問答
斉の孫臏が動きを止めたと思えば、秦の衛鞅が暗躍を始める。しかし魏国にいる人々の多くは、その事実を知らない。この時代……戦いは日常茶飯事であり、どこで何が起きても不思議ではなかった。だからこそ、人々はその流れを止められなかったのである。情報は得られず、過去に起きた事実を正確に知る方法もほとんどない。そのような人々にとって未来を知ることは不可能であり、一部の限られたものだけが世界を動かすことができたのである。
衛鞅は、その流れに拍車をかけた。一般の住民を法で統制し、よけいなことを考えるなと人々に伝えた。まさに愚民政策そのものである。人間に本来備わっているはずの知識欲を否定して、ただ流れに乗って生きよ、と彼は人々に命じたのであった。
老子をはじめとする道家の考えもこれに準じる。「無為」という言葉で人間に主体性を失わせ、自ら考えることをやめさせたという教義は、結果的に施政者の都合に振り回される人民を育てることとなった。老子自身がそのような結果を望んでいたかどうかは定かでないが、この一面だけを見るに彼は罪深い存在だと言えるだろう。
人間は、虫や獣と違って知恵を持つ生き物である。それを活かさずして社会の発展はあり得ない。しかし、彼らはそれをあえて否定したのである。
一
蘇秦はまだどこの国にも仕官した経験がなかった。勉学に励んでいるうちにすっかり貧乏になってしまい、故郷にいる彼の親戚からは、愚か者扱いされているのだという。
かつて龐涓から聞いたところによると、旦の実の父親が同じような人生を歩んだとのことである。話を聞いて学問によって身を立てることの難しさを体感した旦であった。
「それで、今後も続けるつもりなのですか……学問を」
「続けるよりほか道はないでしょう。……実は先日よき参考書というべきか、注目すべき書物を見つけまして……『周書陰符』というのですが、かの太公望呂尚の言葉を集めたもので、どうにか未来に光が見えてきそうなのです。私はすでに鬼谷先生の教えから揣摩の術というものを会得していますので、それとあわせれば現実的な政略というものを、諸侯にいろいろと提案することができるようになります」
揣摩の術……相手の内なる感情を自らの話術によって自在に引き出す術である。鬼谷という老人は、基本的に人は自然の流れに沿って生きるべきだと言っておきながら、こういった作為的な技術を確立しているのであった。旦の目から見れば、大きな矛盾である。
「蘇秦どのは、その揣摩の術とやらでどのように諸侯を説き伏せるつもりなのですか」
「その質問に答えてしまっては、せっかく会得した術が役に立たなくなります。答えるわけにはいきません」
蘇秦の口調も表情も揃ってにべもないようなものであり、もっともな理論ではあるが旦は不満を覚えた。蘇秦に底意地の悪さを感じたのである。
「では蘇秦どのは、今後どこかの国に仕官するおつもりなのですか。やはり仕官先は斉ですか」
「その質問にお答えするつもりはありませんし、その必要も感じません」
「僕としては、あなたに斉には赴いてもらいたくないのです。その理由は言わずもがなですが、養父の龐涓将軍が戦場で倒れたことと大いに関係があります。斉は魏を破って実質的な覇権を握った……僕は今後天下が斉の思うままに動くことを望んでいないのです」
結局旦は自分の正直な気持ちを吐露するしかなかった。そうしなければ会話が成立しない、と感じたからである。あるいは、すでに「揣摩の術」にはまっているのかもしれなかったが、とりあえずそのことはどうでもいい、と考えた。
「お気持ちはわかりますが、それはあくまで恵旦どのの問題であり、私には何の関係もありません。しかもそれについては先ほど鬼谷先生が助言をくださったではないですか。あなたはそれに満足していないというのですか」
「それについてはなんとも言えませんが、結局僕はただ孫臏に失望してもらいたいだけではなく、政治的には失脚し、軍事的には敗北してもらいたいのだと思います。後世に彼の名が伝わることのないように……最初から存在していなかったことにしたい。それほど憎いのです」
「世話になった養父が殺されたのですから、その言葉は信じましょう。無理のないことです。むしろ本心を見事語ったと賞賛したい。そのお返しにいくつか私の得た情報をお教えいたしましょう」
蘇秦はいかにも学者然とした表情を浮かべながら、大きく頷いた。その様子はいかにも偉ぶっているかのようで、旦は褒められたにもかかわらず腹が立った。しかしその気持ちをあらわにするわけにもいかない。
「いまの僕は、どのような情報でも知りたく思っています」
「では私も勿体ぶらずに話すとしましょう。斉は確かに恵旦どのの言うとおり、実質的な覇権を握っています。しかし洛邑にはいまも周の天子がおられます。かのお方は斉が自分に断りなく、勝手に王を称したことを快く思っていません。それゆえ天子は斉にではなく秦に胙(祭肉)を与えました。これによりたとえ形式的なものとはいえ、覇権は秦のものとなったのです」
「ですが周の天子にどれほどの権力がありましょうか。いにしえには『鼎の軽重を問う』という言葉もあったくらいです。それこそ天子の認めた覇権など、形式的なものに過ぎないのではないでしょうか」
「秦は形式的なものに実質を備えようと躍起になるでしょう。一方斉は自分たちが無視されたことで面白い思いをするはずがありません。実質的なものにさらに形式を得ようと努力するでしょう。これよりこの二国の対立が天下の軸となります。残念ながら、魏が再び天下の中心となる時代は、やって来ません」
うすうす考えていたことではあるが、旦ははっきりと言われて落胆した。ただ、これもつくづく自分たちに都合のよい考え方である。自分たちの時代、世の中、天下……すべて自己中心的な思考であり、他者を思いやる気持ちに欠ける考えであった。旦は、いまこそその事実を正面から受け止めねばならなかった。
「魏は……」
「はっきり申し上げますと君主が暗愚です。しかしよい支えがあれば、恵旦どのが生きている間ぐらいはその命脈を保てましょう。それから先は、その先の時代の人々が考えるべき課題です。あなたはあなた自身のできることをなさるべきでしょうな」
「僕にできることとは、いったい何なのでしょう。僕にはさっぱり見当もつかない」
「実を言うと、斉公が王を称して不快に思っているのは周の天子だけではなく、古くから王を称している楚も同様なのです。この二国は、いずれぶつかるでしょう。孫臏にひと泡吹かせたいと思っているのなら、その状況を利用するべきですな。孫臏は田忌の領地である徐州にいます。楚に徐州を攻撃させるのがよいでしょう」
「楚に徐州を……どうやって?」
「難しいことはありません。徐州に孫臏がいることを楚側に知らせればよいのです。斉にとっては孫臏を失うことは相当な打撃となるでしょうから、楚としては攻撃したくなるでしょう。ただ、事前にその情報が斉に漏れないように注意しなければなりません。無論、孫臏その人にも知られることのないように」
自分は情報を流してどこかへ立ち去り、実行は直接関わりのない者にさせる……蘇秦の策は鬼谷がその主張の軸とする「自分自身を絶対的安全圏のうちに置き、目的を達する」というものに合致している。それだけに実行は困難であり、対応に慎重さを要する。しかしこれが実現できれば、確かに旦が抱く復讐の欲望は満足させられるはずであった。
「なるほどよくわかりました。ただ、僕はその後どうすればよいのでしょう。魏に戻って幸福に暮らせるのでしょうか」
旦の投げかけたこの質問は、ひどく愚かしいものであった。旦自身も直後にそれを自覚し、即座に後悔したのだが、蘇秦の返答はその後悔をさらに増大させるものだった。
「そんなことは私と関わりのないことです。ご自分でどうにかなさってください」
学者というものは、ときおり著しく厳しい言葉を人に投げかける。
二
娟のもとから再び秦に舞い戻った白圭は、無残にも刑場で晒されることとなった景監の首を目にした。いや、偶然目にしたのではない。彼はそれを見るために、わざわざ川原にある刑場を訪れたのである。
——なんとも、恐ろしい。
実際に景監の首を目にしたときは、人生経験の豊かなこの老人でさえも恐怖を覚えた。生前は宦官特有の丸みを帯びた輪郭が、いまや怒りと恐怖……あるいは断末魔の叫びのためか大きく形を歪めている。その表情は、激烈な感情を爆発させる荒々しい男そのものであり、その実体が宦官であったことを忘れさせるものであった。
あるいは景監も死ぬときには男に戻ったのかもしれない、と思ったりもする白圭であった。
——埒もない。
などと考え、とりとめのない思考を振り払おうとしてみた。しかしその強烈な印象は記憶からしばらく離れそうもなかった。かえすがえす、衛鞅とはこうした無情な処置をためらいなく行う男なのだ、と考えるよりほかなかった。
——そもそも景監とは、衛鞅にとっては恩人であったはずだ。
それは事実であった。が、事実だからこそ衛鞅にとってはもみ消したい過去だったのかもしれない。秦の大良造などという最高官位を手にした彼であったが、その始まりは景監という宦官を手づるにしたことだったという事実は、陰で批判されてきたことであった。衛鞅は、その事実そのものをなかったことにしたかったのだろう。
いずれ刑場から首が片付けられれば、景監という人物は最初からいなかったこととなるに違いない。罪も罰も消え去り、かつて存在したという事実さえが否定される……唾棄すべき体制を秦という国は採ろうとしている。それゆえに白圭はどうにかして否定したかったのだ。
衛鞅の暴走を止めることなど、白圭にはできない。彼にできることとは暴走の結果を見届けることだけだった。その機を逃さず、趙良と協力して衛鞅の失脚を促す……これだけが彼にできることであった。あのいたいけな公主娟、孫娘のような彼女の失意を慰めるには、自分の力不足を感じざるを得ない。しかしだからこそ、自分にできることだけは精一杯努めねばならなかった。
長い間に築いてきた商慣習を取り戻すことも重要である。衛鞅のような民衆の自由を奪うやり方が大陸に蔓延してしまっては、自分の生きる価値も見出せない。したがって彼の努力は公主娟のためでもあるが、自分自身のためでもあった。
それにしても景監はよくやったと白圭は感じる。衛鞅の後ろ盾となっている秦公はたびたび病臥し、衛鞅はそのことを自分自身の危機だと感付いていない様子である。願わくは計画を完遂させるまで景監には生きていてもらいたかったが、すでに充分だと見るべきだろう。秦公はもうすぐ死ぬ。
「宦官を手づるとして目的を達するとは、わしも衛鞅も同じようなものか。少なくとも後の世には、そう評価する者もいるに違いない。だがいっこうに構わぬ。景監は誰に対してもよく役に立つ宦官であった」
趙良は大良造府の官僚として働いていた。その目的は食い扶持を得ることと、衛鞅のやりようを間近で感じるためである。しかしここ最近の彼の頭にあるものは、公主娟の姿だけであった。
脳裏に焼き付いて離れない、とはこのことをいうのだろう。龐涓を失った悲しみに表情を曇らせながら、ときおり見せる可憐な微笑みや、どことなく少女らしさが残る仕草は充分に趙良の男心をくすぐった。しかし趙良も慎みを持った男であり、自分に思いのまま行動することを許さなかった。いや、あのとき隣に白圭がいなければ、自分はどうしていたかわからない、と考えてみたりもした。だが粗雑な男だとは思われたくなかったので、結果としてはこれでよい、と考え直したりもした。
いずれにしても彼は娟に恋をしていた。そのおかげで衛鞅を嫌う気持ちは倍加して、次第に食い扶持を得ることは目的として二の次になっていった。だが、そんな彼にしても正義感から衛鞅を刺し殺そうという気持ちにはなれないのである。それこそ粗雑な男が好んでする行為であり、いきなり殺してしまっても目的が達成されるとは思わない。衛鞅には限りない失意とともに死んで欲しいと思うのである。このあたり、趙良は公主娟の心をよく理解していたのだった。
端役の官僚に過ぎない趙良にとって、衛鞅の姿は遠くに小さく見えるのが常であった。しかしいまはその衛鞅も魏に侵攻しようとしているので不在である。彼はその敗死を願わずにはいられなかったが、それも望んでいる形とは少し違う。やはり自分たちの手で衛鞅を窮地に陥れたいのであった。
そもそも現在の状況で、衛鞅が敗死することはあり得ない。衛鞅は、自らが出征する前に魏の将軍がかつて親交のあった公子卬だと知ると、一通の親書を作成して敵陣に届けさせたのだった。その内容を趙良はよく覚えている。
「わたくしが魏におりましたころ、公子さまとは大変親しくさせていただきました。このたびはともに両国の大将となるに至りましたが、わたくしとしてはとても攻め合うには忍びないと思っております。ゆえに公子さまの御前で盟約をたて、酒宴を開いてともに兵を退き、秦と魏の間に友好の誓いを立てたいと存じます」
この親書の内容を相手が信じるかどうかは、その相手とのかつての親交がどれほどのものであったかによるだろう。このときの趙良にはそれを知る由もなかったが、結果的にこの申し出を公子卬が受けたことをみると、これは相当なものだと思わざるを得なかった。
これについては官僚の面々たちも同様に考えていたようで、主の不在な大良造府では男たちが口々に噂話を披露していた。趙良は、そのひとつに内心で驚愕したのである。
「大良造さまと魏の公子卬はかつて恋仲であった」
趙良にとって、恋仲というものは男同士で成立する関係ではない。彼はこの噂話を聞くだけで動揺し、わなわなと胸を震わせたのであった。
——そんなおかしなことがあるものか。
生真面目な趙良とて、世の中の男性に同性愛指向を持つ者がいることくらいは知っている。自ら好んで陰茎を切り落とす宦官が存在することを思えば、その稀少性もさほどではないとも思えた。しかし、彼は身近にその存在を確認したことが初であったし、なによりも衛鞅は公主娟が幼いころから、心を彼女に寄せていたと聞いている。やはり、おかしいではないか。
「公子卬とは眉目秀麗、容姿端麗の若者だったらしい。かつて我らが大良造さまは、その公子卬に接触し、人に見られぬよう背後から裳裾を引っ張ったのだそうだ。これを公子卬は誘いのしるしだと思い、以後昵懇となったのだそうだよ」
「本当か。誰からそんな話を聞いたのだ」
「大良造さまの過去を知る者はこの国でただひとりしかいない。もちろん宦官の景監さ」
官僚たちのやりとりには、自分たちの主に対する不満が見え隠れする。彼らは日頃ろくに喋ることはできなかったうえに、厳しい相互監視の目に晒されていた。主のいない場では、その厳しさも和らぐ、といった具合である。
「大良造さまは、普通に女も愛するのだそうだ」
「その博愛精神を、我々にも少し分けてもらいたいものだな」
「国が法によって誰も彼も平等に扱うなかで、偉くなるには特権が必要なのさ。我々にあの方の真似なんてできやしないし、許されないよ」
衛鞅にとって、公主娟は同時に愛することのできる男女のうちのひとり、に過ぎなかったのだろうか。哀れなり、如公主娟……。そしてかつて愛し合ったという公子卬までも衛鞅は裏切り、利用しようとしている。その事実を知り、趙良は怒りに燃えた。
——衛鞅……断じて許すまじ!
三
公子卬は衛鞅からの親書を真に受け、会盟の席に参じた。しかし衛鞅はその酒宴の最中に隠してあった甲武者を繰り出して公子卬を生け捕り、その勢いで魏軍を粉砕した。魏の民の憤懣は、このとき衛鞅に集中したのである。
「やり方が汚い」
「あの美しい公子卬さまを騙すとは」
「法とは人を騙すためのものなのか」
ここで秦の大将である衛鞅とはどういう人物なのかという話題が、魏国内で持ちきりとなった。
もと公叔痤の家宰であり、長くその庇護を受けてきたということが、まず第一の反感を買った。そもそも魏の為に働くべき人物ではないか、というのである。
そしてその公叔痤が亡くなると秦へと渡り、宦官景監を手づるにして秦公との接触を図ったという事実も、人々を怒らせた。長くその機会を狙っていたのではないか、と人々は疑い、さらには自らの人望や実力によらず、宦官を利用したという事実が、低俗な印象を人々に与えたのであった。
さらにそのような男が法を整備することで秦を実質的に支配し、軍備強化しているという事実は、秦の民に物事を自分で考えることをやめさせたのだ、と魏の人々に思わせた。かの国ではすでに戦争に反対する者など皆無であろう、民を法によって教化するなどといって、その実は何も考えずただ命令に従うだけの人形のような民を育てたのだ、と人々は噂した。
娟はそれらすべてを、その通りだと考えた。
衛鞅の唱える法というものは、人々を恣意的に動かすようでいて実は逆である。法は「天の意志」に替わるものであり、意識させずに人を従わせるものなのだ。つまり衛鞅は老子を祖とする道家の思想をもとに法を体系化させたのであり、その理想は「無為」である。……しかし「法」とはしょせん人間が作るものであり、作る側が恣意的であれば完全なものとはなり得ない。その意味では、結局理想は実現できないのである。
娟は若いながらも、社会というものは人間が作っていくものと考えていた。それは旦も同様であり、なぜふたりがそうかといえば、龐涓がそうであったからである。
しかし龐涓は常日ごろからそのような主張をしていたわけではない。むしろ彼は常に慎重論を唱え、なおかつ主君の命令には逆らわない男であった。だが彼は娟が自分と反対の意見を口にすることを、ほとんど咎めたことがなかった。ふたりとも意見を戦わせることによって、行動が理想に近づくと考えていたからである。そして旦はそのようなふたりの姿を常に目にしてきたのであった。
「法が駄目だといっているわけじゃないのよ。ただ、それは民や社会のために存在するべきであって、権力者が効率よく統治するためのものであってはならないわ。そしてあの衛鞅が行っていることは、効率よく統治することそのものよ」
誰に対して言っているわけでもない娟の言葉も、近ごろはひどく大人びている。彼女は自分が成長したのか、それともすれた性格へと変化しているのか、よくわからなかった。
いずれにしても魏国内での衛鞅に対する評価は下落の一方である。公子卬には悪いが、これは娟や白圭らが狙ったとおりの結果であった。いずれ衛鞅が秦公をいう後ろ盾を失った際には、その効果が現れるはずである。
彼女はそれをひたすら待った。
君主たる魏罃の立場はやや異なる。馬陵の戦いにおいて龐涓は陣没、太子申は捕虜となったのちに自害、そして今回の公子卬である。少し前までは中原に覇を唱えていた魏の立場は非常に弱まり、さらに今回の敗戦で黄河より西の領土を秦に割譲せざるを得なくなった。弱り目に祟り目とはこのことである。
「そもそもは余が公叔痤の遺言を用いなかったことこそ、失策の種であった」
ようやく気付いたか、という魏罃の言葉である。しかし娟としては、衛鞅の本性というものを知ってしまった以上、公叔の遺言通りに彼が魏国の宰相となることを望みはしなかったし、考えられることでもなかった。想像するだけで虫唾が走る思いである。
魏はかつての都である安邑を失ったばかりか、黄河以西の領土をすべて失い、秦の本格的な中原進出の契機を与えてしまった。そして戦果をあげて帰還した衛鞅は、病臥中の秦公からその功績を讃えられ、領地として商・於の地を授かったのである。
ここに至り、衛鞅は自らの呼び名を「商鞅」と改めた。商・於は十五箇所の邑が付帯しており、彼はその領主となったのである。
「……斉では田忌や田嬰も地方領主であるというが、この私もようやくその地位に並んだということだな。しかし話によると田嬰はともかく田忌は領主となったことで隠遁生活を余儀なくされているという。宮殿への関与は妨げられており、二度と表舞台に姿を現すことはあるまい。だが、私は違う。まだまだ活躍の場は残されているし、新たに得た領地の人民を教化する役割もあるからな」
衛鞅は大良造府において自らの存在意義を主張したのち、趙良を自室に招いた。趙良にとっては、ようやく訪れた活躍の場であった。
四
「趙良どの、あなたが私の府で働いていたことはこの間、初めて知った。あの孟蘭皋どのの側近中の側近であったあなたが私の元へ……光栄なことだ」
商鞅は、そのような物言いで趙良を褒め称えた。面はゆい思いをした趙良であったが、おそらく公子卬と知り合ったときもこのようにして彼を誑かしたのであろう、と思うことにした。しかもそれはあながち間違いではあるまい。
改めて見ると、衛鞅、いや商鞅はそれほど男ぶりがよいとは言えず、むしろ見劣りがすると言ってよかった。薄い表情、細い目、冴えない顔立ち……しかしその頭脳には知識がびっしりと埋まっているといったところだろう。その知識の中には、どうすれば人が喜ぶか、などというものもあるかもしれない。趙良としては危機を感じながら、その知識は完全ではないと感じた。なぜなら彼の施策は主君を喜ばすことはできても、多くの人民を悲しませているからである。
「滅相もございません」
あえて趙良は言葉少なに対応した。必要以上に媚びる必要はあるまい、と考えてのことであった。
しかし商鞅の彼に対する賛美は続く。
「孟蘭皋どのは南鄭地方の名士であったが、先ごろ惜しくも亡くなられた。その際の葬儀が素晴らしいものだったと聞くが、それを主宰したのがほかでもないあなただと聞いている。一説に孟蘭皋どのはあなたを自分の後継者として指名したというが」
「そのような話はでたらめです。たとえそれが事実だとしても、私にはその地位を引き受けるだけの甲斐性がありません。実を申しますと孟蘭皋さまの葬儀ですっかり散財してしまい、食べていくにも苦労する始末なのです。大良造府に勤めることを決めた理由もそれに尽きるというわけでして」
趙良はあえて自分を貶めるような言い方をした。が、それにごまかされる商鞅ではない。彼は真剣な表情で語を継いだ。
「それならば話は早い。ぜひとも私の食客とならぬか。もちろん今のまま大良造府に勤めていれば俸禄は出るし、食客となってくれれば衣食住にかかる費用はすべて私が負担することとなる。楽に蓄えができるではないか」
「しかし食客といえば聞こえはよいですが、それはつまり居候のことです。私はたとえ苦しくとも自分の食い扶持は自分で稼ぐという気持ちでおりますので……それにしてもなぜそうまでしてお誘いになるのですか」
「なぜかと問われれば、私はあなたの才を是非とも欲しいのだ。物事をひとりで考え、実行することは難しい。それが国を動かす事柄ともなればなおさらだ。こうして大良造府などを開いてみても、私が本当に心を許して相談できる相手はここにいない。あなたにその役目を担っていただきたいのだ。どうだ、私と親交を深めないか」
理性で誘っているのか、それとも感情を優先させているのかわからない商鞅の言葉であった。しかし趙良はこれに危機を感じたのか、ありがたい誘いの言葉に謝意を表することもなく、きっぱりと拒絶したのである。
「やつがれはそのようなことを望みませぬ」
無理もない話であるが、商鞅はこれに落胆した様子を見せた。意見に反対する態度を示し、批判することは……特に商鞅のような権力者を相手にそれをすることは身の危険を伴う。実際に宦官の景監は命を落としており、趙良としても冷や汗をかきながらの対応であったはずである。しかし彼は怯まず、強い口調で商鞅を批判したのだった。
「孔子の言葉にあります。『賢人を推し上にいただく者には自ら進み、愚人を集めて王となる者は退く』と。やつがれなどは愚人そのものでありますので、その幕下に従えばかえってあなた様を貶めてしまいます。ゆえにお言葉には従えません。また、こうも言われます。『その位にあらずして居るは位を貪るといい、その名にあらずして有つは名を貪る』と。あなた様の徳義を甘受すれば、やつがれなどは位を貪り、名を貪る者そのものとなってしまいます。それゆえに仰せには従えません」
趙良は謙遜の言葉を羅列しながら、その表情で商鞅を批判していた。商鞅はそれを感じ取ったのか、その理由を問いただした。
「やつがれなどと自分を貶めることはやめて欲しい。これでも私は充分評価に値する人物を誘っているつもりなのだから、卑屈な表現でそれを否定することなど、たとえ本人からでもしてもらいたくない。それともあなたは私が秦国を治めるやり方が気に入らないとでも言うのか」
商鞅は言いながら趙良の着ている衣服の袖を掴んだ。趙良はとっさに自らの危機を感じて、さりげなく腕を引いた。
——まずい、やられる!
密室の中、ふたりきりの状況で相手の仕草に危険を感じる……趙良としては非常に不本意なことであったうえ、望んでいるはずもないことであった。商鞅は男にも色目を使う。
——思い過ごしであってほしい。
と趙良は願った。
「心にあわぬ言葉を黙って聴くのが聡、己の内を見つめるのが明、自らに勝つのが強でございます。古代の聖王たる虞や舜の申しようにも『自らを卑しくすれば尊し』とあります。あなた様は虞舜の辿った道を歩まれるがよろしいでしょう。なにもやつがれごときにご自分のやり方が正しいかどうかなど、わざわざおたずねにならなくてもよろしゅうございましょう」
「……だからそのやつがれというのをやめろと言っておるのだ。私は、あなたの意見には聞く価値があると思ったからこそ質問している。それとも虞や舜のようにひたすら自らの内面に向き合い、自分ひとりで何ごとも決めればよい、と申すのか。それでよいはずがない。おそらく虞や舜にもよき相談相手はいたことだろう」
「いまのお言葉は、景監を失ったことから発せられたものでしょうか。悔いておられるのですか? あの宦官を殺したことを」
商鞅はこのとき確かに表情を硬くした。しかし口ではそのことに触れず、自分の功績を主張しだしたのだった。
「私がこの地にやって来るまでの秦は、胡の教えを国是としていた。父子の別ちはなく、いつまでたっても同じ家に住まっていた。男女は淫らな関係を常としており、そこに道徳はなかった。疫病患者を隔離することもせず、その結果として邑全体に病が蔓延した。私はそれらを法によっていちいち改善し、男女の別ちをたて、疫病にかかった者は水の底に沈めた。さらには咸陽の南に物見櫓を伴った宮門を築いて、これを『冀闕』とした。あなたはよく見ておくがいい。咸陽の造営は魯や衛など中原諸国の例に倣い、荘厳さではこれを大きく上回っている。咸陽はやがて秦の都となるばかりか、天下唯一の都となるであろう」
「はあ、そうでありますか」
「気のない返事をするものではない。あなたはどう感じているのか。この私と五羖大夫……つまりは百里奚と、どちらが優れているか」
百里奚とはもともと虞国の大夫であった人物で、小国の虞が晋によって滅ぼされた際に楚へ逃亡している。しかしそこで捕虜となってしまい、下僕として扱われていたところを秦の穆公に見出され、雌羊五頭の皮と引き換えに買い取られた。彼が五羖大夫と呼ばれるのはこれが由来である。その後百里奚は秦の宰相となり、徹底した徳政で近隣諸国を慰撫したという。
商鞅は、その百里奚と自分のどちらが優れているか、と趙良に問うているのだ。
「……千匹の羊皮はわずか一狐の腋肉に及ばない、と申します。また千人の諾々はわずか一士の諤々に及ばないとも申します。周の武王は諤々たる直言を聞いたゆえに栄え、殷の紂王は臣下に黙々と言葉を出させなかったゆえに滅びました。あなた様がもし周の武王の例に倣いたいと思うのであれば、やつがれは一日かかりましても正しいと思うところを申します。どうかお咎めにならないよう……よろしゅうございますか」
要するに趙良は商鞅を相手に、これからおまえに諤々と直言をかますぞ、それでもよいのかと言っているのである。しかしいかにも無礼ともとれるこの言葉に商鞅は厳しい表情のままでいたものの、これを許す言動を残した。
「飾りの言葉は華、至れる言葉は実、苦い言葉は薬、甘い言葉は病の種だと聞いている。あなたがもし一日中正しい言葉を述べてくれるのであれば、私にとっては薬だ。あなたを師とするであろう。辞退されるな」
五
趙良は話し始めた。
「……そもそも五羖大夫、いや百里奚は楚の奥地で生まれたいなか者でありました。それが虞国の滅亡により楚で虐待に近い扱いを受けているとの噂を聞いた秦の穆公が、彼を五匹の羊と引き換えに買い取ったのです。百里奚はまこと賢人であったため、穆公が彼を百姓万民のうえに立たせても、文句を言う者は一人としておりませんでした。国内でもそのようなありさま、ましてや諸外国に至ってはどうでしょう」
商鞅はどうやら趙良が自分を批判しようとしていることに気付きながら、それを咎めることはしなかった。不思議なことではあるが、その理由はやはり潜在的な趙良への「愛慕」であろう。彼は基本的に他人を信用せず、意見をまったく聞かないが、外見が好みの人物の言うことだけは聞くのである。
「続けよ」
「百里奚は秦の宰相職を六、七年ほど勤め上げましたが、その間に東では鄭国を討ち、晋国の君主を三度も取り替え、三度楚の国の災いを取り除きました。領内に発せられた命令に感動した巴(四川)人の部族らもこぞって貢ぎ物を持ち寄り、徳を諸国に施しては八方の戎たちも懐いて参りました。特に由余などの部族に関しましては遠国より関所の門を叩いて、ぜひお目通りしたいと懇願するありさまでありました」
「その話はよく聞くが、真実かどうかは怪しいと私は感じている。百里奚がそれほどの人物で、八方の戎がみな臣従したとしたら……秦の領土はいまより広いものとなっていただろう。しかし実際はそうではない。そのところをどう説明するつもりか」
「それまでの執政に比べてはるかに徳が満ちていたというたとえです。百里奚は自分を慕う戎を取り込んで、その支配地を無理に秦の領土に加えることはせず、良好な関係を築こうとしたのでしょう。百里奚の功績がまったくのでたらめであるならば、このような記録は残っているはずがなく、わざわざ言い伝える理由がありません。彼の治世は徳で満ちていた……後世の人々が捉えるべき事実はこれだけで充分です」
趙良は商鞅の揺さぶりに動じなかった。命ばかりでなく、貞操の危機に瀕しながら、彼の言うことは力に満ちていた。
「百里奚が宰相でありましたころ、心身に疲れを感じても馬車の上で座ることは絶対にしなかったそうです。またいくら暑くても車には幌をかけず、国内を巡回するときにも他の車を供に連れていくことはしませんでした。戈や盾を立てず、功名は庫の奥にしまい込んでも、その徳と行いは後の世にまで広まりました。彼が死んだとき、秦国の男女はみな涙を流し、子供も歌を歌わず、臼をつく者もかけ声をやめたのです。これぞ百里奚……五羖大夫の徳と言うべきでしょう」
趙良は商鞅より百里奚の方が数段優れていると言いたいのだろう。その意図を察した商鞅はさすがに面白くもなく、目の前にいる愛すべき趙良に向かって不覚にも毒づいた。
「私が死んだときにも悲しむ者は多くいるだろう。何にしても私はこの秦国を天下に名だたる強国へと変えたのだ。その功績を惜しむ者も必ずいるはずだ」
「ところがあなたはそのやり方がまずかったのです。君主への目通りのために宦官景監を頼って口添えを頼むなどという行為は、名誉となるものではありません。大良造となられましたあとでも、百姓を第一とせずに贅をこらした冀闕などを造営するなど、勲となることではありませぬ。そのうえ太子の師と守り役に対しては、処刑あるいは黥刑に処されました。民に対しても傷つけたり厳しい罰を与えるばかり。これでは怨みを積もらせ禍を蓄えるものとしか言いようがありません。そもそも『教え』が民にしみこむこととは王侯のご命令よりも深く、民が上位の者を見倣うときは法令などが出るより早くにそうするものでございます。道理に外れたやり方を今後もなされますようでは、あなた様の政策は決して『教え』とはなりますまい」
「だからといって今さら後戻りはできぬ。そもそも民が上位の者を見倣うようになるまでどれだけのときが必要となるか。あなたは法令を出すより早いと言うが、そのような例がいくつあるというのか。よほど優れた人物が上位に立てば話は違うかもしれぬが、その場合でも民が素直で、なおかつ優れているという前提が必要だ。実際にはそのようなことはない」
「しかしあなたがしたことは商・於の領主として南面して座り、寡人などと偉そうに自称したことです。また、毎日のように秦の貴公子たちのあら探しをして、その恨みを買いました。『詩経』にも『鼠を相るに体あり。人にして礼なし。人にして礼なくんば、何ぞ速やかに死せざる』とあります。この詩から考えれば、あなた様のご寿命の長かるべき理由はございません。公子虔が門を閉ざして外出せぬこと、すでに八年にもなります。その上にあなた様は守り役の祝懽を殺し、公孫賈に黥されました。『詩経』にも『人を得る者は興り、人を失う者は崩る』とあります。ゆえにあなた様が人心を得ることは決してない、とこの趙良は存じます」
「この私が、鼠にさえも劣るというのか」
「鼠には手足があれば生きていけますが、人にはそれだけでは充分ではなく、礼が必要だというたとえです。私にはこの詩こそが、いまのあなた様を言い表す最適な表現だと思われます。そもそもあなた様は外出するときには十数両の車に供をさせ、さらにはそれに甲武者を乗せております。力自慢の男を馬に乗せ、矛を持たせて戟を構えさせ……そのような者どもがあなた様の車を守っております。これらひとつでも欠ければ、あなた様は外出なさいません。『周書』にも『徳を恃む者は栄え、力を恃む者は滅ぶ』と見えます。あなた様の行く末は朝露のように危うい! それでも寿命を延ばしたいとお考えならば、御領分の十五の都を秦公にお返しし、田舎の畑作りとなって、秦公には山中に隠れた賢者を紹介し、老人を養い、孤児をいたわって、功ある者に位をすすめ、徳ある者を尊ぶようお勧めなさい! そうすればいささか長生きできましょう」
「そこまで言うのか。私が権威を笠に着て偉そうに振る舞っていると……相手があなただからこそ私は黙って聞いている。そのことをわかっていての暴言か」
「あなたが私の言葉に従わず、商・於の富をむさぼり、秦国の政治を独り占めにして百姓の怨みをさらに積もらせれば……ある日もし秦公がみなを捨てて朝廷にお出ましなさらぬときどうなるか」
「つまりは秦公が亡くなられたときのことか」
「そうです。そうなった場合、あなた様はきっと捕らえられますぞ。そのとき罪は軽くはすみますまい。恐れながらそのときは近づいておりまする。片足を上げて待つ間もないくらいですぞ」
商鞅は趙良の言葉に従わず、そのまま室外へと足を運んだ。その後ろ姿は侮辱された権力者というよりも、恋人にふられた男の姿というにふさわしかった。
一方趙良は身の危険を感じ、そのまま国外へ脱出した。
六
臨淄で蘇秦と別れた旦は、言われるままに徐州へと向かった。蘇秦の話すところによると、そこに孫臏が潜んでいるらしい。
徐州は市街を小高い丘が囲む都市である。斉の領土の最南端に位置し、比較的大きな湖の畔にあった。市街から湖を臨む風景はいかにも争いに疲れた人の心を和ませるものであり、安息の地とも呼べるものであった。
しかしそのような土地だからこそ、諸国が争奪戦を展開する。徐州はかつて宋の領土であり、楚の領土であったときもあった。このときは田忌の所領として斉の領土となっていたが、それを他の国々が認めているわけではない。周の天子はこのような問題にもはや口を出せる存在ではなく、知らぬふりを決め込むだけであった。そこを蘇秦は楚に攻撃させよ、と言うのである。
田忌は地方領主となり、中央に対しては半ば隠匿しているような形となっている。龐涓を倒すという目的を達し、穏やかな暮らしを望んでいるかのように見えるが、実際に彼の治めた地はそのような状況にあった。旦としても死んだ龐涓の復讐を考えているわけであり、田忌や孫臏にそのような生活を満喫させるつもりはなかった。
だがその方法がわからない。孫臏が徐州のどこにいるのかさえもわからず、旦はただ歩き回るだけであった。さすがにそれでは何も進展しないと感じた旦は、あえて道行く人々に孫臏の所在を尋ねるようにした。問いかけることでまともな返答があるとは考えていなかったが、自分のこうした行為が相手に何らかの形で伝わり、反応が得られるはずだと考えたのである。
その反応は意外な形で現れた。
「無礼にも我が師の所在を尋ね歩いている者はおまえか」
旦は通りの中央でいきなりそのような怒声を浴び、攻撃を受けたのである。しかもそれは棒や剣による攻撃ではなく、徒手空拳によるそれであった。だが、その攻撃は単なる拳による打撃、あるいは無造作に放たれる蹴りではなく、滑らかな動きと跳躍を伴う「型」を持っており、非常に鍛えられたものであった。握られた拳は中指の間接をわざと突き出しており、単に平面的な打撃を相手に与えるのではなく、刺すような痛みをも加える。旦は不覚にも四発ほどその打撃を体に受けてしまった。耐えかねて反撃しようとしたが、そのたびに相手はふわりと跳躍し、それを軽々とかわすのである。
孫臏を探す自分に対して加えられる攻撃、そして以前に龐涓から何度か聞き及んでいた内容から察して、旦はこの攻撃が「孫臏拳」によるものだと判断した。
「なぜ、所在を尋ねただけで殴られねばならぬのか! おまえは何者か」
しかし目の前の若者は、その問いかけに答えず、さらに攻撃を加えた。そこで旦は一計を案じ、さらに二、三発の打撃を受けた後、気を失ったふりをした。
複数の男たちによって運ばれていることを意識しながら、旦は目を開かなかった。自分がどこに運ばれて、生かされるのか殺されるのか見当もつかないが、運ばれる先は孫臏のもとであろう。旦の懐には匕首のひとつもないが、殺されるときには武器のようなものがあっても殺されるものだ、と覚悟をしていた。
目を閉じてはいるが、室内に入ったことは意識できた。肌に感じる風の流れや、まぶたの裏を通して感じる光の度合いが変化したことで、彼はそれを察した。
「どうしたのだ、その男は」
旦の耳に壮年の男が発する声が届いた。それは野太い声とも言えず、軽々しい声とも言えず……普通の大人が発する、普通の声であった。しかしそれは紛れもなく、孫臏の声であった。旦は以前に聞いた彼の声を、決して忘れることがなかったのである。
「軍師さまのことを街中の者に聞き回っていた者です。怪しいと思って連れてきました」
「それで街中でこいつを打ちのめしたわけか。万よ、あまりにも人目につく行動は控えてもらいたいな。おまえのしたことは、わざわざこの男に私の居所を教えたようなものだ。なぜ連れてきたのか」
「置いてきたところで、目を覚ませばこの男はまた軍師さまのことを聞き回ります。口を封じるためにまさか市中で命を絶つわけにもいきませんし……」
「ただ単に用事があっただけかもしれぬ。あまりことを大げさにするな。しかし待てよ……この男、見覚えがある。たしか寿春で白圭と称する商人と一緒だった小僧だ」
「見たところ、小僧ではありません」
「当時は小僧だったのだ」
繰り広げられる会話に、旦は心中肝を冷やした。どの機会で目を開けばよいのか、それともこのまま死んだふりでもしているべきなのか……しかし悩んでいても仕方がない。ここは何も聞かなかったふりをして目覚めるのが一番だろう。
「うう……」
旦は呻き声を上げながら、目を開いた。そのとき彼の視野に映った光景は、車椅子に乗った孫臏が自分の表情をのぞき込む姿であった。
「見ろ、目を覚ましたぞ」