未来
史家の視点
魏ではその後恵王(魏罃)が崩じ、襄王が即位した。天下は秦の台頭がいよいよ激しくなり、これによって魏も西の領地をことごとく失うこととなった。もはや再び覇権を手にすることはほぼ不可能となり、以後は国の維持にのみ尽力する形となった。
斉では田忌や孫臏、鄒忌の時代を経て田嬰が権勢を得た。田嬰の末子である田文という人物が出色の人物であり、自身の領地である薛に数千人にも及ぶ人材を集め、数多く存在する国の危機に対処させたという。この田文が父である田嬰のあとを継ぎ、斉国の宰相となった。これがすなわち孟嘗君である。
斉では以前から天下の賢人を国内に招待し、学術研究に勤しませることを国策としていたが、孟嘗君は自費でこれを賄い、自らの領地である薛に多くの者を客として招いた。結果的にこの行為が彼の窮地をたびたび救ったのだが、その実情は単に鶏の鳴き真似や犬の遠吠えを真似ることの得意な者など、愚にもつかない人物ばかりが彼のもとに多く集まったのだという(鶏鳴狗盗)。このことが原因となり、薛ではこのあと数世代にわたって柄の悪い人物ばかりが幅をきかし、治安の悪い状態が続いた。最終的に斉は秦に敗れたことを考えれば、孟嘗君による食客集めには、その狙いに若干ズレがあったと言えよう。
趙では過去に邯鄲を囲まれた際に使者となった李曇の孫、李牧が大将軍となり、秦の攻勢に対応した。李牧は白圭と恵施がともに邯鄲を訪れた際、その父母の腕に抱かれていた赤ん坊である。
成長した彼は北方の防衛を任とし、匈奴を幾度も撃退した。その功が賞されて大将軍に任じられたのである。趙ではそれまで藺相如や廉頗といった名宰相、あるいは名将が存在していたが、彼らの死後、あるいは失脚後に国勢は著しく削がれ、まさに斜陽というべき状態にあった。そのような中で李牧は秦による攻勢を退けたばかりでなく、韓・魏の国境近辺までの領土を奪回することに成功したのである。拡張しようとする秦の勢いを削ぎ、一時的であったとしてもそれを押し返した将軍は数少なく、このため李牧は戦国時代における四代将軍のひとりとして数えられた(その他は秦の白起、王翦、趙の廉頗)。
李牧はその功績を讃えられて武安君に封ぜられたが、これに嫉妬した佞臣によって讒言され、命を落とした。その後ほどなくして、趙は秦によって滅亡したのである。
鬼谷の教えをもとに揣摩の術を完成させた蘇秦は、その後秦へ赴いて仕官しようとしたが、そのとき秦は衛鞅を誅殺した直後であり、弁術の士を嫌う傾向があった。このため蘇秦は仕官を果たせず、燕や趙、そして韓、魏、斉、楚の順に諸国を巡り、それぞれの君主を説得して、秦を除く六カ国の同盟を確立した。これが諸国合従であり、蘇秦はその総長となり、同時に六国の宰相を兼ねた。揣摩の術を会得する前は貧窮していて家族に蔑まれていたことを思うと、あり得ないような成功である。しかしその栄華は長く続かず、およそ十五年で六国合従は解消してしまい、蘇秦自身も命を落とした。だがわずか十五年とはいえ……不毛な各国の戦闘が止んだ理由は、ひとえに蘇秦の力であったことは間違いないと言えよう。
その一方、張儀はなかなか世に出ることができないでいた。ともに鬼谷子のもとで学び、そのときすでに趙国の重臣となっていた蘇秦は、そのことを気にかけてもいた。また、趙王などを説きつけて諸国合従が完成しようとしているときに、秦に攻撃されてそれが壊れることを懸念してもいた。このため蘇秦は、張儀を秦に送ろうと考えたのである。
蘇秦は人をつかって張儀と接触し、自分のもとへ来るよう伝えた。しかしそれに応じて張儀が尋ねていっても蘇秦はいっこうに姿を見せず、数日そのままにされたのである。数週間してようやく面会した蘇秦は、あろうことか張儀を非難したのであった。
「おぬしほどの才がありながら、いま現在の立場は恥でしかない。しかしそれは自分自身の咎である。私とてひと言誰かに口添えすれば、おぬしを富貴にしてやることはできよう。しかし情けないことにおぬしにはその値打ちがないのだ」
張儀の気持ちとしては、呼ばれたから来ただけなのに何という言い草……といったところだろうか。とにかく彼はこのことに腹を立て、蘇秦のもとを去ってしまう。そして秦こそは蘇秦のいる趙を討つことができると信じ、秦へ入国しようとしたのだった。つまり張儀は、蘇秦の策によって発奮してしまったのである。蘇秦による「揣摩の術」がうまく効力を発揮した一例であった。
しかも蘇秦は張儀に悟られぬよう、近侍の者をつかって彼の仕官を支援させた。金銭や車馬などを都合良く手配させ、それによって張儀が首尾よく秦の宮殿に仕えることになったのを見届けたあと、その者は「役目を終えたので帰る」と張儀に告げた。張儀は驚き、いろいろと支援を受けたので、今後も自分のそばにいてくれれば恩返しは充分にすると告げたところ、その者は初めて自分の素性を明かし、これまでの支援はすべて蘇秦の指示によるものだと言ったのである。張儀は驚き、そして蘇秦が趙にいる間は趙を討たぬことを約束したのである。
結局蘇秦は、張儀を仕官させることと、自分あるいは趙国の安全を保つこと、二つの目的を同時に果たしたのである。蘇秦による「揣摩」の凄まじさ、これに勝るものはない。
さて、張儀は手始めに因縁のあった楚の宰相(かつて張儀が楚を訪れた際、国宝の璧が紛失したことで盗っ人扱いされた)に向けて檄文を作った。
「やがてきさまの城を盗んでやる」……壁などではなく、国を奪ってやるという宣戦布告であった。
張儀は合従ではなく連衡論者として、天下の強国となった秦が諸国の安全を保証するという政策を自らの行動によって実践した。彼は秦の宰相であったが、一時その職を辞して魏国へ入り、その宰相職を得た。しかしこれはあくまでも秦のためであり、彼は魏国の宰相という立場にありながら、秦へ臣従することが得策だと魏王を説得した。しかし魏王が納得せず、結果が得られないとなると秦が軍を動かすように画策し、実際に魏はこれと戦い、敗れたのである。その上で張儀は魏王を再び説得し、魏を合従から離脱させ、秦と同盟させた。
続いて張儀は楚を動かした。手始めに張儀はみずから楚国へと赴き、楚王と秦王との間で姻戚関係を結びたいと提案し、そのかわりに斉国との同盟関係を解消してほしいと頼んだ。その返礼として商・於の土地六百里を献上すると申し出たところ、これを好条件だと喜んだ楚王は斉と絶縁してしまうに至る。しかし楚王が返礼としての土地を受け取ろうとしたところ、張儀は「私が約束したのは六里の土地である。六百里とは言っておらぬ」などと言い、相手を激怒させた。
かくして楚と秦との間に戦端が開かれたが、楚は同盟関係にあった斉国の援助を受けられなかったどころか、逆に秦と手を組んで攻め込まれる目に遭い、大敗を喫した。
その後も楚と秦との間では悶着があり、張儀は解決のために再び楚へ赴くこととなったが、牢獄へ監禁されることとなった。しかし彼はときの宰相に賄賂を贈り、さらに楚王の愛人へとりなしを頼んだことで解放されるに至る。このように張儀は口先だけでなく、敵の陣中へ自らの身を晒すことによってさまざまな問題を解決した。張儀に敵対する諸侯たちにとっては、彼の身体こそが罠であると認識したことであろう。
しかし張儀はこのように……綱渡りのように危険な立場にみずからを追いやることによって連衡策を完成させようとしたのである。なお、それは旧友である蘇秦が死んだと聞いたあと、ほぼ完成した。残るは斉国のみとなったとき、彼は不幸にも死んだのである。
※
孫臏の手による兵法書を旦が焼いてしまったことで、その存在は後の時代まで疑問視された。孫臏の事績は主に口伝によって伝えられ、史官たちがそれを記録することによって後世に伝えられたのである。
ただしそれは確かに存在し、隷書体で記された竹簡が前漢時代の墓から発見された。ときに一九七二年のことである。おそらくは、旦が取り逃がした孫臏の従卒……そのうちのひとりが孫臏に仮託して記したものだと思われる。なぜそうかと言えば、書の冒頭に記される「擒龐涓」の篇……それが史書に記されている内容とは著しく内容が異なるからである。伝承で伝えられてきた桂陵、馬陵の戦いであるが、発掘された「孫臏兵法」には馬陵の戦いについての記述がなく、しかも桂陵の戦いについても非常に簡略な記述に留まっているのである。具体的な孫臏の事績と言えば、もっとも輝かしいものが龐涓を破った二度の戦いであり、本人がそれを記したとすればこの部分をもっとも強調して表現するであろうことは容易に想像できる。しかし結果的にその内容が非常に断片的であることは、孫臏に仮託して記した人物にはっきりとした記憶がなかったからではなかろうか。
この点において、旦の目的はある程度達せられたと言わざるを得ない。旦、いや恵施は孫臏の事績を後世に残すことを認めず、まして育ての親と言える龐涓の死を誇らしく描いた書物などの流布を望んでいなかった。恵施がみずからの命を省みず、死の危険を冒してまで原書を焼いた効果は、確かにあったのである。
その恵施は、意外にも早く天命を使い果たし、如公主娟や趙良らが存命のうちに世を去った。それを聞いた荘周(荘子)は、恵施の眠る墓を訪れ、「もはや議論を戦わす相手がひとりもいなくなった」と嘆き悲しんだという。
恵施は魏の宰相として平和主義的な政策を好んで執り行ったが、同時期に張儀の主張する連衡策が魏でも主流となり、秦と組んで斉・楚と戦う方針が魏王によって決定づけられた。恵施はこれに反対し、魏王を諫めたが容れられず、結果的に出国を余儀なくされた。そこで彼は楚へと向かったが、入国を許可されず、生まれ故郷の宋でしばらくのあいだ過ごしたという。
魏王が代替わりしたのを機に再び入国した恵施は、最悪の豪雪のなかで行われようとした先王の葬儀を差し止め、民生を安定させるために尽力したという。さらには楚や趙に赴いて各種の折衝を重ねるなどしたのだが、やはりどちらかというと政治家としてではなく思想家として名が残っている。それは荘周が自身の著である「荘子」にたびたび恵施のことを登場させているからに他ならない。
恵施は「歴物十事」に示されるように、非常に難解な、余人には何を言っているのかよくわからないような理論を世に展開した。
「今日越国に旅立って昨日着く」
「天地はともに低く、山沢は同じ高さに位置している」
「太陽が中天に懸かると同時に西へと傾くのと同じように、万物は生きているいま、死につつある」
このような奇妙奇天烈な理論を荘周はその著書の中で「すべて的外れ」と嫌味たっぷりに評しているが、それもふたりの関係性を示しているのではなかろうか。ともかく荘子は恵施が亡くなったことを聞き、その墓の前で泣いたのである。
恵施の理論は「名家」と呼ばれる学派となり、後の世でも展開された。しかしその多くは詭弁的なものであり、
「白馬は馬ではない」
「犬も名前の付け方によっては羊と呼ぶことができる」
「火そのものは熱くなく、人間が熱いと感じるだけである」
「白い犬に黒い点があったとしたら、それは黒い犬と言い換えることができる」
などのような、おもに「物事の捉え方」に重きを置いた理論を展開した。しかし荘周はこれについても「人の口に勝てるだけであって、何ら人の心を敬服させるには至らない」と手厳しく評している。
最終的に荘周は恵施のことを、「分析に優れた人物」だとしながら、その実質は「大声を出して山びこを止めようとする」ようなものであって、「みずからの影と競争し合う」ものでもあった、としている。さらには「骨折り損のくたびれもうけ」だと辛辣に述べているが、これもふたりの間に存在する「愛」ゆえではないか、と思える。荘周にしても、本当に論評にも値しないものであれば、わざわざその著作に記すこともないはずであるからである。いずれにしても恵施は歴史に名を残したのだ。
白圭は当代随一の商人であったが、結局商鞅の死後、秦で活動することは叶わなかった。孝公没後の秦の宮殿では商鞅は忌み嫌われ、その結果として彼は誅殺されてしまったわけだが、その政策自体が捨て去られたわけではなかった。むしろそれはほどよく整備されたのである。いわば制定した本人という絶対的な利益享受者がいなくなったおかげで、滞りない運営が行われるようになった、といったところだろう。これをさらに言い換えれば、秦の群臣がそれまでのように名声を得た商鞅に嫉妬を覚えることなく、平然と業務に携わることができるようになった、ということであろうか。制度を定めた本人がいなくなったことで、大多数の人間が都合良さを感じたのである。
これによって白圭は秦での活動を中止せざるを得なくなった。ひところはその危険性に恐れを抱き、どうにかして状況を改善しようと試みてみたものの、駄目だとわかったところで即座に身を引く潔さは、まさに商人のとるべき態度である。彼は特に時勢を観察することに秀でていた。
「わしの商売は、伊尹(殷代の政治家)や呂尚(周の軍師)らの政略、孫子や呉子らの軍略、商鞅の厳罰政治などと同じようなものだ。ゆえに時世の変化を見抜く能力や知力の足りぬ者、決断する勇気が足りぬ者、与える仁徳が足りぬ者、一度決めたことをやり抜く根気が足りぬ者……そのような者たちに、わしは自分のやり方を決して教えないのだ」
白圭は飲食を質素なものとし、欲望を抑え、働く下男たちと苦しみも楽しみも同じくしたという。彼のその後の消息は定かではないが、彼の言葉は後世に残った。のちに商売を志す者は、みな白圭の言葉を胸に刻み、彼を祖師とした。
趙良は龐涓を失って未亡人となった如公主娟を娶り、朝歌へと移り住んだ。朝歌は大梁の北にあり、衛の領土や趙の邯鄲に近い。もともと娟の親である如氏の所領は大幅にその面積を削減された形で娟に化粧領という形で授けられていたが、それは魏国の旧都である安邑近くにあり、すでに秦に奪われていた。このためふたりは非常につつましく、質素とも言える暮らしに徹したという。奔放で勝ち気とも言われた娟が、自宅の庭を耕して畑とした姿を見た者もおり、それが公叔痤の養女であり、かつての大将軍の妻だと知った者たちは、一様に哀れと感じたようであった。しかし実際のところ、当時の彼女には表情に笑みが絶えなかった、ともいう。手を泥だらけにし、頬に土をつけたまま楽しそうにしている姿……それはそれでいかにも娟らしいとも言えるかもしれない。恵施が荘周の妻である小蓉に好意を抱いた理由は、それに娟の姿を重ねたからであり、娟が土まみれになったとしてもさほど違和感はないのである。
いずれにしても、娟の場合は大半の貴族女性とは違い、高貴な家同士の繋がりを保つという役割から解放されていたので、いつまでも奔放さを保つことができたのではなかろうか。趙良は秦の公族につながる家柄であり、その出自を自らが嫌っていたので、逆にお互いに幸福であった。しがらみのない人生をふたりは送ったに違いない。
のちの話になるが、ついに娟は男児を産んだ。趙良はこの男児に自分の趙氏ではなく、妻の出自である如氏を名乗らせた。将来的に如氏の土地が戻ることになれば息子がそれを継ぐのもよし、そうならなければやはりつつましく生きるだけだという彼の願いが、そこに込められている。
その男児には「耳」という名が与えられた。
如耳は魏軍の攻撃によって滅亡に瀕した衛国を救うべく、魏国内の宮廷工作に尽力したことで名が歴史に残っている。なお、当時の身分は大夫であったという。
つまり、趙良と公主娟は質素な生活の中でも大夫となる息子を育て上げたのである。親としてはこれ以上の名誉はなく、特に娟にとっては龐涓を失った悲しみを埋めて余りあるものであったに違いない。
娟は畑の一角に桃の木を植えたという。その実を夫である趙良や息子の如耳と分け合って食べたかどうかは定かではないが、おそらく、いやきっとそうであったに違いない。
魏が滅亡したのは、彼らの死後であった。
(本編・完)