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戦国に生きる ー魏国興亡史ー  作者: 野沢直樹
第一部
2/20

私刑

挿絵(By みてみん)


 龐涓は、魏国の都である大梁(だいりょう)で、とある男の両脚を切断した。「臏刑(ひんけい)」である。

 そればかりか、その男の両頬に刺青を施し、二度と人前に出られぬ姿にしたのだという。武将でありながら、日ごろは温厚で篤実な性格だった彼にしては、かなり思い切った行動であった。

 その相手とは、鬼谷のもとでともに学んだ男であった。その男は、鬼谷の教えるところをよく理解していて、学業の成績は優秀であった。しかし一方でその男はあからさまに自身の優良さを自慢するところがあったので、誰からも好かれていなかった。おそらくその男は自らの知識が師である鬼谷をも上回ったと感じたのだろう、あろうことかこれを論破しようと試みたりもした。

 ふてぶてしく、偽悪趣味が特徴的な男……龐涓も、確かにその男のことは平地に乱を起こす手合いの者と思っていて、忌み嫌った。なぜならその男が近くにいると、平和が乱れるのである。しかもそれは心の問題だけではなく、肉体の苦痛を伴うこともしばしばあった。その男は独自の拳法を会得しており、その技術を披露するためだけに他人を殴ることを厭わなかった。誰からも求められていないのに、頂点に立とうとする男……龐涓は、その男を忌み嫌った。


 しかし龐涓は、単なる好悪の感情で彼に刑罰を与えたのではない。龐涓は、その男に危険を感じていたのだ。なぜならその男は、軍聖と呼ばれるあの孫武の末裔だからである。

 無論確証はない。その男が自分でそう主張する以外には……。ただその男は鬼谷の教えを弁論ではなく軍事に転用すると言って憚らなかったし、学友たちの前でその理論を実際に披露したこともあった。

 その男が本当に孫武の子孫であるかは、今となってはさほど問題ではない。要は、実際にその男が自分自身の理論によって兵を動かせるかどうか、それだけが問題であったのだ。そして龐涓は、その男の理論が危険だと判断したため、脚を斬ったのだった。


 その男は、この事件以降「孫臏(そんぴん)」と呼ばれることとなった。



「甘い」

 自らの後見役にして魏国の宰相である公叔痤(こうしゅくざ)に仔細を報告した龐涓は、いきなりそのような論評を下されて言葉につまった。


「は?」


「貴公は甘い、と言っておるのだ。なぜその男を殺さなかったか」


「…………」


 時代は戦国の世、世界では毎日どこかで戦争が起きている。しかしだからといって個人的な感情で人を殺すことは、彼にとっては躊躇われた。人の世は、そこまで腐っていないと龐涓は内心で思っていたのだった。


「貴公はいまや覇権国たる魏の将軍だ。その男が実際に我が国にとって危険な存在であったとしたら、斬り殺す権限はある」


 そう言われると、むしろそうするべきだったと思わざるを得ない龐涓であった。このとき彼の思慮深そうな目もとは苦渋によってしかめられ、その印象を一層引き立たせた。


「私は、もともとその男を好いておりませんでした」


 龐涓は苦々しい口調で述懐を始めた。普段は口数が少なく、自らの思いを他人に打ち明けることなどほとんどしてこなかった彼であったが、このときは仕方がないと思ったのだろう。


「その男……孫臏と言い表しましょう……実に危険な男です。奴は遷都間もない大梁の様子を探っていました。私は、城内の武器庫で奴を見つけたのです。奴は、これらの武器で邯鄲(かんたん)を攻めるのか、と私に問いかけました。我々の計画は、奴によって見破られてしまいました。……由々しき事態です」


 孫臏は魏国の機密を探っており、まさしくそれを得たのだと龐涓は言う。それだけでも大罪であることは確かだが、彼の話にはまだ続きがあった。


「さらに奴は私のことを探していた、と言ってきました。……その言葉が明らかに嘘であることを、私は瞬時に悟ったのです」


 龐涓は学生時代に鬼谷の教えを正しく理解できたとは言えず、結果的に彼は弁士の道をとらず、武将となった。しかしその教えがまったく無駄となったわけではない。彼は、人のつく嘘を見破ることが得意であった。


象比しょうひの術です」


 鬼谷が唱える象比の術とは、相手に繰り返し問いかけることで、その本意を知ろうとするものである。しかし龐涓が得意とするところは、相手の心に存在する奥底の真意を知ることで、それを包み隠すための嘘を見極めることであった。一聞しただけでは同じ意味のように思えるが、真意を包み隠す嘘の性質によっては、その人物の自分に対する態度がわかるのである。悪意を持っているのか、警戒しているのか、それとも敵対するつもりはないがあえて真実を隠そうとしているのか……それを見極めることこそが、龐涓が得意としていたことであった。


「二、三の問答をしたのち、奴は私の客分となりたいと言ったのですが、もともと人の下風に立つような男ではない孫臏がそのようなことを言い出すのはおかしい。そう感じた私は、奴の本意を探りました。そこで私は、客として君を養うつもりはないから、推挙してやるので魏に仕官せよと奴に言いました。すると奴は即座にその誘いを拒否したのです。曰く、それは困る、と」


「たったそれだけのことでは、その孫臏とかいう男が嘘をついているとは言いきれぬ」


「確かに、言葉だけでは公叔さまの仰るとおりです。しかしそのときの奴の表情、仕草、声のうわずり……それらがすべてを物語っていました。孫臏の目的は魏国への潜入と調査、そしてこの私を斉国へ寝返らせることにあったのです」


 術を会得しているとはいえ、傍からはあまりに乱暴な結論づけのように思われた。しかしそもそも能力とは「陰陽」の「陰」の部分に属するもので、誰にもわからないところで、自分にしかわからない理由で発動されるものなのだ。


「貴公がそう言うのであれば、確かにその孫臏とかいう男は嘘をついていた。そして腹の底では大きな陰謀を企てていた、そういうことであろう。しかし、聞けばその男は兵法家を目指していたというではないか。戦場で勝つ方法を探していたはずの孫臏が、なぜそのような陰謀によって魏国を滅ぼそうというのか」


 公叔は納得を示しながらも疑問を呈し、孫臏の心情を慮った。しかし龐涓はそれに明確な解答を与えたのだ。


「私がそうであるように、孫臏は鬼谷先生の教えをもとに行動しています。しかも奴は、私などよりよほど優秀な生徒でした。……鬼谷先生はあらゆる対処術を考案しておりますが、そのどれもが自らを安全な位置に置くことを前提としています。つまり、孫臏は自らの兵法を実現させるために、私に戦場で戦わせることを選びました。万一危機が迫った際は、自らは隠れ、私を犠牲とするつもりです」


 龐涓は確信を持って答えた。公叔痤はその老いた顔に驚きの色を浮かべたが、やがて思い直したように言った。


「そこまで孫臏に危険を感じておきながら、殺さずにおいたことはやはり貴公の失策だ。この失敗……どうあがいても取り返せぬことになるかもしれぬ」


「しかし、殺すことはありません。私の中で確証があったとしても、実際に孫臏はまだ具体的な行動を起こしておりませんでした。どんな罪も未遂で終われば、罰は軽減されるべきでしょう」


 公叔はついに眉間にしわを寄せ、荘厳な口調で龐涓に命じた。


「悪意を持つ者に情をかけてどうするのか。疑わしき者は排除するのだ。いまならまだ間に合う。武器庫に戻って孫臏にとどめを刺せ。息の根を断て。禍根を残すな」


「……ですが孫臏はひとりではもう歩けもしません。今後生き延びたとして、何ができるでしょうか。奴の兵法家としての道は閉ざされました。しかも、今ごろ出血多量で死んでいるかもしれません」


「脚がなくても手がある。頭がある。口もあるのだ。それらがある限り、兵法を論じ、文字にして残すことも可能だ。命令を伝えることもできる……その男の未来が完全に閉ざされたわけではない。とにかく、とどめを刺してくるのだ。殺せ!」


 公叔の強い口調に嫌気がさした龐涓は、不承不承武器庫へと出かけた。


 しかし、孫臏の姿はもうそこになかったのである。



 周が都を鎬京(こうけい)から洛邑(らくゆう)に遷したときより、すでに三百年が経過していた。この間の大陸は常に戦乱状態にあり、毎日どこかで戦いが繰り広げられているというありさまである。しかし誰ひとりその理由をうまく説明することができなかった。


 斉の桓公(かんこう)が最初に覇権を確立し、周の王朝体制を有名無実化させた。その後覇権は次から次へと別の国へ移り変わり、このときは魏国がそれを手にしていた。魏はかつて大国であった晋が三国に分裂してできたうちのひとつに過ぎなかったが、その発展ぶりは他国を上回り、ふたたび勃興しようとしている東の斉、あるいは西の秦を抑えて諸国の頂点たる地位を確保し続けている。ただ、それがいつまで続くかは確証がなかった。魏国の人々は、覇権を握っている事実に誇りを持ついっぽうで、それを失う恐怖感と常に戦い続けているのである。


 龐涓は、孫臏の両脚を斬り落として行動の自由を失わせた。それだけでも充分に残酷な行為であったが、公叔はそれを手ぬるいという。彼は、このときようやく事態の深刻さに気付いたのだった。


「甘い。なぜ殺さなかったか」


 そうまで言われると、確かに自分の処置は中途半端なものだったと実感させられる。これが軍人として、魏国の将軍としての立場を優先させたとしたら……やはり孫臏は生かしておくべき存在ではなかった。


 そのような厳しい批判は受けたものの、しかし公叔が自分を更迭したりすることはないだろう、と龐涓は考えた。公叔痤は龐涓の後見人であり、龐涓が公叔の軍事面での跡継ぎであることは、すでに自他共に認める事実である。また龐涓もその事実を笠に着て、傲慢に振る舞うような人物でもなかった。それだけに、彼には今回の叱責が心に重く響いたのである。彼はやりきれない思いを抱きながら、武器庫をあとにした。


 魏国の都である大梁は、二重の城壁を備えている。城壁の最外縁には堀が穿たれ、門に通じる道には、昼の間だけ橋が架けられた。いわゆる跳ね橋である。龐涓は衝動的にそこを訪れ、跳ね橋の中央から飛び降りたいと思った。が、それは堀を流れる水があまりに清らかであったために、飛び込んで泳ぎたいと思っただけである。決して死にたいと思ったわけではなく、上司に怒られたことで、その鬱憤を晴らしたいと考えたのであった。

 しかしそのような行為は自分を貶めるだけだと思い直し、再び門をくぐって城内に足を踏み入れた。こんな日は早く帰宅するに限る。


 外側の城壁に囲まれた地区を外城と人々は呼ぶ。正確には「(かく)」といい、主に宮殿に出入りする者たちの居住空間であった。農民は郭に住むことを許されていないが、昼の間は門番の許可があれば出入りはできた。また外国に住む者も同様であり、そのため遷都間もない大梁には多くの見物客が集まっている。孫臏が出入りできたのも、おそらくこのためであったのだろう。


 城壁は土を固めただけの単純な版築工法によって作られているが、朱色に塗装することで覇権国家の絢爛たる新都であることを主張している。堀の水がきらきらと反射する情景と相まって、その姿は非常に美しかった。


——確かにもとの都には、これほど洗練された姿はなかった。


 大梁に遷都する前、魏の都は西北の安邑(あんゆう)にあった。そこは敵国である秦に近い。ゆえに防衛上の理由から大梁へ遷都することになったのである。しかし魏は単に秦を恐れて遷都を敢行したわけではなく、そこには大きな戦略上の理由があった。


 趙の都、邯鄲を包囲する。


 勃興する斉や秦を実力で抑えるべく、隣国の趙を併呑しようという作戦であった。大梁は邯鄲に近く、なおかつ秦からは遠い位置にある。斉には近くなるものの、その動向を掴みやすくなるという利点があった。


 町並みの美しさと、多くの人々が訪れることによって生まれる賑わい……それがすべて悪意とも言える戦略によって成り立っていることを、龐涓は知っていた。

 しかし突き詰めて考えると、やはり戦って勝ったあとにこそ平和が訪れるとしか思えなかった。この世界の三百年に渡る戦乱は、そのことを如実に物語っているとしか思えないのである。敵を掃討してこそ、自身の安寧が求められる……迷わずその道を突き進むことのできる者が勝者となり、民をよく養い、平和を維持することができる。この時代の人々は、そのような価値観で突き進むしかなかった。それはもはや通説とも言えるようなものであり、城外に住む農夫でさえも口にする概念であったのだ。


——こちらから仕掛けなければ、やられるだけだ。他にどうすればよいというのだ。


 郭の中を歩きながら、龐涓はそのようなことを考えた。人々が奏でる賑わいの声も彼の耳には届かず、鮮やかな城壁の色も彼の目にはろくに映らなかった。

 気がついたときには、自宅の前にいた。広々とした前庭が目印の龐涓の邸には、薄紅色の花を咲かせる桃の木がある。もう花の時期は終わっていたが、枝には甘い香りを放つ実が成っていた。見ると、幹にしがみつきながらその実を摘もうとしている少童の姿があった。


「旦。あぶないぞ」


 少童は邸の小間使いである旦であった。農民の子で、両親とも健在であったが、いまの形の方がお互いによい生活を送ることができると判断し、龐涓が引き取っている。


「将軍、お早いお帰りですね。いま公主さまが遊びに来てるんです。桃をご馳走しようと思って」


「公主が……そうか」


 龐涓が室内に足を踏み入れると、そこにはひとりの若い女性がくつろいだ様子で座っていた。龐涓の婚約者、如公主娟(じょこうしゅけん)である。



 如公主娟は、魏の二代目君主である武侯の妹を母に持つ。母は如姓を持つ武侯の臣下に嫁ぎ、その時点で臣籍に降った。ゆえに公主とは姫の意であるが、正確な意味で娟は公主ではない。にもかかわらず人々が彼女のことを公主と呼ぶ理由は、その言動が比較的奔放であることを軽く揶揄するためである。要するに、生まれが高貴だからわがままなのだ、と言うのであった。しかしそれを本気で咎める者は誰もおらず、人々はたとえ娟が何を言おうと、笑ってそれを許すばかりであった。愛くるしい表情と、根本にある育ちの良さが好かれたのである。


 娟は両親を病気で亡くし、幼いころから公叔痤の世話になった。実質的には養女と言ってよい。公叔痤は武侯の姉を妻としており、今上の君主と公主娟にとっては伯父にあたる存在である。彼の姓が「公伯」ではなく「公叔」である理由は、それがどこかで転じたものであろう。


 その公叔が娟の結婚相手として選んだ男が、龐涓である。政略的な理由がそこにはあったのかもしれないが、本人たちがそれに対して不満を表したことはなかった。龐涓は物静かで、上司には従順な男だったから命令に従っただけかもしれないが、娟は龐涓のことを気に入っていたようである。その証拠に、彼女はたびたび自分から龐涓の邸を訪れたのであった。



「あら将軍、お早いお帰りでしたのね。どうかなさったのですか」


「いや……公主こそ、こんな頃合いにどうしたのだ。普段なら日の高いうちは私が不在だと知っているはずなのに」


「たまたま退屈でしたので、旦とおしゃべりでもしようと思っていたのです。だって、あの子可愛いでしょう?」


 龐涓が苦笑いしたとき、旦が切り分けた桃の実を載せた皿を手に、室内に入ってきた。娟はその桃を受け取り、口いっぱいに頬張ると、満足そうな笑みを浮かべた。


「おいしい。将軍も一緒に食べましょうよ」


 愛嬌に満ちた娟の表情に、旦も嬉しそうに笑う。その場には和やかな空気が漂った。


「いや……」


 しかし龐涓だけはその空気に馴染まぬように、ひとりだけどんよりとした吐息を放つ。彼の周りだけに、暗い雲がかかっているかのようであった。


「どうも気乗りがせぬ。桃は嫌いではないのだが……」


「罪人の脚を斬ったことを気になさっているのですね。その孫臏とかいう……」


「すでに知っていたのか。……斬ったときは私も衝動に駆られていて、何も感じなかったのだが……。しかし少し落ち着くと、自分の行為はやり過ぎだったのではなかったか、という思いに駆られたのだ。だが、公叔さまはそんな私のことを甘いと言う。殺すべきだったと言うのだ」


「まあ……」


 娟は驚いた表情を見せたが、呆れた感情を抑えることをしなかった。彼女の口から出た言葉は、痛烈な時代への批判であった。


「男の人たちが、そんなことばかり言っているから戦いが終わらないのです。やれ殺すだの殺さないだの……人は間違いを犯すものですよ。その間違いに対していちいち殺意を抱いていては、そのうち生きている人間がひとりもいなくなるでしょう。どこかで許してやる度量が必要だとは考えないのですか」


 龐涓は自分が批判されていると感じたのだろう。面白くもなさそうに目の前の桃を口に運び、たいして美味くもなさそうにそれを噛んだ。


「私が殺そうとしたのではない。むしろ私は無意識に自重して、あの男を殺すことを思いとどまった。褒めてもらいたいものだな」


「でもその人が生き残ったことで禍根を残してしまいました。結果的に将軍の行為は、相手の恨みを買うだけしか意味をなさなかった、と言えるでしょう? そう思いませんか」


「奴が生きているとは限らない。……今頃、どこかで野垂れ死んでいるさ」


 娟はため息をつき、そのことが龐涓に事態の深刻さを意識させた。娟は龐涓の知らないことを知っているようであった。


「何か知っているのか、奴について?」


「……将軍は知らされていないのね。その孫臏という人……どうにか生きて斉に帰ったとのことですよ。大梁遷都を祝いに訪れた斉の使者が連れて帰ったと聞いています。市中ではすでに噂になっています。たぶん伯父さまも知っているはずだと思いますけど……」


 なぜ公叔はそれを自分に告げなかったのか……龐涓は衝撃を受けながらも、考えざるを得なかった。あるいはそこにも戦略的な意味合いがあるのか、と。斉に情報が漏れたとすれば、それを最大限に生かそうとしているかもしれない。きっと、斉と正面から戦う口実にしようとしているのだ。


「おそらく、公叔さまに深い考えがあるのだろう。私は戦うときに戦う、命令があれば戦地に赴く、それだけだ」


 龐涓は自分を抑えるようにそう言い、これ以上考えても仕方がないことを受け入れた様子であった。娟にはそれが不満である。


「将軍は国を動かす立場にあるのでしょう。潔さは認めますけど、それだけではいけないのではないでしょうか。もっと意見すべきは意見すべきです」


「公主。あなたにとって公叔さまは親代わりであり、優しい人であったことだろう。しかし当然のことながら、それだけでは宰相など務まらない。あのお方は政敵を追放することが得意だ。下手に意見しようものなら、私は即座に失脚することになるだろう」


 龐涓の言葉は単なる印象ではなく、事実に基づいている。


 魏は比較的若い国である。にもかかわらず覇権を握って諸国を勢力下に置いている原因は、初代君主である文侯と二代目の武侯に仕えた将軍、呉起(ごき)の存在が大きかった。呉起は猛将であり、敵には厳しく、部下には愛情を持って接する指揮官であった。ときには部下の傷口に沸いた膿を自らの口で吸い出したりするなど、非情に情熱的な男でもあったらしい。また主君である武侯に対しては、険阻な要害ばかりを重要視することなく、徳義で国を治めるよう直言したこともあった。まっとうな言葉を相手を選ばずに放つあたり、自分に正直な男であったとも思われる。


 しかし呉起の思想は軍事に偏りすぎる傾向があり、自らが口にするほど徳義に満ちているわけではなかった。西河の太守として秦や韓から領土を奪い取り、その動向に睨みをきかせて押さえ込む……その功績は充分に評価できるものであったが、それを誰よりも評価していたのは、ほかでもない呉起自身であった。


 呉起が兵士の傷に沸いた膿を自らの口で吸い出したことは先に述べた。兵にとっては大変な名誉であったことだろう。しかしその兵士の母親は、深く悲しんだという。呉起のために、その兵士は自らの命を捧げなければならなくなったからである。結局呉起という男は軍事を美化するあまり、人々の営みには頓着しない、あるいは気付かない傾向があったのだ。


 その呉起が宰相の地位を狙っていることは明らかだったが、文侯は田文をその地位に充て、武侯は公叔痤をその地位に充てた。当時の君主たちは、軍事のみで国を治める危険性に気付いており、呉起にその地位を与えることをよしとしなかったのである。


 魏の覇権は呉起の武勲によって得られた代物であったが、宰相の地位に就いた公叔はその代償を恐れた。戦いは、新たな戦いを生み続けるものである。彼は、宰相の権限を用いて呉起を楚に追放した。

 その後呉起は楚で武断的な改革を実行するあまり、当地の貴族に憎まれて惨殺されるに至る。この結果からすると公叔の判断は正しいと言わざるを得なかった。


「いまでは呉起の軍事的成功ばかりが取り沙汰されて、孫武に並ぶ軍聖と賞されている。しかし考えようによっては、公叔さまはそのような人物でさえも処断することができるのだ。私は、従うしかないと思っている」


 龐涓は諦め口調で呟いた。桃は一切れ食べただけで、皿にはまだ多く残っていた。


「伯父さまは無駄な戦争を好みません。それは将軍にもわかっているではありませんか。だからこそ、呉起を追放したのでしょう?」


「確かにその通りだとは思う。魏は呉起を失ったことで西方の領地を秦によって削り取られ、軍事勢力は縮小した。だが、公叔さまが内政を充実させたことで、未だその覇権は揺るがない状態にある。あの方の判断は常に正しい。しかし、残念なことに公叔さまは既に老齢であり、残された時間は多くない。自分の生きている間に失地を回復しようとするのも無理のない話であろう」


 龐涓によると、公叔痤は機が熟すのを待っていた、ということになる。それが今であるかどうかは議論の分かれるところであるだろうが、彼としてはそれを批判するつもりはない。龐涓は極めて冷静で、落ち着いた男であったが、それでも軍人としての血が騒ぐのであった。口では命令があれば戦うだけだと言うが、実際のところはぜひ戦いたいと思っているに違いない。娟は、その心理を鋭く突いた。


「伯父さまの判断に期待しているのでしょう。あるいは戦いに勝つことで、気に入らなかった孫臏という人を見返すことができると……。将軍もやっぱり男ですね。私は、遷都やら戦乱やらであなた方が忙しく動き回っていたおかげで、こうして祝言も挙げることができず、ただ待っているのですよ。この先戦争が始まって、将軍が出征することになったら……いったいいつまで待てばよいのですか」


 龐涓にとって、娟は許嫁(いいなづけ)であり、未来を共にするべき相手だった。しかしそのことを軽視していたことは否めず、こうして任務や行事にかこつけて祝言を引き延ばしてきたのである。だが、彼にも言いたいことはあった。


「孫臏を傷つけた私にとって、いまは縁起が悪い。来年にでも正式な日取りを定めよう」


「でも来年の今ごろ、将軍は邯鄲の城壁を包囲しているに違いありません。それに斉が介入してきたら、戦況も長引くことでしょう。魏が強国であるかどうか、そんなことにこだわらずに邯鄲出兵など取りやめればよいではないですか。そうすれば斉も干渉などしないでしょう」


「……しかし、こうして平和に桃を食べていられるのも、魏が覇権を保っているからこそだ。富める国に住んでいることを感謝し、その状態を維持し続けるために誰かがどこかで努力していることに思いを馳せねばならぬ。領土を拡張することは、ただ単に国の勢いを象徴するだけではない。その土地から得られる作物や、水源を得ることが重要なのだ。増え続ける人口を養うことは難しい。……邯鄲は古くからの工業都市だから、これを得ることによって人々の生活は格段に向上するだろう」


 周王朝が東遷したころから、次第に農業技術が発達し、生産効率が上昇している。それは多くの人々を養うことを可能にし、人口は着実に増え続けてきた。戦乱の時代だというのに、皮肉なことではある。


「その増えた人口を、戦いに送り込んでばかりでは……いつか人口も減少に転じるでしょう。それに……魏が邯鄲を得れば国力は多いに向上しますが、逆にそれを失った趙の人々の生活は苦しくなるに違いありません。それがまた戦いを生み出すのです。将軍にもそのようなことはわかるでしょうに」


 龐涓にはそのことがよくわかっていた。しかし、それが幻想に過ぎないことも彼は知っている。美しく表現すれば、幸福は自ら求めた者のみに与えられるのだ。座して待っているだけでは、求めるものは得られない。まして戦乱の世とあっては、得られないだけではなく、失うことの方が多いのである。生産力が向上し、人口が増している社会とは言っても、まだまだ未発達な部分が多いこの時代……そこでは幸福は定量なものなのである。誰かが幸福を得ると、それに比例して誰かが不幸になるのだ。


「公主の言うことはわかるが、私には軍人としての立場がある。上官の命令には忠実であるべきだし、難しい任務にも最善を尽くさねばならない。それは、どこの国の軍人も同じであろう。繰り返すようだが、魏が覇権を握っているからこそ、その領民は満足な生活を送ることができる。私は、それを他国によって奪われないように守らねばならないのだ」


 娟にもそのことはわかる。彼女は、自分の考え方が理想を語っているだけで、現実的ではないことを理解していた。だが、言いたくなるのである。そのことを受け入れてくれる龐涓には、感謝すべきだった。



 いつの間にか、娟も桃を口にすることをやめていた。卓の上には、まだ切り分けられた桃の実が残っている。


「お二人とも食べないのなら、僕が食べてもいいですか?」


 旦は無邪気な様子でそう言うのであった。


 卓の上にある限られた桃の実を、戦略的な利益として置き換えれば……考えようによっては、この状況をいまの社会に模して説明することも可能であった。しかし龐涓と娟の二人は、旦の可愛らしさに目を細めるばかりであった。



 鄒忌(すうき)は斉の人で、その時代に並ぶ者はいないとまで称された美貌の持ち主であった。琴が得意で、君主を相手にその技術を披露することが多かったが、このころには琴の音に合わせて政治を語る、という洒落た特技も体得し、宮廷内での評価を高くしていた。次期宰相候補として君主から珍重されていた存在である。


 その鄒忌が魏の遷都を祝う使者として大梁に派遣されたことは、おおいに彼の美貌が重視された結果であった。背は高く、均整がとれたその肢体からは、香気とともに色気さえも放たれていた。国を代表する使者としては見栄えがよく、相応しい任務を与えられたことに、彼自身も満足感を得ていた。


 大梁を訪問し、魏公を相手に型どおりの祝辞を捧げて、また型どおりの祝宴に参加し終えたあとに彼が見たものは、路傍に横たわる両脚のない男の姿であった。それを見た者は、決して彼だけではない。が、驚くことに誰もそれを気に留めないのであった。


 罪を犯した者に対して、冷たい街なのだろうと鄒忌は考え、自身もその風習に倣おうと思った。が、どうも気が咎めるのである。ついに彼は、倒れているその男に声をかけた。


「大丈夫なのか」


 斬られた脚からは、まだ血が流れている。このままでは失血死するだろう。鄒忌は、手持ちの布を使ってその傷口をきつく縛った。


「あとは運次第だ。お前が生き残れるかどうかは……」


 その時点では、それ以上のことをするつもりはなかった。他の者たちと同様、そのまま置き去りにするつもりだったのである。犯罪者を助けることには誰しも戸惑いを持つものであるが、鄒忌もそれと違わなかった。


「見捨てるのか」


 ふいに放たれたその声が、目の前に倒れている男のものだと気付くまで、鄒忌は数秒間を要した。その男が声を出す元気があることに驚いたこともあるが、なによりも意外だったことは、その声に自分を咎める調子が含まれていたことである。鄒忌は、手当をしてやったことを後悔した。


「貴様、罪を犯して刑を受けたのだろう。関わるべきではないと思ったが、そのままにしておくのも気が引けたのだ。しかしやはり、関わるべきではなかった」


 鄒忌はもともと清廉潔白を旨とする男であり、他国との戦争には、ことごとく反対してきた過去がある。争いごとには介入せず、自らを磨き上げることに注力する、それが彼の信条であった。よって、その男が誰に脚を斬られたのか、そのようなことは彼にとって重要事ではなかったのである。しかしその男は鄒忌を批判しながら言った。


「中途半端な行動をして、無責任なやつめ。……貴様、斉の鄒忌だろう。もし俺が生きて帰ったら国中に鄒忌は無責任な男だと言いふらしてやる。それでもよいのか」


「私のことを知っているのか。それでいて脅すとはふてぶてしい男だ。しかしお前、斉の人間なのか。だとしたら同郷のよしみで話だけは聞いてやってもいい。助けてやるかどうかは、話の内容次第だ」


 刑罰を受けた原因が、本人の個人的事情だとすれば、助けるつもりはないと言うのである。鄒忌は清廉であったが、人には厳しく接する性格であった。


「俺がこの脚を斬られたのは、魏が趙へ侵攻するという秘密の計画を知った結果だ。しかしあんたは言うだろう。それは魏と趙との間の話であって、斉とは関係ない、と……。だが魏が趙を制圧し、力を得れば斉をも侵略しようとすることは明らかだ。この戦国の世……一国だけに他を圧倒する力を与えてはならない。見過ごせば、静観すれば、その力は我々に襲いかかってくる。武力は均衡させ、互いに牽制させることが国々を生き延びさせる唯一の方法だ。いたずらに不戦を唱えるあんたにはわかるまいが……」


 鄒忌は唾を吐き捨てるような勢いで、それに反論した。


「私が主張するのは、他国の動向にこだわらず、斉の国力を充実させることに集中すべきというものだ。不戦が軸になっているわけではない。しかもお前の言葉によると、諸国は百年先も二百年先も小競り合いを続けることになる。果たしてそれが正しい世のあり方なのか」


「……世のあり方に、正しさなどないさ。しかしただひとつだけ言えることは、結局のところ諸国の趨勢を左右するものは武力しかない、ということだ。俺は兵法家たる孫武の末裔にあたる男で、その力を常に研究している。俺の言葉に従えば、いずれ斉は諸国の上に立つ存在となるだろう。俺を信じろ……」


 鄒忌は心の中でその言葉を否定したが、当の本人がそのとき気絶したので、口には出さなかった。しかし、結局連れ帰ることにしたのである。


「孫武の末裔だと……」


 鄒忌はその男をそのまま捨て置いてもよかった。しかしそうしなかったのは、その真偽を見定めたいと欲したからである。決して深い感情を、その男に対して抱いたわけではなかった。



 大梁から斉の臨淄へ向かう道中を、鄒忌は馬車を使った。孫武の子孫だというその男を荷馬車に載せ、無造作に横たわらせたまま、道を急いだ。自身は客車に座っていたが、その男のことを気に留めることは、あまりなかった。しかし一行が休憩を取り、改めて鄒忌が客車に座ろうとしたところ、その男はすでに自分の席を占領していたのである。鄒忌は驚いた。


「お前……どういうつもりだ。そこをどけ!」


 珍しく激怒した鄒忌であったが、その男は意に介した様子を見せない。むしろ自分を荷台に放置した鄒忌を責めるような口調で言い放った。


「先に俺は孫武の末裔だと言ったはずだったが、貴様にはその意味がわからないのか。客車に乗るのはお前ではなく、むしろ俺の方だろう。文字通り客なのだからな」


——なんという、嫌な奴だ。


 鄒忌はそう思ったが、その男の自己主張はまだ続く。


「俺のことは、孫臏と呼んで欲しい。臏刑を受けた俺にとってはちょうどよい名だ。後世にも大きな印象を残すに違いない。……俺は、この刑を魏将龐涓から受けた。この先、あの男をこの孫臏がどうやって倒すか、その記録とともにこの名は人々の記憶に残るだろうな」


「つまり、お前は仕返しがしたいのだな。それにしてもその体でまだ戦うつもりなのか」


「自らが剣や矛を手に取って戦うだけが、戦争ではない。むしろそれは兵卒の仕事であって、大きな構想を持って戦う者には及ばない。龐涓は猛将として名をあげたが、弱点はそこにある。実際の戦闘には大きな力を発揮するが、奴は自分がなんのために戦っているのかを理解していない。単に、戦わされているのだ」


「理解していれば勝てるというわけでもなかろう。龐涓の武勇は天下随一と聞く。魏軍の兵は彼の教えをもとに個の戦闘力が高いというぞ。彼らがひとりで十人を斬り殺せば、その分相手は不利になって……数を減らして消滅するだろう」


「大事なのは戦略眼だよ。たとえ個人的武勇に優れていたとしても、それを効果的に生かすためには戦略が必要だ。裏を返せば、戦略のない相手には簡単に勝つことができる。しかし、貴様にそれを説明しても無駄だろうな。陰陽の理論など……」


 馬車は孫臏を椅子に座らせたまま、発車した。鄒忌はその横に立ったままである。美貌に苛立ちの表情を浮かべながら、鄒忌はその屈辱を受け入れるしかなかった。なぜなら両脚のない相手を殴打することは、彼の美意識に反したからである。


「孫臏とやら、お前には心を許せる友人などいないだろう?」


 鄒忌は苛立ち紛れにそのような質問をした。


「いない。なぜそのようなことを聞く?」


「いや、私が龐涓の立場だったら、お前の両腕も斬り落としてやると思ったまでだ。お前は、非常に嫌な男だ」


 孫臏はそれに薄ら笑いを浮かべながら、言い返した。


「いまに斉の国民は俺のことを英雄視することになるだろうさ。あんたも含めて」


「……だからお前は嫌な奴だと言うのだ」


 結局鄒忌は孫臏を臨淄まで連れ帰った。しかし彼はすでに孫臏を救ったことを後悔していたので、臨淄に到着して早々、ある人物に引き渡すことを心に決めていた。



 田忌(でんき)は斉の将軍であり、領国の防衛に全責任を負っている。体格は頑健であり、見た目も無骨な男であるが、君主と同じ氏を持ち、高貴な家柄に生まれたという事実を持っていた。このため、正反対の立場にある鄒忌とは折り合いが悪い。たいした家柄に生まれたわけでもないのに、見た目は美しく、洗練された鄒忌を見るたびに、どうしても軽薄な印象を受けるのである。一方鄒忌は田忌のことを、彼の醸し出す暴力的な印象を野暮だと評す。家柄は由緒正しいにもかかわらず、それに見合った教育を受けていない、と言うのだ。田忌はそれを知っていたが、戦乱の時代に見た目の洗練度など必要ないと周囲には主張し続けた。事実、この時代に話し合いで政治的問題が解決された事例はないに等しい。田忌を支持する者たちは、それを声高に叫んだ。


 しかし鄒忌は、そんなことを言っているからいつまで経っても戦乱が終わらないのだ、と言う。彼は見た目の端麗さもあり、世の女性から圧倒的な支持を受けていた。そのことも田忌には気に入らなかったが、社会的に影響力の少ない女性たちから支持を得ても、実際に得るものは少ないだろうと思って我慢していた。


 二人の会見は臨淄の城外で行われた。にもかかわらず、周囲には鄒忌をひと目見ようとする女たちが群れ集まって、田忌はそのなかで孤軍奮闘を強いられる形となった。


「将軍ご自身がいらっしゃるとは思いもよりませんでした」


「お前が呼んだのだろう。使者が言うには、会わせたい人物がいるとか……。早急に引き合わせよ」


 言外に、用事を済ませて早く目の前から消えろと伝えている。田忌は、鄒忌の声を聞くだけでも虫唾が走る、と人に話していた。鄒忌もその話を聞いたことがあった。


——それにしても、ひどい顔だ。


 目の前にある田忌の顔を、鄒忌は心の中で淡々と評した。どう生まれついたら、このような下品な顔に生まれるのだろう、と。髭の生え方は無造作極まりなく、目の周りはどす黒い。その中央から放たれる眼光はいやらしく輝き、近づく者に威圧を加える。許せないのは、そのような特徴に本人が誇りを持っていることだ。田忌は、自らの武人としての激しい人生が、人も恐れる険しい表情を作り出したのだと自負しているのだ。


「馬車の中にその男はいますが、事情があって彼は自分で歩くことができません。そういうわけなので、どうか車内を覗いてやってください。本人は、自分のことを孫武の末裔だと称しています」


「孫武の末裔だと? あの孫武の……本当か」


「確証はございません。道中ではそれを確かめる方法もなく……」


 会話も終わらぬうちに、田忌は客車の中をのぞき込んでいた。


「脚がないではないか。貴様、罪人か」


 問われた孫臏は不敵なまなざしで、田忌を見据えた。


「俺の両脚を斬った奴は、魏将龐涓だ。確かに俺は、魏国にとっては罪人であるかもしれぬ。が、斉にとってはそうではない。むしろ、歓待してもらいたいものだな」


 田忌は馬車の中に孫臏を残したまま、鄒忌を振り返り、言った。


「中で何か意味のわからないことをほざいている奴がいるが……どういうわけだ。説明してもらおう」


 田忌は多少困惑しているようであった。相手は無位無官の男……自分に対してこのような口の利き方をする人物に、彼は出会ったことがなかったのである。鄒忌は心の中でほくそ笑んだが、表面上は田忌に同情する姿勢を示した。


「この男は、ひどく礼儀をわきまえない奴ですが、兵学には長けているようです。使いようによっては、将軍の補佐役としてよい働きをするのではないかと存じます。あなた方が望む斉国の覇業への助けになる存在かもしれません。この男を将軍にお引き渡し致します」


 鄒忌は田忌を嫌うと同様に、孫臏をも嫌った。彼の行為はある種の厄介払いであり、責任逃れとも言えるものである。しかし、結果的にこの引き合わせが覇権国である魏を長く苦しめ、斉を強める一因となったのである。



 公叔痤は老齢であることもあり、自身の跡継ぎを養成しようとしている。これまで公叔は宰相として政治を執り行うばかりでなく、軍事に関しても自ら指揮を執ってきた。これは、呉起を国内から追放したことに対する彼なりの責任の取り方だったと言えるだろう。しかしそもそも公叔が呉起を追放した理由は、軍事面で功績を挙げた人物が、政務をも執り行うことに危機感を抱いたからである。権力を独占して、やがては君主を脅かす存在になるのでは……呉起はそのような危うい匂いがする人物であったのだ。


 しかし結果だけを見ると、宰相である公叔が軍事をも司る状況は、呉起が為そうとした姿とさほど変わることがない。これまで公叔が自分自身のことをそれほど高く評価する傾向がなかったために大きな混乱は見られなかったが、今後のことを考えると、やはり軍事と政務の権力は別々の人物に分散させるべきであった。



 軍事面での公叔の跡継ぎは、紛れもなく龐涓であろう。公叔はその事実を強調するために、自身の養女とも言える如公主娟を龐涓に与えたのだった。そして龐涓は実際に多くの戦闘において、その実力を発揮したのである。

 一方政治面での跡継ぎは、未だ定まっていない。しかし公叔の意識の中では、それは既に決まっている。魏の隣国である衛の公家に繋がる人物……その由緒ある家柄から、その男は公孫鞅(こうそんおう)と自称した。衛の公族に繋がることから、衛鞅(えいおう)とも呼ばれる。


 衛鞅は公叔の食客として、普段から公叔と寝食を共にしている。公叔家の家宰として家事のすべてを取り仕切る傍ら、公叔の執り行う政策に助言を与えることが常であった。


 普段は庭の手入れをしていることが多い。この日も衛鞅は、地面に生えた名も知らぬ雑草を取り除くことに集中していて、背後に娟がいることにしばらく気付かなかった。


「相変わらず、ご熱心なことですね」


 娟は幼いころから公叔家の世話になっているので、衛鞅との付き合いも長い。しかし彼女が龐涓の許嫁となったころを境に、ふたりの関係は疎遠なものとなっていた。


「お久しぶりですな。昔は草抜きを手伝ってくれたものだが、いまあなたにそれを求めるわけにもいくまい。祝言を挙げれば、晴れてあなたは将軍の夫人となるわけですから」


「嫌な言い方をするのね」


 衛鞅はにこりともせずにものを言い、娟はその態度に戸惑いを覚えずにはいられなかった。しかしその心情を理解できないこともない。おそらく衛鞅は、出世の面で龐涓に大きく水をあけられている現状を憂いているのだ。そう考えた娟は、彼を刺激することを避けて、しばらく黙っていた。


「……ところで、用事があってやって来られたのでしょう。用件をお伺いしますが」


 他人行儀な衛鞅の態度を、娟はあえて気にしないように努力した。


「魏が趙に侵攻して、邯鄲城を囲む計画だとの噂があります。伯父さまに入れ知恵したのが、もしかしたら衛鞅さまなのではないかと思って……」


「その通りです。それがどうかしましたか?」


 衛鞅のあまりに素っ気ない返事に、娟は思わず声を張り上げた。


「その計画が斉に漏れてしまったかもしれないことを、どう考えているのですか。もちろん、知っているのでしょう?」


「そのようなことは、私の中ではすでに織り込み済みのことだ。とにかく、魏は現状にとどまっていると、覇権を失う。勢力を拡張し、その強さを周辺国に知らしめなければならない。それに対抗する国があるのならば戦うべきだし、いずれそのときは来る」


 衛鞅は表情も崩さずにそのようなことを言う。もともと学者肌であり、感情を表に出すことの少ない男ではあったが、これほどまで冷酷な発想を持った人物だとは、娟は知らなかった。


「邯鄲には住民がいます。その多くは魏国に敵対心を持っているわけではありません。なのに、それを潰せというのですね。しかも斉が干渉してくるかもしれないというのに、それとも戦えと……。実際に戦う人の立場を考えてみるべきです。だいいち、負けたらどうするのですか」


「龐涓は負けぬ。だからこそ公叔さまに認められているのだ。その公叔さまにしても、はっきり言うと先が短い。ご自分が生きているうちに魏国の安泰を確実なものにしたいという希望を持っていらっしゃる。私はその希望を政策にして叶えてやる立場にあるのだ」


「下手に領土を拡張せずとも、各国との間にはっきりとした国境を引けばよいでしょう。話し合いによってそれはできるはずです。あなたはその場を設けることに努力する立場にあるのではないのですか」


「公主。それは甘い考えだ。現存する国家のなかで、民衆が満足する生活を維持できているのは、魏しかない。それは魏が覇権を握っているからだ。安全や安心は覇権があるからこそ得られる代物であって、転じて言うと……覇権を失えば、それらはすぐに失われる。他の諸国に関して言えば、君主も民も、皆満足を得ていない。現状のまま国境を確定しても、不満しか残らないのだ。そのような状態のなか、話し合いで問題を解決できるわけがない」


 これについては、龐涓も似たようなことを言っていた。要するに、諸国家は生き残りをかけて戦っているのであり、勝ったもののみが幸福を得られるという救われない希望を抱きながら、存続しているのである。


「我々もその状況を変えようとはしている。だからこそ領土を拡張して、民に幸福を与えようとしているのだ」


「でも邯鄲を……趙を併呑してその民を吸収して……どうせ趙に住んでいた人々を奴隷として扱うつもりなのでしょう? 新たな対立が生まれます。そんなことで民衆の幸福に繋がるのかしら」


「機会を与えればよい。努力した者が幸福になれる社会を築けば、被征服民の不平等感もやがては解消されることとなるだろう」


「その前に叛乱が起きますよ。それが介入してくる他国の勢力と結合して……結局魏国は危機に陥ります」


「うむ。そうなる前に、私は法を整備する必要があると考えている。かつて存在した鄭国の宰相であった子産(しさん)は、初めて法を文章化した。私はその例に倣い、もっと大規模な……民を統率しうる法を体系化しようと考えている。これについては、すでに公叔さまにはご裁断を頂いているのだ」


 娟はこの衛鞅の言葉を聞き、考えた。この人は、民の自由を制限することで国の安寧を図ろうとしているのだろうか、と。


 これまで、法は罰する側の主観によって施行されてきた。明文化されていないため、罰する側が「罪」だと判断すれば、それ相応の刑罰を与えられるのである。罰を受ける側の民衆は、それを甘んじて受け入れるしかなく、罪を犯したかどうかもよくわからずに刑罰を受けねばならなかった。確かにそのことを考えれば、衛鞅の主張は正しい。しかし、娟がこの主張に対して生理的に嫌悪を抱いた理由は、彼が民衆のことよりも国の側に主点を置いているように思えたからであった。


「自然なことだろう。私は、どのようにして国が民を治めていくかを考える立場にある。人というものは、種々雑多な考えを持ち、それがゆえに……放っておくと誰ひとり同じ行動をとろうとしない。しかしその問題を解決することが、強国を作る鍵となろう。この私が、法によってそれを解決しようというのだ」


 もはや衛鞅は娟に対する敬意を言葉遣いで示さなかった。昔から、この男には自己陶酔の傾向が多く見受けられたが、それをよく知っていた娟は、また始まったと思い、深くその話題にのめり込むことを自分に禁じた。


「努力して得られる幸福なんて、民にとっては非常にささやかなものに過ぎないでしょうね。あなたの考えることは、民の生活水準を均等に……しかも低く抑えることに違いないわ。贅沢を許さず、国民誰もに慎ましい生活を強いる……果たしてそれがよいことなのかどうかは、私にはわかりません。……それはさておき、あなたの掲げる政策は、戦いに勝つことが前提になりすぎていて、とても私には共感できません。そのことだけを伝えておきます」


「負けることを前提に政策を掲げる奴はいない」


「だから現実的ではないというのです。それでもあなた自身が戦うというのであれば、まだ聞く耳は持ちますけど」


「……政策を考える者がいて、戦いを主導する者がいるのだ。それぞれの役割を正しく果たせば、国は繁栄する」


 そんな簡単なものではない、と娟は思ったが、それを口に出すことはやめにした。


「私だって、戦場に立つことはやぶさかではない。現に、公叔さまが出陣なさるときは、常にそのおそばにお仕えしているのだ。機会があれば指揮も執ろう。だが、公叔さまは武と政を切り離して考えることを理想としておられる。私の役目は、先頭に立って戦う龐涓が勝ちやすいように条件を整えることだ。その役目を乗り越えてまで、しゃしゃり出ようとは思わない」


 つまり衛鞅が戦わない理由は、公叔の意に則ったものであり、なおかつ龐涓のためなのだと言うのである。娟はそれ以上反論できず、その場をあとにした。



「明後日、宋へ向けて出征することとなった。黄池(こうち)を攻めてその城を奪う」


 共にした夕食の席で、龐涓はまるで料理の味を評価するような軽い口調でそう言った。娟は突然のことで驚かざるを得ない。


「宋へ? 趙の邯鄲を攻めるのではなかったのですか」


「ああ。私もそれについては疑問に思ったのだが、公叔さまが仰るには、これは一種の擬態だと……。邯鄲攻略の意図が斉に漏れたかもしれないとなると、当初の予定とは異なる行動をとらざるを得ないとのことだ。天下の耳目を惑わすための戦略だが、それでも黄池の攻略には全力で当たる。だが、占領した城の維持にはそれほどこだわることはない……公叔さまはそう仰った」


 攻略はするがその後の防御はそこそこに、ということであろうか。実戦を指揮する龐涓にとっては、無駄な努力と言うべきものである。領土拡張を意図したものではなく、単に斉の目を欺くためだけに仕組まれた戦略なのであった。


「宋の黄池は魏の南方にあるわけだから、邯鄲とは逆の方角にある。魏国の領土拡張の野心が南に向いたと思わせれば、諸国の目を欺くにはちょうどよいだろう」


 龐涓は相変わらず他人事のように言う。娟はたまらなくなり、返す言葉も強い口調となった。


「それを将軍は、黙って承知したというのですか。擬態とはいっても全力で攻略しろとの命令なのでしょう? ひとたび戦闘になれば命を落とすこともあるかもしれないのに、擬態に過ぎない戦闘でその危険を冒すなんて!」


「斉に情報が漏れた責任はほとんど私にあるわけだから、従わないわけにはいかないだろう。……そもそも将軍とは非常に不安定な立場だ。命令に従って戦場に赴けば死の危険がある一方で、従わなければ叛意ありとして誅殺される危険があるのだ。なまじ兵を把握しているからこそ、君主や宰相からは危険視される」


 どちらにしても死ぬ確率はある程度あるのだから、龐涓としては敵を相手に戦いたいのだろう。味方に殺されるなど、国防を担う軍人としては無駄の極みである。


「黄池の住民にとっては迷惑な話ですね。まったく関係のない争いに巻き込まれて……」


「それは確かにそうだが、そのことを深く考えても仕方がない。公主、やるしかないのだよ。我々はそのような時代に生きているのだから」


「どうせ、伯父さまに衛鞅さまあたりが入れ知恵したのでしょう。将軍もそのことをわかっているはずなのに……黙って従うのね」


 龐涓はそれに対して答えなかった。軍人として政策に従う姿は一種の潔さがあるが、娟がその事実に満足したかどうかは別である。


「やっぱり、学問を究めておくべきでしたわね」


「それを言ってくれるな。心が痛む。……だが言わせてもらえば、いまの学問とは結局……国家間の強弱を見極め、それに基づいてどう政策を決定づけるか、それを論じているに過ぎない。いずれにしても武力は必要で、その武力を行使する人物は必要とされているのだ。孫臏は学生のころ、自分が戦略を立案して、なおかつ自分が戦場で活躍する姿を思い描いていたが……実際にはそのようなことは稀であろう。両方に才能を発揮できる人物は天下にそうそういない」


 再び孫臏の名がふたりの間に現れた。娟にとっては会ったこともない人物だが、龐涓が怒りにまかせて両脚を斬り落とした人物であることを知っている以上、よい印象を抱いていないことは当然である。魏は斉の目を眩ますために宋へ出兵すると聞いたが、実際には孫臏その人の目を眩ますためだと勘ぐりたくなった。


「将軍がその孫臏という人の脚を斬ったのは、能力が危険だと思ったからですか? 生かしておいては魏国にとって厄介な存在になるからと?」


「そういうこともあるかもしれぬ。だが本音を言えば……嫉妬さ。確かに奴は傲慢な男だったので、周りの人々を常に苛つかせた。しかし能力は本物だったに違いない。鬼谷先生の理論を正確に理解していたのは奴ひとりだけだったわけだから……おまけに、知っているか? 奴は独自の拳法をも編み出して護身術も備えているのだ。よって軍の指揮能力に関しても相当なものだと考えるのが自然だ」


 言う龐涓の表情は、苦虫を噛み潰したようなもので、眉間に皺が寄っていた。娟にとってそれは初めて見る龐涓の表情であり、旧知の人物に対する複雑な感情がそこにあると察せられた。


「奴は本物だった。天才とはああいう男のことを言うのかもしれぬ。だが、天才が誰からも好まれる人物だとは限らない。やはり、公叔さまの言うことは正しかった」


「殺しておけば、ということですか」


「うむ……」


 それを機に龐涓は口を噤んでしまった。孫臏を殺しておけば、とは思うが、口に出して言うことは自分の品性が許さない、といったところだろう。彼は、気持ちを切り替えるように娟に告げた。


「まあ、黄池では将軍として全力を尽くすよ。関係のない現地の住民を巻き込んでしまうことにはなるが、そのことで私を軽蔑しないでほしい。私は、自分にできることをするだけだ」



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