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戦国に生きる ー魏国興亡史ー  作者: 野沢直樹
第三部
14/20

復讐

挿絵(By みてみん)



 魏国の覇権は失墜し、地に落ちた。失墜し、川底に沈んだ。それはもう取り返しようがなく、旦としては諦めるしかなかった。だが覇権を失うことが国の滅亡につながるとは限らない。百歩譲って国が滅びたとしても、そこに住む人々は存在し続ける。彼らが勝者の奴隷となることを、旦は龐涓に替わって回避させねばならなかった。その責任は重く、しかも誰からも託されたものではない。自分ひとりでそれを責任と感じ取っているだけであった。


 そういうわけなので、旦には味方がいない。いたとしても遠く離れた地にいる公主娟や商人白圭……その程度であった。彼はこの状況をひとりで解決するよりほかなく、実際に追い込まれていたのである。


 だが、旦に悲壮感はない。彼には自信があった。それは死した龐涓の教えと彼を見守る娟の愛に応えたい、という思いから来るものであった。彼は孫臏との邂逅後、まるで変身したかのような進化を遂げる。



 孫臏の姿はほとんど以前と変わっていなかったが、頭には白髪が目立つようになっていた。かつての偽悪趣味はやや和らいだようにも感じるが、しかしそれは外見の印象でしかない。従者に道端で人を襲わせるような教育をしているのだから、むしろそれは激しさを増したのではなかろうか。


 それにしてもこの万とかいう従者……人のことを小僧ではないと言っておきながら、自分自身は小僧そのものである。その生意気な口ぶりに、いつか仕返しをしてやろうと思う旦であった。


「従者が手荒なことをしたようだが、そもそもはおまえが悪い。俺に何の用だ。なぜ居場所を探るのか」


 以前よりは若干落ち着いた口調の孫臏であった。しかし言い分は受け入れることのできないものである。旦は発作的に反発した。


「居場所を尋ねただけで罰するとは、心にやましいことのある証拠だと僕は思います。いったいどういうおつもりですか」


「生意気な口をきくな」


「……お答えください」


 言いながら、旦は周囲を観察していた。ひどく暗い室内の中に万と呼ばれる従卒であろう人物と車椅子に乗った孫臏のふたり……宮殿の中にある一室というものでは決してなく、木材の継ぎ目から光が漏れるような小屋に過ぎない建物の中に彼らはいたのである。そして自分はそこに捕らわれており、両手を縛られていた。彼らに殺されることは、簡単に想像できた。この薄汚い小屋の中で……。


 しかし意外なことに、外は騒々しい。おそらく小屋のまわりには多くの人々が集まっており、孫臏は彼らを何らかの形で支配しているのだろう。つまり、旦は敵中に孤立しているのであった。


「俺を殺すために来たのだろう……だが人の一生というものは、自分の思い通りに運ばないことのほうが多いものだ。おまえは目的を果たせるかな」


 旦は答えることができず、押し黙っていた。孫臏も答えを待たなかった。


「どこの生まれか」


「……商丘です。宋の都の……」


「だが、そこから来たわけではなかろう」


「はい」


「どこから来たのか」


「……大梁です」


 時刻は夕暮れ時のようであった。薄暗い室内を僅かに照らす光は橙色に輝き、それが自分の生命が終わることを予感させる。旦は、どうせ殺されるのであれば、自分の身分をはっきりと相手に示したいと思った。しかしそれは最後の最後までとっておきたい。


「外の騒ぎが気になるのだろう」


 孫臏はそんな旦の気持ちを無視しながら、ひとりで話を進めた。その意図は旦にはまったく読めず、彼が何を自分から聞き出したいのか、定かではなかった。


「あれは戦士たちで、すべてこの俺が養成した。彼らはよけいなことを何も考えず……命令のまま敵を倒す。人を殺めることに葛藤や躊躇などを持たない、最強の戦士たちだ。いま俺が合図をすれば……おまえはたちどころに消えてなくなるだろう」


「何も考えない、とは……?」


「彼らには他人を思いやる気持ちが一切ない。それゆえ、戦場では大きな力を発するのだ。あのような兵士たちが二個師団もいれば、この戦乱の世はたちまち片がつく。そう思わないか?」


 何も考えず人を殺せるような戦士……そのようなものが存在するのだろうか。いや、その前に旦は孫臏の考え方そのものに反発を覚えた。


「何も考えない人など、存在しません。人は人であるからこそ、物事を考えます。自分の行動が正しいか、正しくないかを判断し、その中で迷います。それが葛藤であり、躊躇です。あなたが養成したという兵士たちも、みな心の中では絶えず考えています。もしあなたが彼らが何も考えていない、と感じていたとしても、彼らはそのふりをしているだけであり、いざというとき、絶対にあなたの言うとおりには行動しません」


 挑発的な旦の言葉に孫臏はしかし、動じなかった。


「見事に言い切ったな。確かにおまえの言うとおり、人というものは何かを考える生き物であるから、こちらの言い方が間違っていたようだ。彼らは何も考えないわけではなく、俺の命令にまったく疑義を抱かないのだ」


「つまり、彼らにとってあなたの命令は絶対だということですか」


「うむ。その通りだ。証拠がほしいか?」


「ぜひにもお願いしたく思います」


 旦は従卒の万によって立たせられ、まるで引きずられるように戸外に出された。そこでは大勢の者たちが小屋の周囲に群がっていて、それぞれ手に弓や槍を携えていた。彼らはこの薄汚い小屋を警備しているのである。


 しかも兵たちは(よろい)などを身につけておらず、農民と変わらぬ姿をしていた。そしてその多くはこの地方の風習なのか、体の各所に刺青を施している。


「甲を身につけるなど、不覚悟の現れでしかない。むろん合戦の際には支給するが、それ以外の場面では必要ない」


「……どうやって彼らを手なずけたのですか」


「どうやって、だと? 正しい統治さ! それ以外に何がある。俺は彼らに自分たちの土地は自分たちで守り、よそからの干渉を拒否する方法を示してやっただけだ。礼楽などにうつつを抜かすあまり、人の顔色をうかがい、他者の心情を慮って、自分を滅ぼすのでは意味がない。彼らは頑健に自らの意志を押し通すのだ」


「では、いずれあなたの命令も聞かなくなるのではないのですか。彼らの中に独立志向が強く表れるようになると、あなたはそれを抑えきれなくなるのでは?」


 その問いかけに対して孫臏はにやりと笑みを浮かべただけで、明確な解答を示さなかった。そのかわりにある方向を指さし、旦にそれを見るよう促したのである。


「先日俺の言いつけに背き、警備の当番であるにもかかわらず家で飯を食っている奴らが複数いた。そいつらは俺からすればけしからぬ奴らだが、あえて俺は罰しない。罰は彼ら自身が与える。その結果が、あれだ」


 孫臏が指さした方向には、多数の男女が地べたに横たわる姿、そして首を吊られた状態の様子が見受けられた。遠目ではっきりとその様子が見えたわけではないにもかかわらず、旦はその凄惨さに吐き気を覚えた。


「これが証拠ですか。なんとも……悪趣味すぎます。あなたはこれが正しい統治だと仰るのですか」


 しかしその問いかけにも孫臏は直接答えず、従卒の万に命じて旦を縛りあげるよう命じたのであった。


「死なない程度に飯は与えよ。この男がここの生活に馴染むまで様子を見る」



 旦は戸外にある木にくくりつけられ、まったく身動きできぬ状態にいた。昼夜を通して立ちっぱなしで、夜は立ったまま寝た。体力が尽きるのも時間の問題だろう。一日に二度ほど、万が食事を持って現れる。彼は粗末な(さじ)を使い、不潔な雑穀粥のようなものを旦の口に運んだ。それを食う旦も意識がおぼろであり、自分が何を食っているかさえも、よく認識していない。


「軍師さまの言うことには従ったほうがいいでしょう。なぜ逆らうのですか。あの方は天才です」


 万は匙を傾けながら問いかけたが、旦は答えることもできない。徐州であるとはいえ、おそらくここは城外であり、木や草で鬱蒼としていた。そんな中で何日にもわたって立たされていると……特に夜になると生命の危険を感じるのである。獣に襲われることはおろか、毒虫に刺されて命を落とすかもしれないと怯えていた。


 しかしそれも最初のうちだけである。何日もこのような状態が続くと、何も考えられなくなるのであった。


「人は物を考えるからこそ、人である」


 とは先に旦が孫臏に放ったひと言である。自分は、こうして人たり得なくなっていくのだろうか、孫臏に忠実なあの兵士たちはみな、こうして出来上がったのか、などと思ったりした。しかしうすぼんやりとした意識ながら、まだそういうことを考えられることは、旦が未だ人であることの証に違いなかった。


「あのお方は……何と申せばよいのでしょう……あなたに好意的です。見かけや言動などに比べて、気骨ある人物だと仰っておりました。あなたのような人物を自身の幕下に加えたい、とまで言っておられるのです」


「……僕に……兵になれ、と……孫臏の……ご免こうむるよ」


「あのお方が人をお認めになるなんて、ひどく珍しいことです。よくよく考えてみるべきだと思いますが」


「幕下に入ったとして……すぐに意見が合わず、もめ事になる……それで罰せられて殺されたりしたら……割に合わない」


「そうやって軍師さまは、ここにいる者たちを育て上げたのです。よく言われるように、澄んだ水に僅か一滴の泥水が混じってしまえば、もうその水は美味ではなくなります。言い換えれば、泥水は清水を淘汰するものなのです。あのお方は、その危うさをよく知っているがために、その兆しが見えた時点で処断します」


「僕を誘えば……この僕自身が泥水となり得る……なのになぜ誘うんだ。そんな誘いなんて……どうして受け入れることができようか」


 旦は意固地になって自己主張を繰り返した。そして孫臏の意図は、よくわからない。それとも孫臏は、こうやってひとりずつ、人の意識を変えさせてきたのであろうか。そう考えれば、よけいに反発したくなる旦であった。


 だがそのような意識にもかかわらず、体は限界を迎えていた。野外に拘束され、(かわや)にも行かせてもらえないとあっては、いくら強固な意志があったとしても、人は耐えることができなくなるのである。


「お願いだ。軍師どのに会わせてくれ。ぜひとも僕自身の言葉で、あのお方に伝えたいことがあるのだ。それで殺されるのであれば、甘んじてそれを受け入れる覚悟だから……お願いだ」


 苦痛と屈辱のあまり、泣き声に近いそれで訴えた旦であった。しかし万にとって孫臏の命令は絶対であったので、それによって心を動かすことはなかった。だが彼はその事実だけは孫臏に報告したのであった。




 鬼谷は張儀と蘇秦のふたりを前に、珍しく相談を持ちかけていた。彼の粗末な庵はいつもより静かに、しかし緊張で満ちていた。


「あの若者の行く末が気になる。彼は今後どのような行動をとるだろうか」


 鬼谷の問いに張儀は答えた。


「蘇秦どのの話では、楚の今後の動きが重要だとのこと。彼は楚に赴いたのではないでしょうか」


 蘇秦はこれに対して言った。


「いや、直接話して得た感想からすると、彼はより直情的な男です。おそらくは孫臏に会うべく、徐州に向かったのではないでしょうか」


「そのどちらかだ。君たちはおのおので彼の動きを探るがよい。もし楚に未だ動きがないようであれば、動かせ。また、もし孫臏によって危険な目に遭っているようであれば、手助けせよ」


 鬼谷の口調はほぼ命令のようなもので、張儀と蘇秦に反論を許さないような勢いがあった。だがしかし張儀はこれに問い返したのである。


「先生はなぜそのようにお考えなのですか。あの男にそれほど入れ込む理由が、どこにあるというのですか」


「わしがあの若者をどうこう、というわけではない。ただ、斉が強くなりすぎることは困る。それに魏が弱まりすぎても困るのだ。わしはこうして臨淄に住まい、斉の庇護下で暮らしているが、天下はより勢力が均衡していなければならない。そのためにはあの若者を動かすことが有効なのだ」


 蘇秦もこのとき口を出した。


「あの男が天下を動かすと先生は仰るのですか。先生のもとで弁論を学んだ我々ではなく、あの男のほうが有望な存在だということでしょうか」


「我々は、弁で天下を動かそうとするが、それを実現するためには行動する人物が必ず必要となるのだ。かつて龐涓はその役目を担っていたが、志半ばで陣没した。したがって彼がそのあとを継ぐことは自然なことなのだ。こう考えるがよかろう……我々はその大いなる構想で天下を動かすが、彼はそのための駒だと。駒には大きく働いてもらわねばならぬし、偉くなってもらわないと天下を動かせない。ゆえに我々は彼の信頼を得ることこそが重要なのだ」


 張儀は不満そうに鼻を鳴らした。


「先生の仰りたいことは充分にわかりますが、彼には彼の考えがありましょう。それに過去の彼の行動を知るにつけ、実に直情的な人物です。そううまく我々の思うとおりに動いてくれますかな」


 鬼谷はこの張儀の発言を鼻で笑った。


「何を言う。そこをどうにかするのが君たちの腕の見せどころではないか。彼をうまく動かせ。危機に陥っているときは、それとなく救うのだ。意見が異なるときは弁術を駆使して、彼が信じるように導け。このまま斉の勢いが大きくなれば、いずれ西の秦とぶつかり、天下は大きく乱れる。そうさせてはならないのだ」


 結局ふたりは師である鬼谷の指示を受ける形で、それぞれ出発した。かつて張儀は楚に遊説したことがある。彼は楚に赴き、蘇秦は徐州に向かった。



 孫臏は再び小屋で旦と面会した。不潔な小屋ではあるが、孫臏は室内に入る前に従卒たちに旦の体を洗わせるよう命じ、さらに少し距離を置いて対面した。


「だいぶ虫に刺されているようだな。まあ蛇に噛まれたり鳥につつかれていないだけましだ。運が良かったな」


「…………」


「どうした。なにか俺に言いたいことがあるのではなかったのか」


 旦は怒りのあまり言葉を失っていた。この感情を目の前にいる孫臏にぶつけてやりたいが、どうそれを表現すべきか無意識のうちに迷っていた。


「黙ってばかりいられては、時の無駄というものだ。兵に命じて外に戻すが、それでもよいのか」


「……軍師どの。僕を支配しようとしても無駄です。それこそ時の無駄というものです」


「なに?」


「僕はたったひとりの人間に過ぎません。だから意志もそれほど強くなく、もう少し痛めつければあなたの味方になります、ときっと言うでしょう。でも、その数刻後には心変わりをして逃げ出すに違いありません。つまり、あなたは僕の心を支配できない」


 孫臏は旦が言葉遊びでもしていると感じたのか、この発言を鼻で笑った。


「恵旦とやらはなかなか面白いことを言う。しかし目の前の現実を見よ。ここの者たちは俺の命令を寸分違わずに実行する。それは、彼らが心に疑義を抱いていない証拠なのだ。これをおまえはどう説明する」


「僕は彼らと違って、この土地に生まれたわけでもなければ、ここから生活の種を得ているわけでもありません。親しい友人もここにいなければ、親兄弟もいない。あなたが彼らを支配できている理由は、彼らのそのような事情をうまく利用しているからであって、そのような手段は僕には通じないと言っているのです」


 孫臏はこの旦の言葉に対して、反論しなかった。確かに孫臏は相手の求めるものに乗じて支配しているのである。旦が言うことは事実であり、事実である以上無駄な討論もしないつもりのようであった。


「軍師どのはここで王となるおつもりですか。それとも神ですか。どちらであっても僕には到底受け入れることができません」


 孫臏は痛いところを突かれたかのように深く息を吐き、話題を転じた。


「俺がどういう人生を歩んできたか、少し話をしよう。わかってもらえるとは思わぬが、せっかくの機会だ。耳を傾けてもらいたい」


「構いません。お付き合いします」


「うむ……俺は……若いころ、鬼谷という人物の門弟であった。いや、その前に言っておきたいことがある。俺は軍聖と呼ばれる孫武の子孫であって、そのことを誇りとして生きてきた。だが……それは誇りであると同時に、俺にとっては重荷でもあった」


 意外にも孫臏は情緒に満ちた様子で話し始めた。自分には何でもできる、無限の能力を持つなどという話を聞かされると思っていた旦は、虚を突かれた思いがしたのである。彼は問い返さずにはいられなかった。


「詳しく聞かせてもらえませんか。興味があります」


「人の重荷に興味を持つなど、おまえも悪趣味な奴だ。しかし、話そう。孫武の子孫だということが事実である限り、それを隠して生きることは俺にとっては許されないことだった。それは偉大な先祖に対する冒涜であり、侮辱だと感じたからだ。だが、公表している以上は、自分の能力が先祖以上……最低でも先祖並みでなければ嘲りを受ける。いま思えば、俺は必要以上に他人を意識し過ぎていた。ことあるごとに衝突を繰り返し、よりによって鬼谷その人とも言い争いをしたりもした」


「若気の至り、と言うのですか。あなたはそのことを後悔しているようですが、本来はどうするべきだったとお考えでしょうか」


 孫臏はこのとき真面目に考え込んだ表情をした。とはいえ、小屋の薄暗い光の中では、それもよくわからなかったが……。


「若気の至りと言えば確かにそうかもしれぬ。しかしいま思い返してみても、ほかのやりようは思い浮かばない。俺は先祖たる孫武の生き方を真似したかったのだが、その方法があれしかなかったのだ。仕官のあてもない中では、自ら敵を作って争いを起こすしかない……だが、その結果がこの両脚だ」


 旦はその実情を知っていたが、黙って知らないふりを決め込んだ。目の前の孫臏が、その事実をどう受け止めているか、それを孫臏自身の口から聞けることに旦は興奮した。


「俺はともに鬼谷のもとで学んだ龐涓という男に、この脚を両方とも斬られた。龐涓は、この俺が遷都間もない大梁の軍事施設を許可なく立ち入ったかどで、罰を与えたのだ。しかし、相手が俺でなければ……その罰はもっと軽いものであっただろう」


「その龐涓という人が、同門であるがゆえにあなたを憎んでいたと、だから罪が重くなったというのですか」


「その通りだ。しかし俺は敵を多く作ったから、そのこと自体は仕方がないと考えているのだ。だがあの激痛ときたら、およそ人間が経験するべきものではない。我ながらよくも死ななかったものだ、と自分に感心している」


「僕が感心するのは、むしろあなたのその楽観的な思考です。まるで他人事ではないですか」


 このとき孫臏は珍しく高らかに笑った。彼は両脚を失ったことをどう思っているのか。笑い飛ばすということは、龐涓を憎んでいないのだろうか。それともすでに忘れたのか。


「俺が現在の地位を築いた理由は、考えてみればこの両脚を失ったおかげだ。脚を斬られて倒れていたところを斉の宰相である鄒忌に助けられ、その男のつてで田忌将軍に見出された。さらに田忌将軍のつてで威王にもまみえることができたし、その命令で軍師としての職を授かったのだ。いわば俺はこの両脚と引き換えに栄達を手にした」


「僕は大梁から来たので、その龐涓という人が魏の将軍であったことを知っています。あなたは桂陵、馬陵での戦いで龐涓将軍を捕らえ、殺した。そうした行為には怨みはなかったというのですか」


「怨みがないと言えば嘘になるかもしれぬ。だがそれよりも大きな思いは、龐涓を倒さねば、本当の意味での栄達がない、ということだ。それは現世での出世や名誉のみならず、後世に名が伝わるといったものや、俺が孫武の子孫としてふさわしい存在であったか、といったものに大きく影響する。奴を倒さずして、それらは得られないだろう。ゆえに、憎いから倒したのか、と人から聞かれれば、俺はそれを否定する」


「龐涓将軍が、あの世でそれを聞いたら喜ぶかもしれません。あの方は、生前あなたの能力を恐れながらも評価していましたから」


 旦はためらうこともなく、そのような言葉を発した。当然のごとく孫臏は疑念を抱き、詰問するかのように口走った。


「おまえは、いったい何者だ!」


 旦は恐れる様子もなく、痛む体を軽く擦りながら答えた。


「僕は龐涓将軍の養子です。僕は、あの方を心から尊敬し、師と仰いできました。それをあなたは悪逆な方法で殺した。僕はあなたを殺すために、ここにやって来ました。しかし殺す前にあなたと話して真実を知っておきたい、と思ったのです」


「龐涓の養子……」


 孫臏は驚いた様子だったが、それもごく僅かの間に過ぎなかった。


「で、俺をいまここで殺すのか。できるのか、この状況で」


 車椅子に乗った孫臏の背後には、年若く、力の漲る万がいた。そのさらに後方には渾や勞もいる。後ろのふたりは万に比べてまだ幼く、体の線も細い印象だったが、何日にもわたる拘留で衰弱しきっていた旦に、勝ち目はなかった。


「いま、僕に武器はありません。だからあなたを刺し殺すなんてことは不可能です。ですが、僕はここで何日も待った。あなたにもその意味がわかる日が来るはずです」



 張儀は楚に悪縁がある。かつて鬼谷は旦を前にその悪縁について話したが、それはごく僅かな部分の話に過ぎなかった。しかし実際は、張儀の内なる心に深く傷を付ける事実だったのである。


 張儀の外見にはこれといった特徴がない。強いて挙げるとすれば狐のような目と薄い唇であり、髭が整っていないという程度のものであった。このため彼のことを印象強く記憶に刻んでいる者は、彼の外見によってではなく、その言動による。


 張儀は諸国を遊説していたが、とかく懐具合がさみしく、提供される食事を目当てに諸侯のもとを練り歩いているのだ、と噂された。というのも、このときの張儀には主張する理論にも脆弱さが目立ち、いまひとつ諸侯を説き伏せることができなかった、というのである。


 張儀は魏の生まれであり、黄河流域の諸国についてはよく知っている。が、長江以南の楚については予備知識がなく、なぜ楚の君主が中原の慣例に従わずに王を称しているのかさえも知らなかった。宰相の呼称が楚では令尹(れいいん)である理由もわからず、動物を信仰する風習があることも知らなかった。


 楚の君主が王を称するのは、古くから自分たちが蛮夷として扱われていたことに対する当てつけであり、「我が国は蛮夷であるゆえ、周の爵位にはあずからない」という意思表示なのである。事実として楚が周王室から授けられた爵位は子爵に過ぎず、かつては強国晋を破って大陸の覇権を得たにもかかわらず、それが正しく評価されていないことに対する怒りから、そのような経緯となったのだった。


 また、もともと令尹とは殷王朝における宰相職の呼び名であった。周に敗れた殷の文化や風習が江南の楚に残った理由は、彼らの中原に対する強い憧れであった。国を失った殷の遺臣たちが南へ逃れてくると、彼らはそれを喜んで迎えたのである。その結果、殷の風習はことごとく江南の人々に受け継がれ、それがそのまま楚の文化となったのであった。ことあるごとに彼らが獣を神として崇め、呪術的な行いが政策を決定づけるのもこのためである。令尹とは、殷ではそもそも神官の意味なのである。


 若き日の張儀は、それらのことを知らずに楚に入国した。いや、知らずともまったく問題ないと思って入国したのである。つまり彼は(たか)をくくったのであり、何が起きても問題ないと信じていたのだが、いざとなると当惑することばかりであった。


 楚では大臣が朝廷に出かける際、手に(へき)を持つ。璧とは翡翠(ひすい)でできた手のひら大の硬玉のことで、円盤状の形であるが中央に穴が開いているのが大きな特徴であった。これを持つことで宮廷人であるという身分を証明する役割を果たすが、張儀はもちろんそれについて知らなかったのである。そして璧というものを、このとき初めて目にしたのであった。


 透き通るような乳白色にほんの僅かな緑色が混じったその物体は、確かに張儀の心を虜にした。楚の令尹がそれを持っているのを彼は偶然目にしたのである。


 張儀は視線を令尹の手元から動かさずに、自説の展開を始めた。しかしこの「自説」が楚の人々の心を打たなかった。むしろ反発を生んだのである。張儀は魏や斉、あるいは秦が覇権を競っている間、早々に韓や趙と同盟を結ぶべきだと主張したのであるが、これが楚人が抱く自尊心を大きく傷つけたのである。かつて楚は覇権を握り、江南のみならず中原をも支配していた時期がある。その矜恃をいまの人々も抱いていることに気付かず、張儀は理論だけをぶつけたのであった。楚人たちは張儀の唱える理論の正しさを認めつつ、正しいからこそ否定したく思った。現状を受け止めきれない人々に対して、張儀はつらい現実を突きつけただけであったのだ。


 そしてお互いにとって不幸なことに、令尹の所有する璧が紛失するという事件が起きてしまった。このとき事件に実はまったく無関係であった張儀が、楚人の反感を一手に引き受けるという形で犯人とされたのである。


 しかもその根拠が、巫女(みこ)の証言であった。外からやって来た者の犯行であり、蛇と鼠を戦わせて得られた結果が蛇の勝利であったため、そのような啓示を神から受けた、というのである。もちろん張儀はこれに従わなかった。自身が無実だという確信はおろか、そのような非論理的な主張で自分が犯人扱いされることに我慢ならなかったのである。


 このため張儀は単にやっていない、という主張のほかに、楚の大臣たちを侮蔑する態度を加えた。ゆえに彼は激しく打擲され、鞭で数百回も打たれたのだが、ついに罪を自白することがなかったので楚の朝廷は彼を釈放したのである。張儀が罪を認めるか、それとも認めまいがそれ相応の罰を与えたので充分と判断したのだろう。


 ほうほうの体で自宅に辿り着いた張儀を妻が迎えて言った。


「まあ、あなたときたら……もう本を読んだり遊説に精を出すなんてことはおやめになったほうがいいのではないですか。地道に畑を相手にしていれば、こんな辱めを受けることもないではありませんか」


 地味な顔立ちながら若くして妻を得た張儀であったが、彼女のやさしさを有り難がったりはしない。むしろその頑固さを妻にぶつけるのが常であった。


 「何を言う」


 強がって見せた張儀の顔を、妻はひとしきり見つめた。打ち据えられて青あざを作ったその顔に、彼女は哀れみに似た視線を浴びせた。


「俺の顔をよく見てみろ。舌はまだついているか」


「舌はありますよ」


「……ならば、それで充分だ」


 舌ひとつあれば、自分は今後も活動できるというのである。このあたりの覚悟は両脚を失ってなおも軍師として生きた孫臏の生き様にも通じるものがある。弁士は自分の弁に命をかけるのだ。



 そのような過去を持った張儀が、再び楚に入国した。しかし今回は朝廷に出入りするようなことはせず、巷間で噂を流すにとどめた。作為は必要だが、できることなら今回は楚の朝廷が独自に動く形を作りたいと考えたゆえである。


「周王室の飼い犬に過ぎぬ斉が独断で王を称したが、これで古くから王位にある我が楚と並び立とうとは笑止千万な話である」


「斉が成り上がろうとする理由は、その軍事力によってであり、それを指揮するのが軍師孫臏である。孫臏はいま徐州に潜んでおり、徐州は楚と近い位置にある」


「いま斉の宮殿では田嬰と鄒忌が権勢を有しており、徐州の太守となった田忌にはそれがない。しかし斉の軍事を支えているのは孫臏であり、孫臏を支えているのは田忌である。これを討てば、成り上がりの斉も鼻柱を折られよう。いま、即刻徐州を囲むべし」


 この噂を聞いた楚の朝廷の反応は素早く、翌々日には徐州へ向けての兵が発せられた。



 蘇秦は周の洛陽生まれである。古くから中原全体の都として栄えていた土地であるが、周辺諸侯の勢力が増すにつれてその繁栄ぶりは影を潜めるようになり、蘇秦が生まれたころにはすでに街並みはすっかり廃れていた。彼の家族は城外の畑を耕す典型的な農家に過ぎなかった。そのような中でひとり学問を志した蘇秦は斉にいる鬼谷を頼り、その後諸国を旅した。しかし資金に乏しく、有力な伝手もなかった彼には、帰国するしか道がなかった。


 家族はそんな彼を厳しく叱りつけるわけではなく、笑いの種にしたという。


「周に生まれた者には、野良仕事だの細工仕事だの、商売だのにはげんで、だいたい二割の儲けを得ることが天から与えられた務めなのさ。それをおまえときたら本業を放り出して口先だけの技で勝負しようなんて言うんだもの、貧乏になるのは当然じゃないか」


 このような言葉は彼の父母、兄、兄嫁、そして妻からも一様に浴びせられた。蘇秦はこれに心を痛め、しばらくの間は部屋に閉じこもったという。


「士たる者が頭を下げて書物の読み方をどれだけ習ったところで、名誉を得ることがない限りなんの役にたつものか」


 などと自己のこれまでの人生を否定するかのような思いに浸った。しかしその後太公望呂尚の著による「周書陰符」なる書物を手にし、それを隅から隅まで読みふけった。丸一年も経つと、その書物の内容と鬼谷の教えをもとに「揣摩(しま)の術」を完成させるに至る。


「この術でいまの君主たちを説き伏せることができるはずだ」


 そう考えた蘇秦は周の顕王に謁見を申し込んだが、顕王の側近の者たちは蘇秦のことを前から知っていて、彼のことを嘲り、まるで相手にしなかった。


 困った蘇秦はたびたび鬼谷の庵を訪れては、今後どうするべきかを相談していたが、そこに旦が現れたのである。もともとは弁論で社会を動かそうと決意していた蘇秦であり、弁士たる者、物理的な危険に自らの身を晒してはならないという鬼谷の教えを今後も忠実に守るつもりでいたが、彼はこの一件をきっかけに自らに行動することも求め始めた。


 徐州の城外に孫臏が潜んでいることを蘇秦は知っていた。そしてその土地で孫臏が彼独自の軍事組織を作り上げようとしていることも……つまり孫臏は現地で神のように崇められ、彼の言うことだけが正しいと判断される組織を形成している。そこに何も知らずに飛び込んだ旦は、非常に危うい。


 しかしそのように仕向けたのは蘇秦自身だった。弁者は自らを危機に陥れないという原則を守った結果、そのような形に至ったわけだが、よくよく考えてみると鬼谷に言われるまでもなく、これは偽善的な行いである。彼は後悔に似た感情を心に抱いていた。


 だが最終的に孫臏を倒す仕事は、旦自身にやってもらわないと意味がない。はっきり言って蘇秦には孫臏を倒す理由がないうえ、旦が自らの危険を顧みずにそれを成し遂げたいと思っていることを蘇秦は知っていたからだ。


 もはや徐州に辿り着いたところで、旦はすでに死んでいるのではないかという懸念さえも浮かんだが、それならばそれで仕方がないと割り切るしかなかった。


 孫臏の支配地に入るために、蘇秦は衣服を農民のそれに差し替えた。しかしそれに安心せず、なるべく人と接触しないように注意を払い、夕闇に紛れて潜入した。


 鬱蒼とした林の中央を黄河の支流と(おぼ)しき川が流れている。随所に松明の火が掲げられており、それがまったく人の見えない状況にもかかわらず、確かにそこに生活があることを感じさせた。虻、蚊、蛇、鼠……不快さを際立たせる小さな虫や小動物を手や足で払いながら前に進む。蘇秦が思うに、孫臏はここに生きる兵たちの生活を向上させようなどとは一切思っていない。ただ野生の中に生き、荒々しい環境で育て、戦いに勝てる兵たちを育成しようとしているだけであった。人は何のために戦うのか、などということを考えさせず、ただ勝つために生きる、それを兵たちに強要している。


 それを兵たちがなぜ受容しているのかが蘇秦にはわからない。だが、考えても無駄なことだ。彼がするべきことは、生きていれば捕らえられているであろう旦を探し出し、死んでいるのであればその事実を確認することだけであった。


 音を立てぬよう気をつけながら藪をかき分けて進んでいるとき、不意に矢が頭の上を通った。難なく身をかがめてそれを避けた蘇秦であったが、もしや孫臏の兵たちに自分の存在が発覚したのかと、気が気ではなかった。


 しかし続けて発せられる矢はなかった。遠くには兵のものと思われる笑い声が響く。どうやら連中はふざけ半分に矢を射ては、それを楽しみとしていたらしかった。


 声が遠のいたことを確認したのち、再び蘇秦は前進を始めた。すると林の中に一箇所だけ木が切り払われた場所があることに気付いた。その中心には小屋らしきものがあり、それを囲むように複数の篝火が燃えていた。驚くことに、あれが本陣のようである。


——陣とは言えないだろうが……。


 蘇秦は思ったが、これは邑というより自然を利用した「砦」というにふさわしい。林の中はあまりにも鬱蒼としており、大軍がここを通過することは不可能である。またここを守る兵たちはみな林の中に身を隠しており、実際にこれまでひとりとしてその姿を確認することはできなかった。しかし、彼らは確実にいるのである。これに対処するためには、林ごと焼き尽くすしかないであろう。いずれ楚軍がそれをしてくれることを蘇秦は願ったが、いまはひとりで行動することが最適と思える。孫臏の居場所がわかった以上、旦も近くにいるに違いないと思えた。そこに辿り着くには少数、あるいはひとりで行動するほうが都合よい。


 そのようなことを考えていたとき、小屋の中から人が出てくる様子を目にした。この林の中で彼が初めて見る人の姿であった。


 それが誰かは蘇秦の知る由ではなかったが、実際には従卒の万であった。蘇秦は小屋を前にしてその内部をのぞき込むべきかどうか迷っていたが、これを機に万の後を追うことに決めた。そこから何か次の行動を決めるきっかけが見つかるかもしれない、と感じたからである。


 万は食料を運び、坂を下りていた。万の行く先にはひとりの人物が磔にされており、大樹に背をもたれさせ、うなだれていた。万はその人物の口元に何度か食糧を運んだあと、何も言わずに立ち去っていった。


——恵旦どのか。


 (はりつけ)にされていた人物は紛れもなく旦であり、何ごとにも他人事を装う蘇秦でさえも、その悲壮さには心を動かされた。あの育ちのよさそうな恵旦が、これほど打ちのめされている姿……。


 万が立ち去ったことを確認した蘇秦は、我知らず旦のもとへ駆け寄っていた。


「恵旦」


 呼びかけられた旦の目はうつろであったが、それでも自分の名を呼んだ相手が蘇秦であることに驚きを示した。


「なんと、蘇秦どのではないか……どうしてここに……僕がいることがわかったのです」


 苦しみにあえぎながら発せられた旦の言葉に蘇秦は半ば呆れるような反応を示した。


「君の行動は無茶に過ぎる。たったひとりで、しかも計画もろくに立てず孫臏に会うなどしていったいどうするのだ」


「でも……実際に相手を……目の前にしなければ……何も始まりません」


 確かにその通りだった。蘇秦のような弁者は実行する人物が別にいることを前提に理論を展開しており、自らは陰に隠れようとする。だが、それではいけないのではないか、と蘇秦はこのときおぼろげに感じた。


「そうだな、確かに始まる」


「何がですか」


「張儀が楚を動かしている。楚軍は間もなくここにやって来るだろう。その混乱に乗じて君はここを離れるがいい」


 言うと、蘇秦は懐から匕首(あいくち)を取り出し、旦の両手を縛る綱を切った。


「この剣は、君に授ける。(えつ)国製の逸品だから、大事に扱え。そして手は縛られたままのふりをしておくのだ」


 鞘に収めた匕首を旦の懐に収めた蘇秦は、そそくさとその場を離れようとした。


「待ってください……もう行ってしまうのですか。何か僕に助言を……」


 また突き放されると思ったのか、旦は言い淀んでしまった。しかし蘇秦は立ち止まり、深刻に考え込む表情を見せたのである。


「楚軍が来襲したら、私はここに孫臏がいることを彼らに知らせ、この林全体を焼き払うよう提言するつもりだ。その兆しが見えたら、君は行動を開始しろ」


「ですから、どのような行動をすればよいのか、と聞きたいのです」


「それは君次第だ。楚軍に先を越される前に、君自身が孫臏を討ち取りたいと考えるならば、それもよい。機会は充分にあるだろう。それと彼の書物……私が思うにそれはここにあるはずだ。以前君が言ったように、孫臏の存在を完全に打ち消したいと考えるのならば……その処分は必ずしなければならない。後世に彼の書物が出回ることなど、あってはならないぞ」


「…………」


「その後は大梁に帰りたまえ。徐州の陥落が君の手柄になるように手はずは整えておく。魏公に謁見して、とりたててもらえばいい。君のような男が政務を担うようになれば、しばらくは魏も安泰であろう」


 蘇秦は旦を評価しているようであったが、言い方はひどく冷たい。にこりともせず、表情は硬く、常のままであった。


「いつか僕が……そのような立場になったとしたら……あなたにどうお礼をするべきでしょう」


 旦は苦しみながら聞いた。それはいかにも旦らしい言葉であった。


「そのようなことは考えずともよい。どうせ二度と会うこともなかろう」


 そして蘇秦は去って行った。



 虚ろな意識の中で旦は機会を待った。しかし楚軍が本当に来るのかどうかはわからない。来なければ弁士としての張儀の能力が不足していたということだろうし、その可能性は充分にありうることだった。だが、信じるしかない。


 さらにこの林を守る連中は、最強の個の力を持つ兵たちである。よけいな自意識を持たず、残虐な行動をするにあたって良心の呵責がない者たちであった。そのような者たちを相手に楚兵は勝てるのか。


 蘇秦はこの林ごと彼らを焼き払う、と言った。そのようなことは孫臏も考えているのではないだろうか……しかし圧倒的な人数差で対応すれば、楚軍に勝ち目はあるだろう。かつて孫武はその著書の中で、敵が自軍に数倍する兵力を持っている場合は逃げよ、と述べていた。その前に包囲を完成させれば彼らの逃げ道は塞がれるわけだし、林そのものを燃やしてしまえば、逃げ道自体が存在をなくすに違いない。状況は圧倒的に楚に有利だ。楚がその気になれば作戦は必ず成功する。


 旦は未だ縛られている風を装いながら、それから七日間待った。


 驚くことに、楚軍は日中、未だ日の高い頃合いに攻め上ってきた。夜間に火を放つと目立ちやすいという意識があったからだろうか。確かに炎はそれほど目立たず、いつの間にか周囲に蔓延したどす黒い煙が、人々を苦しめる様子を旦は目にした。


 息苦しい、と思ったときにはすでに炎が目の前に迫っており、このままでは自分も炎に焼かれてしまうと感じた旦は、ついに両手を解き放ち、懐から匕首を取り出した。それで両脚の縛めを切り捨て、自由になった体で孫臏がいるに違いない小屋へと足を運んだ。


 煙はより激しく、旦は咳き込みながら前に進んだ。しかし小屋に辿り着く前に、立ちはだかった人影がある。


 万であった。


「拳法使いめ……またしても僕の邪魔をするのか」


「おまえはやはり怪しい男だ。どうやって綱をほどいたのか」


 万は言うと同時に飛びかかって鋭い蹴りを加えようとした。しかし旦はその瞬間に匕首を取り出して構え、数発の突きを加える。万の右足には深い傷が加えられた。


「おまえ、どこからその武器を手に入れたのか!」


「人というものは、強く願えばどんなことでも叶えることができる生き物なのさ。何も考えず、孫臏の言うなりに生きているだけの君には、わからないことだろうな」


 万は脚の痛みに耐えながらも、これに反論した。


「我が軍師どのは、私にとって唯一の尊敬すべきお方だ。おまえにとってはそうではないかもしれぬが、おまえだって魏将龐涓の養子だったというではないか。龐涓の言うことならば、おまえも素直に言うことを聞くはずだ」


「……一緒にするな!」


 旦は叫ぶと一気に万の懐に入り、その腹を剣で串刺しにした。


「兄上……!」


 小屋の前で立ち尽くす人影が放ったひと言であった。


 渾である。万と渾が本当に兄弟であったかは定かでない。しかし実質的に幼いころから生活をともにしてきた者たちである。兄弟同然と言うところだろう。


 だが旦にとっては、どちらでもいいことである。旦は炎が迫り来る中で、自らの目も燃やしながら一喝した。


「おまえも、邪魔するのか」


 渾は棒を手にしていた。彼は大きな風切り音を鳴らしてその棒を振り回し、頭上に構えると旦の肩めがけて打ち据えた。


 激しい打撃に旦は二、三歩後ずさりした。


「よくも兄上を殺したな!」


 渾は棒を振り回し、さらなる打撃を旦に与えようとする。しかし旦はそれをひらりひらりとかわし、渾の態勢がやや流れた一瞬の隙を突いて背後に回った。背中に蹴りを入れ、渾が唸り声を上げたと同時に、剣を突き刺した。


「越の剣だ。おまえの棒などとはものが違うんだ」


 力尽きて倒れた渾に、旦は一瞥も与えなかった。



 もう小屋の前に立つ人物はいない。火は至近に迫っており、この小屋もあと数刻もすれば燃え尽きるだろう。遠くには楚軍のものと思われる(とき)の声もこだましていた。だが、孫臏の始末は自分自身で行いたい、と旦は考えた。どこかへ落ち延びさせるわけにはいかない。


 小屋の扉を開けると、炎が放つ光によって、室内は赤く染まっていた。その片隅に車椅子に乗ったままの孫臏の姿があった。


「おまえか。龐涓の養子……」


 状況は完全に行き詰まっているはずなのに、孫臏の様子は泰然としている。むしろ薄ら笑いを浮かべているかのようであった。


「お逃げにならないのですか」


 旦は嫌みたっぷりな口調で問うた。その様子には彼の揺るぎない決意が見え隠れする。


「人というものは、思わぬところで失敗したり、計算違いを犯すことがある。おそらくいまの俺がそうなのだろう。ここで慌てて逃げ出したところで、それを取り返すことはできまい。これが運命ならば、いさぎよく受け入れるまでだ……。ところで、攻めてくるのはどこの軍か」


「僕に答える義務はありません。僕はあなたの部下ではないのですから」


「確かに、その通りだな。ところで、おまえは俺を殺しに来たのだろう。見ての通り、俺は一対一では戦えない男だ。つまりおまえはもう少しで望みを叶えることができる。仮にここでおまえが俺のことを見逃してくれたとしても、もう助かる道はなさそうだ」


 孫臏は諦めているというより、何か今後に含みを持たせるような表情で話していた。旦はその意図が読めず、苛々を募らせた。


「何が言いたいのですか。まさか殺してくれと?」


「そうかもしれぬ。だが俺が聞きたいのは、おまえにそれができるのか、ということだ」


「できると思います。いまそこで、あなたの従卒ふたりを亡き者にしました」


「ほう……ではさぞかし気分もよいことであろう。さては人を殺す味を覚えたな」


 孫臏は表向きだけかもしれないが、可愛がっていた従卒のふたりが死んだことを悲しまなかった。旦はこの事実を、孫臏自身が死ぬ覚悟をすでに持っているからだ、と捉えた。


「龐涓の息子よ、おまえにとって俺は悪者、親を殺した仇とも言える存在かもしれぬが、いまおまえの目の前にいる者は、車椅子に乗った不具者で、武器も持たぬ男だ。そのような者を殺すことは、はたしておまえの名誉となるのかな?」


「名誉などを求めているわけではありません。僕は、あなたとは違う」


「俺は現世での名誉など求めていない。疑うのならば、この小屋を見ろ。鬼谷の庵と比べてもよほど粗末なものだ。しかし実際の俺の財力をもってすれば、豪勢な邸宅に住むことも可能なのだ。それに俺の兵たちを見ただろう。実際の俺の財力をもってすれば、彼らではなく国じゅうの美女を集めて住まわせることも可能なのだ。だが俺はあえてそれをしなかった。言ってみれば、清貧を保つことこそが人としての正しい道だと信じたからだ。俺にとっての名誉とは、魏将龐涓を倒したという事実……それだけで充分なのだ。あとはいらぬ」


 旦は気圧(けお)される思いがした。孫臏が清貧を求めていたという事実も信じられなかった。だがよくよく考えてみれば、この男は自分の感情に訴えようとしているだけだとわかった。龐涓の名を出したりして、相手の心を揺さぶろうとしているのだ。


「いや違う。あなたは死後の名誉も求めている。孫武の子孫として強く生きたと後世の人たちに言わせたいのだ! だが僕はきっと、それを阻止してみせる」


 孫臏は、このときやや驚いたような顔をした。彼自身も気付かなかった自分自身の名誉欲……後世に名が残るというただその一点だけを追求し、そのほかの部分はすべて捨て去った自分自身の生き方に、今さらながら気付いたようであった。


「そうかもしれない。しかしおまえはどうなる。ここで俺を殺せば、おまえは孫臏を殺した男として名が残る。それはおまえにとって、極めて不名誉なこととなるのかもしれないぞ。それでもよいのか」


「……あなたの名が後世に残ることはありません。僕がそうさせない。五十年もすれば、人々の記憶からは消え去って、誰もあなたがかつて存在したことなど知らなくなるでしょう。だから、僕のことはご心配に及びません。あなたはここで、おとなしく斬られるべきなのだ」


 旦は匕首を孫臏の首元に向けて突き放った。激しい血しぶきが飛び、旦の衣服を赤く染めた。孫臏は最期に何か言いかけたが、諦めたように目を閉じて、そのまま息を引き取った。


 長年にわたる龐涓と孫臏の攻防は、終幕を迎えたのだ。



 隣室に入った旦は、そこに誰もいないことを確かめた。孫臏には万、渾、勞という従卒がいたが、一番年若い勞は逃亡したらしく、姿は見えなかった。しかしそのことはどうでもいい。


 旦の求めていたものは、台の上にあった。一見雑然と置かれていたそれは、実は孫臏の事業をことごとく記した竹簡であり、冒頭に「孫臏兵法」と記されていた。


 おもむろに書を広げ、最初の一文に目を通すと、そこには見出しとして「擒龐涓(きんほうけん)」と記されていた。旦は怒りと供にその書を炎の中に投げ、焼き捨ててしまった。これで孫臏の名が後世に記される種は、なくなったのである。



 事を終えて旦が小屋の扉を開けたとき、孫臏が育てた兵たちがものも言わず、その様子を眺めていた。剣を手にし、衣服を血で染めた旦が歩き出すと、彼らは一様にひれ伏して道を空け、その様子を黙然と見送ったのである。


 やがて楚軍の放った炎は林全体に燃え広がり、彼らもろとも焼き尽くしてしまった。



 旦は呆然とした様子で徐州をあとにした。


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