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戦国に生きる ー魏国興亡史ー  作者: 野沢直樹
第二部
8/20

変法

挿絵(By みてみん)



 秦の国姓は(えい)、氏は趙であり、これはその由来が趙国と同じであることを示す。西周の時代、孝王に仕えていた非子なる人物が、その功績を認められた結果として嬴姓を賜り、秦邑を領地として得たことがその始まりだという。その後はいわゆる西戎(せいじゅう)と呼ばれる異民族を相手に抗争を繰り広げて自国の領土を拡大、これを西に放逐した。西戎とは、(きょう)葷粥(くんいく)(てい)密須(みっす)などの諸部族を指し、またの名を犬戎ともいう。この戦いのさなかに起きた捕虜の交換を原因として、混血が進んだことで文化の広がりを見せたらしい。しかし当時、秦公の身分は大夫であるに過ぎなかった。


 大夫とは周王室に仕える小領主をあらわし、その勢力の大なるものを(けい)と呼ぶ。卿、大夫の領地のもとで暮らす農民層の中で、能力において頭角を現した者が士と呼ばれる。そのようないわゆる「卿・大夫・士」の制度の上に存在するのが、諸侯である。秦が晴れて諸侯となったのは、西周が滅亡して東周となったとき、その活躍が認められてのことであった。


 西周の最後の王である幽王は、既に嫡子を生んでいる申后という正室がいるにもかかわらず、当時絶世の美女とされる褒姒(ほうじ)を寵愛した。その結果、申后は正室の座を追われ、太子は廃嫡された。そのかわりに褒姒が正室となり、彼女が生んだ伯服という息子が太子とされたのである。


 しかし褒姒は生まれてから一度も笑ったことがないと言われていた女性であったため、幽王はどうにかして彼女の笑顔を見たいと願っていた。そこで考え出された方法やいきさつは以下のようなものであった。


 当時諸将に緊急事態を知らせるための方法は、烽火(のろし)を上げ、太鼓を打ち鳴らすというものであったが、幽王は何の前触れもなくこれを行った。諸将は急いで駆けつけたものの、何ごとも起きずただ呆然とするばかりである。その様子を見た褒姒は初めて人前で笑顔を見せたのだった。それを嬉しく感じた幽王は、単に褒姒の笑顔を見たいがためだけに何度も烽火を上げ、そのたびに諸侯は駆けつけなければならなかった。その結果、ついに烽火は信用されなくなったのである。


 この案を考えた人物は虢石父(かくじゃくほ)という臣下であった。王には必要以上にへつらう一方で、住民に対しては収奪を厳しくするという佞臣の鏡のような男であった。


 正室を追われた申后の父・申侯はこの事態に激怒した。彼は西戎の軍団を引き連れて周王室を襲い、怒りのままに首都鎬京(こうけい)を荒らし回った。恐れをなした幽王は烽火を上げて諸将の来援を求めたが、幽王自身による一連の愚かな行為によって、あげられた烽火は誰からも信用されることがなかった。どの将も兵を出さず、知らぬふりを決め込んだのである。これによって申侯は佞臣虢石父を殺すとともに、幽王と太子の伯服を殺し、褒姒を捕らえて西戎に捨て与え、西の蛮地へと連れ去らせた。


 申侯はあらたに周王として平王を擁立し、その都を鎬京から洛邑に遷した。これが東周の始まりである。当時秦君であった襄公はこの平王を守り、その功績が認められて諸侯に封じられた。これにより、秦は単なる邑ではなく国となったのである。なお、当時平王から与えられた爵位は「伯」であった。


 しかし秦はもともと西戎の支配地域だったことで、中原諸国とは文化的に異なる様相を大きく示している。これが野蛮であるとされ、その評価は長い間変わることなかった。龐涓や公主娟が生きた時代えも、その評価が変わることはない。


 大梁をあとにした衛鞅が秦を訪れたのは、そのようなときであった。



 農夫が作物を出さなければ人々の食物は乏しくなり、工人が細工物を出さなければ世に製品が不足する。商人が品物を出さなければ、食・製品・金が尽き果てる。山林を管理する者が獲物を出さなければ、資材が少なくなる。資材が少なくなると、山林や沼沢も開かれなくなる……と古人は述べている。これら農・工・商などは、天下人民の衣食のみなもとであり、みなもとが大きければ物資は豊かに、みなもとが小さければ物資は少なくなるのである。ゆえにこれらの働き次第で、大なるは国を富ましめ、小なるは家を富ませる。それらの技術に巧妙な者には余裕ができ、そうでない者は貧しくなる。この事実は、国でも個人でも変わることがない。


 加えて、俗に「金持ちの子供は刑罰を受けて死ぬことがない」と言われるが、これは彼らに法を犯すことが少ないからである。人の世を乱すものは「貧しさ」であり、これは国の王であったり、単なる平民であっても同じであるということができよう。求めるものが多いほど、他者から奪うという考え方に傾倒しやすいのだ。


 当時の国……王国であろうと諸侯国であろうと、人民から得た税収を何らかの形で分配するという思想は、あまりない。その多くは宮廷の維持や軍費に回され、さらに官職を得た者に報酬を与えると底を突くという有様であった。平民は、病にかかると自分で医者を探して、その費用を自費で賄わねばならない。自宅の前に道がなければ、自分で地面をならして雑草や石ころを取り除き、切り開かなければならない。そのようなとき、彼らが頼る相手は、国ではなく「富める者」であった。富んで徳義をほどこすとはこのいい例であり、よい施政者は彼らのような存在を多く増やそうとしたのである。



 白圭(はくけい)は魏の文侯治世の期間に、洛邑に生まれた商人である。諸国を渡り歩き、その状勢をつぶさに観察することを商売の基幹としている。豊作の年には穀物を買い集め、そのかわりに絹や真綿を売りに出す。凶作の年に穀物を売りに出し、そのかわりに生糸や漆を買い集める……それで財をなしたわけだが、それを可能にするにはどの地方で、どの年に豊作となり、どこで不作となるのかの予測が必要であった。それには長年にわたる実地での調査経験が必須となる。


 自然、その過程で商売以外の情報を得ることもしばしばであった。


 その白圭が自宅を訪れたと聞き、龐涓は困惑した。彼には白圭を喜ばせるような、商売の種になるものなどなにもなかったからである。



「どのようなご用件か?」


 応待を務めた旦に、龐涓は問うた。


「なんでも、お知らせしたいことがあるそうです。商用ではない、とのことですが」


 その言葉を受けた龐涓はやや安心した様子を見せたが、警戒心は解かずに面会した。白圭は真っ白に染まった頭髪が印象的な老人で、龐涓は白という彼の姓がその髪の色に由来しているのではないかと疑った。しかし、そのことはどうでもよい。


「感じのよい若者を家宰としておりますな。非情に礼儀正しく、私のような老人を喜ばせてくれる」


 それが旦のことを評しているのだと気付くまで、龐涓は一瞬の時間を要した。


「家宰……。いや、あれは実を言うと養子なのです。独り立ちさせるまで、私は後見役というわけでして……」


 白圭は意外そうな表情を見せ、話題を掘り下げた。


「おや、聞くところによりますと、将軍は先日めでたく祝言を挙げられたそうですな。そのあなたに、あのような大きな子供はいないだろうと思って家宰だろうと推察したのですが、なるほど養子でしたか。あの子をどのように育てたいと思っておられるのですか。やはり軍人として育てたいと?」


「いえ、私には特にそのような願望はありません。軍人になりたければなればいいし、それとは違う道に進みたいというのであれば、それもいいでしょう。しかし政治の道に進むにしても、軍事的知識は今の時代では不可欠です。宰相の立場にありながら一軍を指揮することもあるでしょうから……。まあ、そういうわけでこの私が後見役となっているわけです」


 龐涓はどこか照れたように笑みを浮かべながら、そのように言った。後見役などと控えめに言っているが、彼が旦のことを愛していることは明白である。しかし白圭は、このとき驚くべき提案をした。


「彼をしばらくの間お借りしたいと思うのですが、いかがでしょう。これは将軍のためでもあり、旦くんのためを思っての提案です。私に付いてきて頂ければ、諸国を渡り歩くことで庶民と実際に触れあうことができましょう。将来彼がどのような職に就くにしても、決して無駄とはなりません。むしろ、得難い経験となるはずです」


 龐涓は驚きのあまり、しばし言葉を失ったが、やがて苦しみながら答えた。


「……あなたの仰ることはおそらく正しいと思いますが、即座に判断を下すことはできません。旦自身がどのように考えるかということもありますが、妻の意見も聞かないと……あれは、私以上に彼のことを愛しているのです」


「お優しい方だ、将軍は……。私は、将軍のことを魏国の勇将と聞いておりましたから、もっと猛々しい方だと想像していたのです。が、やはり実際に会ってみなければ人の真価はわからないものですな」


 商人ともなると追従もうまいものだと龐涓は白圭を評し、それにどう答えるのが適当かと心の内で悩んだ。さんざん迷ったあげく、出した返答は次のようなものだった。


「私は、単なる敗軍の将に過ぎません。勇将だったこともあるかもしれないが、だとしてもそれは過去の話です。ところで、あなたがここを訪れた要件は、そのことなのでしょうか?」


 白圭はそれを受けて話題を転じた。


「……実は先日、商売の種を探すために(よう)に向かい、そこでしばらく過ごしたのですが」


「雍とは、秦の都ですな」


「まさしく。かつて秦の地は商売人が訪れると顧客が群がってくるのが常でした。が、今回はどうもうまくいきませんでな。その原因を探ってみたところ、どうも社会そのものに大きな変化があったようです。あらたに法が明文化されたのです」


 それはよいことではないかと言いかけた龐涓は、思い直して白圭が商売をしにくくなった理由について考えた。おそらく商人が疎外され、庶民に生産を促す農工が促進されようとしているのだろう。


 白圭は続けた。


「あらたな法では、住民の戸籍を作り、それに基づいて五戸あるいは十戸をひと組とされました。そして人々に互いに監視させ、悪事があった場合には告発することを義務づけたのです。もし告発がなかったにもかかわらず悪事が明るみに出た場合は、ひと組の住民たちすべてが連座して罰せられることとなりました。逆に訴え出た場合は、戦時に敵の首を取ったときと同じ功績を与えられるようになったのです」


 隣人が常に自分のことを監視しているとなると、人はとても落ち着かない気持ちになるだろう。悪事を働かせないというのはわかるが、これは明らかに行き過ぎだ、と龐涓は感じた。


「悪事とは何か……それを定めるのが法であろう。おそらく施政者側に都合のよい法が定められたのであろうな。秦の民衆も気の毒なことだ」


 他人事のように述べた龐涓であった。しかし白圭は話をやめようとしない。


「秦は西戎の文化を継承している部分が多いため、家族は一つの家で生活を共にするという風習があります。しかし今回の法ではそれを禁止し、成年に達した男子が二人以上いる場合は必ず分家することと定められました。従わない場合は、罰せられます。……また、男子は農業、女子は紡績などの手工業に励むこととされ、それぞれ成績がよい者に減税の処置が為されることとなりました。その一方、商売を営む者、怠けて貧乏になった者は奴隷の身分に落とされることとなったのです」


 これはいわゆる富国強兵策というものであろう。家の細分化には家庭内遊民を作らないという目的が見え隠れする。成年男子はことごとく働き手として、国の税収に寄与しなければならない。女子には家庭に残る権利が残されているが、悠々と過ごすことは許されておらず、これは高貴な家柄でも例外はない、と白圭は言う。


「もはや秦国内で商売をすることは不可能となりました。非常に憂慮すべき事態です」


「あなたにとってはそうであろうが、このことによって秦は強国となるかもしれない。これが成功すれば、他国もそれに倣うことになるのではないか」


 龐涓の言葉に、白圭は呆れたように首を振った。所詮龐涓は軍人であり、庶民の本質をわかっていない、とでも言いたいのだろうか。あるいは統治そのものをわかっていない、と言い換えても良いかもしれない。いずれにしても、龐涓は自分のことをその通りの人物だと認識している。


「いにしえの言葉に次のようなものがあります。『隣同士の国と国は互いにすぐ見えるところにあって、鶏や犬の鳴き声がどちらにも聞こえてくるほどであっても、それぞれの住民は自分たちの慎ましい食事で満足し、粗末な衣服を心地よく感じ、素朴な習慣のままの生活でのんびり暮らして、自分たちの仕事を楽しみ、年老いて死ぬまで隣国と行き来しようともせぬものだ』と」


「誰の言葉か?」


「老子です。いまからおよそ二百年前の言葉ですが、秦のやりようはこの言葉を実現するようなものでしょうな。しかし、将軍もご自身の立場に置き換えて考えてみてください。我々の生活は二百年前に比べて大きく進化しました。いまや人々は耳で音楽を聴き、目では美人を見て楽しみ、口では豚や羊の肉を味わいます。心では権力と栄光を追い求め、手は優れた工芸品を作り出します。つまり、老子の生きた二百年前に比べて、我々の目は遠くまで見ることができるようになり、腕は遙かに長く伸びました。これらをいまさら短くすることはできますまい」


「……つまり、秦の変法は失敗する、とあなたは仰りたいのか」


「いえ、住民を法で縛り上げ、罰則に対して恐怖を与えることで、一定の期間は効力を発揮するでしょう。しかし……もって二十年といったところでしょうか」


 やがて破綻する、というのである。しかしそれまでに秦は勃興し、国力は上がるであろうから用心が必要だ、と白圭は言うのであった。


「白圭どのは、その具体的な情報をどうやって仕入れたのだ。商売ができなかったのだから、住民たちと接する機会もなかったに違いないだろうに」


「私は商売をしやすくするために、いろいろな方面に根回しをしております。今回は宮廷の事情が知りたいと思ったため、その方面に探りを入れました。宦官の景監(けいかん)は秦公に近く侍る人物で、それでいながらおしゃべりなので情報の源としては格好の材料です。景監が言うには……」


 白圭は一瞬言い淀んだので、龐涓は探りを入れざるを得なかった。なにか自分にとって不都合なことがあるのだろうか。


「その宦官が?」


「景監が言うには、魏国から流れ着いた男を秦公に紹介し、その男は三度にわたって秦公を教え諭した、と。三度目で秦公はようやく興味を示し、秦はその流れで変法を行ったのだそうです。その魏国から流れ着いた男というのが、かつてこの国の宰相であった公叔痤の家宰だった人物で、名を公孫鞅と……」


「なんと! 衛鞅どのが」


「やはりこの名前に聞き覚えがあるようですな。だからこそ私は将軍のもとを訪れたのです」


 白圭がこう言ったとき、奥の部屋からなにかが割れる音がした。


「失礼……」


 龐涓が奥の部屋へ入ったとき、そこには動揺している娟の姿があった。


「どうしたのだ」


 娟は未だ震える手を自分で撫でながら、言った。


「花瓶に花を挿して飾ろうとしたのだけど、お話が聞こえてきて……。衛鞅さまが、そんな恐ろしい決断をしたというの?」


「そうらしいが、まだよくわからぬ」


 龐涓は手招きして娟を白圭の前に連れ出し、紹介した。


「妻です。衛鞅どのについては、彼女の方が付き合いも長いので、その為人(ひととなり)にも詳しい。同席させたいがよろしいでしょうか」


「もちろんですとも」


 白圭は快諾したが、これは彼が一介の商人であることを自認しているがゆえであろう。通常ならば、貴人同士の会話に自身の妻を交えることはないのである。


「妻は姓を如といいますが、母親が武侯の妹なのです。臣籍に降ってはいるが、魏公家の血筋にあたる高貴な生まれです。しかし両親共に早逝したので、幼いころから公叔痤に養ってもらい、その縁で公叔家の家宰だった衛鞅とは長く同じ家で起居していた、という仲なのです」


「ほう……ではさっそく奥方にお伺いしましょう。公孫鞅、いや衛鞅という男は、以前からあのような思想を持っていたのですか。つまり、人々を法によって抑圧することで富国強兵を目指す、というような?」


 問われた娟は思い出すように言葉を紡いだ。


「……確かに、あの方は法を学んでいると申しておりました。でも、そこにどのような思想が隠されているかは、お話しになりませんでしたし、当時の私もそれを聞いたところで理解できたとは思えません。ただ、私に言えることは……あの方は魏国を売ったということだけです。今ごろ、秦の宮廷は魏国の情報であふれかえっていることでしょう」


「売ったですと? 魏国を? それはどういうことですか」


 娟は先を続けてよいか迷ったようである。というのも、彼女はこのことを龐涓に話していなかった。魏国を衛鞅が売ったという言葉に、目の前の白圭よりも横にいる龐涓の方が驚愕している様子であることが、彼女は気になった。


「このことは、初めて話します。あの方は公叔さまのご葬儀が済んだあと、秦国へ旅立つと言いました。その際、私にも同行しないかと誘われたのですが、私はそれを断り、今に至っています。私が思うに、あのお方は早くから魏国を見限っていたようです。魏国の民は覇権国としての繁栄に身を委ねすぎていて、法を施行したところで効き目がないと思っていたのでしょう。そこで斉や秦を相手に魏国の軍事機密を漏らして、その没落を速めようとしていたのです」


「では、我々が邯鄲に赴く前に、斉が軍事行動を始めたのはそのためか。宋を攻めていたら秦が国境を荒らし、その間に宋が黄池を奪還したのも、そのためか」


 龐涓は目をむいて娟を問い詰めた。


「そればかりではありません。衛鞅さまが将軍に衛国を攻撃するよう進言したのも、斉側の準備の時を稼ぐためです。将軍は奮戦なさって、魏と斉の勝負は互角の結果に終わりましたが、私には最悪の結果も推測できたのです。だからこそ、あなたを追いかけてお救いしたのです」


 龐涓は言葉を失った。彼は、自分が衛鞅の掌の上で踊っていたことを知り、無念の(ほぞ)を噛んだ。まったく田忌や孫臏を相手にする前に、身内に敵がいたことに気付かずにいたなどと、自分の甘さを思い知らされたのである。


「なぜ、教えてくれなかったのだ」


 娟はその問いに若干たじろぎを見せた。が、結局話すところが娟らしいところである。


「……なぜかと言われれば、衛鞅さまが去り際に私を誘ったことにあります。あのときあのお方は私に……好いているのだとはっきり仰りました。それに私は動揺して……即座に正しい行動を取ることができませんでした。でも仕方ないでしょう? 誰だっていつでも正しく行動できるとは限りません」


 龐涓は再び声を失い、その場には一瞬沈鬱な空気が流れた。助け船を出したのは、白圭であった。


「将軍は、奥方の驚くべき過去を知ることとなりましたな。しかしそれを責めてもいけません。あなたご自身も、過去にはいろいろな経験をされておられるはずだ。斉の軍師である孫臏の両脚を怒りにまかせて斬り落としたと聞いております」


「……人にはさまざまな過去があることはわかっている。妻である娟もそうであろう。だから私には責めるつもりはない。ただ、驚いたまでです」


 龐涓は自重するように言った。彼は自分に言い聞かせているのだろう。衛鞅が娟を誘ってその身を秦に連れ去ろうとしたことは、確かに彼にとって衝撃的なことであったに違いない。しかし、現に娟はここにいるのだ。彼女が自分を選んで、尊重してくれていることに龐涓は感謝すべきだった。


「しかし白圭どのがそのことをわざわざ知らせてくれた理由は、私の警戒心を煽るためなのか。だとしたら、私に肩入れしてくれていると思ってよいのだろうか」


 白圭はにんまりとして、かつ断言した。


「なに、あなたに勝ってもらいたいからですよ。秦の社会で商人は奴隷なのですから、そのような考え方が広がってもらっては困ります。だからもちろん肩入れはします。今後も何か新しい情報があれば、お知らせするつもりです」


「その心がけは嬉しいが、私は残念ながら政治には疎いのだ。それを学んだこともあったが、ながらく戦地にいたおかげですっかりその方面には鈍くなってしまった。どうしたものかな」


 白圭はにじり寄って切り出した。


「そのことですが、奥方もいらっしゃいますことですし、ぜひ申し上げたい。やはり、旦くんを私にお貸し願えないだろうか。きっと彼のためになるでしょうし、将軍が政治について疎いと仰るのであれば、将来助言者となり得るよう育てて見せます」


 熱意を込めて語る白圭を前に、龐涓は心を動かされた。あるいは、旦に別の世界を見せることも、本人の成長の糧となるのではなかろうか、と。彼は旦を呼び、本人の意思を確かめようとした。




「将軍や公主さまの身の回りのお世話をすることができなくなることは心残りですが、確かに僕には見聞を広めたいという思いがありますので、白圭さまと一緒に旅をすることも有意義だとは思います」


 旦はどっちつかずの返答をした。しかし龐涓はそれを好まず、彼にしっかり決断せよ、と言うのだった。


「私たちに気を遣うことはない。お前が自分自身の将来を考えた上で、選択するのだ。もちろんこのまま家にいるのであれば、私はそれなりの道をお前のために用意してやる。だが自分で自分の道を探したいというのであれば、白圭どのと共に行くがいい」


「でも、これまでのご恩を……」


 言いかけた旦を、娟が制した。


「そういうことは言わないの。私たちは、あなたのおかげで随分と助けられました。だから、恩を感じる必要はないわ。自分のやりたいようにやりなさいな」


「……それならば、ぜひ行きたいと思います。許可をください」


 その場で旦は旅立つこととなった。準備が長引くと決心が揺らぐ、と白圭、龐涓がともに主張したことによる。



「行ってしまいましたね。白圭さまは大丈夫なのでしょうか」


 娟は龐涓を相手に心配そうな口ぶりで尋ねた。


「大丈夫かとは、どういうところがだ」


「信用できるお方か、とお聞きしたいのです。大商人だと聞いていますけど、まさか旦のことを売ったりしないでしょうね」


「そんなことをしたら、私が許すはずがない。わきまえているはずさ」


 龐涓は口ではそう言ったものの、若干の不安を感じているらしい。白圭がどうというより、旅路の安全や行く先々での苦労を思うと……本当の親ではないとしても心配の種は尽きなかった。


「寂しくはないか」


 そのことも気がかりであった。娟は旦のことを実の子あるいは弟のように愛していたため、その寂寥から心を乱すかもしれない、と龐涓は感じた。というのも、二人の間には子ができる兆しがないのである。


「いずれは……寂しく感じるでしょうね。でもいまはまだ平気です。あの子も寂しく感じたりするのかしら?」


「さあ……わからん。もしかしたら旅で得るものが大きくて、それゆえ白圭のことを親のように感じたりすることもあるかもしれんな。だとしたらよいことだが、私としては寂しいのだ。笑ってくれ」


 龐涓の表情には、たとえそのようなことがあっても受け入れる覚悟があることが見て取れた。娟は不自然に思い、その真意を質した。


「本気でそれを願っているわけではないでしょう? だとしたらよいことだ、なんて」


「本気さ。なぜなら旦には本当の親がいて、しかも彼らはまだ生きている。貧しくて養えないというから引き取ったのだが、もともと養子にするつもりで引き取ったのではない。知っての通り、使用人として雇ったのだ。にもかかわらず、私は旦を養子にした。だから……今後似たようなことが起きて、白圭が旦を私たちから奪う形となったとしても、受け入れるしかない。私も旦の両親から、彼のことを奪ったことに変わりはないのだから」


「そんな風に考えなくてもいいでしょうに。それにしても、私はあの子が将軍のもとにやってきたときのことをまるで知らないわ。ほかにも貧しい環境で暮らしている子供はいたはずなのに、どうして将軍は旦を選んだのですか」


 結局娟は旦の思い出話がしたいのであった。それは龐涓も同様で、過去を思い出しながら語るその目元は珍しく弛み、楽しんでいることは明らかだった。


「旦の両親は宋国から流れてきて……いや、そのとき既に旦も生まれていたから、彼は宋の出身だと言うべきだろう。商丘で育ったそうだ。父親の氏は恵であったから、旦の正式な名前は恵旦ということになる。とはいえ、一度もその名前で呼んだことはないが」


「なぜ、呼ばなかったの?」


「ううむ。使用人として当初は雇ったのだが、その当時からどうも私はあの子の親代わりだと自認していたらしい。親が子に姓を付けて呼ぶことはおかしいだろう? いずれにしても他人だとは考えたことがなかった。どうも旦には、生まれつき人の懐にうまく入る能力があるらしいよ」


「旦のご両親は、やっぱり農民だったの?」


 龐涓は、その質問に対しては答えにくそうに眉をしかめた。


「まあ、農民であることは確かだが、父親は学問に目覚めて孔子の残した書物などを読みあさったらしい。しかしそのおかげで家計は火の車となり、最後には自分の農地も売り渡したらしく、そのことがきっかけで商丘を離れることとなったのだ。学問を修めることで心は豊かになったかもしれないが、実際の生活は貧しくなってしまった。そこで、なぜ私が彼と知り合うことになったか、だが」


「なぜなの?」


「この家の庭に来たのさ。他の者と同じように、私が剣術を鍛錬するのを見物するために……。彼はその場で興味深いことを言った。曰く、孔子の父も軍人であった、と」


 つまり旦の父は、自分の替わりに息子を育ててほしいと言おうとしていたのだった。その当時、龐涓は少なくともそう感じたのである。孔子は軍人である父を幼くして失ったそうだが、その出自が大きく影響して、聖人と称されるほど学問に通じたのであった。


「ただ貧しくて養えなかった、単にそれだけの理由かもしれないわよ」


「そういうことを言うものではない。……だが、間違いなくその通りだ。しかし、父親としては息子を自分の替わりに大きく立派に育ててほしいという思いがあったのだろう」


「その思いに応えるために、白圭さまに旦を預けたというの?」


「不満か」


「……確かに諸国を歩いて見聞を広めるのは旦にとっていいことだと思うけど、私としては、白圭さまではなくて将軍が旦を連れて歩いた方がいいと思うのよ」


 娟は本気で言っているようだったが、龐涓はそれを軽く笑い飛ばし、次のように言ったのだった。


「それでは公主をひとりで残すことになる。いまより余計寂しくなることだろう。それに私が旦を連れて歩くということは、いくつもの戦場を軍人として渡り歩くことと同義だ。それは公主も望むまい」


「たしかにそれは」


 娟は表情を和らげ、笑い飛ばした龐涓に対抗するように言い返した。


「その通りかもしれません。……でもひとつ言っておきたいことがあります。いまの私の肩書きは公主ではなく、夫人ですよ。将軍には家を為した自覚が足りないのではありませんか」


 龐涓は痛いところを突かれたのか、再び笑うしかなかった。



 旦を迎え入れた白圭が引き連れていたのは、大商団であった。およそ百人はいただろうか、その様子が軍列の中に存在する輜重部隊と変わらぬ規模であったことに、旦は度肝を抜かれた。


「これほどの大人数を引き連れているお方とは、存じませんでした」


 謙虚さを示した旦に、白圭は満足そうに答えた。


「いずれは彼らの中に私の跡継ぎが何人か出るだろう。ぜひそうなってほしいし、私としてはそうなったらこの上もなく嬉しい。人々が自由に動き回り、戦争とは違った形で異国間の交流が生まれる。素晴らしいことだとは思わないか?」


 白圭の言うことは響きがよく聞こえるが、つまるところそれは彼個人の理想を言葉にしたに過ぎない。自分の商売が思うように行えることを望んでいるのだ、と旦は考えた。確かに商人が活発に行動すれば、農民が生産する稲や麦は高価な絹や綿へと変わり、彼らの生活は豊かになるだろう。しかしこのときの旦には、平民の暮らしの豊かさと、国の成長や安定を繋げて考えることができなかった。


「利益を出そうとするならば、宮廷だけを相手に商売していた方が、効率がいいのではないでしょうか。どうしてそうなさらないのですか」


「生産するのは平民であって、宮廷の高貴な人々はそれを消費するだけだから、一概に効率がよいとは言えない。貴人たちからは対価として貨幣を受け取るが、それをさらに価値あるものに交換しておかなければ、次の商売の種とはならない。例えば……魏で手に入れた貨幣は魏国内でしか使えない。斉では価値がないのだ」


「手広く商売をするためには、民衆を相手にするしかない、ということですか」


「その通りだが、しかし私の考えでは、民衆こそが宮廷を支えているのだ。豊かな民衆が育つ国の宮廷は、やはり豊かだ。いっぽうで農民の生産力が低い国の宮廷は、やはり貧しい。だからどちらが主で、どちらが従であるかは明らかだ」


 そして豊かな国の宮廷は、強い軍事力を持つことになる。旦は、基礎的なことをようやく理解したような気がした。


「そして、これからどこで商売をしようとしているのですか」


 白圭は答えた。


「淮水、江水を渡って楚へ向かおうと考えている。旦くんも初めて訪れる地であろう。よい体験になるはずだ」


——楚か……。




 長江流域にある楚は、黄河流域の諸国とは文化が大きく異なるという。かの国では、周王室を軽んじ、極めて早い時期から君主は「王」を称していた。かつて隆盛を誇った呉や越を吸収し、国土は諸侯国随一の広さを持っている。

白圭は、以前にも楚を訪れたことがあると言う。そのときは黄河流域の農産物が民衆に喜ばれ、大きく利益をあげたそうだ。が、いま楚は長雨による凶作によって人々は苦しんでいるとのことであった。


「少し待ってください。そんなところに行って商売になるのですか? まさか商品として確保してある米や麦を無償で配るわけではないでしょう」


「旦くん、決して民衆を舐めた言い方をしてはいけない。彼らが本当に餓死寸前の状態ならば話は別だが、そうでないうちは彼らも理性を保っている。不作のとき、私は彼らに穀物を提供するが、そのかわりに絹糸や鉄器を彼らから買うのだ。民衆というものは、ただより高い買い物はないことを知っている。私は政治を司る立場にはないから、無償でものを提供する代わりに自分の言うことを聞けと彼らに強制するつもりはない。それなりの対価を得て、お互いに満足することこそが理想だ」


「なるほど」


「……というのは、実は建前であって、楚の地には旦くんにぜひ会わせたい人物がいるのだ。田忌と孫臏が、楚に潜んでいる」


 旦は、絶句した。確かに斉がかつて混乱したとき、田忌と孫臏は国を追われ、何処かに姿を消したと聞いている。白圭は、その所在を把握しているのだった。


「私には商売仲間がそこら中にいて、ほしい情報を惜しみなく伝えてくれるのだ。彼らは都である(えい)ではなく、寿春(じゅしゅん)に潜伏している。目立ちすぎることを避けたためだろう。そこで私は彼らにひとつの情報を売るつもりだ」



 だが白圭はそれがどのような情報かを語らなかった。商人というものは、肝心なことをぎりぎりまで教えない。




 楚は緑が多い土地柄である。乾燥気味の大地に畑を連ねる黄河周辺の諸国とは違い、この地の農民は湿潤な土壌に稲を育てた。そのため城外にある農地のほとんどは水田であり、住居は高床式であった。この光景が、訪れる人々に異国であることを実感させるのである。


 土は黒い。黄色の土に慣れ親しんできた者にとって、楚は異世界であった。しかしこの黒い土は栄養を多く含み、それだけに多くの人々を養ってきたのである。ゆえにこの地の人々は、大地がもたらす収穫物を神からの贈り物だとし、感謝をするために祭祀を絶やさないのだった。白圭たちが寿春を訪れたときも、人々はなにかに取り付かれたように踊っていた。


 その人々が踊る輪の中心に祭壇があり、その祭壇の隣には神の言葉を代弁する神官らしき者の姿があった。


「彼らの習慣には、深く立ち入らないことだ。疑えば嫌われ、中に入ろうとすればよそ者扱いを受ける。傍観しているに限る」


 白圭が言うまでもなく、旦の目にはその姿が薄気味悪く映った。しかし白圭は観察している。彼らは普段のように収穫を終えたことに感謝しているのではなく、より多くの収穫物を求めているのであった。長雨による不作の噂は、事実であったようである。


 翌日、白圭は城門の前の広場に店を構えた。彼は前年に確保していた米を売りに出し、代わりに青銅で鋳造された貨幣を受け取った。蟻鼻銭(ぎびせん)と呼ばれるこの貨幣は、貝の形をしており、刀や農具の形をした中原国家のそれとは大きく異なる。古い時代には貝そのものを貨幣として利用していた文化が時代とともに発展したものであった。


 はたしてこの貨幣で白圭は何を買うのか……そのことが気になる旦であった。


「袖の下なしで田忌や孫臏に会えるはずがない。率直に言うと、これは賄賂のためだよ」


「賄賂が必要なのですか? と、いうことは……彼らは楚でも特別な扱いを受けているのですか? ただ単に市井に紛れているわけではないと?」


「先の戦いで斉は魏に逆襲され、楚に仲介を頼んだ。なにしろ斉は龐涓将軍を相手に大半の兵力を失っていたというから……。私が得た情報では、田忌と孫臏は、仲介のときに実務を担当した役人のもとに匿われているという。だが楚という国は旧来の伝統が色濃く残っている社会が特徴的で、王族に血脈を持つ人物でなければ、将軍や宰相にはなれない。過去に呉起を魏から受け入れて、それが多くの社会的混乱を生み出したことがその原因となっているのだ」


 楚の国姓は()、氏は(よう)である。楚は黄河流域とは異なる文化に属していたため、古来から周の封建体制を素直に受け入れず、自ら王号を称した。白圭が言うところによると、宮廷に勤める官僚や将官級の武人の多くは王と同じ羋姓であり、他者が入り込む余地は少ない。それが事実であれば、田忌や孫臏などはこの地での栄達を見込めないはずである。


「そのほうがよいのではありませんか。彼らにはこのまま大過なく余生を過ごさせる方が……」


「私がいま言ったようなことは、彼ら自身がよくわかっていることだよ。彼らとて、このまま何も為さずに楚で一生を終えるつもりはあるまい。状況が好転しなければ、彼らは楚で兵を募り、叛乱を起こすかもしれない。しかし、それでは私の思惑とは異なる方向に状況が流れてしまう。そうさせてはならないのだ」


「白圭さまの思惑とは?」


「うむ。この際だから言ってしまおう。私の望みとは、将来的に秦と斉を戦わせることだ。そのためには斉に田忌と孫臏を戻さなければならない。……いまの状況を放置しておけば、秦は強国となる。人民を恐怖に陥れる政策は長く続かないだろうが、少なくとも公孫鞅が存命な限りは有効だろう。一方の斉は鄒忌が宰相職にある限り、他国との干渉を極力控え、自国の経済発展に努力するに違いない。しかし秦が勃興すれば、まずは隣国である魏を討とうと考えるだろう。それを救えるのは斉だけで、趙や韓などは当てにならない。楚はどの国からも遠い位置にあるので、無関係を装うだろう」


 白圭は熱弁したが、旦には同意できない論点がいくつかあった。まず、斉が魏を救うはずがないということ。軍事指揮官として田忌や孫臏が復帰するとあれば、なおさらだ。また秦が魏国を攻めるかどうかは確定できない。少なくとも衛鞅が生きているうちは、それを決断しないのではなかろうか。もし衛鞅が魏を攻めようとしたならば、公主は彼のことを絶対に許さないだろう。


 しかし白圭は秦の体制が崩壊することを望んでいる。彼は頭のよい商人であったので、衛鞅の政策が単に商文化の否定であるにとどまらず、民衆の自由を奪うものであることに早くから気付いていたのだった。



 寿春は水運が発達した都市であり、その領域には淮河をはじめとする河川がいくつか流れている。穀物の生産を主産業としており、領民は旦が想像していたより豊かであった。のどかな風景が城外には広がり、そこに喧噪はないと思わせた。しかし、その火種は確実に存在する。田忌と孫臏は、この静かな城郭都市の中に潜んでいるのだった。


 白圭は門番に会うなり、贈賄した。


「城主に会いたいのだ。これでなんとか手配してくれないか」


 両の掌いっぱいの貨幣を提供された門番であったが、自身にそのつてなどがあるはずもない。彼は自分の上役を紹介した。上役はさらにその上役へと話を繋ぎ、まるで階段を一段ずつ上がるように贈賄の対象は高貴な者へと移っていく。そしてその額はどんどん高くなっていくのだった。


「大丈夫なのですか。資金が尽きやしませんか」


「旦くんよ、私のことを軽んじてもらっては困る。私はその辺の王侯などよりも、よほど財産を持っているのだ。残念ながら領地はないが、いざとなれば領主が心を揺るがすほどの金は持っている。その気になれば土地さえ買い取ることも可能なのだ。これくらいで破産したりはしない」


 すごいですね、と旦は言いかけたが、それはやめにした。おそらく白圭にとってこれくらいのことは朝飯前のことなのだろう。変に褒めはやしたりしたら逆に気分を害するかもしれなかった。


 しかし階級が上になれば、責任も重くなるものである。ついに賄賂に揺るがされない人物が目の前に現れた。


「城主に会って、何をするつもりか。返答次第ではただでは済まさぬ」


 近侍の武官であろう。おそらくその男の次には、城主がいるはずであった。


「何をしようというわけではありません。ただ、城主さまにひとつお伺いしたいことがあるだけでして」


「そう簡単に会わせるわけにはいかぬ。かわりにこの私が聞いてやるから話すがいい。それができぬと言うのであれば、どうあっても城主への面会は許可できぬ」


 白圭はそれにたじろぐことなく、むしろあからさまに要件を切り出した。


「もし武官さまのような高貴な方が私めの質問に答えてくれるのであれば、わざわざ城主さまにお目にかかる必要はないのです。……私は、この寿春の城内にもと斉の将軍であった田忌と、軍師孫臏がいると聞いております。彼らの所在を教えて頂きたい、ただそれだけでございます」


「むむ……」


 眉を曇らせた武官の表情から、白圭はこの男が事情を知っているに違いないと断じた。その攻勢は続く。


「もし武官さまが彼らの所在を知っていて、それをお教え頂ければ……お礼は充分に致します。もしお疑いでしたら、実際にご覧に入れましょう」


 そこで白圭は手招きし、複数の下男を引き入れた。それぞれの両手には貨幣がずっしりと入った麻袋が……武官の顔色が変わった。


「これを私ひとりによこすというのか」


「お教え頂ければの話でございます。できれば本人たちへ橋渡しもして頂ければ……」


「……商人よ、その者たちに会って、どうしようというのか。もしお前の目的が我らに害を為すことであれば、たとえ多額の献金があったとしても教えるわけにはいかないぞ」


 威厳を見せた武官であったが、白圭はこのとき賭けに勝ったと確信したようであった。武官の発言を裏に返すと、白圭に他意がなければ献金に応じて田忌と孫臏の所在を教えてもよい、ということになる。


「斉のふたりは、楚国にいても重用されることはありますまい。このままいけば彼らは現状に不満を抱き、不穏な行動を起こすに違いありません。楚国の宮殿も彼らをどう扱えばよいか判断に困っているのではないですか。私は、彼らを斉に戻す方策を知っているのです」


 そこで白圭は耳打ちし、何やら小声で武官に伝えた。それを受けた武官は威厳を保ったままの表情で、ひとことだけ言った。


「その麻袋はすべて私の部屋へ運んでおけ」



 旦は知った。この時点で白圭は賭けに勝ち、田忌と孫臏は売られたのだと。




 寿春の城外、森に囲まれた地にふたりの潜伏場所があった。彼らを売った武官の話によると、その建物は昔からある(とりで)であったという。しかし何者に対しての砦であったかは知らないとのことであった。ただ、最近では野盗が頻出したときに対策として軍が詰めたこともあったらしい。田忌と孫臏はわずかな兵とともに、そのような場所で起居していた。


「冷遇されているらしい。楚にとっては、迷惑な客ということだ。もっとも、食い物は供給されているようだが……」


 白圭はふたりのことを哀れと感じたのか、嘆息と共にそう言った。しかし旦には別の思いがある。


「彼らにとっては、目立たない方がよいのではないでしょうか。あのふたりは、斉国にとって大罪人です。斉から圧力がかかって、楚がふたりの命を狙うこともあり得ます。だとしたら、城外に居を構えている方が、いざというとき逃げ出しやすいでしょう」


「……いずれにしても彼らにとってここは安住の地ではない。彼らも楚を信用しているわけではなかろう。無事に帰れるのであれば、帰りたいと望んでいるはずだ」


「白圭さまは、それを後押しするおつもりですか。恐れながらそれには……賛成できかねます。彼らはきっと天下を乱します。楚で滅ぼされる可能性があるなら、逆にそれを後押しする方がよいでしょう」


 白圭は驚いたようだった。


「旦くんもなかなか酷なことを言う。まあ、確かに私も彼らがどのような人物かは聞いている。しかし、秦の……公孫鞅の政策が天下に広まるのを阻止しなければならない。戦わせて結果を出してもらうには、彼らが適任だとは思わないか」


「養父の龐涓将軍がいますよ。父は彼らよりも強いし、実際に打ち負かしたこともあります」


 自慢げに語った旦であった。しかし白圭は首を横に振る。


「悪いが君のお父上は、戦えば強い。しかし、自ら戦おうとはしないお方だ。職業軍人に徹しておられる。軍略を考えるが、政略は考えない。秦が攻めてくれば戦うだろうが、自分から仕掛けることはないだろう。言い換えれば、我々のような庶民のために戦ってくれるお方ではないということだ」


 旦は不満であった。


「欲得のためには戦わないお方だ、と言い直してもらいたいですね」


「その通りだ。だからこそ、利用できない。私は、自分の意図があくどいことで、人道に反することだと知っている。だからこそ、巻き込む人物には細心の注意を払わなければならない」



 田忌は険しい顔つきながらも、訪問者に対して慇懃な態度で接した。むしろ気に触るのは孫臏の方である。車椅子に座ったままでも、その横柄な仕草……旦は内心で彼を嫌悪した。


——なるほど、こういう男か。


 龐涓がその両脚を斬り落とした理由がわかったような気がした旦であった。しかし当然だが孫臏は旦に目もくれない。白圭も意識して田忌と話そうとしているようであった。


「使者が言うところによると、お前は大商人だそうだな。何を売りつけに来たのか。あいにくだが、こちらには今のところ余裕がない。事情はわかっているだろうが」


 田忌は重々しい口調でそう言った。暗に「用事はないから帰れ」と言っているのがわかる。しかし白圭はその裏の声が聞こえないかのように振る舞った。


「確かに私は商人ですが、本日は商品を売りにやって来たのではありません。斉国の重鎮であったお二方のお耳に入れたいことがありまして、こうして遠路はるばるやって来たというわけです」


「ほう……しかし、見返りが必要なのだろう」


「頂ければそれに越したことはありませんが、無理には求めません。お聞き願えれば幸いですが、その前にお二方は斉へ戻ることをお望みですか」


 田忌は再び重々しく答えた。


「無論だ」


「では、私がいまから話すことはお二方にとって非常に意義深いものとなるでしょう。しかも、複雑な事情はありません。簡単明瞭、ひとことで言い表すことができます」


「……ならば、早く申せ」


「では言いましょう。斉王はあと数日のうちに死にます」


 田忌は絶句した。彼にとって、これがどういうことか……端的に言うと絶好の機会なのである。田忌はぎりぎりのところで笑みを漏らすことに耐えた。しかしせっかくの努力を無駄にするような高笑いの声が室内に響いた。振り返ると、孫臏が手を叩いて喜んでいたのである。


「あからさまに笑うのはよせ、孫先生」


 田忌は軽くたしなめたが、孫臏はやめない。


「これが笑わずにいられるか。将軍は嬉しくないのか?」


 田忌はしばらく無言であった。が、孫臏が何か主張したいのだろうと、彼は長年の付き合いから察し、ふたりの間でしかわからない目配せによって、それを許したのだった。


「この商人は、我々にとって有益な知らせだと信じて、この情報を持ってきたのだ。実際に有益なのだからいくら笑っても構わないだろう。王が死ねば、我々も国内への帰還が楽になる。王のあとを誰が継ぐのか知らぬが、太子の辟彊(へききょう)が順当だろう。それに取り入れば復帰は叶う」


「取り入るとは、どのような方法で……?」


 田忌は、当然のことながら疑問を呈した。


「わかりきったことを、今さら言わせないでほしいな将軍よ。うやうやしく頭を下げて、両の手を揉むのだ。それ以外に方法があるか?」


「ほう……大いに不満だが、孫先生自身がそれをする覚悟なのであれば、わしも甘んじて受け入れることにする」


 田忌はにやりとした。旦はふたりの意味ありげな会話を目の当たりにして、吐き気を催した。白圭はこのとき、わざとらしく問題を提起してみせた。


「しかしお二方の敵は斉王だけではございますまい。宰相の鄒忌さまなどが納得して受け入れることがあり得るでしょうか」


「その点は問題なかろう」


 田忌は自信ありげに答えた。


「そもそもの発端はわしの使いが占い師のもとを訪れて、曰くありげな依頼をしたという事件だ。しかしわしがそんな使いを出していないことは明白である。ゆえにこれは鄒忌の側の自作自演であり、でっち上げなのだ。誰に入れ知恵されたか知らぬが……鄒忌の手のものによることは明らかだ」


 旦は、その策を考えた本人であったため、このときまさに肝を冷やした。だが、何も言い出さなければわかるはずがない。入れ知恵された側である公孫閲さえも、発案は娟のものであると信じており、裏で構想を練っていたのが旦だとは気付いていないのである。このふたりに真相がわかるはずもなかった。


「つまり、わしがそのことを明らかにすれば、逆に鄒忌らは立場を悪くする。機会があれば、そうするつもりだ」


「ぜひ、そうなさいませ。そして斉の兵権を取り戻して頂ければ、諸国は恐れおののき、その軍威に靡きましょう」


 白圭は、強くそれを後押しした。彼は、本気で斉と秦をぶつけるつもりであった。


「白圭とやら、知らせてくれたことに感謝する。しかしお前の望みはなにかを知りたい。ただ我々に対する善意のみで知らせてくれたわけではなかろう」


 田忌は不審げな表情で質した。その横で孫臏はいやらしい笑みを浮かべている。


「秦が悪逆な手段で勃興しようとしています。おふたりの力で、それを阻止して頂ければ……これに勝る報酬はございません。秦は、我らのような商売をなす者を、奴隷の地位に落とそうとしているのです」


 白圭の訴えに、田忌はようやく得心したような顔を見せた。


「なるほど、努力しよう」


 彼らは、秦がそのような改革を行っていることにあまり興味を示さず、淡々とした態度で答えた。しかしそれでいて、返答の内容は否定的ではなかった。彼らの態度は自信の表れか、それとも無関心からか、旦には読み取ることができなかった。




「田忌将軍は恐ろしい印象のお方でした。見た目もそうですが、言葉の端々に重みを感じました。それに対して孫臏さまはどこか斜に構えているようで、その態度から私たちのことを蔑んで見ているように感じました」


 旦は素直な感想を、白圭に漏らした。


「……あの人たちと同じ場所にいることは、つらかったです」


「気持ちはわかる。が、商売というものは、相手に人徳を必要としない。対価を得ようとするならば、どんな相手であろうと取引せねばならぬ」


「あくまで対価を得ようとすれば、のお話しでしょう。僕に言わせれば、求める相手を間違っているのです」


「いや、旦くんはわかっているようでわかっていないのだ。あのふたりとて、私利私欲で戦ったわけではない。彼らは、彼らなりに考えて斉のために戦った。斉の民の中には、彼らの帰還を望んでいる者も多くいるのだ」


 白圭はたしなめたが、旦にはそのような理屈はわかっている。だが孫臏という男のあの態度ときたら……先入観がなかったとしても、やはり自分は腹をたてたことだろう、と思うのであった。


「白圭さまは、どう感じたのですか」


「うむ……正直に言おう。私自身も彼らに対して求めるものがなければ、二度と会いたくないと思う。だが、そのことはもう考えるな。将来的に秦と対抗する国は、斉しかない。魏ではないのだ……残念なことだが」


 白圭はその点にこだわっている。それが単に白圭個人の魏に対する感情なのか、それとも綿密な分析の結果なのか、旦にはわからなかった。が、先に話に出た龐涓の資質が原因ではないらしい。


「旦くんのお父上が、素晴らしい武人であることはわしも認める。しかも彼が政治に口を出さないとしても、文官の誰かがそのかわりを務めればよいことだ。……だが実情は人材に欠け、おまけに君主も暗愚ときている。これでは勝てまい」


「でも……」


「魏が不利な理由はそれだけではない。魏は斉と秦に挟まれた位置にある。中原の中央に位置することでこれまでは繁栄を築いてきたが、両端の国が勃興するとその立場は反転して危うくなる。魏は両方の国と戦わなければならなくなるだろう」


 いわゆる地政学である。このままの状態だと、魏は東西から領土を削られ、それを補うためには南下を余儀なくされる。南の韓や宋は魏に比べて軍事力で劣るため、その対象となり得るが、それらの国々が秦や斉に救援を依頼すれば、魏の立場はすこぶる危うくなるのであった。


「天下は変わりつつある。中原では三百年もの間、戦乱が続いた。しかしそれも終わりを告げるときが近づいている。世の中の動きを正しく見極めることだ」


 白圭は老人らしく、説教じみた口調で言うのだった。



 旦は陰謀が巡らされる現場を肌で感じた。そのひとつひとつはほんの小さなものに過ぎないが、こういったことが天下を動かす要素なのだと感じざるを得なかった。商人が自由に活動できる場を確保するために、国を動かす……そういうこともあるのだ、と思うのである。


——確かに、田忌と孫臏を失脚させ、現在の状況を作った要因は、公主が龐涓将軍を救いたいと願った……ただそれだけのことだった。


 思いが強ければ、ただひとりでさえも国を動かす力となる、ということか。


——衛鞅さまは、なぜ民衆の自由を束縛してまで秦という国の法を変えようとしたのだろうか。


 旦の疑問はそこに思い至った。


「とにかく、いまの秦の状態はよくない。いや、民にとってはよくないのだが、国にとっては統治の効率がよい。国は富むが、民は貧しくなる……しかしそれを普通のこととして民の側が受け入れるようになってしまえば、天下は秦の手中に転がり込むことになるだろう」


「衛鞅さまには、お会いになったのですか」


 白圭は、まさか、とでも言うように首を横に振った。


「公孫鞅は商人を蔑む。会ってくれるはずもあるまい。……しかし前にも言ったように宦官の景監から詳細はつぶさに聞いた。会ってはいないが公孫鞅がどのような男か、私は詳しく知っている」


「衛鞅さまのことは、私もよく知っています。ですがあのお方が秦に渡ってからのことはよくわかりません。どうか詳しく教えてください」


 味方だと思っていたのに……そのような思いが旦の胸中にこだました。よもや秦に仕えて天下に騒乱を引き起こすことになるとは……衛鞅の心中を推し量ることなど、旦には不可能なことであった。


 白圭が語るところによると、衛鞅は仕官こそしたものの、当初は変法の効果に懐疑的な勢力が多く、その施行は阻まれていたそうであった。しかし彼は議論で反対勢力を説得することに努力し、君主である秦公までも説き伏せようとしたのである。


「疑行無名、疑事無功(行動を躊躇う者は名をなさず、事に当たって躊躇う者に功績はなし)」


「有高人之行者、固見非於世。有獨知之慮者、必見敖於民(人より高き行いある者は、もちろん世にそしられ、独創の知恵のある者は、必ず民に罵られるものである)」


「愚者闇於成事、知者見於未萌(愚者はできあがったことにも気付かず、知者は兆しの見える前に気付くものである)」


「聖人茍可以彊國、不法其故。茍可以利民、不循其禮(聖人たる者は、国を強くすることができさえすれば、古いしきたりにこだわったりしない。人民の利益になりさえすれば、礼儀にしたがうこともない)」


 ついに秦公を納得させた衛鞅は、法を公布する前に人民のそれに対する信用度を試したという。国都である雍……その市場の南門にある木を北門に移した者に十金を与える、というのである。しかし民衆は皆それを訝り、実行に移す者はいなかった。そこで衛鞅が賞金を五十金に増やしたところ、ある者が木を北門へ移した。


 衛鞅は実際にその者へ五十金を与え、法の信用性を民に知らしめたのである。そして法は公布されるに至った。


 だが当初は反発もあり、平民のみならず、高級官僚または公族の中にも違反する者が相次いだという。衛鞅は太子である()が法を犯した際、処置に困りつつも()(守り役)の公子(けん)()(はなそぎ)の刑を与え、また教育係であった公子()には(げい)(入れ墨)の刑を加えたという。


 この手厳しい処置が庶民に浸透し、その後秦国内では道端にものが落ちていても誰も拾おうとしなくなり、盗賊や山賊の部類も出現しなくなったのである。


「衛鞅さまは、秦の人たちから恨みを買いそうですね。法がうまく運用されているうちはいいですけど、ひとたび状況が変われば……落とし穴が待っているような気がします」


 旦はその為人を知っているがために、同情するような口ぶりで衛鞅を評した。しかし白圭の反応は冷淡であった。


「公孫鞅……衛鞅とは、酷薄な男だ。情が足りない。落とし穴には必ず落ちるだろう……しかしそれは彼自身が人の情について考えることを疎かにした酬いであるに違いない。彼は、きっと民衆に殺されるよ」


「…………」



 旦は言い返すことができなかった。



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