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戦国に生きる ー魏国興亡史ー  作者: 野沢直樹
第三部
12/20

死後

挿絵(By みてみん)


 馬陵での敗北を受けて、魏公罃は韓侯昭と肩を並べて斉王辟彊にまみえた。魏公は敗北を認め、韓侯は救援を受けたことに感謝する形で、従属を誓ったのである。これにより、魏の覇権は実質的な終わりを告げた。


 魏罃(ぎおう)の落胆はいかほどのものだろう。ただ彼はその責任を龐涓や太子申に擦り付けようとはしなかった。ただ、それを失った悲しみを態度や言葉に表しただけである。肝心な場面での無策、あるいは人を見る目の無さ、あるいは人心掌握の稚拙さ……さまざまな言われようを甘受すべき存在の魏公罃であるが、その点だけは褒めるべきである。


 しかしあえて言うならば、やはり失ってからその存在の大きさを認識するのではなく、失う前にこそ正しくその存在を評価すべきであったのだ。


 だがすべての局面において正しく判断、行動できる人間はいない。


 程度の差は個人によって存在するが、この点だけをあげつらって魏罃その人を批判することは酷と言うべきであろう。


 ただし魏が覇権を失ったという事実はあまりにも大きく、取り返しのつかないものであった。誰にその責任が課せられるべきかと問われれば、やはり魏公罃に他ならない。


 しかし君主という存在は、基本的に代替の利かないものである。たとえ魏公罃が責任を感じたとしても、反省して引退などということはあり得ない。世継ぎと定めた子がいるのであれば存命中にその地位を明け渡すことも可能かもしれないが、今回は世継ぎの太子申が失われている。ゆえに、魏罃はその後の統治で汚名をすすぐしかなかった。


 旦は、それに協力することにした。



「僕は、本気で政治について学びたいと思います。書物を読みあさり、博識な人を見つけて交流したいと思います。その上で魏公をお助けしたいと思います」


 恵施(けいし)つまり旦は、公主娟を前に宣言するような口調でそう言った。娟は毎日のように泣きはらしているのだろう、目もとが赤く腫れ上がっていた。


「ごめんなさい、よく意味がわからないわ」


「勉強して、魏公をお助けする、と言ったのです」


 娟は血走った目を見開きながら、旦の真意を質そうとした。


「お助けするって? あの魏公を? 本気なの、旦?」


「いま、魏国を巡る状況は大変に不利なものです。それに対応すべきお方は、魏公しかいません。だから魏公にはしっかりしていただかねばなりませんし、僕は多くのことを学んで、そのお役に立ちたいんです」


 確かにこのときの宰相である中山君(ちゅうざんくん)には、目立った功績がない。太子申と将軍龐涓という軍事の柱を失った魏国ではあるが、そんなときだからこそ内政の支えは重要だった。旦は、その方面で身を立てようとしたのである。


「でも、いったいどうしようというの」


「手始めに、鬼谷先生に会おうと思っています。今は亡き将軍がどのような教えを受けていたのか……軍師孫臏についてもそうです。実際にお会いして直接お話を聞くことによって、対応を定めたいと思います」


「そう……」


「公主さまは、今後どうなさるおつもりですか」


 娟はこのときややうつむき加減に顔を傾けた。まだどうするか決めていない、という意思表示だろうか。もともと丸くて形のよい瞳を、あえて隠すように閉じたことも印象的に旦の目に映った。


「秦国には衛鞅がいて、私は白圭さまにその対策をお任せしています。先日は趙信という方ともお会いすることができました。私は私で将軍がお亡くなりになった怨みを晴らそうと思っているの」


 公主娟の思いは、覇権の行方や魏国の繁栄などにはなく、個人的な怨みを晴らそうとするところにある……国の将来などは旦に任せて、自分は自分の道を行く、と言いたいようであった。そのことを感じ取った旦は、大人びた口調で娟に言い渡すのであった。


「鬼谷先生は、常に自分自身を安全な場所に置き、他人や社会を動かすのだ、と主張されていると聞きます。公主さまもどうかご自分を大切になさってください」


 娟は苦笑いを浮かべたようであった。


「それは確かに私も聞いたことがあるし、実際にそうしようとは思っているのよ。でも、よく考えてみたら……これ以上卑怯なことはない、とも思えるわ。いやらしくて腹黒い老人が……薄ら笑いを浮かべながら暗躍する、そんな感じね。とても気分が悪い」


 聞いている旦にも娟の言いたいことはよくわかった。しかし彼らは独自の武力を持たないため、知恵で戦うしかない。正面から孫臏や衛鞅と戦おうとしても、それが無理であるからには、そうするしかないのであった。


「斉国を訪れようと思います。鬼谷子は臨淄におられるとのことですから」


「孫臏や田忌の動向にも注意を払って。もし可能であれば宰相の鄒忌さまとも関係を築いて……」


「わかっていますよ、公主さま」


 爽やかな笑顔を残して出立した旦であった。



 商人白圭からの使者が娟のもとに辿り着いたのは、その翌日のことだった。


 使者は娟の目前で跪きながら報告した。曰く、


「秦が魏へ侵攻を計画している」


 と。



——将軍、ひとりだけ先に逝くなんて。……あんまりだわ。あなたが死んでしまったおかげで、衛鞅はもう野心を隠すこともしなくなったのよ。どうするつもり? いえ、どうすればいいの?


 娟は危機を感じていた。すでに魏には頼るべき龐涓はいない。娟にとってそれはただ単に夫を亡くしたという事実ではなく、それ以上の問題であった。まして衛鞅が裏切って秦国へ去ったこと、その原因が自分にあると考えればなおのことである。


 考えすぎだろうか、とも思う。そのような小さな理由で、人は戦争を起こしたりするものなのだろうか、と。


 ただ、あのとき衛鞅は確かに言った。


「好いているのだ」


 と。その思いに応えなかったことが、彼の行動を過激にしたのだろうか……だとすれば白圭の言うような秦の国内状況も自分に原因があると思える。国庫が潤う一方で、庶民は暮らしにくく、貧しくなった……それも自分に原因があるのだろうか。


 そこまで考えて娟は首を横に振った。


 自分にとって重要なことは、秦の国民を思いやることではなく、愛した龐涓を失った怨みを晴らすことだ。秦の国民は不幸かもしれないが、間違いなく自分はそれ以上に不幸なのだ、と娟は考えた。


「白圭さまには一度こちらにお戻り頂いて、状況を詳しく説明してもらいます。そのようにお伝えください」


 娟は使者に伝え、自室に引きこもった。


——将軍、それに伯父さま……この国を守れなかったとしても、どうか私を責めないで。


 彼女にできることは、非常に少なかった。



 臨淄の宮廷では、馬陵の戦いのあと田嬰(でんえい)の評価が高まっている。魏と韓の君主を斉王と会見させ、盟約を結ばせた功績が大きい。軍功では孫臏を従えた田忌に敵わなかったが、その後の処理が的確であったのだ。


 田忌は、当然のごとくこれに不満を持った。魏軍の中心である龐涓を倒した軍功よりも一連の戦後処理が重視されていることに、彼はため息を漏らした。


「孫先生はどう思われるか」


 問われた孫臏は面倒くさそうな表情でこれに応じた。


「どう思う、と聞かれても困りますな。田嬰どのは今上の王さまの弟であるからきっと優遇されているのだろう」


「しかし田嬰は庶子に過ぎぬ。実際には王との仲もそれほどよくない。むしろ王は田嬰のことを嫌っているのだ。それなのになぜ……」


「人柄云々より能力が評価されているということでしょう」


 田忌はその厳つい顔に落胆の表情を浮かべた。そうすると、不思議なことに滑稽であった。


「孫先生は素っ気ないな」


 見放されたと感じたのであろうか、田忌の口調は寂しげであった。


「いや、将軍。そういうわけではない……ただ、今後しばらく大きな戦いがないであろうことを考えると、我々にこれ以上の栄達は望めないと思っているだけだ。もし将軍が今以上の地位を欲するのであれば、宮中を立ち回る政治的な器用さが必要なのかもしれない。それを望みますか?」


「このわしに鄒忌や田嬰のような器用さはないと思う。それに器用さを売りにして栄達する輩に吐き気もする。鄒忌などはろくに戦いもせず……」


「時代が変わった。以前も言ったが、兵を楽しむ者は滅ぶのです。これからしばらく大きな戦いは起きない。少なくとも他国では起きるかもしれないが、斉がそれに関わることはないでしょう。将軍の軍功は大きい……だからこそこのあたりで褒美を頂き、余生を静かに暮らすことを考えるべきです」


 田忌はこの孫臏の発言に驚き、大きな声で問い返した。


「隠居せよというのか、このわしに? どうしたのか、孫先生。魏に戦う相手がいなくなったのならば、秦を相手に戦えばよいではないか。連戦して連勝することにこそ、軍略家の価値がある。五戦して三勝などというのは、並でしかない。後世に名が残らぬではないか!」


「それは違う。先にも言ったように、兵を楽しむ者は滅ぶのだ! 言葉は悪いが、負け戦などをせず、勝ち逃げを決め込むことこそが軍略家の美徳だ。これより先、斉国の行く末は鄒忌や田嬰に任せておけばよい。それらがうまく運べば、人々はその結果がすべて将軍が魏に勝利したことに由来すると考えるようになる。それこそ、後世に名が残るということだ」


 意外にも孫臏が真面目な表情を崩さなかったので、田忌はこの発言を本気だと信じた。それにしても勝ち逃げを決め込む、とは……。田忌ならずとも見解を疑いたくなる発言である。


 しかし孫臏は兵法家としての心構えをわきまえていた。仮に田忌が個人的な出世欲を理由に出兵を決断することになれば、それは軍人の横暴としか言えない。百戦して百勝は武人の本懐にあらず……大勝ちすることはすなわち敗者の怨みを買うことにつながり、大規模な復讐を受けるものである。百一回目の戦いではきっと負ける、と言うのだ。


 しかしこの姿勢こそが、この時代における手詰まり感を際立たせているとも言える。諸国は微妙な強弱関係の中で存立し合い、完全に相手を滅亡させることを目標としていなかった。各国に存在する社稷や宗廟……土地神と先祖を祀る国体の中枢……これらを滅ぼすことは自らの不徳を示す行為であるという概念を、誰もが持っていたのである。


 隣国における地方の都市を自国に併呑し、その支配領域を広げるという思想はあるが、都の宮殿に住まう王や君主を殺害し、国そのものを乗っ取るという発想はない。この点において魏が趙の都である邯鄲を攻略し、自国の領土に加えようとした試みは、かなり思いきったものだったのだ。


 しかしその試みも結果的には失敗に終わった。魏公罃はいともあっさりと邯鄲の放棄を決断したように見えるが、その実は自分たちの行為に末恐ろしさを感じたのだろう。そして、魏は戦いに敗れた……行きすぎた「作用」は猛烈な「反作用」を生むのである。


 覇者とは他者と比較して強いというだけの存在で、その影響力を駆使して諸地方に発生する戦いを平和的に解決させるほどの力を持っていない。なぜならば、一撃で他者を滅ぼすほどの圧倒的な軍事力を持っていないからだ。ゆえに覇者とは「比較級的第一人者」と表現する程度が妥当である。


 孫臏でさえも、この状況は打開し得ない。彼は分析力に富んだ男であったため、斉が真の意味での覇者たり得ないことを、この時点で知っていた。ちなみにその意味では、魏も秦も覇者たり得ない。その要件が満たされるまでは、あと数十年……少なくとも五十年は待たねばならないだろう、と彼は考えていたのである。


「将軍、我々の生きているうちに天下が劇的に変わることはない。残念なことだが、このあたりが潮時かもしれぬ。王に面会してずけずけと褒美を要求することだ。この機を失えば、もう二度とそれを得る機会は訪れないだろう。なにしろ、戦いがないのだから」


 孫臏は本気で田忌を説得しようとしていた。それを知った田忌は、ついに鋭気を自らの内面に押し込んだのであった。


「孫先生の目論見が正しいとは限らぬぞ」


「そのときはそのときで対応すればよい。とにかくいまは、戦いによらぬ発展を斉国に望むべきだ」


「うむ……」


 その後田忌は斉王から徐州を封地として授けられ、子爵となった。また、官位として中大夫の地位を授けられたのである。



 下邳を所領としている鄒忌は、田忌が徐州の主となったことに焦りを感じた。しかし彼の優位性は実際のところ、揺るがない。田忌は、魏を破り龐涓を亡き者としたことで、人生の頂点を迎えた。つまり、これ以上のし上がることはないのである。


 少なくとも鄒忌はそう考えていた。ここで引き離しておきたい……実勢力は自分の方が上回っているが、身分としてはともに地方領主であることには変わりがない。そう思った鄒忌は公孫閲を呼び、策を練った。


 公孫閲は相変わらず人のよさそうな笑顔を見せながら、現状の分析結果を鄒忌に披露した。


「いま、宮殿では田嬰どのが中心となっておられます。今上の王さまと田嬰どのにはともに先代威王の血が流れておりますから、王さまとしてもこれを邪険に扱うことには躊躇いを覚えるはずです。しかしながら、積極的に支持することもできません。なぜなら王族にとってもっとも強力な競争相手は血を分けた兄弟であるからです。実際に王さまと田嬰どのは不仲だと言われておりますが、その原因は田嬰どのにはなく、王さまが極端にその行動を警戒しているという一点につきます。そのため王さまはあまり主張の少ない晏首(あんしゅ)などを信頼し、重用なさろうとしています」


「晏首か……」


 この晏首という人物も大夫のひとりである。しかし鄒忌が見たところでは、斉王は晏首のことを、ただ単に傍にいてもらえれば心強い存在という感覚で重用しているようであった。


「田忌将軍を重用することも、王は望んでおられぬようです。あまりにも戦功が大きく、王としては使いづらいのでしょう。ここはやはり成侯どのが存在を主張なさるべきです」


「どうするのか」


「この際ですからご自身の立場に近い者を大量に仕官させることです。宮廷を不戦派で固めてしまえば、これまでのように議論の場で不利な立ち位置に甘んじることもなくなるでしょう」


 鄒忌はこの公孫閲の言葉をよしとして、立て続けに自分に近い者を斉王に紹介した。それまで不遇だった者たちに仕官の道を切り開いたことで鄒忌は多くの者から感謝されたのだが、一方で斉王はこれを迷惑に思ったのである。


「成侯、そこもとのやり方は少し露骨すぎはしないか。晏首のように控えめにはできないのか」


 鄒忌が推薦する者たちは、すなわち彼の取り巻きであり、意見を同じくする者たちばかりである。王としては、聞くべき意見はより少数にとどめたい考えていたのだろう。事実、晏首が推薦する人物は非常に少なかった。


「お身の回りが騒がしくないことは結構なことでございましょう。晏首も我が君のそのようなお気持ちを察して、推挙することを控えているに違いありません。しかし……いにしえの言葉にもあります。『一子の孝有るは、五子の孝有るに()かず』と。孝行息子は多いに越したことはありません。これについて考えるに、晏首は我が君のために尽くそうとする者の道を塞いでいると言えましょう」


 斉王はこのとき興味深そうな笑いを示した。


「そこもとは晏首のことを批判するつもりなのか? それならそれでも構わぬが、まずはそこもと自身の意見を聞いておきたい。いったいこの斉を今後どのような方向に導いていくつもりなのか、ということだが」


「晏首どのは王さまの宸襟を騒がせたくないとお考えなのでしょう。それは彼なりの気遣いでしょうから、私は批判などしません。ただ……」


「晏首の件は、それならそれでも構わぬと申したではないか。それに、五人の孝行息子という話にも納得はしているが、余が求めるものはただ余を褒めそやすばかりの輩どもではない。『王さま、今日も肌つやの具合がよろしいようで』などと言われても余はちっとも嬉しくないし、満足もせぬのだ。……大量に仕官希望者を推挙したからには、そこもと自身が何を狙っているのかを知りたい」


 鄒忌にとって驚くことに、王はこれまでになく多弁であった。しかし、この程度の問いに答えられぬ鄒忌でもない。彼は水が流れるような軽やかさで、これに答えた。


「私の推挙した連中はすべて、何らかの形で魏国と縁がある者たちです。この者たちを通じて魏国とは交渉の場を持ち、数度にわたって会同の場を設けさせます。この会同で斉国が魏国を従える立場となれば、諸国の立ち位置は必ずや明らかとなりましょう。すなわち覇権は魏から斉に移ったこととなるのです」


「そううまくいくものか。しかも会同は先日、田嬰による主導のもとに実施している。魏・趙・韓の三晋の国々は揃って余に頭を下げた。この事実だけでも、斉の覇権を象徴すると言えるだろう。そこもとはこれを充分ではないと言うのか」


「なにもわたくしは田嬰どのの功績を妬んでいるわけではございません。龐涓を倒し、太子を破ったという戦果を、しっかりと政局に反映させたという行為は、やはり田嬰どのの功績でございます。ただ、三晋の国々をわが掌中に収めた、とまでは言えないでしょう。このままでは、彼らは機会を見つけて我々に対抗しようとするに違いありません」


「どうすればよいのか」


 王の口が重くなったことに鄒忌は満足したのか、あえて荘厳な口調で言い放った。


「魏公に王を称させなさい。斉の口添えによって王国となったとすれば、魏は今後斉に逆らうことはありません。属国のように扱うことが可能となりましょう」


「では、これまで対立してきた魏を我が味方に迎え入れよ、と言うのか」


「今後は、秦と対抗しなければなりません。魏は特に秦と国境を接しているので、危機意識も高いでしょう。ゆえに彼らが戦った結果を、我が国の利益としなければなりません」


「魏と秦が戦って、魏が敗れた場合はどうなるのだ」


「その場合は、魏そのものを我が国にとっての砦と考えておけばよろしいでしょう。砦を何重にも用意しておけば、我が国に秦軍は到達できますまい」


 鄒忌という男は、非戦派であることは確かである。しかし彼は戦いの存在を否定はしていない。つまり、他国同士の戦いは認めている。いや、むしろ推奨していた。田忌や孫臏はその戦いに軍事力を用いて介入することで自国の利益とすることを目標としていたが、鄒忌はそれを政治力で得ようとした、というだけの話である。政治力とは、交渉であったり、策謀であったり、ときには裏切りであったりする。ゆえに人によっては、鄒忌は田忌よりあくどく、腹黒いと考えたものであった。


「そこもとは、いつの間にか琴を弾くこともしなくなったな。あのころは実に優雅であったが、今に至ってはいやらしさが目立つぞ」


 斉王は口に出してはそう言ったが、結局は鄒忌の言葉に従ったのである。



 臨淄の街並みは、大梁や安邑といった魏の都市と比べて、雑然としていた。ともに庶民の家は藁葺きの屋根を持ち、街全体が土色であったことは変わらないが、臨淄には広場や祭祀場が少なく、閉所に建物を詰め込んだ感がある。それが賑やかだと言う者もいれば、味気ないと言う者もいるが、旦は後者の意見に賛成だった。このごみごみとした街では、大梁にある自分の家のように、桃の木を育てている者などはいないだろう。


 学者が多い街だというが、旦の目にはそれが風流を愛さず、実利を求める街のように映った。しかし実際には、このような街造りをする国が覇者となろうとしているのである。もう一方の候補である秦についても、法がすべてを司る国であるため、無味な印象を旦は抱いていた。おそらく、これが社会の流れというものなのだろう。庭を愛でて、その印象をどうこう言い合うとか、毎年の収穫を土地の神々に感謝して、その祭祀の場に集まった人々が楽しく語り合う、などという時代は終わったのだ。


 その点について、この臨淄に住むという学者たちが、どのように考えているのか……旦はそれを知りたがった。


 鬼谷を見つけることはそう難しくなかった。稷門(しょくもん)の周辺……城壁の内側には宮廷から大夫待遇を受けている連中の家があり、外側にはそうではないが学者を名乗っている者たちの家があった。鬼谷の家は城壁の外にある。


 人づてに辿り着いた鬼谷邸であったが、そこは屋敷というより庵と呼ぶにふさわしかった。この粗末な庵で龐涓や孫臏がともに学んだと思えば、実に感慨深い。孫臏がここにいたころは、いま以上に生意気だったというから……彼は周囲に不満ばかりぶつけていたのではなかろうか。……そのように無駄な想像をしてしまう旦であった。


 やはり粗末な門を抜け、戸口に立った旦を出迎えた者は、自分と同年代と思われる男であった。おそらく門下の学生であろう。彼は旦が何も言わなかったにもかかわらず、戸内に案内した。言葉を重視するという鬼谷子の門派にしては珍しい対応であり、それだけに重圧を感じざるを得なかった。


「お目にかかることはできますか」


 旦は意識せずに、主語を省いてその男に質問した。何も言わずとも案内してくれるのだから、当然自分が鬼谷子に用事があることをわかっているのだろう、と。


 ところがその男の返答は旦を驚かせた。


「お会いできるかとは? 誰にですか?」


 するとこの男は自分をどこに連れて行くつもりだったのか、と旦は恐れを抱きつつも、どうにか言葉を返したのだった。


「もちろん、鬼谷先生にです。あなたはそれをわかっていて、僕を中に入れてくださったのではないのですか」


「無論わかっています。だからこそ私は何も言わずにご案内したのに、あなたはわざわざ聞き直した。あなたこそなぜそんな意味のないことを?」


 この男は、一連の行動と会話によって自分を当惑させ、それによって上の位置に立とうとしている……旦は直感的にそう判断した。しかし、初対面かつ名も知らぬ相手になぜそのような扱いを受けねばならないのか。


「ただ、確認したかったまでです。深い意味はありません」


「意味のないことに言葉を用いることはやめたまえ。それは鬼谷先生の教えに反することだ。ここを訪れたからには、言葉の重要性というものを意識してくれなければ困ります」


 ついには説教を始めた。旦は心ならずもたじたじとなり、


「……わかりました」


 と、返すしかなかった。


 先導する男は、口ひげを長く垂らしている以外は、とりたてて特徴のない男であった。美男でもなければ醜男とも言えない。外見的な印象が薄く、後ろ姿を眺める形になると、もう顔を思い出せないような男であった。しかし、口を開くと強烈な個性を発揮するのである。


——鬼谷子のもとには、このような人物が集まるのか。


 孫臏といい、徐子といい、旦にとっては素直に受け入れることのできなそうな人物ばかりである。養父である龐涓も、さぞやりにくかったことだろう、と感じた。


 やがて男は奥の座敷に旦を残して去って行った。例によって彼は何も言わなかったが、おそらくここで待っていれば鬼谷が現れるということなのだろう。旦は確かめたいと思ったが、また説教めいたことを言われるのも嫌だったので、黙って待った。


 鬼谷と思われる人物が室内に現れたのは、それからすぐのことだった。


 ゆったりと椅子に腰をかけた鬼谷は、やはり老人であり、でっぷりとした体格を持つ。髪の毛や髭はすべて白かったが、以前行動を共にした切れ者の印象が強い白圭とは違い、仙人のような風貌であった。雲に乗って空を飛べるという話を信じていたわけではない。しかしそのような印象を人々が抱くことも、わかるような気がした。


「よくおいでくださった。お若い方」


「僕は恵施といいます。(あざな)は旦です。どうか、旦とお呼びください」


 やや気負った様子で名乗った旦を、鬼谷は柔らかな眼差しで見つめた。その視線を受けると、旦はどこか遠くの世界へ連れて行かれるような気がした。もちろん、その理由はわからない。


「それでどういうご用件かな? 察するに、入門したいというわけではなさそうだが」


「どうしてそのようにお考えなのですか? なぜ僕に入門する気がないと?」


 旦は警戒していた。先ほどの男もそうであるように、この庵の住人たちには人に探りを入れてくる傾向がある。その最たる者が鬼谷本人であると推測される以上、簡単に本音を吐露することは、躊躇われたのである。


「なぜなら旦くんの表情には、自分の能力を磨いて仕官しようというぎらついた意気込みが見受けられぬ……。旦くんも、先ほど君を案内した男と自分自身を比べてみて感じるところがあっただろう。あれは広く自分を売り込んでその能力を認めさせようと考えている男でな。そういう人物にしてみれば、同年配の男はみな競争相手なのだ。ゆえにその態度は攻撃的なものとなる」


「あのお方は、優秀な学生なのですか? つまり、鬼谷先生のもとではああいった人が育つのですか、とお聞きしたいのですが」


「とても優秀には見えない、とでも言いたそうな口ぶりだ。しかしそれも仕方のないことだろうて。旦くんはまだあの男の一面しか見ていない。結論から言えば、あの男は優秀だ……彼は、名を張儀(ちょうぎ)という。自分の命のほかには舌さえあればいいと豪語する男だ。諸国を遊説し、いまはどの国に仕えるか検討している最中だ」


「張儀……舌さえあれば、とは?」


「張儀は楚に遊説していたころ、宰相と酒宴を共にしたことがあったのだ。その席で宰相は自身の宝物である(へき)を紛失してしまったのだが、ここでその嫌疑が張儀に向けられた。張儀は楚の家臣たちによって激しく打擲されたが、どうにか一命は取り留めた。しかし彼は自分の舌がまだ無事に残っていることを喜び、それに満足したのだ」


 旦は鬼谷の言葉を半信半疑で聞いていた。本当にそのようなことがあるのだろうか……しかし実際の話、孫臏は両脚を失いながらも自身の能力を遺憾なく発揮している。旦には受け入れられない事実ではあったが……。


「人というものは、情熱に縛られている。その情熱を跳躍し、どんな出来事にも泰然とした態度で臨める人物のことを『至人(しじん)』という。至人は聖人と呼び変えてもよい。しかしこの境地に至ることのできる人物は、天下広しといえどもごく僅かだ。むしろわしは、市井の人々が抱く情熱を熱く応援したい。そういうわけで、ここで学生を受け入れているわけなのだ。……ところで話の種に、旦くんの情熱をうかがいたいが、聞かせてもらえるかな」


 この鬼谷という老人は、意外にも人の心にうまく踏み入る。若かりしころの龐涓も、このような思いを抱いたのだろうか。そのような思いを抱きつつも警戒を解かない旦であったが、ある程度自分の考えを示さないことには何も進展しない。旦は用件を話した。


「僕はいま、情熱というよりとてつもなく深い後悔を心に抱いています。その自分の問題を解決するために、僕はここを訪れました。……過去に龐涓という学生がここにいたことがあったとうかがっております。それは本当でしょうか」


 鬼谷は感慨深そうに目もとを弛ませながら、大きく息を漏らした。意外にもこの老人は大きく感情をあらわにする。先に「至人」の定義を示してくれたが、自分自身はその境地に至るつもりがないかのようであった。


「龐涓は確かにここにいた。しかし弁士としては優秀ではなかったな。はっきり言って、見込みがなかった」


「どういったところが、でしょう?」


「龐涓はわしの講義内容は十分に理解できていた。しかし実践はできなかったな。言葉だけで人を操るということが苦手だったらしい。不器用だったと言い換えてもよいが」


「人のつく嘘を見破ることが得意ではありませんでしたか?」


 鬼谷は明らかに驚きの表情を浮かべた。


「なぜ、そのようなことを旦くんは知っているのか?」


「僕は龐涓将軍の養子なのです。生前の将軍には、本当に……実の子のように……ときには弟のように可愛がっていただきました」


「生前だと? ……すると龐涓は」


「陣没いたしました。つい最近のことです」


 言いながら旦は目に涙を浮かべた。彼にとっては口出すこともつらい出来事である。まして彼はその現場に居合わせたのだったから……。


「……旦くん」


「はい」


 鬼谷はおもむろに呼びかけた。それは悲しむ旦を慰める口調ではなく、むしろ叱責するようなそれであった。


「人は天の意志によって生まれ、天の意志によって死ぬ。ゆえに必要以上に人の死を悲しんではならない。涙を流したとて龐涓は蘇らず、君の気持ちもいっこうに晴れることはないだろう。龐涓の死を天の意志として受け入れるのだ。それができないことには、至人とはなれぬ」


「それは……おかしいじゃないですか」


「どこが、だ」


「鬼谷先生ご自身が、先ほど至人などより市井の人々の情熱を応援したい、と仰ったばかりではないですか。もちろん僕は至人などではなく、市井の人間そのものです。それに、将軍は天の意志というより、人に殺されたのです。戦場で、孫臏によって……」


 孫臏の名を聞いたとき、あきらかに鬼谷の顔色が変わった。



「孫臏とは斉の軍師であるな。しかしわしは実際にその男を見たことがなかったので、それがどのような男か確かめられずにいた。だが、その男が龐涓を狙って倒したということは、間違いなく過去にここで学んだわしの生徒であろう。そのころは孫臏と名乗っていなかったが……」


「龐涓将軍が、魏国の内情を不正に探っていたことを罪と判断し、その男を臏刑に処したのです。それ以来、その男は孫臏と呼ばれるようになったと聞いています。やはり間違いありません。将軍の話してくれたとおりでした。その男は鬼谷先生の門弟だったのです」


 鬼谷の表情はしかし変わらなかった。自分の教え子が殺し合う事態となったという結果に対して、この老人はどう思っているのだろう……それとも何も思わないのか、旦は目の前の鬼谷という老人の本性が未だよくわからなかった。


「当時の話をしよう。その孫臏という男は、自らを孫武の末裔だと主張しておきながら、本名を明らかにしなかった。曰く『某』と呼んで欲しい、と……。そういうわけなので、龐涓をはじめとする学生たちはみな、彼が孫武の末裔だという話を信じていなかった。しかし、わしは彼が真実を言っていたものと思う。少なくとも彼自身はそう信じていたに違いない」


「どういうことですか」


「孫武の子孫たちが、代々の系譜を記録に残したという事実はない。いや、あったかもしれないが残っていない。だとすれば、誰がどう異議を唱えようと、自らの主張のみが信じるに耐える事実なのだ。つまり彼が自らを孫武の子孫だと主張すれば、それは事実である一方、もし君が自分を孫武の子孫だと主張すれば、それも事実となる」


「いったいどういうことか、よくわかりません。つまり嘘も真実となる、ということなのですか。わけがわかりません」


「……世に存在するものはすべて陰と陽に分けられる。嘘を嘘だと証明する手段がない限り、それは真実となるのだ」


 これは、旦にとって明らかに詭弁であった。彼はこれ以上話を続ける必要性を見出せずに、実際に席を立とうとさえした。しかし鬼谷は多弁な老人であり、話を続けるのであった。


「その孫臏が、実際に孫武の子孫であるかどうかは、本人以外にはたいして意味を持たない問題だ。その孫臏が龐涓を戦場で倒したという事実の方が旦くんにとっては大事なことなのではないか? 君は、仇を討ちたいのだろう?」


「……できることなら」


 旦は結局座り直して話に付き合った。


「ならば話は早い。もし彼を戦場で倒そうとするならば、旦くんが龐涓将軍の養子であったことを前面に押し出して、堂々と対決するのがよかろう。それが難しいと判断するのであれば、何らかの方法で孫臏を陥れることだ。これについて、わしは彼の軍事理論をどうにかして否定することができればよい、と考える。彼の理論が後世に伝わらないようにすれば……君の勝ちだ。孫臏は生きる意味を失い、勝手に滅びるだろう」


「理論を否定……どうやって?」


「彼の残そうとする書物を広めなければよいのだ。あの男はここにいた当初から、自分の理論を書物として残したいと言って憚らなかった。それゆえ実際に龐涓を倒すという軍事的成果を得たからには、その目標を実現しようとするだろう。それを阻むのだ。あらゆる手段を用いて」


「…………」


「具体的な方法は自分で考えたまえ」


 この老人は自分をけしかけているのだろうか。孫臏の滅亡を望んでいるというのか。あるいは自分の味方なのか、孫臏を憎く思っているのか……そのような思いを旦は抱いた。しかし心を落ち着けて考えてみると、この鬼谷という人物は、結局のところ人同士を争わせてその結果を楽しんでいるだけのように思われた。それがどの方向に転がっても、ひとつの研究対象としか考えていないゆえに悲しんだりすることはないのだろう。


「返り討ちにある危険は?」


「無論ある。万物はすべて陰陽に分けられるので、どちらかが勝てばどちらかが負ける。にもかかわらず、人というものは争うのだ」


「僕にも争えと? あの孫臏と?」


「人というものは、自分の内なる感情に逆らわずに行動した方がよい生き物だ。一部の学者たちは礼楽などでそれを覆い隠せと主張している。ある程度それは実現しているが、しかし未だ世に戦いはなくならない。旦くんの心に復讐の思いが満ちているのであれば、それを無理に包み隠すことはしない方がいい。争いは人の世の必然だ。内心を覆い隠せば、絶対に後悔する」


 旦は確かに復讐したいと思っているのだった。鬼谷の元を訪れたのも、それを実現するための準備であり、予習であった。その意味で目的は達成されたと言えるかもしれない。鬼谷は孫臏の求めるものを知っており、それは弱点でもあるのだ。


「孫臏の居場所を知っておられますか。斉国内のどこかにいるものと思いますが」


「うむ。わしは知らぬが、国内の状況に詳しいものが門弟の中にいる。ここに呼ぼう」


 室内に入ってきた人物は、いかにも学者然とした長い口ひげを両方に垂らした男であった。目が鋭く光り、若くはあっても気軽には声をかけづらい……そのような男である。


「手前は、蘇秦(そしん)と申します。軍師孫臏は徐州の領主となった田忌将軍のもとにあると聞いております。このところ宮廷への出仕はしておらず、隠匿生活に徹している模様です」


「つまり、孫臏は徐州にいるのですね?」


「ええ。聞いたところでは」


 蘇秦の応答は、心なしか素っ気ない、旦は不安と残念さを同時に感じたが、初対面の人物に何も求めるべきではない、と考え直して語を継いだ。


「ぜひ、お話を伺いたいのですが」


 そこで旦は蘇秦を連れ出し、外で歩きながら話を続けた。これ以上鬼谷と話し続けると、いつか自分がぼろを出すと考えたのである。しかし、この蘇秦という男が一癖ある人物であったのだ。



 戦争は止まない。龐涓が倒れても戦いは終わらず、娟はひとり身をよじりながら、むせび泣く日々を送っていた。未だ二十代半ばでしかない娟にとって、一人で過ごさねばならない今後の人生は、とてつもなく耐えがたいものである。かといって、別の誰かと再婚する気にはとてもなれない。お互いの肌が触れあったときの温もり、その感触、胸のときめき……それらは他の誰かでは得ることのできない、彼女にとって至福の感覚であった。


 もう二度と抱かれることのない人生を送ることになると考えると、希望も萎える。せめて復讐だけでも、と考えたことも自然なことであろう。


 このとき、彼女の前には老商人白圭と趙良がいた。ふたりとも秦からの訪問者である。


「白圭さま、お帰りなさいませ。そして趙良さま、よくおいでくださいました」


 当日初めて顔を合わせた二人であったが、公主娟を前にして抱いた感想はともに憐憫であった。


「少し、おやつれになったご様子ですな。公主さま、ご心中をお察しします」


 白圭は商人らしく如才ない言葉でそれを表し、趙良はあえて娟を直視しないことでその気持ちを示した。かける言葉が見つからない、といったところであろう。


「元気だとは言えません。でもどうにか暮らしています。乗り越えられるものと信じていますので……おかしいですね。乗り越えられるかどうかは自分次第だというのに、他の人にこんなことを言うなんて。ところで、秦国の状況はいかがですか」


 白圭は改めて姿勢を正し、言葉巧みに現在の状況を説明した。


「状況は我々にとって、一喜一憂だと言えましょう。大良造である衛鞅は大がかりな魏征伐の計画を立てており、いままさに軍を発しようとしております。しかしその一方で秦公は何度か病臥し、着実に寿命を縮めているのです」


「秦公が病臥……本当ですか」


「宦官の景監にそれとなく対応策を伝えたところ、実行に移したようですな。この一年の間に三度も秦公は病に倒れています。もってあと一年か二年……」


「心が痛みますが、仕方のないことですね」


「これしきのことで心を痛めてはいけませんな、公主さま。あなたは愛する龐涓将軍を失った。その怨みを晴らそうとするならば、このようなことで心を揺るがすべきではない。まして秦公が死んで、衛鞅の後ろ盾がなくなるということは天下万民が望むことなのですから」


 確かに娟は心を強く持たねばならなかった。しかし、他人の滅亡を望むということは精神的につらいことでもある。娟はこの段階に至り、良心の呵責を感じた。ここで心を鬼にして復讐したとしても、龐涓が生き返るわけでもないのである。だとすれば自分は何のために復讐するのか……と考えざるを得なかった。


 しかしそれは明らかであろう。社会に運命を弄ばれた自分の鬱憤を晴らすために、彼女はやはり復讐するべきなのであった。すでに死んでしまった龐涓のためにではなく、いまなお生きている自分のために。生者としての自分がより良い一生を送るがために、彼女は自分を害するものと戦うべきなのである。


「白圭さまに言われずとも、私自身わかっているつもりです」


 結果、娟は力強く応じた。多少無理をしているとも受け止められる口ぶりであった。


「公主さま、私からひとことよろしいでしょうか」


 娟の様子を案じたのか、趙良は遠慮がちに声をかけた。彼は未だ青年であったので、同年代の娟と話す際には、やや緊張するようであった。


「私は、衛鞅のもとで働くことにしました。そうすることであの男の動きがわかりやすくなると考えたからです。そこで得た情報によりますと、今回魏国防衛の任を与えられた公子卭さまと衛鞅とは旧知の仲であるとか」


 娟は趙良が衛鞅に仕えていることに若干の抵抗を感じたようだが、すぐに思い直した様子で問い返した。


「ご苦労をおかけして……。でも、それはどういうことですか。衛鞅とそのお方が旧知の仲であるということは、戦争が止むことになるということかしら?」


 趙良は残念そうに眉間にしわを寄せた。


「そうであればいいのですが、今回はそういうことにはなりません。衛鞅は人を人として見ないことをその思想の軸としておりますので、いわゆる人付き合いというものを軽視する傾向が多大です。ゆえに公子卭さまは騙されて潰されてしまうのではなかろうか、というところが私の見立てです」


「なんてこと……事前に止められないのかしら?」


「私にも、すべてを思い通りにする力はありませんので……次の戦いで衛鞅は悪逆な手段を用いる。その悪評が広まり、彼の失脚を早めるというところができることの限界でありましょう」


 いかにも他力本願という気がしないでもないが、娟としては趙良にそれ以上の努力をせよとは言えなかった。と言うのも、すでに娟には魏国に対する思い入れがないのである。公子卭という人物がどのような男か知らなかったが、彼女としてはその人物に犠牲となってもらうしか、取り得る策がなかったのである。


「こんな状態で、復讐なんて覚束ないですね」


「いやいや、公主さま。何ごともじっくりと時間をかけて取り組まねば……まして大事とあらば性急にことを進めてはならない。趙良どのはうまく衛鞅に取り入ってくれた。商人であるわしには、それは叶わぬことだからな」


「心まで取り入ったわけではありません」


 目の前にいる娟の心情を慮ったのか、趙良は白圭の言葉にやや語気を強めて反論した。


「私は、ぜひ公主さまのお力になりたいと思っています。その寂寥を癒やすお力になりたいと思っているのです。好きで衛鞅に取り入ったわけではなく、あくまで公主さまのお幸せを考えてのことなのです」


 趙良は本気のようであった。しかし娟はそれをどう受け止めてよいのかわからず、一人おろおろするばかりである。見かねた白圭が助け船を出した。


「公主さま、ここにあなたのことを本気で心配する若者が一人おります。龐涓将軍を失った悲しみは相当なものでしょう。しかしあなたはこの事実を受け止めなければならない。あなたも今後の長い一生を寂寥に満ちたままで過ごしたくはないでしょう」


 娟は思わず深々と頷いた。龐涓への思いは変わらないが、このまま誰からも愛されず、悶々としながら残りの一生を暮らさねばならないという未来は彼女にとって嘆かわしいものであり、恐怖でさえもあった。できることなら、誰かに愛されて……強く抱きしめられながら毎日を過ごしていきたい。でも、自分自身が龐涓以外の誰かを強く愛することができるのか、それが重要な問題だった。


「でも……すべては衛鞅の問題を片付けてからです。実際に将軍を倒したのは孫臏ですけど、そちらは旦がうまく解決してくれるでしょう。だから私はせめて衛鞅と決着を付けたい。その後で自分の気持ちがどの方向に傾くか、そのときになってから確かめたいと思います」


「その答えを待ちはしません。とにかくお力になれれば、私はそれでよいのです」


 趙良は、やはり娟に心を寄せているのであった。娟は決してこのようなことに鈍感な女性ではなく、その気持ちを察したのである。


 しかし、思っていたより悪い気はしないのであった。



 衛鞅は魏を進行するにあたって、その防衛を公子卭(こうしこう)が担うことを知った。


「決断したときに、絶好の条件が重なった。幸運とはこのようなことを言うのかもしれないな」


 ひとり喜びをあらわにした衛鞅だったが、目の前にいる景監は沈黙したままであった。衛鞅は嫌みを含んだ口調で、これを問い詰めた。


「近ごろ、私の話し相手をしようとせぬのは、どういう理由からか。説明してもらいたいものだ」


 このときの景監は宦官らしい愛想の良さを、すでに捨て去ったのだろうか、常になく憮然とした表情でこれに答えた。


「大良造さまに何かを話して、下手に不興を買うようなことがあってはまずいと考えておりまして……口を開いて罰を受けるくらいなら、一切口を開かずにおいた方がよいと思っているのです。しかし、なかなかそうはいかないものですな」


「当然だ」


 衛鞅は威圧的な態度で応じた。宦官ごときが何をか言わんやと思っていることは明らかである。しかしこれは景監も同様で、自分の口添えをもって栄達した男に舐められたくない、と思っているのであった。つまり彼らはお互いに相手を軽視し、また互いに腹を立てているのである。関係が修復する可能性は、まるでなかった。


「言いたいことを言えない、腹を割って話し合うこともできない、本音をさらけ出すこともできないとあっては、息苦しくてままならぬ。法ですべてを縛りあげ、国は強力となったかもしれないが、このままでは人民の多くが、他国へ流出してしまう。大良造さまはそのことを考えておいでなのか」


「何を言う。簡単なことではないか。許可なく国境を越えようとする者を厳しく罰せればよいのだ。自分の生まれ育った土地を愛さず、他国へと逃れようとする者など、存在してはならない。許しがたき非道であろう」


「無茶苦茶なことを仰いますな。そもそもあなたご自身も、他国から流れてきた立場でしょう。たとえご自分の意見が祖国に受け入れられることがなかったと言っても、あなたに祖国を愛する心があれば、いまこのような事態にはならなかったのだ。いや、あなたが魏国を捨ててこの秦を訪れたことを批判しているのではない。あなたがそうである以上、他人にもその選択を認めるべきだと言っているのですよ」


 衛鞅は景監によるせっかくの諫言にも耳を貸さず、頑なに自説を主張するのみであった。


「その調子で何百何千の人々に奔放に振る舞われては国がまとまらない。結局秦が勢いを増している理由は、それを制限しているからこそだ。おまえこそ、その減らず口を閉じて人々の模範になるがいい。国や君主、そして大良造たる私への批判は許さぬ。それこそ法を犯すものだ」


 衛鞅はそう言い捨てて、場を離れた。それから数刻したのち、景監は食事をとっていたときに刑吏に連行され、即座に斬首されたのだった。



 衛鞅はこの事件の後、兵を引き連れ魏に侵攻した。




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