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戦国に生きる ー魏国興亡史ー  作者: 野沢直樹
第三部
16/20

王国

挿絵(By みてみん)


 魏公のもとを訪れた公主娟の頭の中には、あらゆる思いが錯綜していた。思えば……ここ数年の情勢の悪化は、魏が大梁に遷都したあたりから始まったのではないか。旧都安邑は秦に近すぎるという事情がその主な理由のひとつだったが、当時は覇権国としての力が充分にあったのだから堂々としていればよかったのだ……そう考えたりもしたが、しょせんこれは政治に関わらぬ者の浅知恵に過ぎない。しかも実際に安邑は秦に奪われてしまったという事実を鑑みるに、やはり当時の自分が間違っていたことを思い知らされた。こちらが泰然としていても、他国もそうあるとは限らないのである。その意味で魏公の対応は正しかったのかもしれない。


 しかし結果として、魏は趙の邯鄲を攻略するという野望を抱き、その計画を知った孫臏に龐涓が私刑を加えるという事件が発生した。そこから魏と斉の争いが激化し、ときの宰相で娟の保護者でもあった公叔痤が頓死してしまった。このあたりから魏の覇権は微妙な形でぐらつき始めたのだ。現場で龐涓が奮闘しても戦いに勝てないという状況が頻発したのである。このとき、娟は裏で糸を引いている者がいるなどということに気付くこともできなかった。


 その事実を知ったとき、彼女は初めて怨恨というものを意識した。すべての元凶はその者にあり、しかもその人物は身近にいたのである。


 衛鞅は秦へ渡り、栄達して名を商鞅と変えた。人々はその事実を散文的に捉えているだけであるが、娟にとってはそうではない。彼女は、この事実を多くの人々へ伝えねばならなかった。



「余と其方(そなた)はいとこ同士である。祖父を同じくするというだけでも、余にとっては親近感がわくというものだ。しかも美しいとあれば、親族として自慢の種となる」


 魏公罃(ぎこうおう)は満足の表情で娟に接した。宮殿奥にある私室での接見であるが、これは娟に昇殿の資格がないからであり、殿上から見下ろす形での謁見を避けたという魏罃の心配りであった。


「恐れながら殿さま、そのお言葉……病床にあった公叔さまをお見舞いした際にお聞きしたかったものです」


「むむ……そのようなことがあったかな」


 とぼけたような魏罃の返答に、娟は落胆した口調で問い返した。


「まさかそんな……覚えていらっしゃらないのですか?」


「いやいや、公叔を見舞ったこと自体は覚えている。だが、その場に其方がいたかどうかについては記憶がない。余もあのころはまだ若くて、周りがよく見えていなかったのだ。だが、旦という少年が見送ってくれたことは覚えているぞ。ひょっとしたら、其方こそ余を避けていたのではないか?」


「わたくしは確かに病床にある公叔さまの脇に控えておりました。ですがいっこうに殿さまからのお声がけがありませんでしたので、中座したのでございます。いまにして思えば誠にご無礼な振る舞いでした。あのときはわたくしも若くて、自分のことしか考えられなかったのです」


「では、お互いさまだ。そのことは水に流して、今後はなにも言うまい」


 魏罃は、思っていたより話のできる人物であった。そのことに感心した娟であったが、話したいことは別にある。娟はやや姿勢を正して本題へと切り込んだ。


「実は本日……わたくしは殿さまのいとこという立場で参ったのではございません。また亡き公叔さまの養女という立場で参ったのでもございません。本日のわたくしの身分は、先に陣没した上将軍龐涓の妻……その立場でお話したく参りました」


「龐涓の妻か……そう言われると君主としてはなかなかにつらい。龐涓はよい将軍であったため、余も任せきりにしてしまった。趙や衛、韓などに遠征しながら斉と戦ってきたわけだから、伴侶としても心配の種は尽きなかったであろう」


 意外なことに魏公罃は思いやりのある言葉をかけてくれる。娟としてはその事実に救われた思いがしたが、彼女が訴えたいことは、それとは少し違った。


「夫である龐涓将軍が戦場で亡くなった原因が殿さまにあるとは考えておりません。夫は将軍であり、生前からその責務を常に自覚しておりました。国を守るために先頭に立って奮戦することは、仕方のないことでございます。問題はなぜ魏がそこまで戦わねばならないことになったのか、ということですが……殿さまはこれについてどうお考えになりますか」


「それについては先日孟子が余に述べた。公は戦争を好む、ゆえに領民は戦ってばかりなのだと……」


「殿さまご自身もそう思っていらっしゃるのですか。わたくしは違うと思います。確かに実際に戦争を導いたのは殿さまでいらっしゃいますが、裏で糸を引いていた者がいるのです。……つまり、世の流れが戦争に行き着くように計画を立てていた者が」


「そうすると余はその人物の手のひらの上で踊っていたことになる……けしからん。誰なのだ、その者は」


 魏罃は本気で怒っているようであった。少なくとも彼は自分の意志で戦っていると信じていたし、たとえその実行役が自分ではないとしても、責任は取るつもりでいたのであった。しかしそれが別の人物の意志によって誘導されていたことを知ると、妙に落ち着かなくなったのである。


「公主はまさかそれが神の意志だとでも申すのではないだろうな」


「いいえ。それはこの世に実在する人物です。殿さまも一度はお目にしたことがあるでしょう。公叔さまの腹心で、その死後に秦へと渡った衛鞅こそが、その人物です」


 鋭く言い放った娟を前にして、魏罃は深くため息をついた。


「衛鞅……かつて余はあの男のことを軽く見積もり、公叔の勧めにもかかわらず仕官を許さなかった。しかしその衛鞅が秦で法を大胆に改正し、この魏を脅かす強国に育て上げたことは余にとって取り返しのつかぬ悔恨の種だと思っているのだ。だが……衛鞅は秦で栄達して商鞅と名を変え、大良造となったと聞いている。それは秦の民に好かれたからではないのか。善政を布いた結果、栄達したのではないのか。すべては魏を貶め、不当に戦わせることによって得た結果だと公主は申すのか」


「そればかりではありません」


「なんと」


「衛鞅はもともと公叔さまの食客でありましたので、私は幼きころから生活をともにしてきた過去がございます。……あの男は当時からこの私に目を付け、それゆえわたくしの婚約者でもあった龐涓将軍を憎み、あの方を恣意的に戦地へと赴かせました」


「衛鞅の私情から始まった戦いだというのか。それに余も付き合わされたというわけか」


「それだけではありません。衛鞅はこちらの情報を斉にわざと漏らし、魏が敗北するように仕向けました。その結果を確信したうえで、秦に逃亡したのです」


「公主への私情から戦争を引き起こしたことは大罪ではあるが、理屈としてはわかる。だが、奴が国を捨てた理由はなんだ。結果的に龐涓は敗れた。こう言ってはなんだが、衛鞅はこの時点で目的を達成したのではなかろうか」


 なにがそうさせたのか、と魏罃は問うのだった。しかし娟にとっては、答えは明らかである。それは衛鞅、つまり商鞅の栄達欲であり、人に認められて上に立ちたいという願望であった。


「無礼を承知の上で申し上げれば、殿さまが衛鞅の任官を否定した時点でそれは始まったのです。もともと衛国の公族でありながら魏に来た人ですから、国に対する忠誠心より自分のことを優先させる性格なのでしょう。小国の衛を捨てて大国の魏へ来ましたが、そこで栄達が叶わないと知ると秦に乗り換えた……衛鞅とはそのような人物なのです」


 これを聞いた魏罃の顔色が曇った。すべての混乱の原因が自分にあるということか……しかし君主とはそもそもそういう存在でもあるわけだし、彼自身も責任をとるつもりではいるとの言質を得ていた娟としては、発言を止めない。


「衛鞅を宰相にすればよかった、と考えていらっしゃいますか」


「……かつては公叔痤の勧めるままに、やつを宰相すればよかったと考えたが……詳しく話を聞けば、そのような男、無用であると言うしかない。実質的に国を司る立場の宰相とは、まったく邪心のない者が就くべき地位だ。余はそう思う」


「正しいご判断だと思います」


「その昔、公叔はもし衛鞅を用いないのであれば、殺して他国に利用されないようにせよと余に忠告した。衛鞅を用いなかったことは正しかったと思うが、野放しにしてしまったことは余の誤りだ。やつのおかげで魏は安邑を失い、龐涓、太子申、公子卬……優秀な人材をことごとく失った。どうにかしてこの状勢……挽回したいものだ」


「殿さまがそうお考えになるのであれば、いまが絶好の機会です。秦ではいま君主が交代し、商鞅は新たな君主から疎まれております。咸陽を追われたあの人は、放浪のあげくこの魏に渡ろうとしているのです」


「ここに? 確かか」


「間違いのない知らせです。殿さま、商鞅を魏に入れてはなりません」


「では入国しようとしてきたところを捕らえて殺すか」


「いいえ。それはいけません。疎まれているとは言っても、まだ商鞅は秦に属していますので、これを捕らえて殺してしまっては、秦に口実を与えてしまいます。それを理由に秦から攻撃を受けたら、現在の魏には対抗できる将軍がおりません」


「龐涓はすでにいないからな。では、どうする」


「入国しようとしてきたところを捕らえて、秦に送り返すのがよいかと思います。あの人の処断は秦におこなってもらうのが、結局最善の手段ではないかと思うのです」


 魏罃は、自らの手を汚さずに事を終わらせるこの案が気に入ったのだろう。満足そうな笑みを浮かべながら手を叩いた。


「秦が今に至り強国となったのは、やはり衛鞅……いや商鞅の手腕によるところが大きかったと余は見ていた。しかしその道を秦が自分で絶つとは愉快だ。商鞅亡きあと、秦はしばらくの間、立ち直れまい。……しかし公主はそれでよいのか。秦に商鞅の処断を任せてしまえば、その処刑の場にも立ち会えないが。やつの首が落ちるところを見たくはないのか」


 この質問に娟は弱ったような表情を浮かべた。当初の予想より魏罃という人物に好印象を持ったのだが、やはり彼も戦時の君主であると感じざるを得なかったのだ。


「わたくしはそのような悪趣味を持ち合わせておりません」


 そう言ったものの、結果さえよければすべて満足というわけでもなかった。娟は即座に言い足した。


「商鞅を捕らえたとき、すぐに送り返すのではなくてわたくしとの対面の場を設けていただければ幸いです」


 魏罃はこれを快諾した。



 公主娟と魏公罃の会話は、魏の人々に劇的な形で伝わった。邯鄲の放棄、斉との会戦、安邑落城、領域の縮小……そのすべての要因が商鞅の策略によるものだと人々は知り、宰相公叔痤の死、上将軍龐涓の横死、太子申の降伏、公子卬の敗北……そのすべての根源が商鞅の存在によるものだと信じた。その商鞅が逃亡のあげく魏へ入国しようとしていることを知り、人々は意識を一つにした。


「商鞅許すまじ」


 その結果、国境に複数存在する関所には自発的に入国者を見張る者たちが溢れるようになり、彼らは派遣された軍隊組織と連携して不審者の摘発に躍起となったのである。


「商鞅に気付かれなければよいのだけれど……」


「あの男は追いつめられています。そのため多少の危険は顧みずに関所を突破しようと試みるでしょう。ご心配いりません。捕まりますよ」


 娟の心配を傍らにいる趙良は打ち消そうとした。しかしその発言は確信に満ちている。彼らは人相書きを作成して各関所へ配り終えていたので、取り逃がす心配は全くなかった。


 やがて不審者を捕らえたという情報が娟のもとへ届いた。関所に抑留しているが大梁からは二日ほどの行程がかかるとのことであった。娟は趙良を伴って、その関所へと向かった。白圭のもたらした情報に、結局誤りはなかったのであった。


「あれが商鞅と思われる男です。ご検分をお願いします」


 関所の門番に請われてその顔をうかがった娟は、即座に答えた。


「衛鞅、いえ商鞅に間違いありません。話せますか?」


「いまは駄目です。もうすぐ日が暮れますので……あの男が商鞅だと認められた以上、軍隊に引き渡さねばなりません。夜になってしまうといろいろと危険が伴いますので、急がなければならないのです。明日の朝、もう一度お越しください」


 そこで一行は関所手前にある宿屋で夜を明かし、朝を待った。もし商鞅が魏で法を改正していたら、このような行動も禁じられるのである。彼女たちは、安堵のため息を漏らしたのであった。商鞅は捕らえられた。あとは問い詰めて秦に送り返すのみである。


「念のために聞きますが、本当にそれでいいのですか。公主さまのお気持ちは……」


 趙良は心配になって尋ねてみた。自分の手で商鞅にとどめを刺す気がないのかどうか、確かめたかったのである。


「そうねえ……同じことを殿さまにも聞かれたわ。でもやっぱり、あの人には社会から制裁を受けてほしい。わたしはあの人のせいで夫を失ったけど……商鞅の罪はそれだけじゃないわ」


「私も公主さまに人を殺めさせたくはありません。それでよいと思います」


「でも、明日実際に会ってみたらわたしの気持ちも変わるかもしれない。そのときは趙良さまが止めてくださいね。どうかくれぐれも……」


 趙良は微笑みを返し、それを了承した。



 翌日、商鞅は兵士たちに取り囲まれていた。手は後ろで縛られ、両脇を抱えられている。その姿は、まるで捕らえられた猿のようであった。しかしその猿のような生き物は、娟の姿を認めるなり、流暢に人語を操った。


「これはこれは、誰かと思ったら公主さまではないか。よいところに現れてくださった。ぜひこの連中に私の無罪を証明してほしい。もちろんそのために来てくれたのだろうが」


 ぬけぬけと放たれたひと言であったが、意外にもこれは商鞅自身の本心であったのではなかろうか。虚を突かれた形の娟であったが、あえて一呼吸置くと冷たく言い捨てた。


「相変わらずあなたは自分のことしか見えていないのね。あなたを入国させるわけにはいきません。(わざわい)のもとです」


 商鞅は娟の言葉の意味がよくわからないようであった。


「なにを言う。昔からの仲ではないか。私の能力については知らぬこともあるまい。おまけに私は秦で実績を得た。法を整備して秦を強国たらしめたのだ。その経験を活かして今後は魏のために働くつもりだ。どうか口添えをしてほしい」


 驚くことに商鞅は魏で就職活動したいと言うのである。そしてその表情にはまったくのふてぶてしさもなく、当たり前のことを当たり前のように言う落ち着きがあった。それだけに娟は腹を立てたのである。


「ぜんぜん悪びれる様子もなく、そんなことを言うのが腹立たしいわ。あなたは自分のしたことがわかっているの? 魏の情報を斉に垂れ流して龐涓将軍を死に至らしめただけではなく、公子卬をだまし討ちにした。聞けば、あなたと公子卬は過去にひとかたならぬ関係であったと言うじゃないの。それを騙すだなんて……あなたは人として信用できません」


 周囲の兵士たちは、娟の言葉にざわめいた。彼らはそもそもその噂を聞いて集まったのである。本人の口から真実を聞きたいと考えるのも当然であった。


「公子卬とお前はどういう関係だったのだ」


「おまえのせいで龐涓将軍は亡くなった。俺はかつてあの方の部隊にいたことがある」


「真実を話せ」


「どうやって他国に情報を流したのか」


「話せ!」


 兵たちは口々に商鞅を問い詰め、やがてはその顔を殴ろうとする者まで現れる始末であった。娟は彼らのその動きを制して言う。


「私的に制裁を与えてはなりません。商鞅さま、あなたを罰する役目は、秦の宮殿に担っていただきます。わたしたちは、その責任を負いません」


「冷酷な女め」


 商鞅はその平板のような顔に憎しみを込めて言い放った。娟にとっては初めて見る、彼の人間的な反応であった。


「その言葉、そっくりそのままあなたにお返しします。あなたに鼻を削がれたり、刺青を彫られたりした人は、みな一様に……あなたのことを冷酷だと思っていることでしょう」


「…………」


「秦で許されるかどうかは、あなた自身にかかっています。自分の命を惜しいと思うのなら、宮殿に赴き、もろ肌を脱いで秦公に許しを請いなさい。それしかあなたの生き延びる術はないでしょう」


 商鞅は意固地になったように叫んだ。


「嫌だ!」


「ここで大声を出してもあなたの味方をする者は誰ひとりとしていないのです! もともとあなたは公叔さまにお世話になったにもかかわらず、魏を捨てた過去があります。今さら戻ってこようとしても、誰も受け入れるはずがありません」


「…………」


「わかったなら、さっさとお行きなさい! もうあなたの顔は二度と見たくないわ!」


 商鞅は抵抗しながらも、兵たちに連れ去られた。


 娟はやりきれぬ思いを抱きながら、その様子を最後まで見つめていた。



 大梁に旦が帰ってきたのは、それから数日後のことであった。


「少し痩せたわね。精悍さがまして……大人の男らしくなったわ」


 久しぶりに顔を合わせた娟が最初にかけた言葉は、旦の行動の結果についてなどではなく、その見た目の成長具合についてであった。


「実際のところ、僕の計画が甘かったのです。途中で食が尽きて……まったく食べられない日がしばらく続きました。でもなんとか、こうして帰ることができました」


「……お帰りなさい」


 旦は娟の優しさに安心した気持ちになったものの、自身の旅の結果についてなにも問わないことに意外さを感じた。やり遂げた気持ちで帰ってきたにもかかわらず、それについてはなにも聞かない娟に、若干ではあるが不満さえも抱いた。


「旅の結果については、お聞きなさらないのですか」


「……もちろん聞くわ。ゆっくりとね。でも、正直に言うと、少し聞くのが怖い。実の息子のように可愛がってきたあなたが……死ぬほど苦労した、なんて話を聞くのは、ね」


「僕ももう子供ではありません。修羅場をくぐり抜けて、大人へと成長したのです。結果から申し上げますと……孫臏をこの手で討ち取りました。僕の目の前で、彼は息を引き取りましたよ」


 娟は目を丸くするような表情を浮かべたが、不思議なことにそこにはいつもの愛嬌がなかった。それは、喜んでいるとも悲しんでいるともとれる顔であった。


「みごとに将軍の仇討ちを果たしたのね。それはわたしの願いでもあったのだから、あなたにはありがとうと言わせてもらうわ。……そのついでに死ぬ前の孫臏の様子を教えてくれるかしら?」


 旦は娟のどこか気乗りしない様子に戸惑いながらも、自身の経験した事実を話し始めたのだった。


「……孫臏は将軍がかつて話してくださったように、両脚を失って車椅子に乗った男でした。僕はあとさきを考えずに孫臏が潜んでいると言われている土地に乗り込んでいって、その結果捕らえられてしまいました。そのとき孫臏は将軍との戦いの成果を書物として残そうとしていました。彼の祖先である孫武に倣って兵法書を書き上げようとしていたのです」


「それを知ったとき、どう思った?」


「孫臏が将軍を倒して死に至らしめたことを、自分自身の功績として考えていることに腹が立ちました。もちろん僕も孫臏の立場であったなら、最大の敵を倒したことに誇りを持つに違いありません。ですが、そんな理屈は抜きにして……腹が立ったのです」


 立場の違いによって同じ事実でも見方が変わるという典型的な例であろう。それをわかっていても乗り越えることが出来ないのが人である。どうあってもわかり合えない相手というものは、社会の中には必ず存在する。そのような者同士が接点を持ったとき、往々にして不幸が訪れるのだ。


「孫臏は、自身の理論をさらに完全な形で実現しようとしたのでしょう。彼は自分の命令を無条件で実行できる兵たちを養成し、自分はまるで神のように振る舞っていました。そこの兵たちに自分の意志はありません。孫臏の思うように動く操り人形のように、敵を殺すのです。……ものすごく異様な光景でした」


「自分だけの軍隊を作っていたというわけね。だけどあなたはそれを破った」


「いろいろな人が陰ながら協力してくれたおかげで、それを実現できました」


「……ねえ旦、正直に言ってちょうだい。あなたはその結果に……完全に満足しているのかしら? どこか心に引っかかるようなことはない?」


 それと同時に旦は娟がなにを考えているのかを理解した。娟は旦の内心を鋭く観察しており、どことなく浮かぬ表情であった理由はまさにそこにあったのだった。


「…………」


「どうなの?」


「もちろん将軍の仇を討ったことに満足はしています。……いや、したいのです。ですが孫臏には年若の従卒がいて……僕はそのうちふたりを殺してしまいました。おさなごを殺したようで気が咎めているのです。孫臏に怨みがあるとはいえ、本当にそこまでする必要があったのかどうか……いまでも答えは出ません。公主さま……僕は正しいことをしたのでしょうか。どうか教えてほしいのです」


 言い終えた旦は、我知らず涙で頬を濡らしていた。娟はそれを優しく手で拭きながら語りかけた。


「その思いはわたしにもよくわかる。でも正しいか正しくないか……そんな大それた判断はわたしにはできないわ。実はこのあいだ、魏に戻ってこようとした商鞅を追放したばかりなの。その自分の行動が正しかったのかどうかさえ、わたしにはわからないのよ」


「商鞅とは、衛鞅さまのことですか。追放……?」


「秦では君主が亡くなって、そのおかげであの人は後ろ盾を失ったの。過去に不当な刑罰を与えた人たちから恨まれて、追われているのよ。あの人はもう秦国内で大罪人の扱いを受けています」


「それを、公主さまは……」


「そう、追い返したのよ。丁重に軍隊の護衛を付けてね……あなたが孫臏を始末すると言ったから、私は衛鞅に仕返しをすることに決めたのよ! だって、将軍は衛鞅の策略にはまったおかげで亡くなったのだもの!」


「今ごろ、衛鞅さまは……?」


 旦の問いに娟は首を振って答えた。それは商鞅の将来などには興味がない、と自分に言い聞かせているような姿であった。


「知らないわ。でも遠からず処断されるでしょう。それは間違いないわ。わたしの目的は達せられた……でも、どうしても気分が晴れないの。たぶん、旦と同じ気分よ」


 ふたりとも積年の思いを成就させたというのに満足できない……やはりふたりは親子のようであり、また姉弟のようでもあるのだった。娟は先刻の旦と同じように涙を流し、床に座り込んでしまったのだった。



「旦どの。私は趙良と申します。秦国の生まれですが、現状に疑問を抱き公主さまと行動を共にしてきました。それにしても斉の軍師である孫臏を討ったとは……旦どのは見上げた行動力をお持ちですな。やはり亡き龐涓将軍の薫陶が行き届いていると申すべきでしょうか。あなたの行為は諸国の趨勢を左右させるほどの結果を生み出しました。斉は王国を称しましたが、しばらくは体制が整いますまい。覇権は別の国に流れるでしょう」


 旦は趙良と顔を合わせるのが初めてだったが、その慇懃な態度に好感を抱いた。なるほど、公主がそばに置いておくような人物だ、と感じた。


「僕の行為がそれほど影響力を持つとはとても思えませんが、お褒めいただいたと思ってもよろしいのでしょうか」


「もちろんです。そして公主さまもあなたと同じように本懐を遂げられました。しかし、公主さまはとてもお疲れなのです。お気持ちはお分かりかと思いますが……」


「ええ、とてもよくわかります。僕も公主さまと同じ気持ちですから……」


 心優しき趙良は、娟の肩を抱くようにして隣室へと誘い、少し眠って休むよう伝えた。もともと強気が自慢の娟であったが、このときばかりは素直に応じたという。おそらくは旦が帰ってきたことでそれまでの緊張が緩み、本音をさらけ出したくなったのだろう……少なくとも趙良はそう感じた。


「旦どのがうらやましい。あなたが留守の間、私は懸命に公主さまをお支えしてきたつもりですが、ついぞあのように本音を語ることはなかったと思います。もっと頼られる存在になりたいと思っているのですが、どうも叶わぬ願いのようで」


「趙良さまは公主さまのことをどのように思っていらっしゃるのですか。もし、ひとりの女性として恋慕の情を抱いておられるのであれば、なかなかその思いを遂げることは難しいと存じます。なぜなら公主さまの心の中には、いまでも将軍がいらっしゃいます」


 趙良はほんの僅かの間、顔を赤らめ、困惑した表情を浮かべた。しかし彼は意識を新たにしたのか、力強くその思いを打ち明けたのである。


「もちろん私の命に替えても公主さまをお守りしたいという思いを抱いております。私はあの方の一生涯を支えたい。もちろん公主さまの心にいまでも龐涓将軍がいらっしゃることは私にもわかっています。ですが、それがどうしたというのです? 私にはその事実も含めてあの方を好いているのです」


「その気概には感服します……。少し、僕の気持ちをお話してもいいでしょうか。僕は、将軍と公主さまの養子として育ちました。将軍はすでにお亡くなりになりましたが、公主さまには実際の母親と同じように感謝しているのです。でも、実際のところ公主さまと僕とでは親子ほど年は離れておりません。だから公主さまは僕にとって姉のような存在でもあったのです」


「…………」


 趙良は旦がなにを話そうとしているのかを理解した。だが、理解していながらどう返事をするべきか迷ったのだった。


「冷静に考えれば、公主さまはまだお若いし、長いこの先の人生を未亡人として過ごしていくことには過酷さを感じます。でも……だからといって公主さまに将軍のことを忘れさせることは出来ないだろうし、将軍は僕にとって父代わりでもあり、人生の師でもありました。つまり公主さまの思い出は僕の思い出でもあるわけです。なにを言いたいのかお分かりでしょうか」


「要するに旦どのは、母親である公主さまが龐涓将軍とは異なる男と結ばれることに抵抗を感じている、ということでしょうか。その気持ちはよくわかります。しかしだからこそ私は……公主さまご本人に思いを伝える前に、あなたにお話ししているのです」


 趙良の言い分はもっともであり、非常に礼節もわきまえていた。旦にとって腹を割って話すべき相手であることは確かであったとともに、いつかは解決しなければならない問題でもあった。


「趙良さまを相手にこんな話をするのはお恥ずかしい限りなのですが……僕はかつて将軍の替わりを努めようと考えていたときがあったのです。つまり、将軍が亡くなったあと、公主さまの伴侶として僕がその役目を務めようとした、ということですが」


 趙良は驚いた様子を見せた。実際に血縁はないとは言え、息子の立場にある者が母を娶ろうとしたというのである。


「公主さまは魅力的な女性ですので、旦どのがそのようなお気持ちになるのもわかるような気がします。それほどお年が離れているわけではないのですから……。しかし、そのお気持ちに今も変わりはないのでしょうか。もしそうだとすれば、私などは潔く身を引かねばなりません」


「とんでもありません。僕は公主さまの幸福を願っておりますが、以前に抱いたような気持ちは、いま現在ではありません。要は、僕も幼かったのです。小さいころからの公主さまに対する憧れを……そのような形でしか考えることができなかった、そういうわけです。趙良さまが絶対に公主さまを幸福にできるとお考えであれば、僕に反対する理由はございません。必要であれば後押しもいたします」


 すると趙良は安心したような表情を見せた。


「私は商鞅相手にいくつかの諫言をしました。しかしそれは商鞅のためを思ってのことではなく、商鞅本人に自分が滅ぼされる理由を知らしめるためのものでした。つまり、私は商鞅に商鞅本人の欠点をあげつらって見せたわけです。……いま旦どのに同じようなことを言われなかったことに心底ほっとしています。念のために聞きますが、信じてよいですか?」


「もちろんです」


 趙良のような男が現れたことを、旦は喜ぶべきだ、と感じた。しかしその一方で若干の寂しさをも感じる。それは未だ旦自身が幼さを捨てきれていなかったためであり、本人もそのことを自覚していた。そのため目の前の事実に激しく抵抗することはなかったが、彼はこの時点で決定的な決断をするに至ったのである。



「公主さま、僕は仕官することに決めました」


 翌朝になって旦は挨拶もそこそこにそのような言葉を口にした。


 小鳥がさえずる気持ちのよい朝であった。しかしそれは旦が文字通り巣立ちの意志を示した象徴ともいえるような気が、娟にはしたのである。


「せっかく戻ってきたというのに、もうここを出て行くつもりなわけ? わたしをひとりだけ残して?」


「暇ができたときには帰るつもりですから、どうかそのような言い方はなさらないでください。それに……公主さまはおひとりではありません。趙良さまがそばにいらっしゃいます。どうかそのことを大切にお考えください」


 娟はこのとき目をぱちくりとさせて、旦の発言の真意をうかがっていた。


「おわかりになりませんか?」


「……わかるわよ。からかわないで」


「わかるのですか?」


「趙良さまがわたしのことを思ってくださっていることには気付いているし、そのことをとても嬉しく感じてもいます。でもそのことを受け入れていいのかどうか……わたしが迷っているのはそこなのよ。将軍のことも忘れられないし、未だにきちんとした弔いもできていないのに……新たな幸福を求めてもよいものか、と思っているのです」


 旦は柄にもなくため息をついた。娟は活発で言いたいことを言う奔放な女性だったが、昔から義理堅いところは確かにあった。困ったことではあるが、そこが彼女の魅力なのである。


「公主さま、これは僕自身にも自分で言い聞かせていることなのですが……人間は生きている間、多くの苦しみを味わいます。死んでしまえばその苦しみからは解放されますが、そのかわりに生きていれば得られたはずの幸福をも失います。将軍は、自ら望んだわけでもないのに死という運命を迎えてしまいました。だから僕らは将軍が生きていれば味わったはずの苦しみを受け入れなければなりません。しかしそれと同時に多くの幸福も得なければならないのです」


「苦しみの果てに幸福が待っているというわけ? でもわたしが幸福になったとしても死んでしまった将軍がそれを喜ぶことはないと思うわ」


「公主さま、どうか考えてみてください。将軍が公主さまの不幸を喜ぶはずがないということを。もし趙良さまが……将軍がお認めになるようなお人であると考えるのであれば、公主さまは素直にその思いを受け止めるべきです。もし趙良さまが、将軍がお認めにならぬようなお人だとお考えになれば、断固として拒絶なさればよろしいでしょう。僕から言えることは、そのくらいです。もともと公主さまはご自分のことをご自分で決める性分でしたから、すでにおわかりのことと思いますが」


「わかっているわよ。もう少し考えてみるから……」


 驚くことに、旦が仕官を目指して家を出る際の挨拶がこの会話であった。当人に対する激励の言葉が娟の口からまったく発せられなかったことに、彼女の焦燥と旦に対する信頼が見て取れる。しかし旦はそのようなことをまったく気にせず、その日のうちに魏公へ面会を求めた。



 魏公に会うまではいくつかの段階を経ねばならないと覚悟していた旦であったが、大梁の宮殿まで辿り着き、門番に自分の素性を明かすと、その後は流れるように奥へと案内された。どうやら自分が何者かをみな知っているようであり、そして自分がなにを成し遂げたかをやはりみな知っているようであった。


——前に蘇秦どのが言っていたが……。


 旦の功績が魏公へ届くように手を回しておく、と蘇秦が言ったことを思い出した。旦はあのときかなり追いつめられていたので、その発言の真意を疑っていた。単なる励ましの言葉に過ぎないと考えていたのである。


 だが実際は蘇秦の言うとおりであった。宮殿の門番のひとりは、実際にこう言ったのである。


「単身で斉の孫臏を倒した、とうかがっております」


 そう言われて否定するのも都合が悪い。なにしろそれは事実であるのだから、謙虚さを装って否定したところで、それは嘘をついたことになる。結果的に旦はこう返した。


「数多くの方々の協力によって、成し遂げることができたのです」


 これも偽りのない真実であった。実際のところ旦は立身出世のために孫臏を倒したのではなく、亡き龐涓の仇を討つことを目的にそれを果たしたのである。このことによって自分を高く売りつけるつもりはまったくなかった。


「宿願を果たし終えたので、今後の人生を考えたまでです。どうか、わたくしを特別な男だと思わないでください」


「なんとも奥ゆかしいお方だ。我が君が聞けば、さぞお喜びになることでしょう。どうぞこちらへ……我が君はあなたのいらっしゃる日を心待ちにしておられました」


 すでに魏公は旦が来ることを知っているのだという。



「其方は龐涓の家に居た旦ではないか。まさか其方が孫臏を……これは驚いた」


「覚えていてくださって嬉しく思います」


 魏公罃は面前にした旦の姿を見て感嘆の声をあげた。魏公は孫臏を倒した男の行方を追い、宮殿に招くよう指示していたが、実はそれが具体的に誰かを知らなかったのである。

「其方とは以前に公叔痤の屋敷で話をしたことがあったな。あの頃はまだ年端もいかぬ子供であったが、立派になったものだ。余は嬉しく思うぞ」


「あの当時、殿さまとわたくしは公叔さまの家宰である衛鞅を取り立てるかどうかについてお話ししました」


「うむ。よく覚えている。先日公叔の養女であった如公主娟とも話をしたので、あのときの光景が記憶の中に呼び起こされたばかりなのだ。当時公叔は衛鞅を宰相に取り立てるよう進言したのだが、余はそれを受け入れなかった」


「公叔さまの家と我が主人である龐涓将軍の家とは深く交流がございましたので、わたくしは幼きころより衛鞅さまをよく存じ上げておりました。それだけに当時の殿さまのご判断に残念な思いを抱いたものですが、今となっては正しいご判断だったと思います」


「必ずしもそうは言えない。余は、衛鞅を用いなければ即座に殺すべきという公叔の言葉に従わず、結果的に国を危機に陥れた。しかしそれももうすぐ解決する。如公主が再び入国しようとする衛鞅を追い払ってくれたからな」


「うかがっております」


「そして其方は孫臏や田忌を討ち取った。なぜ余がそのことを知っているかというと、楚の王から使者があったからだ。徐州を焼いたのは確かに楚軍だが、それを導いたのは魏の男だ、と。功績大にして召し抱えるべし、と提言をいただいたのだ」


 おそらくは蘇秦が手を回してくれたのだ。なぜ彼が自分を助けてくれたのか、今となっては知る方法もないが……旦としては感謝する以外になかった。


「斉では田忌や孫臏がいなくなったので、しばらく外征を控えるようになるだろう。秦も衛鞅のような輩に振り回されたので、ここしばらくは大人しくなるに違いない。すべて其方と公主娟、龐涓将軍の息がかかった者たちの手柄だ。褒美を与えたいが……」


「恐れながらわたくしが本日こうして参りました理由は、仕官先を求めてのことでございます。褒美をいただくかわりにどうかそれを手配していただけたら幸いです」


「ほう、仕官するとな……」


「なにしろ現在のわたくしは自分自身の食い扶持というものを持っておりません。わが家には養父であった龐涓将軍が過去にもらい受けた俸禄と、養母である公主娟の持つ如家の遺産が残っているだけでして。双方とも食い潰してしまう前に定職を得たいのです」


 そこで魏公罃は少し考え込む表情を見せた。そうすると君主としての威厳がやけに重く感じられる。まさか断られるのでは、と旦はひそかに恐れた。


「仮に其方に官職を与え、余の側近として置いたとすれば……其方は余になにを提言してくれるか」


 旦は即座に答えた。この問いに関しては、以前から考えていた答えがある。


「何よりも先に、殿さまに王を称することを提言いたします」


 魏罃は驚いていた。旦という男は幼いころから畏まった言葉遣いと、育ちの良さが目立つ素振りが印象的であったため、彼は旦が何ごとにも慎重論を唱えるものと考えていたのだった。


「それについては先に王を称した斉からも、貴国も王国を称せよとちょくちょく言われている。しかしそもそも楚が徐州を焼いた理由も、斉が生意気にも王国を称したからだと聞いているのだ。我々が王国を建てたとすれば、やはり楚が怒るかもしれぬ」


「しかし、魏が王国を称さなければ、斉の独走を招いてしまいます。先に王国を称している楚が怒ることは間違いないでしょうが、まだ現在の国力では魏が楚を上回っていると言えるでしょう。時代の流れは止められません。秦が王国を称してしまう前に……いずれ韓や趙も王を称するでしょう。ここは他国に先んじることが何よりも重要と考えます」


「ふむ……では仮に其方に官職を与えて国防のすべてを任せたとする。其方はどのように周辺の他国と渡り合うか。聞かせてもらいたい……孟子からは『公は戦争が好きだ』と言われてしまったからな」


「……わたくしは龐涓将軍の薫陶が行き届いた男ですから、あの方の持つ剣技や格闘術、あるいは兵の指揮能力など……いろいろな教えを受け継いでおります。しかしながら、私のもっとも得意とするところは弁です。わたくしは今後、弁こそが世界を変える力だと信じております」


「言葉で戦争を回避できるものなのか? どうにも信じられぬことだが、実際に戦いで孫臏を討ち取った其方がそれを信じているのだから、その言葉には説得力がある。……ううむ、不思議なものだな! 余も其方の弁論に気持ちを流されているぞ」


「多くの書を読み、学問に励みながら、自らの弁にさらなる磨きをかけたいと思っております。わたくしの信条は『人の能力に不可能はない』ということでして、この視点から戦いにはやる諸侯を説き伏せたいと考えているのです」


「人の能力に不可能はない、と……? だが実際に余は戦いを止めることができなかった。それだけではない。余は書物を読むことが苦手で、目を通してはみるものの、ものの数刻で断念してしまう。ましてや庶民であれば、畑仕事が苦手な者もいるだろうし、生来怠け癖が抜けない者も多いだろう。其方の言う人の能力とは具体的にどのようなものをさすのか」


「以前同じ問いについて友人と話したことがございます。わたくしがこれからお話しする内容はその繰り返しとなりますが、ご容赦ください。……尭舜(ぎょうしゅん)のむかし、人々は黄河の度重なる氾濫に悩み、思うように生きられませんでした。しかし、現在では治水対策が施され、人々は快適に農作業を行えます。その農作業にしても、むかしはほぼ人力……土を耕すにも道具がなく、手でそれを行っていました。ですがいまでは、人々は牛や馬を飼い慣らし、道具には鉄の部品を取り付け、作業の効率は格段に高まっています。将来はひとりでに収穫を行う道具が登場し、人はその様子を眺めているだけでよい、という時代が到来するに違いありません」


「話はわかるが、ひどく迂遠な内容だな。千年も昔から見れば……どんな生物だって進化するだろう。しかし話によれば、千年前にはこの大陸の空に竜が飛んでいたそうだ。だがいまではいっこうにその姿を見ることはない。進化できずに淘汰された例も確かにあるということか。だが余の期待するところは人類の千年先の姿ではない。せいぜい五、六年先の姿である」


「もちろん仰るとおりでございます。ですが人同士で戦ってばかりいては、人類は千年先に存在しないでしょう。わたくしはそのような未来を避けるために尽力したいと考えているのです」


「……斉にはどう対処する?」


「殿さまが王を称することによって楚の斉に対する怒りを分散させるのです。その流れはいずれ秦や趙にも伝わり、いずれ楚はその怒りの矛先を向ける相手がなくなりましょう。これによって我々は斉に恩を売ることができます。長らく続いた戦いのために、魏は太子の申さまや我が養父の龐涓将軍も失いましたが、斉も田忌将軍と軍師孫臏を失っております。両国の争いは、これで終わりを告げます」


「……秦にはどう対処するか」


「衛鞅、いえ商鞅が失脚したので秦の国政はしばらく安定しないとわたくしは考えます。これまでの考え方だと、その混乱に乗じて攻め込み、領地の一部を奪うといったところでしょうが……そこをあえて黙殺します。機会があればその事実を秦側に伝え、やはり恩を売ります。亡命しようとした商鞅を秦国内に送り返したのも我が魏であるという事実も合わせて、両国の間に友好の関係を築くことができましょう」


「ふうむ……」



 魏公罃は、これら一連の会話ののちに自ら王を称することを内外に発表し、新たな人事を伝えた。


 その最初の一行に、宰相として恵施の名があったのである。


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