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戦国に生きる ー魏国興亡史ー  作者: 野沢直樹
第二部
11/20

馬陵

挿絵(By みてみん)



 大半の兵士が逃亡したと思われる斉軍を追い、龐涓は軍を北上させた。孫臏はこれを迎え撃つべく、田忌とともに対策を練る。因縁とも呼べるふたりの争いは、ついに決着がつこうとしていた。旦は当時のことをよく覚えており、ことあるごとに思い出す。そして以下の孫武による文面を思い出すのが常だった。


 将に五危あり。

 決死の覚悟だけで思慮に欠ける者は敗死する。(必死可殺)

 生き延びることだけを考えている者は捕虜となる。(必生可虜)

 短気な者は侮られる。(忿速可侮)

 廉潔な者は辱めを受ける。(廉潔可辱)

 必要以上に情の深い者は気苦労が絶えない。(愛民可煩)

 軍を滅ぼし、将を敗死させる原因は必ずこれら「五危」のいずれかである。(『孫子』九変)


 龐涓には、この「五危」のいくつかに該当する部分がある。いっぽうの孫臏もまた然りである、と旦は考えていた。だが結果は……。



「魏軍が動きを早めたようだ。孫先生の策になかなか食いつかないようで心配していたのだが……この後はどうするつもりか」


 田忌は斥候の報告を得て、喜色をあらわにした。しかし「さすがは孫先生である」などとは言わない。以前ならば言っただろうが、このときの田忌は戦いに勝利した後のことばかりを考えていた。もっとも勝利に貢献した者は誰か……孫臏に褒美の大半を持って行かれてはつまらない。彼はこの戦いで誰にも文句を付けられないほどの富貴を得て、本格的に鄒忌などの敵対勢力を一掃するつもりでいたのである。


「まずは目の前の敵を確実に掃討することを考えるべきでしょうな。勝利せぬうちから浮ついているようでは、兵から呆れられますぞ」


 孫臏はそんな田忌の心を見透かしているのか、極めて冷静な口調で応じた。


「そのようなこと、わかっておる。改めて聞くが、どうするつもりか」


 体裁悪そうにした田忌であったが、相変わらず威厳はある。孫臏はやや肩をすくめたような素振りを見せて、説明をはじめた。


「最初に我々は、龐涓が戦線に現れたという情報を受けて、撤退を装った。その際に十万の竈跡を残し、暗にその規模を見せつけたのだ。しかし龐涓は自軍との兵力差を意に介せず、我々を追跡することをやめなかった」


「しかしそれは妥当な判断だ。実際の我々は、十万もの兵力を擁していない。六万だ。龐涓もそのことを予測したのだろう。つまり、擬態だと見抜いたのだ。もしわしが龐涓の立場でも、そこは見破ったと思う」


 田忌の口調には、孫臏の意図が読めないことが示されていた。なぜ、わざわざそのようなことをしたのか、見え透いた罠を仕掛けることに、どんな意味があったのか、と。


「もちろん龐涓は、これに騙されて兵を退くなどということはしないだろうし、実際にそうしなかった。ただ、もし龐涓が騙されて兵を退いたとしたら……お互いにとってよい結果となっただろう。我々は戦わずして魏軍を韓から撤退させるという目的を果たすことができるし、龐涓としても無理な戦いで兵を失うこともない。兵法の根本は戦わずして勝つことを理想としているのだから、これ以上の結果はないだろう」


 田忌は、孫臏の口から意外な言葉が発せられたことに驚きを隠せなかった。この両脚のない男は、国同士の情勢などに構わず、ただひたすらに龐涓を倒すことのみに注力してきたのではなかったか。それを戦わずして勝つ、などとはどういうことか。


「実際に魏軍と戦って勝つためには、倍以上の兵力が必要だ。桂陵で経験したとおり、魏軍は強い……。それはなぜかと問われれば、魏の兵たちはみな、龐涓のためならば戦場で命を落としても構わないと思っているからだ。龐涓は兵たちの先頭に立ち、自ら率先して矢面に立つ……兵たちが心服する理由がそこにある。両脚を斬り落とされたこの俺には、できない芸当だ」


「ならば龐涓とは戦わないのか。まともに戦っては勝てない相手だということはわかる。しかしそれでは国元におられる王が納得しないだろう。国費をかけて遠征しておきながら、得られた結果が韓を救うということだけでは……。戦勝による領地拡大という実利がなければ、韓を救っても斉国には意味がないのだぞ。帰国後の我々の立場も非常に危うくなるだろう。だいいち、この戦いの目的は魏と韓の双方を疲れさせることにあったのではないか。よもや忘れたのではあるまいな」


 孫臏はこの田忌の言葉に落胆したようだった。彼にとって兵法とは、相手との知恵比べであって、国の未来や、そこから得られる利益などは二の次なのである。そのようなものは戦いに勝つからこそ得られるものである以上、何よりも優先すべきは相手に勝つことなのである。


「覚えておりますとも。そのうえでもちろん……龐涓は倒す。そのために二重、三重の工作を仕掛けたのだ。竈を五万に減らしただけでは龐涓は乗ってこなかったが、三万にしたら動き始めた。領地を拡大することも、我々の立場が強化されるのも、すべては龐涓を倒すことが前提となっている。その機会がようやく訪れたのだ。明日の夜には攻撃を仕掛けるぞ」


「明日の夜……?」


 不審の表情を浮かべた田忌が口走ると、孫臏は従卒の万に地図を持たせた。万はそれを広げながら微塵も動かず、緊張しながら立っている。


「万よ、そう固くならずともよい。……将軍、いま我々は(けん)をあとにし、北上を続けている。龐涓は我々を追い、やはり北上を続けている。このままいけば、ちょうど明日の夕刻に……奴らは馬陵(ばりょう)のあたりまで到達するだろう。そこを待ち受けて仕留めるのだ」


「うむ……なるほど。夜討ちするのか。しかし闇雲に攻撃を仕掛けても成功するとは限らぬ。そのあたりは考えているのか」


「それについては、現地の状況を確認しながら、さらなる工作をするつもりだ。まあ、見ていてください。まともに戦っては勝てない相手だが、もう一息で殲滅できる。長年にわたる魏との抗争も、これで決着がつくというものだ」


 孫臏は、不敵な笑い声を発しながら立ち去った。田忌は面白くもなさそうにその場を去り、残された万は緊張のあまり、いつまでも地図を広げたまま動けなかった。



 龐涓は行軍の速度を上げ、歩兵を置き去りにする形をとった。四頭立ての戦車による部隊が、激しく車輪の音を響かせながら進撃を続けている。しかしその数は三百に過ぎなかった。


 日が傾きかけたときに、一行は道の狭さに難儀するようになった。そのため隊列は長く伸び、薄暮によって視界は妨げられ、行軍の速度はやや低下した。さらに道の両側には険阻な峰が高く聳え、一行は伏兵の危険に晒されることとなった。


「側面からの攻撃に注意せよ」


 龐涓は可能な限り敵の襲撃に対して警戒したが、結果的にそれは備えの段階で終わった。斉は攻撃を仕掛けることなく、魏軍は行軍を邪魔されることがなかったのである。


 やがて鉄灰色の空は漆黒に覆われ、あたりは闇に包まれた。それでも魏軍は、松明(たいまつ)をかざしながら停まることなく行軍を続ける。


「馬陵周辺に到達した模様です。しかし今宵は月が雲に隠れておりますので何も見えませぬ。恐れながら、行軍は中止した方がよろしいかと思われます」


「もっともな意見だが、条件は敵も同じだ。もう少し先に進もう。できる限り敵との距離を詰めたい」


 部下の意見を退けた龐涓であったが、その態度には常に比べて迷いが見受けられた。旦は心配になってその表情をのぞき込もうとしたが、夜の闇によってその目的を果たすことができなかった。


「乱戦に持ち込みたいのだ。敵が背を向けて逃げているのならば、それに追いつき攻撃を加える。両脇の断崖に伏兵を忍ばせているのならば、あえてそれに攻撃させて居所を突き止める。そのうえで野戦に持ち込むのだ。まっとうな戦いなら、我々の勝算が高い。わかるか、旦よ」


 旦の不安な気持ちを見透かしたかのような龐涓の発言であった。この人は、しっかり考えている……旦は安心したかのように龐涓に問いかけた。


「将軍は、この状況をどうお考えなのですか。もしよければ詳しく教えて欲しいのですが」


「うむ……」


 龐涓はひとしきり自分の考えを整理するようなしぐさを見せた。考えがあるのならばただ答えればよさそうなものだが、「詳しく」などと言われたので真面目に答えようとしたのだろう。


「……孫武の兵法書には、冒頭に『兵は詭道なり』という記述がある。ゆえに敵はあらゆる方策を用いて我々を騙そうとする。対して我々はそれに騙されないよう、あるいは騙されたふりをして逆に騙すのだ。戦争とは結局のところ、この繰り返しに過ぎない。孫臏は何らかの方法で我々を騙そうとしている。それがどのような方法によるものか、旦にはわかるか」


「ぜんぜん想像がつきません。将軍にはわかるのですか」


「先日、我々は十万もの竈跡を見つけた。その翌日には五万のそれを、そして昨日には三万のそれを発見した……いずれも斉軍のものだ。しかし今日はすでに日が落ちたというのに、それがまったく見当たらない。私はこの事実を頭の中で分析しようとした。……兵というものは、まったく飲まず食わずで進軍できるものではない。しかし無理をすれば一日くらいはどうにかなる。だが、すでに日が落ちたとあっては、それも限界だろう。つまりこのあたりで斉軍は何らかの行動を起こす。すべてを終えたのち、ゆっくり飯にありつこうとしているのだ。おそらく補給もなかろう。我々から食糧を奪おうとしているかもしれない」


 旦はその事実に驚愕した。


「では、斉兵はこの周辺に潜んでいると? それが事実ならすぐに防御を固めないと」


「防御を固めてどうする。攻めているのは我々の側で、斉軍は逃げているのだ。だがその居所が掴めない。よって我々は、その思惑に気付かぬふりをして、敵が姿を現すように仕向けるのだ。そして乱戦に持ち込む……さっきも言ったが、野戦に持ち込めば我々の側が有利だ。我々がこの道を悠然と進めば、敵は左右の崖から攻撃しようとして姿を現すだろう。そこをすかさず、返り討ちにすればよい」


 龐涓の頭の中には明確な作戦があった。現在の状況を有益に活用し、あえて自軍を囮にしようと考えていたのである。しかし旦は、この作戦に不安を感じた。


「松明をかざして行軍していては、敵に目標を示しているようなものです。せめてそこだけはどうにかなりませんか」


 龐涓はこの旦の意見に、落胆したような表情を浮かべた。しかしこのとき彼が口にした言葉は、やはり愛する養子を気遣うものだった。


「おまえがそう言うのであれば、松明は消して行軍しよう。しかしそれでは敵の姿を発見することが難しくなる。敵にしても我々を発見することが難しくなるので、戦いの始まるきっかけが失われることになるかもしれぬ。よいか旦……孫臏は数か所に竈の跡を残してきたが、それらはすべて我々をここに誘導するための罠であり、嘘なのだ。奴はいま、誘導に成功したと信じている。我々がとるべき作戦は、奴にそう思わせておいて裏をかくことだ」


「でも松明を片手に持ったままでは、襲撃を受けた際にも対応が難しく、犠牲が多く生まれます。どうかお聞き入れください」


「旦。戦いには多かれ少なかれ犠牲は生まれるものだ。しかしおまえがそう言うのなら、やはり松明を消すことを許可しよう。敵の襲撃を知る方法は、ほかにあるかもしれない」


「お聞き入れくださり、ありがとうございます」


 旦はこのとき、そこまでしなくても勝てると思っていた。松明を灯して自分たちの存在をあえて主張し、そのことによって敵を引きつける作戦など、危険すぎる。そのような危険を冒さずとも、敵の襲撃位置をある程度予測できたことで、勝利は揺るがないと思っていた。


 斉側が竈跡をわざとらしく残したことについては、それ自体が擬態だという龐涓の言及があった。だがこれについて旦は疑念を抱き、龐涓の言葉を重要視しなかった。つまり斉では逃亡兵が相次いでおり、そのため決戦を急いでいるという考えを、彼は崩さなかったのである。結果的に龐涓が自分の主張を受け入れ、松明の火を消すことに同意したことも、自身の考えが正しいと改めて確認する一因となったのだった。


 だが龐涓は、ただ旦を信用したに過ぎなかったのである。


 龐涓率いる魏軍の一行は道を進んだが、横倒しになった大木によってそれを阻まれたのは、それから間もなくのことだった。



「この先は進めません。道が閉ざされています」


 先行する配下の兵から報告を受けた龐涓の顔色がやや曇った。しかし実際には、その表情は闇に包まれた中でまったく見えなかった。


「孫臏が何かを仕掛けてきたのかもしれぬ」


 それはおそらく独り言だったのだろう。注意して聞かなければ隣にいる旦にも聞こえないような小声であった。


「旦」


 龐涓は突然何かを思いついたかのように呼びかけた。


「はい」


「いや……なんでもない」


 一連の龐涓の言動に不安を覚えた旦であったが、気を取り直して問いかけた。


「とにかく実際に確かめてみるべきではないでしょうか。道がふさがれているとは言っても、戦車から降りればどうにかなる程度のものなら、撤去も可能かもしれません」


 すでに道中は暗闇であり、近づかなければ障害物も確認できない状況である。敵から姿を隠すには好都合だが、自分たちも思うように進めない。それを案じた龐涓は、当初から部隊全員に松明を持たせるつもりであったが、それを否定したのは旦であった。旦は自分で提案した以上、最善を尽くさねばならない。


「車を降りて僕が見てきましょう。歩いて近づけばわかるはずです」


 しかし龐涓はそれを拒否した。


「いや、まずは私が部下たちと見てこよう。ここまで暗いと自分の目で確認しないことには判断もつかぬ」


「では、ご一緒します」


 そこでふたりは車を降り、揃って前に進んだ。その間に思いを巡らすことは多い。これが何を意味するのか……道をふさいでいるものが単なる自然現象によるものでなければ、やはりこれは斉軍の仕業なのである。彼らはここに魏軍がやって来ると予測して障害物を設置した。そしてそれは斉軍もこの道を使ったという事実を意味する。彼らは逃走するにあたって、恐怖のあまりそのような細工を施したのだろうか。いや、狡猾な孫臏のことだから、意図したのであれば以前のように撒き菱を使用するだろう。その方がかえって闇夜では効果が期待できるはずである。


 確認したところ、それは土砂崩れなどによる自然現象によるものではなかった。ただでさえ狭い道をふさぐように、木は横倒しになっていたが、それは明らかに「置かれた」ものであったのだ。


「確かに大木ですが、決して乗り越えられないものではありません。車を引いた馬は通れませんが、歩いて越えれば……追撃は今後も可能です」


「だが、速度は鈍る」


 そこを待ち伏せされれば、状況は不利だと龐涓は考えた。しかし旦は、これは逃走を焦る斉軍のあがきに過ぎないと判断した。この道を使って必死に逃げている斉軍が、魏軍の追撃速度を鈍らせるためだけにこのような妨害をしたのだろう、というのである。


「旦、あまり楽観的に考えるな。相手が孫臏である以上、行き当たりばったりの策はない。この大木にも、おそらく何らかの意味があるに違いないのだ」


 暗闇の中で目を凝らしながら言う龐涓に対して、旦は密かに物足りなさを感じた。旦は戦場の先頭に立つ龐涓の意外なほどの慎重さに不満を抱いていたのである。


「ご覧ください。木の真ん中……暗くてよく見えませんが、どうやら樹皮が剥がされているようです。何やら文字が記されてあるようにも見えるのですが」


 部下のひとりが報告をした際、龐涓は迷わず命じた。


「松明を持て」



「これでよいのか。龐涓は必ずここに現れるのか」


 田忌は傍らに座る孫臏に向けて問うた。


 彼らは、林の中にいる。


 道を見下ろす断崖の中にある林。夜の暗闇に身を隠し、魏軍の到着を待ち受けていた。


 つまり、彼らは逃げていたのではない。待ち伏せていたのだ。


「やや予想と違う形であったが、やはり彼らは現れた。しかしそれも当然だ。道はこの一本しかない」


 孫臏は自分が龐涓をこの道に誘い込んだのだと主張する。逃亡を装い、竈跡を残したことなどはすべて、魏軍をこの道に誘い出すための策略であったというのだ。


「予想と違っていたと言うが、いったいどのような形を予想していたのか」


 田忌からの重ねての問いに、孫臏はうるさそうな口調で応じた。もし暗闇でなかったなら、彼が不機嫌そうに眉をしかめた姿もあらわになったことだろう。


「ああ、龐涓は自分たちの姿をあえて晒しながら現れるだろうと思っていたのだ。事実、途中まで彼らは松明を灯していた。だが、途中でそれを消したのだ」


「松明の明かりがなければ、我々は魏軍を認識できない。龐涓にしてみれば当然の策だと思うが……」


「いや、それは違う。奴らが松明を灯していれば、我々は発見されやすくなる。夜襲を仕掛けて最初の一撃は成功するかもしれないが、総合的な戦力は魏軍の方が上だ。龐涓が指揮を執っているとなれば、それは尚更で……我々は殲滅されてしまっただろう」


「では、いまの状況はどうなのか」


 孫臏はこの問いに答える前に、一呼吸置いた。例によって暗闇によってそれは明らかとはならなかったが、このとき彼は満足の笑みを浮かべていたのである。


「魏軍の連中が松明を消したという情報が早期にもたらされたことは僥倖であった。我々は大木を横倒しにして奴らの通る道を塞いでいる」


「あのような木など……簡単に乗り越えられそうなものだ。確かに車は通れないかもしれないが……効果はあるのか」


「将軍、これは心理の問題なのだ。これから起こることを、よく見ておくがいい」


 そのような会話を続けているさなか、彼らの眼下にある大木のもとで、松明の灯が輝いた。孫臏はその機を逃さず、全軍に命じたのである。


「あの火をめがけて、一斉に撃て!」


 弩から放たれる矢が、風を切る音を立てながら、松明の明かりに向けて集中した。



「何が書かれているというのだ」


 暗闇の中で目を凝らした龐涓であったが、それはよく読み取れない。が、確かに白い幹に文字が記されているようであった。


 傍らでその様子を伺っていた旦は、道しるべでも記されているものと考えていた。しかし、それこそが孫臏の策謀だったのである。


 松明によって樹皮の剥がされた部分が照らされた。龐涓は食い入るようにそれを見つめ、愕然としたのである。


 そこには……


「龐涓死于此樹之下(龐涓この樹の下に死す)」


 と記されていた。



——しまった!


 龐涓はやおら傍らの旦を突き飛ばし、叫んだ。


「逃げろ!」


 次の瞬間、雨あられのように矢が降り注ぎ、龐涓の体に突き刺さった。松明の火が格好の目標となってしまったのである。


「将軍!」


 突き飛ばされた旦は、その反動で転倒し腹ばいになったことで難を逃れた。しかし目の前には体中に矢を受けた龐涓の姿があったのである。


 ああ、なんていうことだ! もともと将軍は慎重に行動していたというのに。それに差し出口を挟んで窮地に追い込んだのは、紛れもない自分だったのだ! 旦は苦悩の余り、この場で死のうとさえ考えた。


「旦……」


 すでに松明の火は木に燃え移り、炎は火の粉をまき散らせて激しく踊っていた。旦は瀕死の龐涓の呼びかけにも、声を出して応じることができなかった。


「すぐに逃れて……太子と合流するのだ……公主には……悲しむなと言ってくれ」


 旦の目には涙が浮かんでいた。それによって、彼はこの情景を正確に記憶することができなかった。


「それにしてもこの私が……あの孫臏のような豎子(じゅし)の名を上げさせることになろうとは……これも奴の脚を斬り捨てた報いか……だとしたら、やむを得ぬことだ」


 そのときさらに矢が激しく降り注ぎ、またも体中にそれを受けた龐涓は、ついに倒れた。



 そしてそれきりひと言も発しなかった。



 それからどれくらい経ったのだろう。龐涓が矢に倒れた後、斉軍による本格的な襲撃を受けた。指揮官を失った魏軍は大いに敗れ、軍は四散した。


 その後のことはあまりよく覚えていない。気がつけば、ひとり山中の道を歩いていた。すでに夜は明けていた。


 旦は龐涓の遺言に基づき、太子申との合流をはかろうと道を急いだ。




「間違いない。龐涓だ」


 胸や腹に複数の矢を受け、倒れている遺体を見つけ、孫臏は静かに呟いた。


「してやったな。ついに孫先生の念願叶ったり、ではないか」


「確かに。だが、この喪失感はいったいなんだ。将軍はご存じか」


 信じられないことに、このときの孫臏は目に涙を浮かべていた。田忌は驚きとともに言う。


「わしにはわからぬ。しかし孫先生が喪失を感じているのであれば、それは自分の兵法を立証する相手を失ったということではないか。そういうことであればわしにもわからぬではない。いま、天下に龐涓を上回る武将は存在しないであろうからな」


「……まるで抜け殻となった気分だ。この先俺は誰を相手に戦えばよいのだ」


 孫臏は呆然として遠くを見やった。両脚を失った彼には佇むこともできない。自分専用の車椅子に座り、年老いるまでただこのように遠くを見やるだけの生活が待っているような気がした。


「まだ魏軍のすべてが滅亡したわけではない。しっかりしてくれないと困る。孫先生」


 田忌は戒めるような口調でそう告げた。このとき孫臏は、田忌のことをうるさく感じ、万に命じて車椅子を押させた。早々に立ち去りたかったのだが、龐涓の遺体によって後ろ髪を引かれるような思いをしたことも事実だった。


「龐涓よ……今度こそ俺の勝ちだ。思い知ったか。いや、おまえはもう考えることができないのだったな。……どうか、悪く思うなよ」


 兵法とは知恵比べであり、謀略であり、騙し合いである。孫臏は当代最大の敵に打ち勝ち、その第一人者であることを実証して見せた。


 が、彼の心はまったく晴れなかった。


……計謀者、存亡之樞機。慮不會、則聽不審矣。候之不得、計謀失矣、則意無所信、虛而無實。故計謀之慮、務在實意。實意必從心術始。


(『謀』とは存亡においてもっとも肝要な部分である。しかし相手の考えていることを慮ることがなければ、それを審らかにすることはできず、なにも得られない。ゆえに相手に応じた『謀』が成り立たず、何を信じればよいのかがわからなくなり、虚無に陥り何も実現させることができなくなるのだ。だからこそ『謀』とは相手の心を推し量ることであり、自分自身の何にも揺るがされない『実意』を得ることなのである。その『実意』とは必ず、相手によって変化する『心』の術を最初としなければならない……『鬼谷子』實意法螣蛇)




 太子申は、いつまでたっても現れることのない龐涓率いる軍をひたすら待っていた。遅い、と思いながらもそれを待つしかない自分の不甲斐なさを覚えつつも、事態に変化がないことに安堵したりもしていた。


 彼の頭の中にあるものは、数日前に会った徐子という男の残したひとことである。


——戦いに勝っても、あるいは負けても得られるものは変わらない。


——むしろ負けてしまえば、失うものばかりである。


——しかし戦いを回避することもできない。人々はあなたを戦わせようとしている。


——その人々の意志から、逃れることはできない。


 いずれも今となっては、含蓄に富んだ言葉のように思えた。いつまでたっても龐涓が現れないとなれば、単独で行動するか、それとも撤退するか……その二つの選択肢のうちどちらも選ぶことができないとあっては、徐子の言葉はやはり正しかったというべきであった。


 その太子申のもとに敵襲の報がもたらされた。来襲した敵の数は多く、九万ほどの大軍であった。太子の軍は六万である。


「斉軍か」


 結局龐涓はやって来なかった。


——よもや。


 とその安否を思った太子であったが、敵が来たとあっては自分たちだけで対応しなければならない。彼は彼我の兵力差を顧みず、突撃を命じた。


「大事なお体です。太子は後方へお下がりください」


 兵たちは太子を遮るように前面に立ったが、それもつかの間であった。斉王の弟にあたる田嬰(でんえい)が指揮する軍は正面からこれを迎え撃ち、あっという間に包囲態勢を確立した。


 じりじりと包囲の輪は小さくなり、それに応じて味方の数は減っていった。太子はついに進退窮まったのである。


 太子は龐涓がすでに敗れたものと判断した。その上で総攻撃に転じたのだが、結果は最悪であった。ここで太子が敗れてしまえば、魏国の軍事力は崩壊する。そうなれば近隣の諸侯……斉や秦によって国土は蹂躙されてしまうだろう。


 しかし、そのようなことを考えている余裕はなかった。太子は田嬰によって降伏を迫られ、最後にはそれを受け入れたのである。


 太子申の判断を惰弱なものとして批判することはできぬだろう。彼が判断を下さなければ、魏兵はみな彼を守るために戦い続けなければならない。そして不利な状況の中、命を落としていくのだ。六万の兵が全滅するまで戦ったとしても、勝敗は動かない。残り百名で形勢を逆転することなど不可能なのだ。だとすれば大将たる彼に求められる判断は、やはり降伏しかなかったであろう。


 しかし太子申には、その後の人生を汚名とともに生き抜く覚悟が足りなかった。その証として、彼は自刎してしまったのである。


 だが、それも責めることはできぬだろう。



 逃げ延びた旦が太子と合流をはかろうとしたとき、済陽周辺に戦闘の跡があった。戦闘の跡とは、もちろん兵士たちの遺体のことである。葬られもせず、野に横たわったままの彼らを見ることは、当然ながら気が引けた。しかもそれの大半が魏兵であるという事実……。


——太子の軍が、敗れた。


 状況から、旦がその結論に至るまでに時間はかからなかった。


——なんということだ。魏軍は壊滅、このままでは国も失われる。


 その一因を作った張本人が自分であるという意識が、彼を悩ませた。このまま帰路を取り、大梁に入ることが躊躇われた。いったい、公主にどうこの事実を説明すればよいのだろう!


 戦場に散らばる兵士たちの遺体……龐涓の遺体も同じく野に捨てられたままになっているのだろう。だが、旦はそのことについて考えないようにした。遺体は、土に帰ろうとするとき激しく腐臭を発する。いずれそのときになれば、付近に住む住民たちが片付けてくれるだろう。


 馬陵の戦いは、こうして終わった。



 公主娟の目は、このとき秦に向いていた。大商人白圭と連絡を取り合いつつ、衛鞅の野望を打ち砕こうとしていたのである。斉の脅威については、龐涓に任せておけばよいと考えていたのだった。


 結果から言えば、彼女の見通しは非常に甘かった。


 沈鬱な様子で帰宅した旦を出迎えた娟は、涙を流す前にひとこと呟いた。


「しょせん、女の浅知恵でしかなかったわ」


 そして膝から崩れ落ちたのだった。




「公主さま、将軍は亡くなる前に仰いました。『公主には悲しむなと伝えてくれ』と……。ですからどうかお気を確かに……」


 力なく言う旦を前に、娟は叫んだ。


「無理を言わないで! 悲しまないわけがないでしょう!」


「将軍ご自身のお言葉です。どうか重く受け止めてください」


 それを機に、娟は少なくとも喚くことはしなくなった。しかし大粒の涙で頬を濡らしたまま、それを拭おうともせず、心を落ち着けるためか、まったく動かなかった。


「公主さま」


 呼びかけた旦であった。そうしなければ娟はもう動かないのではないかと不安になったのである。


 しかし娟は呼びかけに応じた。ひくっと肩をふるわせ、涙を拭うとようやく立ち上がり、低い声でその思いを口にした。


「旦……。将軍のご遺体はいまも野に晒されたままなのかしら……」


 旦は重々しく首を横に振った。


「どうでしょうか……わかりません」


「孫臏に首を落とされたのかしら」


 そこで再びわっと泣きだした。旦はいたたまれなくなった。


「いやよ、そんなの」


「……武人たる者……将軍もそのお覚悟はしておいでだったと思います」


「そして斉王は、臨淄の宮殿で将軍の首を見ながら酒を飲むの? 勝った勝った、よかったよかったと言いながら? そりゃあ、将軍は武将だったから、多くの人を殺してきたわ。でも、死んだ後にそんな扱いを受けるような悪い人ではなかったの。そうでしょう、旦?」


「……わかります。将軍は、戦場以外では穏やかで、とても優しい人でした」


 結局、娟としてはそれを確認して、同意を得たいだけだったのである。もはや国内に信用のおける相手は旦以外におらず、彼女としてはふたりだけでも龐涓の遺志を継いで生きていきたいと思ったのだった。


「公主さま……実は僕、生前の将軍から諱を頂きました。『施』という名です。将軍が仰るには、僕には人をやる気にさせる何かがあるとのことでした。だから『施す』という文字を名として授ける、とのことです」


 娟は少し落ち着いたのか、再び涙を拭いながら応じた。


「それは……よかったじゃないの。あなたがうらやましいわ。そんな贈り物を将軍から頂いたなんて」


「いいえ、それは違います!」


 旦は急に語気を強め、娟はそれに驚いたようだった。旦の目に激した感情のしるしとして涙が浮かんでいたことに、娟はこのとき気付いた。


「どうしたの」


「僕は少しばかり先を見通せたばかりに、いい気になっていました。初めての戦場だったにもかかわらず、自分がすべての戦局を理解していると思っていました。思い上がりもいいところです」


「…………」


「将軍は歴戦の勇士であったにもかかわらず、戦場では常に慎重でした。でもあのときの僕はその慎重さが弱気に見えて仕方がなかったんです。将軍は孫臏の策略を見抜いていました。だからこそ慎重に行動しようとしていたのに、無知な僕は将軍をけしかけ、最後には将軍に変なやる気を出させてしまった。将軍が亡くなったのは、僕のせいです。公主さま、どうか僕に罰を与えてください。僕はいまここで首を落とされても構いません。公主さまに恨まれながら生きるより、僕にとってはその方がよほどましなのです」


 旦は誰よりも責任を感じていた。壮絶な思いを抱くのも当然であろう。しかしこのとき娟は言い放った。


「何を言っているのです。あなたは私の息子であり、将軍の息子なの。あなたが犯した間違いは、私たちの犯した間違いなのよ。あなたひとりが責任を負えばすむ話ではありません。それに……将軍はあなたの言うことなら、たとえ間違いでも聞く耳を持ってくれたはずです。あの人は、旦のためなら喜んで死ぬような人ですよ」


「そう……その通りです。でもそれだからといって」


「それに、旦は私をひとりだけにするつもりなの? まだ斉には孫臏が生きているし、秦には衛鞅もいるというのに、私ひとりでそれに立ち向かえと言うの? 旦の助けが必要なのです。お願いよ……私をひとりにしないで」


 魏国の命運は龐涓が死んだことで非常に危うい。罪を償うと称して自分が死ぬという考えは、やはり「逃げ」なのであろうか……。


 おそらくそうなのであろう。


 龐涓が死に、太子申もいなくなってしまった今となっては……公叔痤もすでに亡く、衛鞅は裏切って秦に去った。


 やはり自分と、目の前にいるこの女性しか、魏を守る者はいないのだ。



 そう思った恵施であった。


(第二部・完)



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