別離
日々政務を執りながら、旦は昔のことを思い出した。かつては公叔痤がいて、その傍らには衛鞅がいた。少年であったころの旦にとっては、限りなく安心感のある光景であったが、いまや公叔痤はすでに亡く、衛鞅とは敵対関係の間柄である。
なんという変わりようであろう。ときの変遷というものは、ある意味凄まじい。
少年であったときの旦の前には、常に龐涓という大きな存在があった。その龐涓が、過去にはともに鬼谷子のもとで学んだという孫臏と争うこととなった。最初はふたりの個人的なもめ事に過ぎなかったものが、やがては国家間の対立に発展してしまった。
結果として、龐涓は旦の目前で息絶えてしまった。復讐を心に決めた旦は鬼谷子に会って孫臏を倒すにはどうすればよいかを質した。が、鬼谷はそれに直接の返答は避け、蘇秦と張儀というふたりの門下生を旦に紹介したのだった。彼らの助力を得られると確信したわけではないが、旦はひとりで孫臏の潜む襄陽へと向かった。
そこでみごとに捕らえられた。拷問を加えられ、心を折られそうになった旦であったが、蘇秦によって窮地を脱した。一方で張儀は楚軍を動かしており、その騒動に乗じて孫臏を亡き者にし、さらにその弟子ふたりを自ら手にかけたのであった。
孫臏による兵法書の流布を阻止するという大きな目的があったものの、年端もいかない少年を殺してしまったことに、深い後悔を抱いた旦であった。しかしそれも仕方のないことである。その兵法書には、孫臏がどうやって龐涓を倒したか、などという愚かな記載が満ちあふれているに違いなかったのだ。
どうにか目的を果たしたものの、体ばかりか精神をも痛めつけられた旦を癒やしたものが、荘周と小蓉のふたりの存在であった。旦は、小蓉の天真爛漫な姿にやさしさを覚え、荘周との議論には刺激を覚えた。
——はたして自分は、成長したのだろうか。
疑問に思う旦であったが、事実彼のいまの立場は魏国の宰相である。自分自身の真の姿がどんなものであれ、彼は民を導かねばならないのであった。
一
公主娟のもとに商人白圭が久しぶりに顔を出した。彼は衛鞅(商鞅)が失脚したことをきっかけに、秦国内での商機を探ろうと日夜駆けずり回っていたのである。
しかしそのときの彼の表情は、ひどく憔悴していた。とても新たな商売に成功したようには見えない。娟は不安げな目で見つめながら、彼の言葉を待った。
「秦はもう駄目だ。いや、わしの商売の話に限ってのことだが……。国情はひどく荒れているのだが、法は未だ生きている。あそこで商人は生きていけない」
「……どういうことなのです?」
よほど疲れているのか、白圭は娟の問いに怒り調子で答えた。目の前にいる相手が高貴な存在だということを忘れているのだろう。
「どうもこうもありませんな。あそこでは商人でいること自体が罪なのです。せっかく衛鞅を失脚させておきながら、秦公はやつの残した法を撤廃しようとはせず……」
「逆に法を活かそうとしている?」
「然り。由々しき事態です。衛鞅が叛乱を起こして国内は荒れに荒れたというのに」
「叛乱?」
娟は目を見開いて問い返した。魏に入国しようとした衛鞅を追い返したのは僅か一年前のこと、このまま事態が終わるとは思っていなかったが、まさか武力に訴えるとは考えていなかった彼女であった。
「趙良さま、わたし……どうしたらいいのでしょう。責任の重さに押しつぶされてしまいそう」
「公主さま、衛鞅が暴走した原因はあれだけではありません。私が残した彼に向けての諫言にも原因がありましょう。あのとき私が口にしたこと……我ながら予言のようなことを言ったものです。いまの衛鞅は、あのとき私が言ったような運命を辿っている。その意味で、責任は私にもございます」
白圭は会話するふたりの姿を眺めながら、なんとも申し訳なさそうな表情をした。
「どうも話の順番を誤ってしまったようですな。と言っても、おふたりに……特に公主さまにはどうこの事実をお知らせすべきか、わしにも迷うところがあったのですが……」
「衛鞅は結局どうなったのです?」
娟の問いに、結局白圭はあえて簡潔に答えたのだった。
「……死にましたよ。衛鞅は死にました」
娟が喜ぶことはない、と察した白圭の口調であった。はたして娟はこの事実に衝撃を受けたようで、しばらくは何も口にすることがなかった。
「いったいどういう経緯で……叛乱したところを討たれたのですか」
仔細を知りたく思った趙良が質問したが、それは自分の好奇心のためではない。頭を抱えている公主娟のために、その罪悪感を薄めてやりたいという愛情からであった。
白圭はその心情を思い、ふたりを相手にわかりやすく状況を説明した。
「魏に入国しようとした衛鞅だったが、知っての通り……その願いは叶わなかった。しかも彼は軍によって護送されるということになったので、秦に到着するまでの間に、別の国へ逃げ出すことができなかった。しかし魏軍による護送も秦との国境までだ。衛鞅は再び秦に入国すると、素早く自分の領地である商へ入った。そこで領民たちをたきつけて叛乱を起こしたのだ。彼は隣県の鄭に攻め込み、秦公はそれに対抗するため軍を動かしたのだ。結局のところ衛鞅は自らの定めた法によらず、独自の判断でこのような行動を起こしたことになる。その結果が、国全体を巻き込む動乱となってしまった」
晩節を汚したとでも言いたそうな白圭の口ぶりであった。それにしても商に住む領民たちも哀れである。領主たる衛鞅が命じれば、鍬や草刈り鎌を手に戦うしかないとは……彼らのその後に思いを巡らすことができないあたり、やはり衛鞅とはどこか偏ったところがあり、潔さもない男であった。
「商の住民たちの叛乱は、鎮圧されたのですか」
趙良としては、話の先を聞くより仕方がない。衛鞅がどのような形で死を迎えたのか、それは知っておくべき事柄であった。
「秦軍は鄭に兵を繰り出して衛鞅を攻撃……黽池で捕らえられて処刑された。その遺体は咸陽に持ち込まれ、城中を引き回されて見世物にされたあげく……宮殿前の広場で引き裂かれた。車裂の刑だ」
「引き裂かれた……? 車裂の刑?」
戦場で殺されたのちにさらに刑罰が加えられたということであろうか。趙良は疑問に思ったが、隣の娟は呆然としたままである。
「車裂の刑とは、人の四肢に馬車を繋ぎ、一気に発進させて……人を二本の腕、二本の足、それと胴体に分解するという刑だ。衛鞅の体は、文字通り引き裂かれたのだ」
「そんな残酷な刑罰を与えたいと思ったことはありません!」
娟はその言葉を発した途端、わっと泣き出した。
「こんなことになるなんて……!」
白圭は嗚咽する娟に向けていたわりの言葉をかけた。
「恐れながら公主さま、世の中には公主さま以上に衛鞅に怨みを抱く者が多く存在した、ということです。彼らの気持ちとしては、遺骸にも辱めを加えるくらいでないと収まらないところがあったのでしょう。それゆえ、公主さまがそれほど気に病む必要はございません」
「わたしは、このような人の世を悲しんでいるのです。なぜ、こんなにも殺し合う必要があるのでしょうか。怨みや憎しみばかりが世に溢れていて、人はそれを晴らすことを最上の楽しみとしています。こんな世の中は絶対に間違っています」
涙を流しながら訴える娟の姿に、白圭は言葉を失ってしまった。
「公主さまは衛鞅にどのようなその後の人生を望んでいらっしゃったのですか?」
趙良は慰めの言葉のかわりに、そのような質問を発した。
「……あの人は魏国の人々にとっては大罪人です。そう思ったから、わたしは魏への入国を拒否しました。でも、あの人が秦の国を強国に育てたことは事実であって、そのような能力があの人の中にあることは認めなければなりません。衛鞅本人もそのことがわかっているのですから、いい加減に過去の過ちを認めて……生まれ変わってほしかったのです」
「大変失礼な言い方かもしれませんが、私は過去に自らの過ちを認めた男というものを見たことがありません。特にまつりごとの世界にあっては、謝罪は負けを認めたということにつながりますので、よほどのことがない限り……そのような場面を目にすることはできないでしょう。ましてや衛鞅のような自意識の高い人物ならば……」
「趙良さまの仰りたいことはわたしにもわかります。でも、現実がそうであるにもかかわらず、衛鞅には生まれ変わってほしかったのです」
娟はまた泣き始めた。
「公主さま、たとえ衛鞅が生まれ変わろうとしたとしても、周囲の者たちがそれを許すとは思えません。衛鞅によって鼻を削がれたり、足を斬り落とされたりした者たちは皆、元の姿に戻ることはできないのですから」
「趙良さまは意外に厳しいことを仰るのね。わたしの考え方が夢想に過ぎないことは私自身もわかっています。甘かったのね、私は……」
「責めるつもりはありませんが、やはり甘かったと言わざるを得ません。……ですがここでいまそれを言ったところで、どうしようもありません。衛鞅は公主さまの意図しない形で死んでしまったことには変わりありませんから、公主さまがそれをどのように消化するのかが問題です。ここはやはり、旦どのをお呼びいたしましょう」
娟はまだ泣いていた。
「趙良さま、あなたが私の気分を晴らしてはくださらないの?」
「残念ながら、私にはほかに方法が見つかりません」
「いいのよ、気になさらないで。……やっぱり旦を呼んでくださる?」
二
「趙良どのご自身が公主さまをなだめた方がよいと思います。僕が出しゃばるような状況ではないでしょう」
「しかし衛鞅が死んだことについては、旦どのにもきっと思うところがあるはずです。本当に彼はあのような死に方をするべき人物だったのか……おそらく旦どのは公主さまと同じような考え方をするでしょう。衛鞅の前身を知るお二人でありますから」
「趙良どの、あなたご自身はどう思っているのです?」
宮殿内における旦の私室で、問われた趙良は神妙な面持ちで卓上を見つめた。自分の思いを直接旦にぶつけることに戸惑いを感じているのだった。
「大変言いにくいことなのですが……衛鞅の死に関する私の意見と公主さまのご意見には大きな隔たりがあります。私はそのことをなかなか公主さまにうまくお伝えできず……」
「つまり趙良どのは衛鞅が惨死したことを肯定的に捉えているのですね」
「ええ。……当然の報いだと思っています」
旦は少し話をやめ、自分の考えを整理しているようであった。しかしそれは逆に趙良にもその機会を与えているかのような間であった。
「人の考え方や物事の捉え方は一様にあらず、それこそが人類社会が永続するための鍵となるのです。異なる意見を持つ者同士が、お互いに話し合い、妥協できる点を見つけることでのみ、人同士はわかり合えます。その努力を怠った結果が、いまの戦乱とつながったのです。ゆえに公主さまと趙良どのとの間に多少の意見の隔たりがあったとしても、それはたいした問題とはなりません。趙良どのもこれが原因で公主さまとの関係が疎遠になってしまうとは考えないでください」
「はあ……」
「実際のところ、僕も公主さまと同じように考えています。つまり衛鞅どのは僕の養父でもあった龐涓将軍が戦いに敗れるきっかけを作った人物でもあるので、それ相応の罰は受けるべきだと思っていましたが、死ぬことはない、と。しかも死んだ後に体を引き裂かれるなんてあんまりだ、と思っていたのです。ですが僕は、過去に孫臏を討ったことがあります。それは龐涓将軍の直接の死因が孫臏にあったからで、しかも僕は孫臏とほとんど面識がなかった。よけいな感情によって邪魔されず、ただ憎しみだけで行動を起こすことができたのです……。これに対して衛鞅どのとは小さいころからの付き合いもあり、情が移るのも無理はないのだ、と自分で考えています」
「それについては公主さまも同じだろうと、旦どのは考えるのですか」
「その通りです。公主さまは僕と同じように孫臏と面識がありません。だから龐涓将軍の死に対する罪の度合いが衛鞅のそれと同じ程度であるにもかかわらず、公主さまは孫臏の死については心を動かさなかった。やはり公主さまも身近な人物の死に対して衝撃を受けている、ただそれに過ぎないのです」
「それは、いけないことなのでしょうか」
「いえ、それは自然な心の流れです。いけないことだと断じることはできません。無情のように思われるかもしれませんが、人は生きたあとに必ず死ぬものです。その捉え方を改めれば、公主さまは元の通り活発な女性に戻ることができるでしょう。……やはり僕が行ってお慰めしたいと思います。外出の手はずを整えますので、今日は先にお帰りください。近いうちに必ず赴きます」
趙良は帰途に就いた。その道すがら、夕日に暮れる街道を見渡し、公主娟の姿に思いを馳せた。あの背筋の伸びた立ち姿、凜としているかのようでどこか人なつっこい笑顔、しなやかでいながら張りのある頬……そのどれもが趙良にとっては愛おしく、自分の命に替えても守るべきものであった。しかし考え方が違うという根本的なところにおいて距離を感じた。自分がそう思うのであるから、公主の側もそう思っているのではなかろうか。
しかしそういった問題も、旦ならばなんとかしてくれるのではないか、と感じた趙良であった。
旦は宰相としてだけではなく、この時代を代表する論理学者としても名を馳せていた。しかし彼の学問はあまりにも対象を広げすぎていて、たったひとつしか存在しない「道」という万物の根源を極めようとする者たちには不評であったという。真理という命題を追求する学問と、旦が求める学問は違った、ということかもしれない。いずれにしても旦は、「なぜ空が落ちてこないのか」「地の底が抜けないのはなぜか」「風や雷が起きるのはなぜか」という問題について論じることを好んだ。人間の知識が、いつかそれらについて正しい答えに辿り着くことを知っており、自らはその過程を楽しんでいるかのようであった。
むろん旦自身はそのような命題について正確な知識を有していたわけではなく、想像をぶつけ合う議論を楽しんでいたのである。しかし将来は、これらの疑問についての専門家が現れるに違いない。きっとそのようにして人類社会は発展していくのだ。
荘周は人間の精神について深く探求することを是とし、「無為自然」を唱えた。これに対して恵施(旦)は「無」から「有」が生じることに着目し、より積極的に人が社会の発展に関わることを重視したのである。
いわば恵施は「無」は「自然」でないと定義しているのである。人は「無」に立ち返ることなどできず、「無」から生まれた存在であると認識すればそれでよい、としたのだった。
旦の理論が公主娟を救うことを、趙良は心から願った。
三
旦は三日後に娟のもとにやって来た。公務で忙しいはずであるが、こうして娟のためには動いてくれるのである。こうした行為も「無」であればできないはずであり、他人のことを心配したり、思いやったりする心がなければあり得ないものであった。
趙良は、旦に人の心があり、「無」ではないことに安堵した。
「公主さまがそのお心に大きな傷を負ったと耳にしました。衛鞅どのの死があまりにも凄惨なものであったことには、僕も心を痛めています。ですが、結果から申し上げれば……これは避けられない結末だったと言うよりほかありません」
娟は何も言わなかった。当然のことながら、彼女はここ数日の間寡黙を貫いている。表情もほとんど変化がなく、何を心の中で思っているのか、外からはうかがい知ることができなかった。放っておくと廃人と化す可能性があった。
「あえて公主さまのお気持ちを乱すようなことを申し上げてしまい、後悔しています。ですが、どうか考えてみていただきたいのです。世の中はひとりの人間の体内のようなものであると」
「人の体内?」
娟はきょとんとした顔を見せた。それは久しぶりに見る表情の変化であり、そばで見つめる趙良などにとっては、これだけでも大きな進展であるように思えた。趙良の隣に座る白圭は、あきらかに感嘆の息を漏らしていた。
「そうです。ひとりひとりの人は体内の血液、五臓六腑は国を示すとお考えください。血液なしでは複雑な機能を持つ人の内臓もよく働きません。天下に人がなければ国も成り立たないという……我ながらよいたとえだと思いますが」
「それが……わたしのこの気持ちとどう関係するのかしら?」
「血液は体の隅々まで巡り渡り、人の生命を保ちます。しかし不思議なことに、人というものはときおり病に臥せるのです。僕は医者ではありませんが、これは体内の血液に原因があると考えます。つまり、血液には人の健康を保つ役割があるほかに、その健康を害す原因ともなっているのです。どうです? 僕の考えは間違っておりますでしょうか」
「いかにも荘子の教えを受けたあなたが言いそうなことね。どうせ人は血液のように流れに沿って生きるのがよい、とでも言いたいのでしょう」
旦は娟の口ぶりに苦笑いとともに答えた。
「まあ、確かにその通りです。しかし先ほども申し上げましたとおり、血液には病の原因となる要素も含まれておりますので、その一滴一滴に実は意志があるのです。にもかかわらず多くの場合、血液は一方向に流れ続け、人の生命を健やかに保ちます。ということは……血液の多くは自らの意志で同じ方向に流れ続けている、と言えましょう。ですが、中には他と違う行動を起こそうとするものがいるのです」
「一滴一滴に意志があるのに、どれも同じ方向に流れるなんて……わたしから言わせれば逆に気味が悪いわ。むしろほかと違う行動を取ろうとするほうが自然だと感じる」
「そうお思いになるかもしれません。ですが血液の流れは、森に生きる獣が餌を求め、天敵に遭遇すると警戒する……これと似たようなものなのです。つまり経験と学習ですね。自分たちが安全に生き延びるために最適の方法を採っているわけです。この血液の行動を人に置き換えてみれば、過去からの教えや道徳観というものが当てはまります。だから大きな流れに逆らおうとするものは、この道から外れたものということになるのです」
「その人たちが……いえ、それを人だと仮定すると、どうなるわけ?」
「安全に生き延びる方法からはずれたものは、必ず病気となります。血液の中に病原を宿すものがあったとすれば、その病はやがて体全体に広がってしまいます。その流れを絶つために、健康な血液は病原を宿した血液を攻撃するのですが……人の世界も同じようなものでしょう」
旦は、そのことが正しいのかどうかは論じなかった。しかしそれは人間社会の自然な流れであり、あえてその流れに反するようなことはするべきではない、と言っているようであった。
「衛鞅さまの法改革は、非常に急進的なもので、多くの人々はその効果に賛意を示しながらも、ついていくことができなかった。人々は法に縛られた環境で生きづらさを感じ、その怨みを法の執行者たる衛鞅さまに向けたのです。なぜか、と問われれば……衛鞅さまは確かに社会を改善しようという決意を持っていたかもしれませんが、どうしても心の奥底にある名誉欲を隠すことができないでいました。衛鞅さまが秦公と面会するために宦官を伝手としたことや、法学者として政策に助言を与えるのみならず、戦争にまで手を出したことは、その象徴でしょう。しかし世の人々はあの方のひそかな野望をすでに見破っていたのでした。このまま生かしておいては人類社会の害になると判断したのです」
「そこまで民が判断したというの?」
「民は自然の流れに沿ったまでです。だからこそ、公主さまも亡命しようとした衛鞅さまを秦に送り返したのでしょう? 途中で逃亡を図らぬよう、軍を付けてまで国境まで送ったとなれば、その先はある程度想像できたはずです。公主さまも衛鞅さまの滅亡を望んでいたのではないですか?」
娟は明らかに動揺を示しながらも、首を振って旦の問いかけを否定しようとした。
「あの人は将軍の仇ですから、それなりの形で罰を受けてくれればと思っていたのです。なにも体を粉々になるまで引き裂かれることを望んでいたわけではありません。何度でも言うけど、わたしにそんな残酷趣味はないのよ」
「それなりの罰とは、孫臏のように両脚を斬られるとか、鼻を削がれて醜い姿になることを公主さまは期待されていたのですか」
「意地の悪いことを言うのね、旦は。わたしにそんなことを言わせないでちょうだい」
「恐れながら、衛鞅さまが死罪を免れず、さらには死後も車裂きの刑に処されたということは、秦国に住む人々の多くがそれを望んだ結果です。この事実だけを考えれば、秦国に住む人々の衛鞅さまに対する怒りは、公主さまのそれを上回っていたということとなります。そのことをお認めになるのであれば、公主さまが責任を感じて嘆き悲しむ必要はありませんし、もしお認めにならないのであれば、ご自分の考え方が甘かったと思うしかありません。僕個人の考えでは、おそらく後者の方だと思いますが」
「わかったわよ。わたしが甘かったのよ。わたしは将軍が死んでしまった原因が衛鞅にあると信じて、恨みました。恨んだ以上は、その結果についていちいち不満を述べないことにします。……どう? これで満足かしら」
「僕に公主さまを責める気持ちはありません。それゆえ、どうか現状を素直に受け入れていただきたく思います。言うなれば衛鞅さまは、人の体内に生じた病原を持つ血液の一滴です。だから他の健康な血液はそれを攻撃することで、体内の毒素を取り除かなければなりませんでした。何も殺すことはなかった、というのが公主さまの本音でございましょうが、毒素を持つ血液は排除しなければ治癒しません」
「でも、衛鞅は死んだ後にも辱めを受けたわ! ばらばらに引き裂かれるなんて!」
「毒蝮に足を噛まれたら、その人は足を切り落とさねばなりません。それと同じように、人間社会にも切り落とさなければならないことがあるのです。二度と同じことが起きないように……人の体というものは、自分の健康を保つためにならどんな犠牲でも払うものなのです」
「人とは恐ろしいものね。旦、あなたは孫臏を倒したときに、そんなことを考えなかったの?」
四
「僕にとって孫臏は龐涓将軍の仇で……だから僕はその死を願いました。そしてその願いは叶えられました。ですが仇を討ったところで、龐涓将軍が生きて帰ってくるわけではありません。その結果にはむなしさだけが残りました」
旦の言葉に娟は我が意を得たとでも言いたそうな表情を見せた。
「だったら、わたしの気持ちもわかるでしょうに」
旦はにこやかに対応する。
「公主さまのお気持ちがわからないとは言っていません。実際に僕も自分の行動に深く後悔を抱いています。その顕著な例が、孫臏の侍従と見られるふたりの若者を殺してしまったことです。……孫臏は侍従たちに自分の功績を記録させ、それを書物として世に示そうとしていました。その記録は、あろうことか孫臏が龐涓将軍を倒した状況から始まっていて、僕としてはとても認めることができないものでした。だから孫臏を倒すことはもちろん、その幼い侍従たちも倒さなければならなかったのです」
「子供を……。私たちはとても罪深い存在ね。私が思うに、人は自分たちの残酷さを楽しむようなところがあるわね。正論を振りかざして敵対する者を倒すけど……はたして人の世に『正しいこと』ってあるのかしら?」
「何が正しくて、何が正しくないかは……ひとつひとつ実証して現世に生きる人々が定めなくてはなりません。ですが多くの場合、人々は現場で判断を下し、主観的に相手を裁きます。衛鞅さまは、そこに手を付けようとしたのですが、最終的には失敗しました。結局は急進的な改革は人々に受け入れられないということでしょう。これも自然の流れを無視した結果なのです。改革というものは、制度そのものを変える前に人の心を変えなければならない。そうでなければ誰も従おうとしません。昨日までは正しいとされていたことが今日になってみたら罪とされていた、罰せられたとあっては民から反発を受けます。ゆえに……改革には長い時間が必要なのです」
旦の言うことには、やさしさが感じられたが、ある種の「諦め」も含まれているようであった。娟もそのことを感じ取ったらしく、問いただしたのである。
「結局のところ、人には何もできない、ということかしら?」
「いえ、そうではありません。改革は確かに必要です。ですが、結果に多くを求めてはいけないということです。僕たちが生きるこの時代にも、斉には鄒忌さま、秦には衛鞅さまなど、優れた政治家が存在しました。しかし彼らが残したものはごく僅かで、たとえていうなら種子のようなものでしかありません。それでも斉は鄒忌さまの教えをもとに、少しずつ不戦の流れに傾きましょう。秦では衛鞅さまの教えをもとに、少しずつ民が法に沿って生きるようになりましょう。そのようにして世界は少しずつ変わっていき、百年後、二百年後には現在とまるで変わった姿となるのです」
「気の長い話ね」
「変化を焦らないことです。そうすれば五千年や一万年後には、人は時を超越することも出来るに違いありません。『今日、越国に旅立って昨日着く』という言葉は、僕の願いでもあるのです」
つまるところ、旦の理論はそこに落ち着いたのであろう。それは社会の変革と表現するよりも、人間の進化を待つと言い表す方がふさわしい。
「欲望とは、すべてが叶うものではありません。ぼくは本気で孫臏が自身の兵法書を完成させることを阻止したいと望みました。そのためにふたりの幼い従卒を手にかけたわけですが……もしかしたらその行為も徒労に終わるかもしれないのです」
「どういうこと?」
「……実を言うと、孫臏には三人目の従卒がいたようなのです。その者は襄陽の大火から逃れ、いまもどこかで生き続けているらしい、と。彼は生前の孫臏から教えを受けていたので、作成途中の兵法書が焼けてしまったと知れば、続きを自分で書こうとすることは明白です。僕にはそれを抑えることができないのですが……今となってはそれも仕方のないこととして受け止めることができます」
「それはやっぱり『諦め』なのかしら?」
娟の口調には残念そうな、落胆した調子がうかがわれた。旦の言葉によって、ひょっとしたら失望の念を覚えたのかもしれない。
「いや、とんでもありません。それは『諦め』ではなく『許し』なのです。生き残った孫臏の従卒は、十二、三歳の子供だとのことです。その彼が過去の記憶を掘り起こし、自分を孫臏に仮託して、一冊の兵法書を世に残すまでどれほど時間がかかることでしょう……おそらく僕や公主さまが生きている間には完成しますまい。そして書物というものは、書いた本人以外の者によって広く世の中に流布されます。つまり、その書物に感銘を受けた者が手書きで複写しようとしない限り、広まりません。しかもその可能性は限りなく低い……だから僕は彼を許したのです。すでに孫臏を倒すという大きな目的を果たした以上、あとはときの成り行き、人の行いに任せた方がよい、と。大きな自然の流れに任せることとしたのです」
「広まるかもしれないわよ」
「それはそれで構わないと思っています。なぜならすでに孫臏は死んでいて、その事実が変わることはありませんから……のちに公開された書物の内容がどれだけ孫臏を礼賛する内容であったとしても、その事実だけは変わりません。僕たちは天下という体内に流れる血液の一滴として、その現実を受け止める必要があります」
「具体的には……どういうことかしら?」
「名声を得ながら寿命を全うできなかった人には、それなりの理由があります。体内の血液に模した場合、それは病原と判断されたということになります。血液の一滴一滴には、たいして力がない……しかし全体としてそれは無くてはならないものであり、集団となると自らを浄化する機能を持ちます。荘子の主張する『無用の用』の神髄がそこにあるのです」
「つまり、孫臏や衛鞅は人類から毒素と見做されて、この社会から浄化されたと言いたいのね。だから私に悲しむなというわけ?」
「よくお考えになっていただきたいのです。いずれにしても公主さまには立ち直っていただき、以前のように溌剌とした姿であってほしいと思っています。ただ、僕はもう帰らなければなりません。公主さま、どうかお元気で」
旦は政務に忙しいのか、その言葉を最後に立ち去った。
五
旦が意外にも早く帰ってしまったため、娟は自分の思いを消化できずにいた。消沈する娟を旦はあまり強く励まそうとはせず、むしろ課題を与えて去ったようでもある。趙良はこれを、自分に与えられた課題だと感じた。
「公主さま、あとはこの私にお任せください」
気合いの入った趙良のひと言に、娟は目を丸くして応じた。
「いったい、なにを……?」
「公主さまの今後一生をです。この私にそれを託してください」
「…………」
「公主さま、あなたはいろいろなことを忘れて、新たな生活を求めるべきです。非力ながらこの私が、それにご一緒させていただきます」
「……いろいろなこととは?」
忘れろと言われても、できないことは趙良も理解していた。しかし物事を前に進めるためには、過去の苦い記憶を乗り越えなければならない。それは誰にでも起こりうることであるが、その受け止め方は人それぞれであるとも言える。娟の場合は重症であり、父同然の公叔を失い、夫であった龐涓をも失った自分が、個人的な怨みを晴らすために衛鞅を魏から追放したことが原因となっている。
そこですべてが終わっていればよかった。
娟がいつまでも受けた衝撃を払えないでいるのは、その結末が残酷極まりないものであったからであり、これによって彼女は自分自身を残酷な女だと考えてしまい、その凝り固まった考えから抜け出せないでいるのである。誰も彼女のせいだとは考えていないのに、ひとりもがき苦しむ……滑稽なようにも見えるが、人が悩んでいるときは往々にしてそのようなものである。それに寄り添えるかどうかが、愛情の度合いを測る物差しだと言うべきだろう。
「旦どのは我々のような人間を体内における血の一滴だと言っていました。つまり、人間にはひとりでできることが少ないのではないのかと……。人という生き物には、分かち合えば喜びも増し、打ち明ければ悲しみも減る性質があります。ですから、公叔さまや龐涓将軍を失った悲しみを、どうかすべて私にぶつけてください。公主さまがその悲しみを乗り越えるときがくるまで、私は付き合う覚悟です。どうか……」
「もうわたしはぶつけています。それがあなたにはわからないの?」
「え?」
思いがけない娟の返答に、趙良は戸惑いを隠せなかった。言葉につまった趙良を尻目に、娟は近ごろにない明るさで話し始めた。
「昔のことをお話しします。公叔さまが亡くなったとき、わたしは取り乱してしまい……将軍に叱られてしまいました。そのときのわたしは生意気盛りもいいところだったので、叱ってくれた将軍に口答えをして、挙げ句の果てはそっぽを向いてしまいました。でも……今となってはあのときの自分の気持ちも理解できます。当時のわたしは、将軍に叱ってもらいたかったのです。わたしはいまでも生意気で、自分の気持ちも抑えることのできない女です。少し前までは、そんな私を将軍が受け入れてくれていましたが……将軍は死んでしまいました。趙良さまは受け入れる覚悟がございますか?」
「もちろんです」
「それなら、わたしの今後の一生をあなたにお任せしたいと思います。その始めに、私は今後どうするべきだとお考えですか」
難しく、かつ大雑把な問題であったが、趙良はこれに対して即座に返答した。
「公主さまは、大梁を出るべきだと考えます。この私とともに新たな土地へ……。ご異存がおありでしょうか」
「どこに行くと仰るの?」
「朝歌という地へ参ります。実は先日のうちに旦どのへお願い申し上げ、かの地での徴税官の職を得ました。私には戦地で活躍する才がありませんので、細々とした地位ではございますが、どうにか公主さまの生活をお支えできるくらいの俸禄はいただけそうです」
「異存はありませんけど……この土地ともお別れすることになるのですね。趙良さまにお話ししたことがあったかしら。昔はよくみんなで庭で桃を食べたのよ。いつの間にかあの木も実を付けなくなってしまったわ。思えばそれも将軍が亡くなったころからかもしれない。……いずれにしても思い出に別れを告げるには良い頃合いかもしれませんね」
このような言葉が娟の口から発せられたということは、彼女自身が龐涓将軍との思い出を断ち切ろうとしていることの表れではないのか……趙良としてはそう感じたが、そのことを喜んだわけでは決してない。体内の血は流れ出てしまえば失われるだけだが、実際に人は記憶というものを頭や胸に刻んでいる。そうそう忘れ去ることはできないはずなのだ。
「新たな思い出をこれから積み重ねていけばよろしいでしょう」
「……そうね」
ふたりはその後大梁を去り、朝歌で新たな生活を始めた。
旦はそのことについて口出しせず、静かに見送っただけであった。