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戦国に生きる ー魏国興亡史ー  作者: 野沢直樹
第一部
7/20

虜囚

挿絵(By みてみん)



何謂量權。曰、度於大小、謀於眾寡、稱貨財有無之數、料人民多少、饒乏、有餘不足幾何。 辨地形之險易、孰利孰害。 謀慮孰長孰短。 揆君臣之親疏、孰賢孰不肖。 與賓客之智慧、孰少孰多。 觀天時之禍福、孰吉孰凶。 諸侯之交、孰用孰不用。 百姓之心、去就變化、孰安孰危。 孰好孰憎。 反側孰辯。 能知如此者、是謂量權。

(量権とは何か? その意味するところは大きいものと小さいもの、多いものと少ないもの、財産のあるところとないところ、人民の多いところと少ないところ、豊富なものと足りないものをはかることである。また、立地の険阻あるいは平坦を見極め、自分にとっての利害をわきまえること。物事の長所短所を「謀」によって考えることを言う。主君と家臣の誰が親しく、誰が親しくないのか、また誰が賢く、誰が不肖であるのかを知ること、外部の客の誰が知恵者で、誰がそうでないのかを知ること、さらには時の吉凶、諸侯の交わりの中での有用不用、大衆の心の去就を見るに、何が安全で何が危ういのか、彼らが何を好み、何を嫌うのか、変化の激しい世の中で何が確かなことなのか、これらをよく知ることを「量権」というのだ……『鬼谷子』揣篇第七)


 どちらの勝利に終わったか不明な桂陵の戦いであったが、孫臏は積極的にそれを自らの勝利と喧伝した。しかし邯鄲を開放するという目的を、意図的に龐涓の捕縛にすり替えたという疑惑は確かにある。そもそも兵法とは、戦いによる問題の解決を最後の手段として定義しており、孫武のみならず孫臏自身もそれを主張している。しかし敵よりも多大な犠牲を払い、しかも本来の目的とは違う結果を追い求めたこと、また当の本人がそれに満足している素振りを見せていることに首をかしげる重臣たちがいたことは事実であった。彼らは、孫臏が個人的怨恨を晴らすために国の兵を動かしたと考えており、これは兵法の観点から見ても大きな錯誤ではないか、と言うのである。またそれを許した田忌にも疑惑の目が向けられることとなった。


 しかし龐涓を捕らえたというその戦果によって、疑惑が批判へと転じることを辛うじて免れている。

 

 つまり、彼らの栄光は非常に危うく、つけ込まれる要素があったということである。



 臨淄の郊外である城北という土地に徐公(じょこう)という豪族がいる。これ以上ないと言われる美男子との評判であり、同じく美男子ぶりを自慢とする鄒忌にとっては、常に意識する相手であった。


 ある日の朝、鄒忌は宮殿に出仕する前に自宅の鏡をのぞき込みながら、妻に問うた。


「私と城北の徐公とでは、どちらが美しいと思うか」


 問われた妻は、即座に答えた。


「あなた様は抜群の美男子にして、他に敵う者はおりません。どうして徐公などがあなたに敵いましょうか」


 そう言われたものの、安心できなかった鄒忌は側室に同じ質問をした。


 問われた側室は答えた。


「徐公はあなた様に敵いません」


 翌日になって、鄒忌の家に来客があった。試みに鄒忌は客人に対してまた同じ質問をしてみた。


 客人は答えた。


「成侯どのの美しさには、徐公も敵いますまい」


 ところがその翌日、徐公本人が客として鄒忌の家にやって来た。鄒忌は徐公の顔をじっと見つめると、急に不安に襲われたという。


——これは、敵わないのではないか。


 やがて徐公が帰ったあと、自分を鏡に映して確かめてみたところ、その疑念は確信に至った。


——やはり、遠く及ばない。


 鄒忌は夜、寝床の中でそれについて考えた。人々はなぜ私の方が上回っているという嘘をついたのだろう、と。思うに、妻は同情の念から自分を依怙贔屓したのであり、側室はその寵愛を失うかもしれないと恐れたのであり、客人は自分に何かを求めておべっかを使ったのだろう。そう考えると、これは重要なことのように思えた。地位が向上した自分には、誰も本当のことを伝えてくれないのである。


 この点を憂慮した鄒忌は、斉公威に向けて注意を促した。


「斉はいまや、大国と呼ばれる存在になろうとしています。しかしながら朝廷の臣、後宮の侍女、側近たちも我が君を依怙贔屓しない者はないでしょう。また我が君を恐れないものはなく、領内の者で我が君に求めるもののない人物は存在しません」


「何が言いたいのかよくわからない。どういうことか?」


「おわかりになりませぬか。我が君の威光が大きすぎ、誰も本音を申さなくなりつつあるのです。それゆえ、我が君の目はひどく塞がれた状態だと、言わざるを得ません。どうか臣下の直言をお妨げにならぬよう」


 これを受けて斉公威は、直接自分に諫言した者に対して報償を与える、との政令を発した。また書面で諫言した者にはそれに次ぐ賞を、さらには巷間で批判した者に対しても賞を与える、とした。宮殿には、ひとこと君主にもの申すことを欲した民衆たちが黒山の人だかりを作るようになり、斉公はそれにいちいち対応したという。しかししばらくすると人々が諫言する余地がなくなり、斉はよく治まったのだった。


 やがて桂陵で魏に勝利したことを受けて機も熟したと考えたのか、斉公威は自ら王を称した。のちに「威王」と(おくりな)される諸侯王の誕生である。


 これまでも諸侯は侯の身分であるにもかかわらず公を称するなど周王室を軽視し続けてきたが、これはかなり思い切った宣言であった。魏が戦いに敗れたことでその覇権は弱まりつつあったが、斉はそれが自分たちに転がり込む前に王国であることを宣言したのである。周王室など無視し、覇権を確立するための近道をとったのであった。


 鄒忌などにとっては不安が残る政令であったが、民はこれを当然のこととして受け入れた。既に周王朝などは諸国を掣肘する存在ではなかったため、それも当然のこととして受け入れられたのである。


 しかし、当時臨淄に滞在していた娟と旦の二人にとっては、憂慮すべき事態であった。


「魏軍が敗れたというのは、本当のようです。将軍の身が心配です」


 旦は血走った目をこすりながらそう言った。ここ数日ろくに寝ていないのである。


「住民たちがはしゃいでいるように見えるわ。何やら、斉は王国になったと……。どういうことかよくわからない。けれど、浮かれ気分のときは多少無理なことを言っても聞き入れてくれるかもしれない。例の人物に、今日あたってみましょう」


 寝ていないのは娟も同様であった。だが、娟の外見はみずみずしいままであり、少なくとも内面の焦燥を映し出してはいない。旦は、娟が持つ芯の強さに感服した。


「もし将軍が生きているのであれば、どうにかしてお救いしなければ」


 二人は、朝早く臨淄の城内に入り、宮殿の前で待ち構えた。高官たちが馬車に乗って出仕するのを待ち構え、そのうちの一台に駆け寄り、すがりついてそれを停めたのである。


「どうか、お助けください」


 いきなりそのように声をかけた娟であった。しかし相手の男が誰か、彼女は事前に知っていたのである。宰相府に出入りする官僚、公孫閲であった。


 周囲の者たちが慌てて娟を制止した。


「やめないか。陳情ならば、正式な手順を踏め。さもなくば牢に入れるぞ」


 しがみついた娟を強引に引き剥がそうとする従者たちの間に、旦が割って入った。


「どうかお聞き入れください。この方は高貴なお方なのです」


 その言葉に公孫閲が反応した。


「どういうお方か」


 娟は自ら説明した。


「私の名は、嬴娟(えいけん)と申します。邯鄲から逃れてきました」


 嬴という姓は、趙の国姓である。この時代、男性は氏を名乗り、女性は姓を名乗った。つまり娟は、このとき自分を趙の侯家に繋がる身分だと称したのであるが、これは無論嘘である。


「趙侯は鉅鹿に逃れたと聞いておるが、そのほうは逃げ遅れた口か。宿がないというのであれば用意してやってもよいが、当面は私の邸宅にとどまるがよい。おい、案内せよ」


 人のよさそうな眼差しをもつ公孫閲であった。娟や旦はそれにつけ込んだのである。彼は従者のひとりに命じて、ふたりを自宅まで案内させた。実に幸いなことであった。


「お疲れであろうから、ゆっくりお休み頂け。……話はそのあとでよかろう」


 公孫閲は公務があるといって、そのまま宮殿内に姿を消した。しかし娟と旦はあてがわれた邸内の一室で文字通り一息つくことができたのである。


 その日の夕方になって、公孫閲は帰宅した。彼はそのまま娟と旦の様子を伺うと、食事を共にするようにと述べ、平服に着替えた。尊大ではあるが、包容力のある態度は、ふたりを安心させた。


「それで、私は何をすべきか。このまま邸宅にとどまりたいというのであれば、それもよし。考えてやらぬことはない。新たな住居が欲しいというのであれば、手配することも可能だ。しかしおそらく……そのような要求ではなかろう」


 娟はこれ以上ないというような愛想を振りまきながら、この問いに答えた。隣に座る旦が舌を巻いたほどである。


「お優しい言葉を頂いて感謝に堪えません。そうであるからこそ、ご質問には真摯に答えなければなりませんね。はっきり申し上げさせて頂ければ、私たちをいち早く邯鄲に戻してもらえるよう、尽力して頂きたいのです。巷では、斉軍が桂陵で魏軍に勝ったと噂されております。ですが邯鄲が開放されて、斉軍が入城したという噂は聞いておりません。そのあたりの詳しい事情が知りたいのです」


 公孫閲は娟の振りまく笑顔に対して眩しそうな表情を浮かべたが、やがて不愉快そうな口ぶりで、これに答えた。


「実際にまだ邯鄲は開放されておらぬし、この先も開放されることはないかもしれぬ。なぜかといえば、軍が趙を助けることよりも、単純に魏を破ることだけを欲しているからなのだ。魏が保有している覇権を奪い、その功績が軍にあることを誇示したいがためだ。彼らにとっては、趙が都を失ったことなどよりも野戦で魏軍を破ったという事実が重要なのだろう」


 娟は絵に描いたように落胆した表情を見せた。


「では、私たちはどうなるのでしょうか」


「しばらくは帰れまい。それまではここにいても構わないが……。もうすぐ軍が臨淄に帰還するので、城内は騒然とするだろう。とりあえずはおとなしくしておくことだ」


「なぜ?」


「あなた方が邯鄲に帰りたいなどと騒ぎ立てれば、帰還した田忌将軍や軍師孫臏などの耳に入るかもしれない。苦しむ趙を救えなかった事実を批判されたと彼らが感じれば、厄介なことになるだろう」


 ついに娟の耳にも田忌や孫臏の名が響くこととなった。やはり龐涓は彼らと戦い、敗れたのか……しかしその動揺を顔に出すわけにはいかない。涼しげな表情で会話を続けた。


「あなた様ご自身は、批判されたと感じないのですか?」


「私か。私は彼らと折り合いが悪くてな。軍の遠征には、本音を言えば反対であったのだが、流れを抑えきれずにいたのだ。結果として斉軍は大半の兵を失い、国防のための備えが無駄に失われた。予測された結果だ。田忌と孫臏はただ魏将龐涓を捕らえたという、そのことだけを理由に勝ったと称しておる」


 一瞬、娟の瞳が輝いたことを旦は見逃さなかった。龐涓は死んでおらず、捕らわれているに過ぎない。だとすれば、目の前の公孫閲を動かし、救い出すことが可能だ。


「魏の将、龐涓さまは勇猛だと聞いています。その彼を邯鄲から引き離したということだけでも結果としてはよかったと考えれば、いずれ私たちも邯鄲に戻れることになるかもしれません」


「ところが、やはりことはそう簡単にはいかないのだ。我が軍は龐涓によって壊滅的な打撃を受け、一万から二万ほどの兵力しか残っていない。そこを突かれれば、斉は滅びるかもしれないのだ。斉が滅びれば、どこの国の軍隊が邯鄲を開放する? 秦などは、おそらく見向きもしまい。ゆえに田忌や孫臏の責任は重いと言わざるを得ぬ」


「あなた様は、そのお二方とと対立なさっていらっしゃるのですか?」


 娟は、初めて聞くような態度でこの質問をした。しかし、実は彼女は知っているのである。


「まあ……深く対立しているのは、私ではなく成侯どのだ。あの方はもともと出兵に反対であったが、私はあえて賛成せよと説得した。賛成しておけば、戦に勝った場合でも立場を保つことができる。しかし敗れた場合は、その責任を軍になすりつけることができると思ったからだ。だが田忌や孫臏は、実際には敗れたくせに勝利したと言っている。私は、彼らをどういう口実で追い詰めようかと考えている最中なのだ」


「失脚させたいのですか。でもそれでは、国を守る面で不都合が生じませんか」


「彼らは守るのではなく、攻めるだけだ。それも無駄に。今回も彼らの無駄な行動が、国を危機に陥れている。軍人には慎み深さが必要だ。特に彼らには強権が与えられることを思えば……。そうであろう?」


「まったく仰るとおりだと思います。もしあなた様がその方法に悩んでいると言うのであれば、ひとつ提案したいと思います。まっとうなまつりごとに拠らず、あえて低俗な落とし穴を掘ればよいのです。好戦的な人は、その恥辱に耐えかねて自ら行動を起こすでしょう。そして勝手に滅びるのです」


 娟は、あえて遠回しな物言いをした。膝を乗り出してその具体案を聞こうとした公孫閲に彼女が策を授けたところ、彼は喜々としてこう言った。


「なるほど」


 娟はこの策に条件を付けた。


「必ず、この案を実行するためには宰相である鄒忌さまが主体とならねばなりません。失礼な言い方ですけど、あなた様の名では軍は動かないでしょう。成侯鄒忌さまを説得なさってください」


「無論だ。では、さっそく」


 公孫閲はそのまままっすぐ鄒忌の元に向かった。



「お見事でした。公主さま」


 旦は、娟が公孫閲を手玉に取る様子を見て、それを賞賛した。しかし娟の顔色は浮かぬ様子である。


「成功するかどうかは、わからないわ。仮に成功したとしても、将軍をお助けできるかどうかはわからない」


「成功すれば、斉軍は弱体化します。それを見越して諸侯は斉を滅ぼそうとするかもしれません。少なくとも、国内には混乱が起きます。そうなれば将軍が災難を逃れる機会も訪れるでしょう」


「でも、私は一方が圧倒的に勝つことを望まないわ。それに宰相の鄒忌さまは斉国内で一番とも二番とも言われる美男子だとの噂だから、あまり近づきすぎると(めかけ)にされそうで怖い」


「公孫閲さまには、それを推し進めそうなところがありますね。それが公主さまにとって幸せなことだと思っているかもしれません。良心的なお人のようですが……」


 旦は憂いを秘めた眼差しで娟を見つめた。いったい、このお方が龐涓将軍以外の人物のもとへ嫁ぐことになったら、どうなってしまうのだろうと思わずにはいられなかった。


「でも、きっと成功します。間違いありません」


「もともとは、あなたが考えた策ですものね。うまくいくことを期待しましょう」




 龐涓は、歴下城の地下にある牢に捕らわれていた。与えられる食事は毎度のように(あつもの)であったが、どれもその汁は泥水のような味がした。しかしこの屈辱は、彼にとって決して耐えられない、というものではない。彼は、戦略的に斉に勝利したとさえも考えている。自分がこのような形で捕らわれることなど、既に想定済みであったということだろう。


「出してくれと、言わぬのか」


 孫臏は嫌味を含めた口調で龐涓に問いかけた。


「自分から言わずとも、いずれその時期は訪れる。お前自身が私に利用価値があると言ったではないか。よもや、忘れたわけではあるまい」


「そうであったな。それはいかにもその通り。しかし、それがいつになるかはわからぬ。それまでおとなしくしているのか、と聞いておるのだ」


 孫臏の口調には余裕が感じられる。龐涓にとって、これは幸いなことであった。いま自分が逆の立場にあれば、迷わず相手を殺す……しかし孫臏にその気持ちがないことは明らかであった。


「牢の中で暴れても、どうにもならぬことはわかっている。それとも、暴れたら出してくれるのか。ならばさんざん出せと喚き散らすが、お前は私のそういう姿を見たいがために言っているだけだ。実際に出せと言ったところで出してもらえないことはわかっている」


「相変わらず、かわいげのない奴だ。少しくらい、お前の両脚を切り落とさなかったことに対して、感謝してほしいものだが」


「だからこうしておとなしくしているではないか。おそらく暴れたところで……お前の配下には拳法を習得した者もいるだろう。そんな奴らに叩きのめされたとあっては、割に合わぬ。『孫臏拳』と聞いたが……そのようないかがわしい拳法の実験台になることはご免こうむる」


「そう言うお前は剣術の達人だろう。俺のように、理論ではなく実践で評価を得てきた男だ。対抗できないとは思えぬ」


「それも武器があれば、の話だ。私は戦の中で勝ち残れるよう自らの武芸を磨いたのであって、お前の拳法のように素手で戦うような、喧嘩の技術を極めたわけではない」


 おとなしくしているとは言いつつも、常になく突っかかった口ぶりの龐涓であった。彼の矜恃が萎縮することを許さないのであろう。しかし孫臏の表情がわずかに怒りを示したとき、龐涓は後悔を感じた。このとき孫臏の口調は、やや凄みを増した。


「お前が暴れようと、おとなしくしていようと、どちらにしても殺すことはできるのだ。利用価値があると言ったのは確かだが、それがなくなったと判断されれば、お前は殺される。たとえいまの俺に直接手を下す能力がないとしても、人に処刑を命じることはできるのだ」


「……それで、私に利用価値はまだあるのか」


「それをお前に教えるつもりはない。殺されそうになったとき、それがなくなったと判断すればよいことだ」


「では、いまのところはまだ価値があるということだな。実に、ありがたいことだ」


 それに対して孫臏は何も言わず、その場を立ち去った。


 この時点で龐涓は、孫臏が自身の戦闘記録をもとに書物を残そうとしていることを知っていた。理論を記録として残そうというのである。しかし龐涓が思うに、孫臏が唱える作戦など用兵家であれば誰でも心得ているようなものであるに過ぎない。彼に言わせれば、孫臏が意図するものは個々の作戦に名前を付け、分類しやすくする程度のものでしかなかった。心構えなどは孫武の時代には既に明記されていて、新たなことはなにもなかろう……。実際に龐涓は孫武のものとされる兵学書を読んだことがあったが、感じ入ることは何一つとしてなかった。敵に先んじて行動すること、危険だと思われるときは軍行動を控えること、などと言われても、何を今さらとしか感じない。


 しかし将軍になることを夢見る子供にとっては、よい教科書になるだろう……龐涓にとって、兵学とはその程度のものに過ぎなかった。


 いっぽう孫臏にとって、これは一世一代の事業である。彼は、もはや戦いにおいて兵の先頭に立つことができない。これまで軍神と崇められてきた孫武、あるいは呉起などのような将軍としての活躍は自分に期待できない。彼に求められるものは、後方で策を巡らす軍師としての役割であった。自分の考えを書物として著したいと考えた理由は、その役割だけでは満足できなかったということだろう。また、先祖の孫武に対する羨望も大いにあったかと思われる。


 いずれにしても龐涓にとっては笑止千万な話であった。孫臏を戦えなくさせた原因は間違いなく自分にあるが、実際に戦えない人物の書物を、誰が信頼して読むものかと思うのである。彼は、孫臏のことを哀れとさえ思った。




 しかしそのような考えは、自分の思い上がりだったと龐涓は気付くことになる。彼は突如現れた刑吏によって、棒で背中を三十回打たれた。



 魏公罃は、龐涓が斉に敗れた旨の報告を聞くに及び、隣国の韓と結んで兵を襄陵に向かわせた。その知らせを受けた斉では、ともにかつて魏によって痛い目にあった衛と宋の協力を得て、これを迎え撃った。指揮は、田忌と孫臏が再び共同で執った。


 が、結果は斉軍の大敗に終わった。斉王はこれを憂慮し、楚を調停役とすることで事態の解決を図った。魏公罃はこれを無視してさらに攻めようとしたが、西から秦が介入する動きを見せたため、やむなく講和に応じた。このとき魏公罃は虜囚となっている龐涓の返還を求めたが、斉はかたくなにこれを拒否したという。


「邯鄲と引き換えだ。このこと、譲れぬ」


 あまりに斉が拒否するので、魏公罃はすでに龐涓が殺されているのではないか、と勘ぐった。しかしこれについては斉側が生存を確約しており、かつこれ以上の要求をするのであれば、本当に龐涓を殺すという条件を加えたため、引き下がらざるを得なかった。




「我が軍は、ずたずただな。桂陵で龐涓にやられたからだ。再編には一年も二年もかかるかもしれない」


 田忌は、嘆くように孫臏に対して言った。しかし孫臏はそれに反論する。


「それは魏も似たようなものです。今回は敗れましたが、それも予測していたことです。龐涓を殺さずにおいたことが、やはり効果的でした」


「ものは言いようだな」


 田忌は、現況に不満を抱いていた。孫臏に対する口調には、常になく(とげ)がある。


「仮に魏が条件をのんで、邯鄲を返すとしたらどうなるか? 邯鄲に駐屯する将兵たちが大梁に戻り、我々は交換に龐涓を手放すことになる。奴らの兵力はかえって充実することになるだろう」


 孫臏はにべもなくその言葉を否定した。


「仮定の話に過ぎません。実際にはそうなっていないではありませんか。現実としてはこうです。……魏は慣れない邯鄲の維持のために兵力を割かねばならず、龐涓は我がほうの手にある。この間に我々は兵力の再編を進めることができます。違いますか?」


「孫先生の兵学には、このような局面も予測して打開する術があるのか」


「いえ。しかし十戦してすべて勝利を得たとしても、それは最上の結果に見えて、実は禍を生ずるものなのです。過度な勝利は、他国からの復讐の種になります。だからこそ戦の判断は慎重に為されねばなりません。兵を楽しむ者は滅ぶのです」


「ううむ。なかなかに理解が難しい言葉ではあるが……つまりは、戦わずに済むよう政略を巡らせよ、と言うのか。その観点から、孫先生は現状をどう判断するのか」


「魏はいずれ、邯鄲を持て余すようになります。その頃合いを見計らって、交渉を仕掛けるのがよいでしょう。龐涓を返すのはそのときがよいと信じます。そう遠い未来の話ではありません。魏は諸侯を敵に回し、これから国防の重要性に迫られるからです」


 その後、魏公罃は領土の西辺に長城を築き、固陽に要塞を造った。斉との戦いにあたって、秦の介入に備えたと見るべきだろう。事態は孫臏の予測する方向に流れつつあった。




 公孫閲はいらいらとしていた。彼はすぐに鄒忌に話を持ちかけたものの、その後間もなく魏軍が襄陵で攻勢に転じたため、田忌や孫臏は歴下から出征してしまった。よって、彼らが臨淄に戻ることもなく、策を実行に移すことができなかったのである。


 だが、いま彼らは帰国の途にあった。公孫閲にとっては都合がよい。しかも彼らは襄陵での敗戦という不名誉な結果をともにしていたのである。


「なぜ、迷われるのですか。どうして実行を躊躇うのですか」


 重ねて問われた鄒忌は、不満げな表情を浮かべて抗弁した。


「君の策は、お世辞にも高潔なものだとは言えない。もちろん有効なものだとは私も思っている。だが、実行を躊躇(ためら)う気持ちもわかるだろう。過去に私は、王さまにたいそうなことを申し上げて、それが大いに評価された。その私が政敵を排するために茶番を演じたとは思われたくない」


「計画を実行するにあたって、成侯さまのお名前が出ることは決してありません。慎重に行動しますので、どうかご安心ください」


 そう言われると鄒忌は考え込んだ。どうあっても彼は、田忌を追い払いたいのである。だが、武断的な軍人を追放するためには、通常ならば武力が必要なのである。それは、鄒忌には無理な話であった。ならば策略を巡らせるのも仕方のないことだろう。


「わかった」


 やがて鄒忌がそう答えたところ、公孫閲はようやく喜々とした様子を見せ、宰相の部屋をあとにした。




 臨淄城内の道端に、評判のよい占い師がいた。よく当たるが、そのかわり代金は高めだという。公孫閲はその占い師のもとに自らの部下を送った。占い師は老人であった。


 公孫閲の命を受けた部下の男は、占い師を前にして、このように言った。


「私は田忌将軍の家臣だ。将軍は三度戦って三度勝ち、名声を天下に轟かせた」


 実際のところ、田忌は負け戦も経験している。が、これは事実を大げさに表現すればするほど信憑性が増すという考え方に基づいている。また、それだけこの時代の民衆にとって、真の情報を得ることは難しいという事実も示していた。


「したがって将軍は、朝廷に対して大事を成そうと考えておられる。これが吉と出るか凶と出るかを占ってほしいのだ」


 占い師は依頼の内容に心の内で驚いたようであったが、傍目にはそれと悟られないように、黙々と(ぼく)と呼ばれる方法でそれを占った。


八卦(はっけ)によりますれば」


 占い師は手にした筮竹(ぜいちく)の束をじゃらじゃらと鳴らしながら説明をした。その一本一本にはある種の記号が刻まれており、その組み合わせによって吉凶を判断するのである。


(せん)(たつみ)の相が出ております。これは自然の中では風を意味し、方角では南東を意味します。一族の中では長女を意味し、身体では股を意味します。性格は受動的なものとされ、動物では鶏を示すものです。また、五星では冥王の星を意味します……しかし、最も重要なこととして、五行における木を示すことが挙げられましょう」


「つまり、どういうことなのだ」


「木は春の象徴です。木は燃えて火を生み出すとともに、根から養分を吸い上げることで土を痩せさせます。私の占いでは、臨淄の宮殿に(こん)の相が出ております。坤は五行のうえで土を示すものとされています」


「それでは……?」


「先に申し上げたとおり、木は土を弱らせることができます。これは五行で呼ぶ相克の関係です。しかしながら、五行には相侮という考え方もあり、一概に結果を断定することはできません。……つまり木の実力が充分でなければ、土を弱らせることができず、返り討ちに遭うという考え方です。また木があまりに強すぎると土の形成を阻みますが、結局木は土がないと生き延びることができません。また、土も木の根がなければ水に流されてしまいます。このようにすべて自然は相互の関係によって成り立っております。したがって、決断は慎重に為されねばなりません」


「では、どうすればよいのか」


 使者の男は、占い師の回りくどい説明に苛立ちを感じ始めていた。


「坤の相は、一族では母を指し、自然では地を示します。いっぽう巽の相では長女と風ですので、対抗することは難しいでしょう。ですが方角では坤は南西を指し、巽は南東を示します。したがって南西に向けて攻めたてれば、効果的に坤の軍勢を撃滅することが可能でしょう」


「では臨淄の北東に軍を置き、そこから南西方向に攻めよ、と言うのだな?」


「そうせよ、とは言えませぬ。先に申し上げたとおり、木に充分な実力がなければ、土に滅ぼされてしまいます。あなた方が、ご自身に充分な力があると信じるのであれば、そうなさるのがよいでしょう。もし自信がなければ、行動は控えた方がよいと申し上げておきます」


 そうか、なるほどと言って男は代金を支払い、外に出たところを拘束された。同じ容疑で占い師も拘束され、事情は明るみに出たのである。つまり、田忌は密かに野心を持ち、その実現時期を伺っていた、というのである。


 依頼者、占い師のふたりは王宮に連行され、事情聴取を受けたが、当然その情報は田忌の耳にも入った。


「わしが内乱を計画しただと? そんな事実はない。でっち上げだ!」


 激怒した田忌だったが、その噂が斉王威の耳に入ったことを知ると、身を隠さずにはいられなかった。身に覚えのない噂によって失脚しようとしている原因が、彼は鄒忌にあると考えた。


「甚だまずい状況だ。孫先生、わしはどうすればよかろう」


 田忌は孫臏に相談を持ちかけたが、事態は彼が取るべき行動を限定し始めていた。


「弁明のために王さまのもとに駆けつけますか? 恐れながら将軍にそのようなことができるとは思われません」


 淡々と言い放った孫臏であり、田忌もその言葉を受け入れた。


「陥穽に落ちたとしても、それをいちいち釈明するのは、わしの矜恃に関わる。我が王が理解してくれるのであれば別だが。『田忌将軍に限って、そのようなこと、あるはずがない』などと申してくれればよいのだ」


「ですが状況から判断するに、そうはならないでしょう」


「……どうやら臨淄を離れて兵を鍛錬しておいたほうがよさそうだ。念のために聞くが、孫先生は行動を共にしてくれるのか」


「無論です」


 結局孫臏としては、自分を受け入れてもらえる存在は田忌だけだと認識していたことになる。彼は官職として軍師という役職を得ていたため、本来ならば田忌と運命を共にする必要はなかった。しかし両脚がないため自ら戦うことをせず、なおかつ生意気な口を叩く彼を受け入れる度量のある将軍が他にいたとは考えにくかったのかもしれない。あるいは田忌に対する忠誠が並々ならぬものだったのか……重用してくれた上官に対して忠誠を誓うことは、のちに彼が自らの書で明らかにしていることなので、充分考えられることだろう。


 ついに田忌は臨淄を離れ、郊外で兵を鍛錬するに至った。のちに引き返してこれを襲撃するつもりなのである。



「田忌を追放することに成功しましたぞ。孫臏もこれに同行したとのことですから、宮殿内の主戦派は大夫の段干朋を除いて一掃されたことになります。いや、実に見事な提言でした」


 公孫閲は、娟と旦を相手に食事を取りながら、豪快に笑った。しかし、問題はこれからである。旦は、公孫閲がそのことをわかっているのかどうか不安に感じた。


「田忌と共に消えたのは孫臏ばかりでなく、彼の配下にあった軍勢もありましょう。おそらく田忌は叛乱を起こすつもりです。未然にこれを防ぐよう手配しなければなりません」


 提言した旦であったが、公孫閲はこの点について考えがあったらしく、その落ち着いた様子に驚かされた。


「うむ。おそらく田忌は、何らかの行動を起こすであろう。しかし、私は彼にそうしてもらいたいのです。事実が必要、とでも申しますか……。成侯さまの身の安全を確保するとともに、襲撃した田忌を返り討ちにしたいのです。未然に終われば、罪を問うことも難しくなりますから」


「田忌将軍に対抗できる軍備はあるのですか」


「いえ、もちろんありません。ですが策はあります。……成侯さまは類い希なる美男子ですので、臨淄にはあのお方を慕う女性が大勢います。大勢……文字通り大勢です。その者たちが中心となって宰相府の守りを固めれば、田忌もそう簡単に手出しはできないでしょう。田忌は主戦派ですが、軍人としての嗜みは心得た男です。民衆、しかも女性を虐殺するような真似はしますまい」


 妙案であるかのように思えたが、女たちを盾としようとすることにやや違和感を覚えた旦であった。だが、彼に代案はない。


「しかし、そううまく女性たちが集まるものなのですか」


「もとより、成侯さまが女性たちの人気を集めている理由は、単にその見た目の良さだけではありません。非戦によってもたらされる生活の安定を、彼女たちは支持しているのです。戦わなければ男たちは農作業に精を出し、その結果国庫も充実する。ですが軍人たちは戦争をし、支配領域を拡大することによって国庫の充実を狙う。女たちはいくら領土を拡大して農地を得ても、働き手に兵役が課されてばかりでは元も子もないと考えるのですな」


「もっともなことです」


「結局夫を兵に取られた女性たちは、自分で畑を耕し、種を蒔き、育て、収穫しなければならない。さらには収穫量の大半を税として納めなければならず、不満が溜まっている。いまの宮殿で、本気でその問題に寄り添っているのは成侯さまだけなのだ。女性たちはそれをわかっているがために、確実にあのお方を守るはずです」




 娟はしかし、話に集中していない様子であった。それもそのはずであり、彼女は臨淄で予測される混乱のさなかで、どうにかして捕らわれているであろう龐涓を救い出すことばかりを考えていたのである。


「龐涓将軍は臨淄に連行されているのでしょうか」


 呟いた彼女の目に怪訝そうな顔をした公孫閲の姿が映った。


「なぜそのようなことを? 気になるのですか」


「……ええ、少し気になったものですから」


 旦は様子を察して話題を転じた。


「仮に女性たちが宮殿を守ったとして、大きな混乱は免れませんね。ましてあなた方にはまともな軍隊もない。どうされるおつもりですか」


「なに、最終的に王さまから宣言してもらえばよいのです。将軍田忌は王の意志に背いて叛乱をしているのだ、と言ってもらえば、兵も翻意します。いくら田忌が兵をうまく統率していようと、王の意志に兵は逆らえません。もちろん多少の混乱は避けられませんが、それは致し方のないことでしょう」




 臨淄の城内が騒がしく、不穏な雰囲気に包まれたのは、その二日後であった。城門の前に多くの人々が寄り集まり、何やら激しく言葉を交わしている。その多くは、やはり女性たちであった。


「ひと波乱ありそうね。どうにかして将軍をお助けしたい……ここにいらっしゃればいいのだけれど……」


「孫臏にしてもせっかく捕虜として将軍を捕らえたのですから、置いてきたりはしないでしょう。宮殿のどこかにある石室にいらっしゃるはずです」


 旦は確信を持って答えた。その間にも外の様子は騒々しくなってきている。常にない殺伐とした空気が、風に乗って伝わってくるかのように思えた。



 娟はどぎまぎした様子で外を覗き見た。窓の格子の隙間から、人々が田忌の来襲に備えて団結しようとしている姿が見える。


「あの人たちは、田忌将軍が今日ここにやって来ることを知っているのかしら。どうやって知ったのかしらね」


 旦は、女たちが鋤や鍬を手に持ち、戦おうとしている姿に恐怖を覚えた。あんなものを持っていても、弓矢で射かけられればいちころだろうに……と思うのである。


「よほど鄒忌という人は、愛されているらしいですね」


 田忌の軍隊は、城外で態勢を整えたと聞いている。女性たちはその様子を必死に観察していたのだろう。いよいよ襲撃の日が訪れたという認識を得て、彼女たちは集結したのだった。誰も統率することのない私兵団の誕生である。


 比較的少数でありながら、男性もいるようである。まだ徴兵されていない若者や、老人であろう。いずれにしても甲冑などは付けていないので、乱が起これば真っ先に殺されるべき存在だった。


「ひどいことになりそうな気がするわ。やっぱり公孫閲さまの仰るとおり、これを鎮めるのは王さまの存在しかなさそうね。王さまが外に出てきたとき、宮殿に潜り込めそうな気がするのだけれど、どうかしら?」


「機会はおそらくそのときしかありません。準備しましょう」



 斉王威は宮殿の外が騒々しいことに気付いていた。しかし側近たちにその理由を聞いてみても、誰もが「よくわかりません」という返答をすることに、不快感を抱いていた。


「鄒忌を呼べ」


 現れた鄒忌は、騒動の原因が自分にあることを隠さなかった。彼は、田忌が自分を襲撃しようとしていて、外の者たちは自分を守ろうとしているのだ、と説明した。


「田忌将軍とそこもとが不仲であることは、余も知っておる。市中での占いの件も既に報告を受けている。よって田忌が戻り次第、余は彼を罰するつもりであった。しかし襲撃するつもりだとは、どういうことか。民衆は、この王宮の周りに集まっている。ということは……田忌は、ここで暴動を起こすつもりなのか」


「おそらく、そういうことでしょう。民衆は城外で兵を鍛錬する田忌の動向、または田忌自身の言動をつぶさに観察し、そのような結論に至ったのでしょう。彼らの行動に誤りはないと思われます」


 鄒忌の言葉に、斉王は気色ばんだ。


「この王宮には余がいるのだぞ! お前たちは自分たちの不和によって、余を騒動に巻き込むつもりか」


「王さまの宸襟(しんきん)を騒がせた罰として私を追放なさるか、田忌を謀反人として誅伐するか、ご決断頂きたく存じます」


 結局、斉王も田忌が民衆を虐殺するような真似はすまいと判断したのであろう。田忌がやって来たところを見計らって、自ら楼台に出ることを約束した。その場で直接罰を与えるというのである。



 やがて予測通り田忌は軍勢を引き連れてやって来たが、王宮の門前に多くの人だかりがあることを見て、行動を躊躇った。


「あれは、ただの婦女子どもではないか。鄒忌のやつめ、わしがやって来ることを見越して、女どもを盾に自らを守ろうというのか」


 見たところ、民衆は自分への敵意をあらわにしているようであり、歓迎している様子はなかった。それどころか、「帰れ」などという声も聞こえたのである。


「門を突破することは難しそうだ。あの連中をなぶり殺しにすることはたやすいが、それではわしの名誉が失われてしまう」


 田忌はこの襲撃が失敗に終わることを覚悟した。しかしまだ諦めるわけにはいかない。彼は孫臏に対処法を相談した。


 だが孫臏の返答は、単純かつ冷酷なものであった。


「構うことはありません。有無を言わさず、突破するべきです」


「しかしそれでは、あまりにむごい。仮に突破できたとして、その後のわしは民衆に恨まれてしまう」


「何を今さらそのようなことを。突破して鄒忌を襲い、その後は王を襲うのです。あなたが次代の王となって、その権力で民衆を畏怖させれば万事解決する問題です。もともと、そのようなお覚悟はお持ちかと思いましたぞ」


 田忌は孫臏の言葉を受けて怯んだ様子を見せた。しかし、彼の孫臏に対する信頼は絶対である。


「孫先生がそう言うのであれば、実行することに迷いはない。ただしくれぐれも……いざというとき、裏切るなよ」




 田忌はそれを機に突入を開始した。鍬や鋤を構える民衆たちを狙って、矢を射かけたのである。


 前方にいる数名が矢を受けて倒れた。それとともに女たちの悲鳴が聞こえたが、立ち去る様子はない。田忌は、脅しが通じないと見て群衆の中に数台の戦車を割り込ませた。


 戦車の台上には御者のほか、弓手と剣士がいる。彼らは行く手を遮る群衆を刺し殺したうえ、倒れた者を車輪の下敷きにした。人々は恐れおののいたが、やがて怒りの声をあげながら、反撃を始めた。馬に鍬の刃を突き刺し、その間に乗員を棍棒で叩きのめし、戦車から振り落とした。振り落とされた乗員は怒りのままに鉾を群衆に向けて振り払い、数名の死傷者が一瞬にして生まれた。


「やめよ! 田忌よ、兵を引かせるのだ!」


 斉王が楼台から発した叫び声に、注目した者は少なかった。しかしこのとき、田忌自身はそれに気付き、傍らの孫臏に問いかけている。


「王の登場だ。孫先生、どうやらここまでのようだ。わしは、賭けに敗れたらしい」


「そんなことはありません。ここから遠弓で射れば充分届く距離です。誰か得意な者に命じて射させれば……」


「いや、あれを見よ」


 楼台の上の斉王の傍らには、鄒忌の姿があった。そのふたりを王宮に残った兵士が護衛し、さながら親衛隊のような様相を示していた。王や鄒忌を弓矢で射ようとしても、彼らがそれを盾で守るだろう。


「兵を引かせよ、と余が命じておるのだ!」


 やむなく田忌は兵士たちに攻撃の中止を命じた。彼としては、鄒忌がでてくることはあっても、斉王が姿を現すことを考えていなかったに違いない。状況を予測して、伏兵を忍ばすことなどをしていなかった。この点、責任は孫臏にあるといってもよかろう。


「甘かったかもしれません。王の身を確保してから行動すべきでした」


「しかし、事前にそのような行動がとれたかどうかはわからぬ。ここは逃げる準備をした方がよさそうだ」


 ふたりは囁き合ったが、斉王の怒りは収まることなく、その場で沙汰を下すに至った。


「田忌は騒乱を起こし、なおかつ民衆を虐殺したことを理由に、将軍職を剥奪! 孫臏もそれに協力したことを理由に、官職としての軍師号を剥奪する。両名には今後臨淄へ入ることを許さぬ。身柄を拘束し、その後瑯邪(ろうや)へ流罪とする」


「瑯邪だと……」


「山の向こうです。かつては越国の版図にあった城ですが、越が縮小したため、いまは荒廃しています」


 威王はなおも続けた。


「民衆を襲った兵たちについては、田忌の命に抗えなかったものとして、その罪を減免する。城内の牢で三十日間の謹慎だ。なお、宰相鄒忌も私的な関係を騒乱にまで至らせたものとして謹慎を命じる。十日間、出仕を禁じる」


 鄒忌はそれに対して恭しく頭を下げた。素直に応じる、という意味であろう。しかし、田忌はそれに対して罵声を浴びせた。


「そいつは食わせ者だ! 民衆ばかりか我が王までも盾にして、自らを守ろうとする! 唾棄すべき存在ではないか!」


 しかし斉王は取り合わなかった。


「取り押さえよ!」


 ふたりを取り囲んでいた群衆が襲いかかった。もはや、兵たちは彼らを守ろうとはしなかった。


「逃げよう。孫先生の馬車を貸せ。わしが御者となって、この場を落ち延びる」


 田忌は孫臏用の幌付きの馬車に飛び乗り、自ら鞭を振るった。馬車は驚くべき速度で走り出し、群衆を轢き殺しながら去って行った。




 外の喧噪をよそに、娟と旦は王宮内部に侵入した。しかし内部の構造はわからず、右往左往するばかりであった。


「だいたい牢獄や石室は地下にあるものだと思うのですが、なかなかその入り口が見つかりません」


「入り口は外にあるかもしれないわよ。公孫閲さまに、もっと探りを入れておけばよかった」


 王宮の衛兵たちはすべて外の混乱に駆り出されている。斉王が楼台に姿を現したとなれば、その護衛に回らなければならない。よってしばらくは、安心して捜索ができそうだった。


「女官とかがいれば、聞いてみようかしら」


「いや、足跡を残すべきではありません。公孫閲さまに迷惑がかかってしまいますので……あとから恨まれるだけならよいのですが、それが政争の種になってしまうと厄介です」


 そのような会話をしつつ、奥へ奥へと足を進めるふたりであったが、ついに下へ向かう階段を発見した。幸いなことに、他に人はいない。


 階段を降り、地階に足を踏み入れると、薄暗いうえに油の臭いがした。湿気が多く、床には虫が多い。極めて換気が悪いのである。


 いくつか格子で仕切られた部屋があり、それが独房であった。大量に人を収容できる部屋もあったが、そのいずれにも人の姿はない。地階は恐ろしさを感じるほどの静寂に包まれていた。


 旦は独房のひとつひとつを覗いていった。無人の部屋ばかりであったが、最後の一つ、壁際の部屋に人影が見えた。


「……将軍」


 暗がりの中で、恐る恐る呼びかけた旦であった。その男は後ろを向いており、旦はそれが龐涓だと確信していたわけではない。実際に、その姿はただの囚人としか旦の目にも映らなかった。


 だが、呼びかけに応じて振り向いたその男は、まさしく龐涓であった。


「……旦! 旦ではないか。なぜこのようなところに……」


 牢の中で立ち上がった龐涓の目に、娟の姿が映ったようであった。


「なんということだ、公主までいるではないか」


 すでに娟は目に涙を浮かべていた。


「将軍、ご無事で……」


 旦は牢の(かんぬき)を外し、龐涓を外に誘った。牢を出ようとした龐涓は、やや足もとをふらつかせ、思わず格子に手をついて体を支えた。


「長く座ってばかりいたので、すっかり足が弱ってしまったようだ。これも孫臏の呪いかもしれぬ。……しかしお前たちが私を救ってくれるとは、感無量だ。それ以外に言葉もない……」


 既に娟は龐涓の片腕を支え、それにすがる素振りを見せていた。普段ならば勝ち気な娟の初めて人に見せる姿であった。


「外に出られそうか、旦?」


「王宮の外は混乱の極みです。たったいま田忌将軍が軍師孫臏と共に謀反を企て、斉王がそれを阻止しようとしている最中です。しかしご安心ください。田忌と孫臏の計画は、失敗します。将軍は混乱に乗じて、逃れることができましょう」


 龐涓は驚いたように目を見開き、しばらく言葉を失ったようであった。


「……田忌と孫臏が謀反だと? それは……」


「あらゆる方面から、僕らがそうなるように仕向けたのです。でも、その話はあとにしましょう。いまはここから抜け出すのが肝心です」


 三人は揃って地階を抜け出し、やがて王宮そのものから脱出を果たした。次は内城からの脱出が問題となるが、ここで娟は言い出した。


「公孫閲さまにひとこと挨拶をしてからでなくては、あとあと問題が起きます。将軍はひとまず身をお隠しになって。旦と私で暇乞(いとまご)いのご挨拶に向かいましょう」


「公主さま、それは……必要ですか?」


 旦は危険だと言いたいのである。龐涓は、何が何やらわからずに呆然としていた。


「だいいち将軍は長く監禁されていたので、お疲れです。そのうえまた身を潜めなければならないとは……。それにもし公孫閲さまにあれやこれやと問い詰められたら、どう答えるおつもりですか」


 娟は動じることなく答えた。


「あのお方が、私を妾にしようとしていることはわかっています。魏国内に受け入れの縁者がいることがわかったとでも言って、きっぱりと別れを告げた方がよいでしょう。後を追われたりしたら、将軍の存在が明らかになってしまうかもしれないし、私たちの正体がばれるかもしれない。そちらの方が私は怖いのよ」


 妾にしようとしている、という言葉に目を見張った龐涓は、戸惑いながら問いかけた。


「お前たち……そのような危ない橋を渡って、ここまで来たのか」


 娟はさらりと答える。


「そうではありません。ただ、この先そのようなことも起こり得ると考えているだけですよ。当面の問題は、将軍の隠れ場所ですが……」


「臨淄には若いころしばらく住んだことがある。苦い思い出ばかりだが。……城内の鐘楼(しょうろう)が隠れる場所として適している。幼い子供がよくかくれんぼの場所にするのだ」


「人は来ないのですか」


「朝と正午、それと日暮れにしか来ない。なにしろ、鐘しかない場所なので警備を厳重にする必要もないのだ」


 かくして龐涓を鐘楼で馬車から降ろし、娟と旦はふたりで公孫閲の邸宅に向かった。公孫閲に先んじて邸宅に到着した二人は、何食わぬ顔で邸の主人を迎えることとなる。



「王宮での騒ぎは、決着が付きましたか」


「一応のところ、騒ぎは収まりました。田忌と孫臏の拘束には失敗しましたが……。彼らはおそらくどこかの国へ亡命するつもりでしょう。我が王は彼らを許さぬと宣言しましたから、戻ったところで居場所はありますまい」


 娟は、田忌と孫臏が国外に追放されたことを確認し、公孫閲に対して切り出した。


「騒動もどうにか収まったことですし、実は私たちもそろそろおいとましようと思っているのです。公孫閲さまには大変お世話になったにもかかわらず、なにもお返しできないことが心残りなのですが」


 公孫閲は驚いた様子を見せた。


「なんと、行く当てはあるのですか。遠慮はいりませんから、ごゆっくりなさればいいのに」


「魏国内に私の親類縁者がいるので、そちらを頼ろうと……。どうか、止めないでくださいまし。かの地には、私が幼いころにお世話になった方がいて、その方は死にかけているのです。早く行って、安心させてあげたいのです」


「そのような話はいままで聞かなかったぞ。私は、あなたを成侯さまに紹介してあげたいと思っていたのです。そうすればあなたの一生は安泰でしょう。お付きの旦どのも官職を得られることになるかもしれない」


 それを聞いた娟は、眉を曇らせた。


「大変ありがたいお話しですけど、それはつまり、私に成侯さまの妾になれということでしょう。せっかくですが……」


「望まないのですか? 私はそれがあなたのためになると信じていたのですが」


「女の幸せとは、そのようなものばかりではないとご理解頂きたく思います。それというのも、私にはすでに縁談があって、私自身そのお相手には満足しているのです。一連の混乱で離ればなれになり、生死の程はわかりませんが……魏国に入ればその消息も明らかになりましょう」


 娟は言い逃れの手段として、過去の自分の話をしていた。死にかけているという縁者は公叔痤のことであり、消息がわからない縁談相手とは、龐涓のことである。実際には公叔は既に死んでおり、龐涓の消息は明らかとなった。しかしまったく架空の話を練り上げるより、真実味があると言っていいだろう。


「しかしそれでは、あなたが田忌や孫臏への対処法を示唆してくれた恩義に報いることができません。どうか、私に何ができるかをお伝えください」


「私が示唆したことを、あなた様ご自身が考えついたものとして扱えば、成侯さまから多大な恩賞は頂けましょう。私たちについては、ここに居させて頂いたことに充分感謝しております。この上旅立たせて頂ければ、それに加えることは何もありません」


 娟は、見返りを求めていないことをことさら強調するように言った。それについて目に見えて安堵したかのような表情を浮かべた公孫閲は、ついに慰留を思いとどまったようであった。


「あなたのような才女を成侯さまにご紹介することで褒美が頂けるのではないかと思っておりましたが、しかしその功績を私にお譲り頂けるというのであれば、喜んでお受け致しましょう。どうか道中お気を付けて。なにぶんにも混乱のさなかでありますので護衛兵などは出しかねます。お気を悪くされないで頂きたいのですが……」


 このとき公孫閲は、自身の野心をぬけぬけと言葉にした。それでいて悪びれる様子を一切見せなかったことについては、彼が純粋にお互いにとってよい話だと思っていたことを意味する。だが、このこと自体が娟から見れば勘違いなのであった。彼女は、褒美に預かる権利を自分が放棄するような形に見せかけることで、そのことを相手に気付かせなかったのである。


 だが娟にも思い違いはあった。娟は、公孫閲が自分を見初めていると感じていたが、実際は上司である鄒忌への土産によいと感じていたようであり、このことは彼女の自尊心を深く傷つけた。


「ねえ、旦」


「どうしたのですか」


「男の人って、みんなああいう感じなのかしら」


「……ああいう感じ、とはどういう感じですか」


「自分で言うのもおかしいけど、目の前にいい女がいるのに、それを人に譲ろうとしたりするのかしら、ってことよ」


 旦はどう答えてよいかわからず、結果的に問い返すことにした。


「そう仰るからには、公孫閲さまのことを公主さまは好いておられたのですか?」


「悪いお人ではないと思ってたけど、私の言いたいことはそういうことじゃあないの。わかっているでしょう?」


「よかったじゃありませんか。実際に妾になれと言われたら、公主さまも困ったに違いありません。まさか受け入れるつもりだった、ということはありませんよね」


「当然じゃないの」


「だったら、やはりよかったと言うことしか、僕にはできませんよ」


 もちろん娟は結果を受け入れていたし、もし違う結果になっていたことを考えると、冷や汗が出るほど恐ろしさを感じていた。だが、腑に落ちない面も確かにあるのだった。


「ねえ、旦……女ってつくづく無力よね」


 思わず娟はそう呟いた。力強く振る舞えないことを実感したのだろう。


「そんなことはありません」


 旦は強くその言葉を否定した。


「公主さまは立派に将軍をお救いしたではないですか。僕ひとりではとても無理でした。確かに男は女に比べて力があります。だから戦場で戦うのは男ばかりで、いまの社会ではその勇壮さがもっとも大きく評価されますから、結果的に偉くなるのは男ばかりです。だけど、一般的に女の人は男に比べて冷静で、激情に駆られて人を殺したり、傷つけたりはしません」


「でも、女だって言い争いはするし、ときには叩き合うこともある」


「あくまで男と比較したときの問題ですよ。それを言い出したら鄒忌さまは男ですが、人を殺したりしません」


「女は冷静かもしれないけど、嫉妬深いわ。女同士が陰湿に争うことは、宮廷内によくあることだと聞いています」


「その感情を抑えて、知恵で戦えば……女は男を狂わすこともできるし、操ることもできます。男とは異なる武器が女にはあると、僕は思うのですが……。公孫閲さまは、自分は遠慮しましたけど、上司の鄒忌さまに公主さまを紹介しようとしました。それは鄒忌さまが公主のことをきっと気に入ると考えたからです。男である僕がどんなに愛想よく振る舞っても、そんなことにはなりませんよ。だからもっと素直に将軍を救えたことを喜びましょうよ」


 そう言いくるめた旦であったが、娟が思っていることなど、彼にはよくわかるのであった。この時代の女性には、男性の権力を維持するための道具としか、社会的立場がない。しかし旦は、娟の気持ちを慰めるうまい言葉を探し当てることが、それ以上できなかったのである。


 だが鐘楼でひとり待つ龐涓の姿を見たとき、そのようなふたりの思いはどこかへ吹っ飛んでいった。この目の前の人物は魏の至宝であり、娟も旦もこの人物を守るためにこそ、存在しているのである。


「将軍、大梁へ帰りましょう。そして早く……」


 娟はその先をあえて言わなかったが、旦にはそれが結婚の催促だとわかった。


 龐涓はもじもじとした様子で、よく要領の得ない返答をした。


「そのためにはこのような囚人服から着替えねばならないし、伸びきった髭も綺麗に剃らなければならん。斎戒沐浴して髪を整え……いや、そんなことより出征がないことを祈らなければならないな。いずれにしても平和であることだけが……」


 最後は自分でも何を言っているのかわからない様子の龐涓であった。


「まあ、しばらくはゆっくりお休みくださいね」


「うむ。だいぶ疲れた」


 娟は呆れたように笑いながら言い、龐涓は申し訳なさそうに、それに答えた。


 旦は、三人で桃を食べた日のことを思い出した。それはだいぶ前のことのように思えたが、実はそれほど昔の話ではないことに気付いた。あまりにも濃密な日々が、そのような錯覚を覚えさせたのだろう。


「大梁に向けて、出発します」


 宣言するように言って馬に鞭を入れた旦を、娟は評した。


「将軍、旦は大人になったでしょう?」


 龐涓は目を細めて、その成長ぶりを讃えた。


「まったくだ。いつの間にか背も大きくなったなあ。帰ったら将来のことも考えてやらねば……」


「僕の将来と言えば、お二人の養子ということで問題ありませんよ」


 それを聞いた龐涓が恥ずかしそうな表情を見せたので、娟と旦はこらえきれずに笑ったのだった。




 (第一部・完)



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