一行はその場を立ち去り、集団は解散した。それぞれ家路についたのであろうが、荒廃した地でそれが見つかるかは、定かでなかった。
「魏国は自分たちの都合で邯鄲を支配しようとしたことに、あの人たちの姿を見て思い至りました。魏の民のひとりとして、申し訳なく思います」
旦は心からそう言った。しかし驚くことに、白圭はその言葉を否定したのである。
「なに、それは彼らの備えが充分でなかった、それだけのことだ。天下は周の都が洛邑に遷ってからというもの、常に戦乱が絶えない。その期間は三百年にも及ぶのだ。旦くんはそれが終わるときのことを想像したことがあるか?」
「うう……終わってほしいという願望はありますが、どうなったら終わるのかがよくわかりません」
「より強い国家が武力で他国を叩きのめし、残ったひとつの国がすべてを治めるのだ。それまで人々は戦争を繰り返し、周という王朝もいつかは滅びるだろう。いずれにしても戦いは平和への過程であって、避けては通れない道なのだ。……もっとも趙は今回のことを教訓にして守りを固めるようになるだろうが」
「そんな! じゃあこんな時代に生まれた僕たちは、まったく救われない存在ではないですか!」
「そのことを受け入れる覚悟がない者、また受け入れる覚悟がない国が滅びるのだ。尽きることのない戦いに勝ち残り、最後に残った者だけが平和を享受できる。その覚悟がなければな」
しかしそう言う白圭は商人であり、戦いの帰趨を決する武人ではない。個人として彼はどのようにこの世界を生き抜こうとしているのか。
「私自身のことをいえば……どの国が頂点に立とうと、それに左右されずに生きていけるように努力している。だが、いまの秦はまずい。あの国が頂点に立てば、私自身は生きていけない。だから事前に排除しようと努力している……そういうわけさ」
「あの生まれたばかりの牧という子も、いずれは戦いに巻き込まれる、と?。私たちの世代では、それを止めることもできない、と仰るのですね」
「旦くんが王家や公家に生まれたのであれば、その決断には影響力があるだろう。しかし一般の民にはそれがない。龐涓将軍などの立場でも意に染まぬ戦いをしなければならんのだ。それに知識があれば戦いを止められるわけでもない。事実、孔子にはそれができなかった」
つまり庶民にはそのような世の中をうまく生きていくしか、道はないのだ。戦いを止めるには戦いしか方法はなく、強大な武力を持った勢力を抑えるためにはより強大な武力が必要なのである。
——邯鄲の人々は、その事実を目の当たりにしたわけか……。
旦は思った。ここの人々に平穏が訪れることはない、と。しかしそれは自分も含めての話であった。
三
龐涓が大梁から西北方面へと出征したころ、すでに旧都安邑は包囲されていた。衛鞅にとっては、過去に自分が暮らした地である。その郷愁が逆に攻撃を密にさせたのだろうか。安邑は龐涓の到着を前に、降伏の意を示した。これによって魏は邯鄲はおろか、安邑まで失うという状況に陥ったのである。
——なんと、後手に回ったものよ。この失態、取り戻せまい……。
龐涓の考えとしては、安邑を囲んだ秦軍を外側から攻撃するつもりであった。しかし予測よりも早く安邑の守備隊が降伏してしまい、彼の算段は実現されることがなかった。結局邯鄲も手放したことを考えると、大梁へ遷都したこと自体が無駄のように感じられる。
——安邑に都を置いていた方が、いちはやく応戦できたはずだ。秦だって、主力が安邑にいるとなれば、そう簡単に攻撃はすまい。だが、こんなことを考えても後の祭りに過ぎぬ……。
奪還するか、と龐涓は考えたが、大梁から使者が到着して言うことには、魏公が帰還を命じている、とのことであった。これを受けて龐涓は引き返した。
魏側がそれ以上の抵抗を諦めたことで、大良造衛鞅は安邑に一部の守備隊を残して秦に帰国した。
戦局を拡大させず、多少領地を失おうがそれにこだわらず……という結果は龐涓の当初の構想と合致している。しかし旧都安邑を失ったという事実は、魏側の損失として「多少」のひとことですまされるものではなかった。
衛鞅と一戦交えてみたかった、という思いは確かに龐涓の中にあった。常に理論で公叔痤を支えてきた彼であったが、実務を執らせるといったいどうなるのかという興味が湧くのである。しかしそもそも衛鞅とは、無から有を生じさせることが得意な男であった。ただの庭に水辺を作り出した彼の手腕は、異なる形で戦場に反映されるに違いない。
——いずれにしても、興味深い……。
龐涓と衛鞅という旧知の間柄にあったふたりは、ついに直接戦場で相まみえることがなかった。それがふたりにとって幸福な結果だったかどうかは、あとの時代になってからでなければ知ることはできないだろう。
「殿さまの命令など無視して、安邑に突入すればよかったのです。そして衛鞅さまを直接……」
「公主らしくない言葉だな。あまり感心できぬ」
結局大梁に戻った龐涓は、娟とそのようなやりとりをした。突き放したような言い方をしたものの、龐涓には娟の言いたいことがよくわかった。彼女は、龐涓にもっと主体的な行動をせよ、と言っているのである。
「私が独断で行動すれば、我が君である魏公の立場は失われる。それとも公主は、私に魏公となりかわれ、とでも言うのか」
「そうではありません。ただ、主君に対して正しく提言するべきだ、と言いたいのです。きっと将軍は太子にその役目を担ってもらいたいとお考えなのでしょう。もしそうでないと仰るのであれば、諫言することで疎まれることを恐れているのです」
「……呉起の先例がある。将軍という立場は、多くの兵を従えるものだ。兵たちの支持を得て主君に逆らおうと思えば、その実現はたやすい。だが私がそれをしない理由は、公叔さまが呉起を追放した理由と同じだ。軍人が支配する国は、ろくなものにならない。世は今以上の戦火に晒されることになるだろう」
娟は呆れたように首を振った。この点における龐涓の頑固さは、彼女もよく知っているのである。龐涓は政治に一切口を挟もうとしない。
「いずれにしても、私は衛鞅さまを許しませんよ。私は私なりのやり方で……いつかあの方を滅ぼして見せます」
「滅ぼすなどと……公主は恐ろしいことを言う。いったいどうするつもりだ」
「まだ決めてはいません」
娟はそう言いながら席を立った。見送った龐涓は、深いため息をついた。
娟はその頭の中で、密かに策を講じていた。
——白圭さまに戻ってきてもらわないと……。
「失った領地がそれほど気になるというのであれば、新たにそれを得ることを考えればよかろう。もとより余もそう思っている」
魏公罃は謁見の場で龐涓にそう言い渡した。確かに領地を失ったことを嘆いてばかりいても事態は収拾しない。領地を失うということは、そこに住む領民を失うということであり、領民を失うということは、租税が入らないということである。失う領地が多いほど国は貧しくなり、宮殿は困窮する。
それだけならば、庶民の生活には関係ないかもしれない。しかし宮殿が貧しくなると兵を養えなくなり、その結果として地方は戦乱の危険にさらされることになる。戦乱が増えると田畑は荒らされ、生産は限りなく減少する。ゆえに、領地がなくなることは誰にとっても重大な問題なのである。
龐涓はこのとき南方へ軍を向けることを提案した。韓を攻めて、国境付近の邑を奪おうというのである。
「そうか。将軍も、なかなか切り替えの早い男であるな」
「韓がどう動くか、それは気になるところですが、兵力において我が軍は韓に大きく上回っております。早い段階で始末を付けてしまえば、他国の干渉も抑えられましょう」
龐涓は辛うじてそう答えたが、このときの魏罃の言葉に、彼は苛立ちを抑えきれなかった。
——あなたの替わりに考えてやっているのだ。
以前龐涓は、太子申を相手に自分の本心を吐露したことがあった。
(せっかく仕官したのだから、安定を望みたいのです)
だいたいそのようなことを言ったものと記憶している。つまり彼は必ずしも魏罃に忠節を捧げているわけではなかった。趙に仕えれば趙侯に、斉に仕えれば斉王に従うだけの話である。魏国に関して言えば、彼は魏罃よりむしろ公叔痤を崇拝していた。
——あるいは、このお方は私のそのような心を見透かしているのだろうか?
そのようなことがあるはずもない。配下のの意思に忖度する必要がない存在こそ、君主である。そもそも、君主が配下の者に気を回して政策がぶれることは避けねばならない。ただし、それも君主の執る政策がしっかり焦点の合ったものである限りである。
——では、私はなんのためにここにいるのか。
無論龐涓は武人であり、もともと政策に提言をするべき存在ではない。君主の命令を受けて戦場に立つのが任務であり、そのための存在であることは彼自身も知っていた。しかしそのことが彼を悩ませるのである。いくつもの戦場に立ちながらも、事態が一向に改善されないことに、このときの龐涓は苛だっていた。
「韓を攻めて、ゆくゆくはその地の奥深くまで支配領域を広めたい。もともと韓や趙と我が国はひとつの国だったのだ」
魏・趙・韓は晋という大国を内側から滅ぼし、その領土を分け合う形で成立した。ゆえにこの三国はお互いにもとの領土を単独で支配することを理想としている。したがって楚や斉、あるいは秦などとの国境を侵すよりも、互いの領地を奪い合うことが多い。魏公が述べたことはこの点がもとになっており、龐涓はまた始まった、と感じた。
「韓は我々が攻め込むと、斉や楚に救援を依頼するであろうな。そのとき有利な立場を維持するために、趙と結ぶがよかろう。趙とは邯鄲の一件があるゆえ同盟は難しいかもしれぬが、逆に言えば尻尾を振って、こちらに味方するかもしれぬ。我々は戦略的に邯鄲を手放したわけであって、武力で奪い取られたわけではないから、こちらが強権的な態度を取れば、再び侵攻を受けると考えるかもしれぬ」
魏罃は言ったが、あくまで仮定の話が前提となっている。この間まで敵対していた者どうしが肩を並べて戦うことは不自然に過ぎるというものであった。
「あくまで、我々の後ろには趙もいると、韓に思わせればよいだけの話だ。実際に行動を共にする必要はない」
まともな戦略眼を持っている者であれば、趙はむしろ韓に味方するのではなかろうか、と考えるはずである。魏・趙・韓の三国で軍事力が突出しているのは魏であり、不利な立場である趙は、同じく不利な立場である韓と共同してこれに対抗するべきである。
しかし世にこの三国のみが存在しているわけではなく、趙の東には斉、韓の南には楚、魏の西には秦がある。この複雑な関係性を打破するためには、強国同士が手を組んで弱国を滅ぼすということもあるだろう。斉や秦は軍事的に勃興しつつある大国なので、その影響力を後背に持つ魏や趙が手を組んで韓や楚を攻めて滅ぼせば、世はより単純な構造となる。
つまり、各国の動静を常識的な判断で予測することは不可能なのだ。
四
韓を攻めることとなった龐涓の耳に、趙が魏と連合する旨の報告が届いた。彼にとっては朗報であるが、これだからこそ世の動きはよくわからない。しかし、実際に趙軍は魏と共に韓を攻めるわけではなく、魏の作戦行動を支持する、というだけの話であった。要するに、積極的に味方をするわけではないが、邪魔はしないというわけである。魏軍は後背から襲われる危険を回避した、ということであった。
韓は軍事的には弱国であるため、野戦で魏軍が負けることはないだろう。しかし韓が弱国ながら存在している理由は、政治的な立ち回りに優れていたからである。なかでもこのとき宰相職を請け負っていた申不害なる人物は、それを得意としていたようである。おそらく彼は、他国に救援を働きかけることで魏の戦略対象を他国に向けさせるのではなかろうか。斉に救援を依頼すれば、魏は韓との戦いを差し置いて斉と戦う。楚に救援を依頼すれば、魏は韓との戦いを差し置いて、楚と戦う。いずれにしても、その間に韓は窮地を脱し、ぬくぬくと他国同士が争うのを見守る、という算段である。
優れた政治家は、自国の混乱をうまく他方へ誘導する。……龐涓は、今回もそのような結果になるのではないか、と恐れた。
しかし楚や斉の政治家もそのことに思いつくのではないか。申不害にうまく利用され、いつの間にか戦争の中心に据えられることを懸念する者はいるだろう。そうなると、助けると口では約束しながら、具体的な行動をなかなか示さない……そのような展開が考えられる。いや、確実にそうなるだろう。魏は、その間に猛烈に韓を攻めて、領土を次々と奪えばよいのだ。
龐涓の戦略はその点に定まった。短期間のうちに総力を結集して韓を叩く。彼は火を噴くように兵を疾走させた。韓はやはり外国に救援を依頼したが、その相手は斉であった。
斉の王宮では、既にこのことが話題に上っている。
崩御した先代に「威王」と諡し、太子辟彊は王座に就いた。のちに「宣王」と呼ばれる人物である。姓は嬀、氏は田であり、これが田氏五代目の君主であった。
もともと斉は数ある諸侯国の中で最古の部類に入る。しかしながら当主がたった五代目に過ぎない状況には、理由があった。
斉の歴史は周王朝の初年まで遡る。殷を滅ぼして成立した周は、その際に功績のあった太公望を営丘に封じた。営丘とはのちの臨淄であり、これが斉の始まりである。太公望の姓は姜、氏は呂、名は尚である。呂尚という呼び方が一般的で、つまり斉は姜姓呂氏が侯の爵位を得て成立した国であった。それを大夫であった嬀姓田氏が簒奪したのである。
鄒忌が宰相として仕えるのは、そのような国である。彼がことあるごとに他国の戦いに干渉することを批判した理由は、斉の名声を高めるためであったと思われる。簒奪によって生まれた国、と悪意をもって批評されるようなことがないようにしたいのだろう。
「韓を救う必要などありません。韓の申不害は我々を巻き込もうとしているだけであり、それに踊らされてはなりません」
斉王の問いに鄒忌は答えた。しかし、彼の言葉は正確な意味での返答とはなっていなかった。
「余は、既に韓を救うことを決めている。ただ早く助けるのか、ゆっくりと時間をかけるのか、それについて論じているのだ」
王の言葉に鄒忌は反発を覚えた。この新しい王は、即位の際に田忌や孫臏の助力を得ており、最初から自分の言うことを聞くつもりがない、と感じたのである。
「韓は、我々とはまったく関わりのない国でございます。助ける義理もないというのに、なぜ我々は領民を死地に送り込まねばならないのか、そのことが私には疑問です」
王はこれに対して答えて言った。
「斉が覇権国として他国を従える立場となるには、いくつかの戦いを経ねばならぬ。韓との関係性がどうこう言っているわけではない。魏と戦うことに対して、その戦略を定めようとしているのだ」
もはや戦うことは既定事項であることに、鄒忌は落胆した。しかし彼にも反論できないことはない。田忌や孫臏は、過去に威王の面前で叛乱を起こそうとしたのだ。その罪を今追及することは、決して間違いではなかった。
「恐れながら、そこにおられる田忌将軍はかつて民衆を……女子供まで虐殺しようとした人物です。彼に兵を従わせれば、助かる命も助からない、私はそう信じます」
当然ながら、この言葉に田忌は怒った。
「何を言うか。それはもともと貴様がこのわしを陥れようとしたことから起きたのだ。貴様のような奴が、内側から国を滅ぼすのだ。軟弱な政策は他国に後れを取るばかりでなく、民衆の結束力を揺るがせる。……王さま、臣は我が軍に即刻韓の救援に向かわせることを提案します」
「早く助けるべきだ、と言うのか」
「仰せの通りです」
田忌はにやりと笑いながら、大きく頷いた。鄒忌は苦虫を噛み潰したような表情で、その様子を見守るしかない。彼は、既に自身の発言による影響力を失っていた。
王は言った。
「寡人(諸侯の使用する一人称)は、過去の罪を遡って裁こうとはせぬ。よって、将軍田忌が先王の前で騒乱を引き起こしたこと、またその原因が宰相鄒忌にあったこと、どちらに関しても今この場で咎めることはしない。しかし、韓を助けることは余の心の内で既に決まったことだ。それを根本から覆そうとすることはならぬ。宰相、肝に銘ぜよ」
「は……」
鄒忌は結果的に口を封じられる形となった。これにより議論は参戦を前提とした戦術論へと移ったのである。
「軍師孫臏、意見を述べよ」
問われた孫臏は田忌とは異なる意見を述べ始めた。
「……韓・魏両軍の兵がまだ疲弊してもいないうちに韓の側を助けることは、つまりは我が軍が韓に代わって魏軍を引き受けることです」
「ほう」
「その意味では宰相どのの仰るとおり、我々は韓の申不害の思うままに踊らされる結果となりましょう……。ですが魏にはどこまでも人の国を破るという野望があります。放っておけば韓は滅亡の危機に瀕します。しかしこのときこそ我らが兵を用いる絶好の機会でしょう」
「具体的にはどうすればよいのか」
「我が方としては深く韓との親交を結んでおき、魏が攻め疲れ、韓が守り疲れた頃合いを見計らって韓を助ければ、大利と尊名を得ることができましょう」
王はこの孫臏の言をよしとして、韓の使者に承諾の旨を告げた。韓側は喜び、斉の後ろ盾を得て戦うことができると踏んだのである。
田忌は、議論のあとに孫臏を問いただした。
「わしが早く攻めようと提案したのに、孫先生はそれと反対のことを主張したな。結果的にその意見が採用されて、わしの意見は容れられなかった。おかげでいい恥をかいた。どういうつもりか」
孫臏は悪びれることもなく答えた。
「いや、将軍。あれはあれでよいのだ。最初からゆっくり時間をかけて助けるなどと答えては、鄒忌などが同調するかもしれない。鄒忌は戦争によって国力が低下することを常に懸念しているため、できることなら戦争そのものを避けたいと考えている。しかし自分の主張がそのまま通るとは考えていない。それは確かだ」
「どういうことか、わしにはまだよくわからぬ」
「鄒忌は最悪でも戦争開始を遅らせたいと思っていたのだろう」
「事実、その通りになったではないか」
「それは彼が口出しする前に、この俺が主張したからだ。将軍が先に早く攻めようと言ってくれたおかげで、彼は意固地になって戦争を止めようとし、言い出す機会を逃したのだ。その結果、最良の形で魏と対決できることとなったのだ」
「仮に鄒忌の奴が最初からゆっくり攻めようと主張していたら、どうなったのか」
「そのときは俺も早く攻めようと主張するつもりだった。戦略的にはまずいが、鄒忌の主張が通ると、我々は立場上不利になるから、無理にでもそうする必要があった……実際にそうならなくてよかった」
これを聞き、田忌は得心したようにため息をついた。
五
「旦くん、お父上の龐涓将軍が韓を攻めているらしい。さきほど夫人からの知らせが届いた」
白圭は、信頼の証として常々使者を通して公主娟を相手に連絡を取っている。白圭の側からは田忌と孫臏が斉に返り咲いたことを知らせ、娟からは龐涓が出征したという知らせが届いたのだ。
「公主、いや夫人は我々に大梁へ来てほしいと伝えてきている。おそらく、何か頼まれるに違いない」
「白圭さまは、公主さまが何を求められているのか、わかりますか?」
「うむ。おそらく……秦へ赴いてもらいたい、といったところだろうな」
秦では商業活動が禁止されている。行けば、身に危険が及ぶかもしれない。しかし状況を改善するために、彼らはいずれ秦へ向かわなければならなかった。
「急ぎ大梁へ向かいましょう」
「うむ。しかし韓のことはいいのか。龐涓将軍のことは?」
白圭は注意を促した。韓への攻撃に対して、斉が介入を図ろうとしている。それに加えて、田忌と孫臏が復帰したことを龐涓に伝えるべきではないのか、と言うのである。
「将軍はおそらくそのようなことはあらかじめ考えておりましょう。いまのところ、戦いのことは将軍にお任せしておけば問題ないと存じます」
「そうだな。わしもそう思う。……では急ごう」
商団は魏の都である大梁への道をとった。
大梁への帰途には、懐かしさとともに緊張があった。今ごろ養父である龐涓は、韓を相手に死闘を演じているに違いないのだ。そのことを思うと、斉に田忌と孫臏を帰した時期が早すぎたのではないか、という懸念が旦の頭の中には浮かんだ。
「白圭さま……当初の構想通りに斉と秦を直接戦わせることはできませんか。魏の領土を飛び越えて……というのも難しい話でしょうけど」
「旦くんが言いたいことはわかる。このままでは魏国が危ない。しかし、龐涓将軍に自制する判断力があれば、斉が出てきたころにうまく兵を引くだろう。将軍は冷静なお方だから、それを期待してもよいのではないだろうか。しかし、それだけでは事態は進展しないだろう。肝心なことは、将軍に斉と秦を戦わせるという概念があるかどうか、だ」
「おそらく将軍は、そのようなことを思っていません。魏の軍人として自ら戦うことしか頭にないはずです。どうにかしてそのことを知らせたいのですが……」
「いずれにしても、早いうちに公主さまのお話しを聞くことが大事だ。道を急ごう」
白圭にしても、自分が田忌と孫臏を動かしたことがはたして正しい行為だったのかどうか、確信が持てないでいるに違いなかった。ただ、斉は状況を静観しているようであり、今のところ早期に参戦する様子は見えない。それが、彼らに行動の自由を与えた。
龐涓は韓を激しく攻め、その正規軍を打ちのめした。斉の後ろ盾があり、窮地に立たされれば救援に来てくれるものと見込んでいた韓軍だったが、それはいっこうに現れなかった。ここまでは龐涓の読み通りである。
「韓の兵は、あまり強力とは言えない。勝って当然、むしろ後背に斉が控えていることを忘れてはならぬ」
龐涓は、斉が出てくれば戦うつもりでいる。彼はまだ斉軍に田忌と孫臏がいることを知らないので、恨みを晴らすことを考えたとは言えない。しかし、彼らふたりの帰る家をなくしてやるという思いはあるようだった。
「韓の兵を従えて兵力を充実させ、斉が出てきたころには逆に包囲してやる」
戦闘によって発生した捕虜を自らの軍に加える、ということである。その点で龐涓は自信を持っていた。
韓軍は諸侯国の中でも最弱の部類に入り、いくらよい宰相がいるといっても、領民は常に外国からの脅威に怯えている。よって、抵抗するのはよほど君主に思い入れのある者ばかりであった。覇権国たる魏が侵入を果たすと、まるで長いものにでも巻かれるようにその支配を受け入れる傾向が強いのである。
ここまではうまくやれている。龐涓は、自身を巡る状勢に満足した。
「噂で聞いたに過ぎませんが、衛鞅の変法に違反して、処罰を受けた高級官僚の人たちがいるそうです。白圭さま、間違いありませんか?」
大梁に辿り着き、さっそく娟に問われた白圭は、長旅の疲れも見せずにこれに応じた。
「それはその通りでございます。太子が罪を犯し、その処罰を守り役である公子虔や公孫賈が受けております。彼らの怒りは凄まじいものでしょうが、衛鞅の権勢がすこぶる振るっていることを受けて、表には出ておりません」
「どうにかその事実を利用できないかしら? 彼らに衛鞅を追い払えるような力を与えたいのよ」
「……それは、なかなか難しいことです。衛鞅の政策は秦公の支持を得ていることですから。公然と政策を批判することは、それこそ法に違反することとなり、それだけで処罰の対象となってしまいます」
提案を否定された形となった娟は、旦に救いを求めた。以前はこのようなことがよくあったが、久しぶりに頼まれた旦は、素直にこのことを喜んだ。
「白圭さまはこう仰るけど、旦はどう思う?」
「公主さまに意見を求められるのは久しぶりです。なんだか感慨深いなあ」
「ふふふ……それで、どうなのよ?」
「ええ。考えがあるにはあるのです。衛鞅さまの政策を支持しているのは、秦公その人ですよね。逆に言うと、衛鞅さまは秦公の後ろ盾を得て政策を実行しています。その後ろ盾がなくなれば、どうなるか……」
傍らでこれを聞いていた白圭は驚愕した。
「まさか、旦くん! 秦公を弑逆しようというのか!」
「我々がそうしなくとも、いつかは亡くなります。最悪でもそのときまで待つという方策もあるのです」
「私は既に老齢で、ただ待っているだけでは秦公より早く死ぬだろう。秦公はまだ四十代だ……待ってはいられぬ」
白圭の言葉に、旦は納得したかのような頷きを示し、次のように言葉を継いだ。
「僕は『最悪でも』と申しましたが、実はこれよりよい方法があるのです。……それは、この事実を太子や公子虔など、衛鞅さまに恨みを持つ人たちに知らせることです。彼らがそれに気付けば、秦公の死期が早まることとなるでしょう。そして、後ろ盾を失った衛鞅さまは窮地に立たされることとなるに違いありません」
娟は感慨深げに旦を見つめた。
「旦、あなた……白圭さまと一緒に旅をして、なんだか大人になったわね。発想が残酷になったわ」
「いけませんか?」
「いいえ。ただ、今あなたが言ったようなこと……私が思いつくべきだったのです。そうだったら、あなたはいつまでも可愛いままだったと……そんなことを考えていたのよ。でも私は衛鞅に復讐することを考えているのだから、いまあなたの言ったことに間違いはないと思う。全面的に支持します。白圭さま、工作は任せてもよいかしら?」
「宦官の景監を動かせば、さほど難しくはないでしょう。秦公の食事に毒を盛るのが最良の方法かと思いますが、私の方からそれを言うのはやめておきます。彼らが勝手に判断して、方法は彼らに考えさせるのがよいでしょう」
「さすがは大商人ですね。立ち回りが上手です」
「まだ結果はわかりませんよ。……それより旦くんはどうする。今後も私と行動を共にするか」
旦は考えを巡らせた。秦への対応策は定まった。しかし敵として斉も存在する。旦は龐涓に一刻も早く現在の状況を伝えなければならなかった。つまり、斉に軍師として孫臏がいることを、である。
「僕は……やはり兵として将軍のもとに駆けつけます。それしか将軍と連絡を取り合う方法がありません」
「なんですって、旦!」
娟は思わず大きな声を出した。
「そうしなければならないでしょう。だって、当面は秦より斉です。韓は秦にではなく、斉に救援を依頼しているのですから。秦の方は白圭さまにお任せして、僕は斉との合戦を回避すべく、将軍のもとに向かいます」
「下手をすれば、あなた自身も戦わなければならなくなるわ。危険です。私は反対しますよ!」
「それでは将軍を見殺しにすることになってしまいます」
「いいえ。将軍は死なないわ!」
「そうさせないためにも、僕は力を尽くしたいのです。これは、将軍に対する思いとともに……公主さまに対する思いでもあります。本当に、お二人には幸せになってほしいのです」
「あなたにもしものことがあったら、私たちは幸せになれないのよ」
「そうならないように気をつけます。どうか、行かせてください」
以前に比べて旦は、我を通すようになった。これも成長の証なのか、と娟は喜ぶ反面で嘆いたが、結局は旦の意思を尊重する決断をしたのである。
「……大梁の防衛を担当していた太子申さまが、将軍の支援に回るために出撃なさるようです。この部隊に混ざって、行動なさい」
旦は頷いた。
大梁にある龐涓の邸の倉庫には、龐涓自身が過去に使っていた武具が残されている。旦はそこに入り、義父がかつて使っていた甲冑や兜を手にした。それを身につけてみると、意外にも自分の体格に合ったのである。いつの間にか、彼は成長し、体の大きさは義父のそれと変わらなくなった。
「……将軍の持つ風格には及ぶべくもないが……」
体格だけはそれに追いついたという事実が、旦を焦らせていた。これから彼は場数を踏まなければならない。そして、生き残らなければならないのであった。
六
龐涓はこれまで韓を三度攻撃し、三度とも勝利を得ている。その勝利に浮かれることもなく、彼は周囲への警戒を怠らなかった。部下たちの間に慢心の空気が漂い、偵察を怠ることがあると、叱責して彼らの食事を三度抜いた。これらの処罰を受けた者は、新たに配下とした韓出身の兵が多い。あるいはこれも、彼らなりの不服従のしるしなのかもしれなかった。
しかし処罰を加えるということには、多くの場合見せしめとしての効果がある。新参である韓の兵士にそれを与えることで、軍規が整うことを、龐涓は理解していた。
「斉の奴らが来るまでに、万全の形を整えたいものだ」
そう呟いた龐涓のもとに、大梁から支援の部隊が送られることが伝えられた。
「太子が来るのか。ならば、私は安心して斉と戦うことができるな」
龐涓は、魏公罃が珍しく的確な判断をしたことを喜んだ。
いっぽう、旦は慌ただしく娟に別れを告げ、出発を控えた太子申の軍に紛れ込んだ。
「上将軍にお目通りを願いたいのですが。私は、龐涓将軍の養子にあたる身分です」
そのように周囲に伝え、太子との面会を果たした。やはり、龐涓の名は軍内でよく効くのである。
「そのほうが、龐涓の養子……旦であるか」
太子申は、感慨深げに旦を見つめた。
「以前から龐涓将軍に君のことは聞かされていた。しかしそのときの話では、まだ幼き子供だったはずだが……時が経つのは早いものだな。もう、いっぱしの武人ではないか」
太子は微笑みながら、旦の肩に手を置いた。しかしそう言う太子もまだ若く、その態度には自分より年下の人物
が現れたことに対する喜びが含まれていた。
「それで、旦は我が部隊に兵として協力してくれるのか。そうであるならば、喜んで迎えるぞ」
「もちろん、そのつもりでおります。ですが、私がここにきた理由はほかにもあります。太子さま、父に伝令の早馬を送ることはできませんか」
「なにを伝えたいのか」
「私は、理由あって、ある商人とともに楚を訪れました。するとそこに田忌と孫臏が潜伏していたのです。いま、彼らは斉に復帰し、魏を叩こうとしています」
太子申は、深いため息とともにその事実を受け止めた。
「ううむ……いつかはそうなると思っていたが、もう既に彼らは我々を迎え撃とうとしている、というのか。困ったことだ」
仔細を聞くまでもなく伝令を届けることに同意した太子は、戦略の変更を余儀なくされた。韓への攻撃を主目的として派遣される予定だったが、斉に対する対応を迫られたのである。
「旦には考えがあろう。斉軍と遭遇したとき、我々はどうすべきか」
「韓との戦いに夢中になっているふりを装い、斉軍の存在が明らかになったとき、すみやかにこれと対峙すべきです」
「ふむ。なぜそう思うか」
「斉と魏の兵力を比べると、いまだ魏は斉を上回ります。正面切って戦えば、魏は負けないでしょう。しかし孫臏は相手の裏をかく傾向があります。それに対抗するためには、常に正面から戦い、伏兵を作らせないようにすることが肝要です。孫臏にこそこそと動かせてはなりません」
「しかし、敵もそれについては対策を練ってくるだろう。それについてはどう思う」
「勝てる状況で戦うことです。相手の誘い出しに乗らず、正攻法の野戦で戦えば、魏の勝利は間違いない。そのような状況を作るためには、速戦速攻……敵に考えさせる余裕を与えないことにつきます」
「ふうむ……向こうから仕掛けさせず、常にこちらから、ということだな」
「その通りです」
太子はそこで考えをまとめると、全軍に出撃の合図をした。とにかく早めに龐涓と合流しようというのである。
龐涓はさらに二度韓軍と戦い、勝利を得た。これで五度目の勝利である。いくら苦戦してもいっこうに助けに来る気配を見せない斉に対して韓は動揺を隠せなかった。宰相申不害は、再び斉に使者を送り、来援の要請をしたという。
これを受けて、斉はついに重い腰を上げた。
「大梁を攻める素振りを見せれば、龐涓としては反応せざるを得まい」
田忌は軍を大梁目指して進ませ、過去にそうしたように、魏軍の注意を自分たちに向けさせた。
はたして龐涓は間に合うのか。




