追撃
韓を相手に良好な結果を得た龐涓は、勝ちに乗じた形で斉と対峙することとなった。孫臏は自身の存在をちらつかせつつ、龐涓が戦う気になるよう誘う。正面から戦えば、斉は魏に敗北することが明らかであったため、彼は策略を用いて龐涓を罠にかけようとした。
だが、その動きを察知した太子申や旦は戦場へ急行し、これを阻止しようと試みる。秦はその様子を淡々と眺めながら、自国にとっての好機を狙っていた。商人白圭は、公主娟の意向を汲み、それを取り崩しにかかっている。
それらがすべて成功すれば、魏は安泰であった。しかしこの間魏公罃は無策に徹しており、戦いは現場の判断に任されている。彼は、龐涓や太子申に対して、「戦ってこい」と言うだけであった。
旦はそのことに不信感を抱き、自らの身を軍中に置いたのである。このような行動は、本来ならば君主自ら行うべきものであった。
公主娟のこのときの気持ちを推し量れば、怒りと寂寥がないまぜになっている状態であろう。自分の手で状況がどうにもならないもどかしさや、愛した者たちがなぜか皆戦場に赴くことになるという不可解さに、苛々していたに違いない。しかし彼女に自分がどうするべきかという明確な答えはなかった。
ゆえに、失敗したのである。
一
白圭は、景監に目通りした。この老人は、目的のためなら宦官に手揉みをすることも辞さない。状況が許せば、相手の肩をも揉んだであろう。
「雍の城内は、以前に比べて清潔になりましたな。これも衛鞅どのの手柄と言うべきですか」
その白圭の言葉に、景監は不満足そうな表情を浮かべた。もっと衛鞅を讃えるべきなのかと疑った白圭は、即座にそれを実行に移した。
「なにせ、分家を義務づけることで国全体の生産を増大させたというのだから、目の付け所が違うと言わざるを得ません」
「ふん」
「おや、景監どのには、なにか不服がおありでしたか」
景監は相変わらず不満そうである。その様子を、うまく感情を抑えることのできない宦官特有の反応だと白圭は確信した。
「以前のように、お前から賄賂をもらうことができなくなった。悪徳商人の相手をすることは重罪だと、衛鞅めが定めたからな」
「ほう……しかしそれは私が悪いわけではありません。もし金品が欲しいのであれば差し上げますが」
「いやいや、もらうわけにはいかぬ。誰だって裁かれるのだからな。鼻を削がれたり、脚を斬られたりするのはご免だ」
「そのような仰り方から察するに、景監どのは衛鞅さまの施策を喜んでおられぬようですな」
景監はその丸い顔のあらゆる部分にしわを浮かべながら、苦々しく言った。
「懐具合が寂しくなった。しかし……声を大にして言うことはできぬ。衛鞅の政策によって国の蓄えは大きくなったが、なぜか人々は一様に貧しくなった。軍隊は強くなったが、人は自由を失った。これでは国土が広くなっても、喜ぶ者はいないだろう。もっとも、我が君は喜ぶだろうが……」
「そうなのですか?」
「我が君は衛鞅の政策によって国庫が増大したから、喜んでおられる。しかし太子は幾度か罪に問われ、そのたびに守り役の者どもが厳しい罰を受けているのだ。彼らは衛鞅を恨んでいるだろう。それも深く」
「景監どのご自身はどうなのです?」
「無理に言わせるな。はっきり言葉に出して言うことはできぬのだ。しかし衛鞅を我が君に会わせたのはこの私だ。いまではそのことを後悔しているよ」
主君が喜んでいるというのに、下々の者たちは落胆している……衛鞅の政策はあくまで支配者のためのものであり、民衆の生活を思ってのものではないことがこれで明らかとなった。
「覆そうとは考えないのですか」
「方法がない。衛鞅はいまや主君に愛され、我々などが手を伸ばしても届かない存在だ。いったいどうすればよいというのか」
景監は吐き捨てるように言った。その態度はすでに破れかぶれであり、この先どうなっても構わないという捨て鉢な意識を示していた。
「こう言ってはなんですが、主君の代替わりを推し進めてみてはどうでしょう。たとえ衛鞅どのに近づくことは難しいとしても、景監どのであれば秦公のおそばにいることは難しくないと思いますが」
「代替わりだと? なんということを言うのか。しかし……そうか、ふむふむ」
景監は深く考える素振りを見せながら退席した。白圭は混乱に種を蒔いた形となったわけだが、それが実を結ぶまではあと数年待たねばならない、と自分に言い聞かせた。
公主娟はこのときひとりの客を迎えていた。秦の人、趙良という人物である。龐涓を訪ねてきたらしいが、不在のため娟がこの相手を務めたのだった。
「趙氏を名乗られているからには、秦国の公家に繋がるお方なのですか?」
秦の国姓は嬴姓趙氏である。このため、娟は目の前の男を警戒した。
「遠縁ではありますが、確かにその通りです。しかし噂によると、公主さまも魏公の血筋にあたるお方なのでしょう?」
「その通りですが、それがどうかしましたか」
「私の秦公家に対する思いは、公主さまの魏公家に対する思いと似ているということですよ」
「それはつまり、たいして重要なことではない、ということかしら」
「まさしく」
趙良は、深く頷いてみせた。信頼を得たい、ということだろう。しかし、娟は趙良がなにを求めてここに来たのかが、よくわからなかった。
「私は、秦の公家に対する忠誠など、さほど抱いておりません。しかしながら、自分の生まれ育った地でありますから、少しでも暮らしやすい土地であってほしいと願っております。これでも私は孟蘭皋どのに仕える者として、地元では少しばかり名が知れた存在なのです。いまだ無官ではありますが」
「孟蘭皋という方を、私は存じ上げませぬが……お話しぶりからすると、たいそう有徳なお方なのでしょうね」
「ええ。その孟蘭皋どのの周りを大良造衛鞅どのがうろついているのです。私はあの方を密かに快く思っていませんので、どうにかして遠ざけたいと思っておりました。そのようなとき、風の噂で衛鞅が魏将龐涓どのと旧知の仲だと耳にし……」
衛鞅という男は、賞賛されるいっぽうで徹底的に嫌われているらしい、と娟は思った。もはや彼女には衛鞅に対する同情はない。断言するように娟は言った。
「確かにあの方は私たちとは旧知の仲です」
「親しかったのですか?」
「そのようなときもあったかも。でも彼の正体は裏切り者です」
「ほう……」
「あの人は、魏の宰相であった公叔痤さまに目をかけられ、育てられた事実があるというのに、いまは秦の将として魏を滅ぼそうとしています。私が幼き日を過ごした安邑の都も秦に奪われてしまいました。すべてあの人のせいです」
「では、私と公主さまの考えは同じです。秦の民は軍事的には強くなったが、生活は息苦しく、しかも貧しくなった。私は衛鞅に翻意してもらいたいのです。つまり、政策の方向転換をしてもらいたい、と……。そのうえで、彼の心を動かすために過去を探ろうとやって来たのですが……どうも公主さまのお話ぶりから察するに、彼を翻意させるには難しそうだと思った次第です」
「難しいでしょうね。あの人は魏にいた時代から、法で国民を縛り付けることを考えていました。魏でそれが叶わなかったから、秦に赴いたまでです。どうあっても翻意はしませんよ。……その孟蘭皋という方には、衛鞅さまに近づかないようご忠告なさってください。もちろんあなたご自身も近づいてはなりません。もし向こうから近づいてきたら、断固拒否なさってください。そしてあなたは太子の側につくのがよいでしょう」
「太子の側に……?」
「私たちは、既に手を打ってあります。秦公が亡くなったら衛鞅は後ろ盾を失います。そのときのためにあなたも手伝ってください」
趙良は察しのよい男であった。このとき彼は、娟がなにを考えているのかを咄嗟に理解したのである。趙という氏を名乗ってはいるが、公室に思い入れがあるわけではないと言う彼が、協力することを約束したことは、自然であった。
「しかし公主さまは、多少強引なところがおありですな。気が強そうだ」
「あら、普段はそれほどでもないのです。ただ、それだけ衛鞅には強い思いがあるということですよ」
「強い思い、とは……?」
「恨みです。私は、あの人を決して許しません」
二
旦は太子申の軍勢に混じり、ともに行軍を重ねている。すでに一行は魏の領域を出て、宋の外黄という地にたどり着いていた。
龐涓の行動が気がかりなこともあり、太子は行軍を急がせているが、その態度は悠然としており、どっしりとしている。彼が兵に人気のある理由が、旦にはなんとなくわかったような気がした。
いうまでもなく魏公罃は彼の父親にあたるが、常に人を見下げた態度を取る父親とは違い、太子は情け深い性格であった。悠然とした態度をとっているが、それも死地に赴く兵たちを不安がらせないために、無理をしてそのように振る舞っていると旦は感じた。
というのも旦自身も不安なのである。実際に戦場に足を踏み入れることが初めてであったうえ、今回は自分ひとりでの行動である。内心では緊張から生じる吐き気を抑えることに必死であった。
誰にも言えぬ思いを抱きながら行軍をしていた旦であったが、やがて外黄の中心に至った際、ひとりの若者が太子に近づこうとする姿を目にした。
「太子……」
呼びかけた旦の声に振り返った太子も、その若者に気付いたようである。見ると、若いことは事実であったが、立派な官服を身につけている。宋国の役人のようであった。
「外黄城の士で徐子と申します。魏国の太子申さまでございますな?」
「いかにも」
太子申は自身の馬車を停め、徐子と名乗るその男の様子を眺めた。太子の懐には、匕首が隠されており、彼はさりげなくその柄を握った。徐子が不審な挙動を起こせば、即座に刺そうというのである。
「何か用件があるのか」
「わたくしに百戦百勝の術があるのです。お聞き願いますか」
太子は思わず身を乗り出した。このあたりに、彼の若さが色濃く示されている。興味深い言葉に誘われる姿は、太子の経験不足が滲み出ているようであり、後方でその様子を見つめる旦には、不安が残った。
「ううむ……ぜひ、聞かせてもらえるだろうか」
徐子に不審な様子はない。しかし協力的な態度だとも旦の目には映らなかった。彼は何を目的に太子に近づいたのか。
「もとよりその術を献じたいと思っておりました。……いま、太子は御自ら将軍として斉を討とうとしておられます。しかしたとえ斉に大勝して、たとえば莒あたりの城市を陥落させたとして、そこを支配することができましょうか」
太子申は、これに答えた。
「莒は臨淄のすぐ南にある城市だ。魏とは遠く離れていて、支配したとしても我々にとっては飛び地となってしまう。我々が駐屯したとしても、敵に囲まれながらそれを統治することは難しいだろう」
「勝利しても統治しないということは、戦いによって得る利益は、ただ魏を保つことのみでしかないと言えましょう。また、それによって得る尊貴は、太子が将来王となる以上のものではありません」
「……この私が王を称することができるようになるとあれば、充分な見返りだとは思うが」
「このままいけば、太子は何もせずとも魏公のあとを継いで王となり得ます。つまり、戦っても、戦わなくても得られる結果は変わりません」
旦は、この徐子という男が単に追従するために近づいてきたように思えた。そうでないとすればその意図が読めず、このまま話を続けていても、ときを無駄に費やすだけのように思えた。
「……ですが、もし戦って敗れたとすれば、それらすべてを失うこととなります。太子は王となることができず、万世に渡って魏国の栄華を伝えることはできなくなりましょう。これこそが私の考える百戦百勝の術です」
太子は困惑したような表情を浮かべた。徐子の言うことは非常にわかりづらく、文字通り人を困惑させるものだったのである。
「つまり、徐子どのは私に撤兵せよ、と言うのだな? 斉と戦うことはやめよ、と?」
徐子は斉と戦うことはたいして意味のない行為で、敗れる危険を考えればむしろ中止すべきと言っているようであった。しかし、戦えば負ける危険があることなど……武人には百も承知のことである。兵法家などは、勝つ自信のあるときにだけ戦うのだと主張するが、この主張に従えば、世に敗者など存在しないことになる。いくら勝つ自信があったとしても敗れるときには敗れるし、負けそうだとしても逆転の機会があるときにはあるのだ。
「では、私はここで兵を引きあげ、大梁に戻るべきなのか」
「そう簡単にはいきますまい。たとえここで太子が撤兵を心の内で決断したとしても、それは実現不可能でしょう。それはあなた様に戦うことを勧め、その結果として得られるべきうまい汁をすすろうとしている者が多いからです。このこと、ぜひよくお考えなさるべきです」
徐子はそう言い残して去って行った。この問答を聞いていた者は多く、軍勢は少なからず動揺に包まれたのだった。
——戦って勝っても得るものは少なく、負ければすべてを失う。しかし今さら退くこともできない……あの徐子という男は、太子の破滅を予言しているのだろうか。
旦もそのようなことを考えた。しかし兵たちの動揺はそれ以上である。たったこれだけのことで軍の結束が瓦解しようとしている事実に、旦は驚きを隠せなかった。
「太子!」
旦は全体に聞こえるよう声を張り上げた。
「将軍として出陣しながら、何ら為すこともなくここで引き上げることは、逃げるにひとしい振る舞いです」
太子の本心によっては、著しい批判と受け止められるかもしれない……しかしそれならばそれで仕方のないことだ、と旦は考えた。たとえ罰を受けて殺されることになろうとも……そのような思いはあったが、根本のところで旦は太子を信用している。彼がたやすく帰還を決めるはずがないと思っていた。なぜなら、太子申は龐涓が認めた男だからである。
「私の思いは、まさしくその通りだ。みなの者、世迷い言に誑かされるな。我々はこの戦いで斉に勝利するのだ。そして斉を魏の属国にしてみせる」
察しの良い太子は、本心以上の気合いを込めた言葉で兵を鼓舞した。これを機に軍はある程度、秩序を取り戻したのである。
「旦よ、実に見事な振る舞いであった。あのとき、私自身の心が動かされることはなかったが、兵たちがあれほどに動揺することを想像していなかったのだ。おまえの言葉があったからこそ、兵を鼓舞することができた。礼を言うぞ」
太子申は、行軍途中で旦を相手に述べた。この素直さこそが、彼が兵に好かれる理由であった。しかしこのときの旦は、別のことを考えていた。
「太子……あの徐子という男、鬼谷子の門弟ではないかと僕は思うのです」
「鬼谷子だと? かつては龐涓将軍もその門弟だったという……あの鬼谷子か。すると旦は、徐子の言い分は彼自身のものではなく、鬼谷子の意見だと?」
「ええ」
「しかし……あれがそうだとすれば、鬼谷子とは意外に稚拙な論理を展開する人物だ。あの男は戦いに勝っても私の得るものは少ないと言っていたが……王となる以上のものではない、と」
「はい。確かにそのようなことを言っておりました」
「うむ。確かに私は太子であるので、このままいけば魏公の位を受け継ぐ。そして、斉が王国を称したくらいだから、やがては魏も王国を称するだろう。そういった意味では、私は戦わなくても王位には就くこととなる。しかし戦って勝ったことのない王のことを、誰が崇拝するというのだ。私が目指すものは名ばかりの王ではない。天下に覇を唱える……覇王そのものだ。その点において、戦いに勝つことは大いに意味がある」
「……その通りです」
「また徐子は、私を戦いの場に駆り立てようとする者たちは、みなそれによって得られる利益を欲しているだけだとも言った。しかしそのようなこと……私はすでに知っている。むしろ私は、すすんで彼らに利益を与えるべき立場だ。のちの幸福を約束せずに兵を戦わせる将軍がどこにいるものか」
太子申の意気込みは確かに素晴らしいものだと旦は感じた。しかし、おそらく鬼谷はそれをすべて見越した上で、戦争というものの無意味さを説いているのではなかろうか。
——無意味かもしれないけど、戦わなくてはならない……。
それがこの時代に生きる人々に課された義務なのだ。
三
龐涓のもとに太子申からの伝令が到着したのは、それから二日も経ってからであった。韓軍を叩き、その領内奥深くへと進出していた龐涓は、その報告を聞いて眉を曇らせた。
「孫臏が……」
復権したというのである。そしていよいよ斉軍が動こうとしているとのことであった。
「やむを得ぬ。一時後退して、斉の動きを探れ」
指示を出した龐涓であったが、すでにそのとき斉軍は国境を越えて西進していたのである。斥候からその情報がもたらされたのは、そのさらに一日後であった。
「斉の軍は、何処に向かっているのか」
「大梁にまっすぐ向かっているとのことです」
「太子の部隊がそれを阻む位置にいるはずだな」
「まさしく」
「うむ。では予定通りだ……急ぎ合流するぞ」
龐涓には、斉軍に裏をかかれたという意識はない。彼らは、しばしば敵の留守を狙おうとする……それはすでに桂陵で経験したことでもある。後手に回ったという意識もなかった。むしろ彼はこの事態を予測していたのである。
——決着を付けてやる。
龐涓は韓から軍を引き上げ、大梁への道を急いだ。
一方孫臏は田忌を相手に減らず口をたたく余裕を見せていた。
「魏・趙・韓の三晋の国どもは、いずれも無駄に勇ましく、気が強い。特に魏は斉を侮ること甚だしい」
三晋とはかつて存在した晋国の領土を魏・趙・韓が三分割したことに由来する。もともと魏・趙・韓とはそれぞれ晋公配下の大夫であったが、彼らは共謀して主君を殺め、それぞれ独立を果たしたのだ。ゆえに斉や楚の人々が「三晋」と彼らのことを呼ぶときには、その残酷さ、不忠さを批判する意味合いが暗に込められている。
「韓や趙はまだしも、魏はいまだ覇権を維持しているではないか。実際に兵の質も我が国のそれを上回っているのだから、増長もやむなしといったところだろう。……まあしかし、孫先生がわざわざそのようなことを言うからには、そこに付け入る隙があるということだな?」
すでに田忌と孫臏、ふたりの間の呼吸は言わずもがなである。おそらくこのときの田忌は、孫臏が軽く身じろぎをしただけでも小便がしたいのだと察したことだろう。
孫臏もそのような田忌の反応に満足したようであった。
「やはり将軍とは話が合うようで嬉しく思う。確かに魏軍は強く、奴らは斉を臆病者だと罵っている。しかもそれは事実……。だが、臆病者の集団を与えられた条件を利用して勝利に導いてこそ、本当の戦上手というものだ」
「うむ」
「兵法にも記されている。利をむさぼって百里の道を駆けつづければ、どんなに優れた将軍でも躓く、と。また、利をむさぼって五十里の道を必死に駆けつづけたとしても、到着するのは軍の半分に過ぎない、とも……」
「つまり、利益をちらつかせて龐涓に駆けさせるのか」
孫臏はこのとき高らかに笑った。田忌とは息の合う仲間であったが、やはり深遠なる謀略は自分ひとりのものであり、田忌はそれについて来ることができないのだ、と確信したような笑いであった。当然、田忌としては面白くない。
「違うというのか」
「その反対だ。将軍、私と龐涓はともに鬼谷のもとで学んだ間柄だ。つまり、いま俺が言ったような兵法の基本など、龐涓もすでに知っている。ゆえに奴は、我々が道を急いでいると知れば、半分しか目的地に到達しない、残りの半分は脱落する、と考えるだろう。そこを逆手に取るのだ」
このとき、孫臏は快楽に満ちた表情を見せた。絶頂を極めたときの恍惚とした顔……自己陶酔の沼に陥ったかのようなそれは、田忌にしてみても見ていて気持ちのよいものではなかった。
「騙すというのか、龐涓を? しかし龐涓は、人の嘘を見破ることが得意だと言うではないか。騙せるのか、奴を?」
「奴は確かに嘘を見破る。しかし、その多くは相手が自分を実際より大きく見せようとする嘘が対象だ。つまり奴は虚勢を張った相手には容赦ないが、弱者がより弱者を装う嘘などには気付かないのだ。誰しも、そういうものだろう」
孫臏の唱える兵法は、敵の脆弱な一点を集中的に攻撃することで劣勢を挽回する理論を軸としている。今回は戦力的に自軍を圧倒する魏軍を相手に、なかば強引にその状況を作り出そうというのだ。
「どうするのだ」
「……いま敵は、大梁を出陣した魏軍本隊と韓を攻撃している龐涓の先発隊に分かれているが、これを合流させると我々の勝機が失われる。まずは合流させないために、かなりの工作が必要だ。いざというとき、将軍には大量の竈を兵に用意するよう伝えて欲しい。どの時期にそれを用いるかは私が判断する。ゆえに早めの準備を」
田忌は頷いたが、よくよく考えると自分が孫臏の操り人形であるかのような気がしてきたのだった。両脚がなく、自分の力では動けない男のために、必死になって実務を担当する立場……名目上の上役は自分であるが、実質的にどちらが主でどちらが従であるかは明らかである。すべてが終わったときには、それなりの対応が必要だと彼は考えるようになった。
自分では歩けもしない孫臏には従卒が必要であり、彼には特権として三名のそれが与えられていた。そのどれもが年端もいかない少童である。孫臏は、意外にもこの三名に優しかった。
「万よ。体を洗いたい。みんなで湯を汲んでくれ」
「はい。軍師さま」
従卒のうちもっとも年長な者が、万という名である。姓はよくわからない。十二、三歳の子供であるが、彼が指示を出したのはさらに年下の子供たちであった。渾と勞という名のやはり少童である。
「おまえたちご苦労だな。腹が空いただろう。あとでたらふく食わせてやる」
孫臏は三人の介助を得ながら湯浴みをした。万はその背中を流し、渾と勞は体を隅々まで洗っている。
「いつも思うけど、軍師さまの脚は気持ち悪いね」
「本当に」
幼い勞と渾は平気でそのようなことを口にする。万はそれを軽くたしなめた。
「これ、黙って洗わぬか」
孫臏は三人の様子を苦笑いしながら眺めていた。
「いや、よいのだ」
「でも」
「万、おまえもよく目に焼き付けておくがよい。人前では軍師などとたいそうな肩書きで呼ばれているが、これが臏刑を受けた者の真の姿よ。傷跡は醜くただれ、人の支えがなければ生きていけぬ。せめて片足だけでも残っていれば、と俺は常に思っているのだ」
「僕はもう見慣れています。軍師さまのお世話にもすっかり慣れました。今さら何を思うこともありません」
万は大人びた態度でそう答えた。
「そんなことよりも、軍師さまにはいろいろなことを教えてもらって感謝しています。文字を覚えました。兵法の基礎を学びました。それに……軍師さまのような偉いお方のそばにいると、人より豪華な食事も味わえます。渾も勞もそのことを嬉しく感じているようです」
「だが、俺にまともな両脚があれば、おまえたちにもっと贅沢をさせてやれるのだ」
「恐れながら、軍師さま……それは違うと思います。軍師さまにまともな両脚があれば、僕たちのお世話を必要となさらないでしょう。だからそもそもお会いすることもなかったかと思います」
孫臏はこのとき、妙に納得したかのような表情を浮かべた。
「なるほど、確かにそれはその通りだ。その点に限っては、龐涓に感謝すべきかもしれぬな」
孫臏が考案する斉の軍略は、常に魏と対抗することを意識してきた。単純に魏から覇権を奪おうとするのであれば、周辺の燕や趙、あるいは魯や宋などを併合するための努力をし、国力を増大させる方が有効であったかもしれない。しかし孫臏はそれをせず、魏の国力を弱めることに徹してきた。言うまでもなくその理由は、魏に龐涓がいたからである。
「この次の戦いで、龐涓を倒すことが叶えば……俺の役目は終わる。あとのことには興味がない。これまでの戦いを記録に残し、書としてまとめ上げるだけが望みだ。万、渾、勞……おまえたちにも協力してもらうぞ」
孫臏は自身の記録については口述するのみで、書物としては従卒の万たちが残していたのである。幼い万たちにとって、これが主人の孫臏に対する最大の奉公であった。
四
旦は太子申の部隊から単身で龐涓との合流をはかり、ひとり馬車を走らせていた。このとき太子も斉軍の動きを把握し、大梁を守るべく、宋の済陽付近に布陣した。旦はここから南下して龐涓の軍と雍丘で合流を果たした。
「旦ではないか。……なぜこのようなところへ……その具足姿はどうしたことか」
龐涓が驚いたことは言うまでもない。しかし、その反面で彼は喜んでいるようだった。
「太子申さまの軍に加わり、伝令の任を受けてやって参りました。将軍、太子さまは済陽に布陣しており、将軍の到着をお待ちしております。急ぎ合流を願いたいとのことです」
旦の口調は以前にも増して大人びている。身につけている具足は自分のお下がりに違いないが、その凜々しさに龐涓は目を細めるばかりであった。
「報告の内容はよくわかった。ところで……公主は納得しているのか。おまえを送り出すことを悲しんでいたのではないか」
「ええ……確かに。でも最後には力強く励ましてくれました」
龐涓は満足そうに微笑した。いかにも公主らしいことだ、と感じたのだろう。
「元気だったか」
「寂しそうでしたけど、強がっていました。いつもの調子です。お元気ですよ」
龐涓はついに声をあげて笑った。戦場だというのに、不謹慎だと思われるだろうか……そう感じた旦であったが、結局このときは彼も笑ったのである。
「さて」
話題を転じようとした龐涓は、顔つきを神妙なものとした。そうするとその思慮深げな目もとが際立つ。旦は、聞く態勢を取った。
「太子からは報告を終えたあと戻るように言われているのか」
「いいえ。今後は将軍と行動を共にせよとの命令を受けております」
「そうか。実を言うと、おまえには太子のもとにいて、あの方に助言してもらいたいと思っていたのだが、こうなっては仕方がない。私の話し相手をしてもらおう」
「僕が、ここにいてはお邪魔だったのでしょうか」
「何を言う。そのような意味ではない。私に代わって太子に助言できる人物といえば、おまえしかいない。少なくとも魏国には……」
「そんな、助言だなんて……。僕ができたことと言えば、情報をもたらしたことだけです」
「どんな情報か?」
「白圭さまと楚国を訪れた際に、斉の田忌将軍と軍師孫臏に出会ったこと。そして彼らが威王の喪中につけ込んで、復権を果たしたことなどです」
龐涓は、今度は目を丸くしたようであった。おそらく白圭が主導したことには違いないだろうが、旦の行動力には確かに目を見張るものがあった。
臨淄で虜囚となった龐涓を救った人物は、間違いなく旦であった。あのときも龐涓は旦の行動に驚いたものだったが、当時は公主娟も一緒にいた。そのためふたりが力をあわせれば、あるいはこのようなことも可能なのかと考えていたのだが……おそらく旦には人の勇気を奮い立たせるなにかがあるらしい、と彼は感じたのである。
「旦、ひとつ聞き入れてもらいたいことがある。ぜひ聞いてもらいたいのだが」
「はい」
「実は以前からおまえの両親から頼まれていたことがあるのだ。一人前の男となった暁には、ぜひ諱をつけてやってほしい……と。旦という名は字(あざな)として、別に本名をつけてほしいというのだな。そこで、おまえのことを旦と呼ばせてもらうことはこれまで通りだが、それとは別に『施』という名を与えたい」
旦は驚きのあまり絶句した。諱と字をそれぞれ持つということは、ほとんど貴人扱いであり、旦はこれまでそのような人物を伍子胥くらいしか知らなかった。伍子胥は子胥が字で、諱が員である。かつて呉国が覇権を得た際に活躍した人物で、それこそ孫武とともに戦ったとされる男であった。
あるいは、孔子の諱が丘で、字が仲尼といった例があるが……。
——こんな僕が、そのような人と同じような扱いを受けるのか。
はっきり言って荷が重いと感じた。しかしおそらく龐涓は期待を込めているのだろう。ただ単に頼まれたからというわけではなく……。
「施とは言うまでもなく人に施すという意味だ。不思議なことだが、おまえはそこにいるだけで……他人をやる気にさせるところがある。よって私がこの名を選んだわけもわかってもらえると思うが」
「将軍が付けてくださる名前ならば、喜んで頂戴します。……でも僕にそんなところがあるのでしょうか。いるだけで人をその気にさせる、だなんて」
「そのことは旦自身が深く意識してはいけない。ありのままのおまえでいることが重要なのだ。……名乗ってもらえるな?」
「もちろんです」
かくして旦はこれを機に恵施という姓名となった。しかし本来ならば喜ぶべきこのときのことを、以後の彼はたびたび悔恨とともに思い出したのだった。
龐涓は太子と合流すべく軍を進めたが、もちろん斥候を出して周囲の状況を探らせている。国境を越えて侵入をはかろうとしている斉軍の動きを把握するためだったが、その際に自らの存在を主張することを忘れなかった。つまり「龐涓が動いた」という事実を敵に知らしめ、あわよくば退却させようというのである。
龐涓の軍はすでに降伏した韓軍をあわせ、四万ほどの勢力となっている。これが太子の率いる部隊と合流すれば、実に九万の兵が斉と対峙することとなる運びであった。龐涓はこの点を強調して噂を流布させ、孫臏や田忌を恐怖に陥れようとしたのだった。
やがて斥候がもたらした情報によると、斉軍は濮水のほとりにある襄丘まで兵を進めていたが、何を思ったのか再び濮水を渡り、北上しているという。これは龐涓らの目から見て、「引き返している」姿そのものであった。
おそらく流言が効果的に働いたのであろう。実際に龐涓は韓を攻撃することを中止して魏に戻ろうとしている。韓は斉に救援を要請していたと言うし、その視点からすれば斉軍の目的はすでに達成されたわけである。龐涓は、斉軍に戦闘意欲がないものと見做した。
「斉には戦うつもりがない、と見た。おそらく孫臏としては、自身の兵力に確信が持てないのだ。……孫武の兵法でも、鬼谷先生の理論でも、自分自身を絶対に安全な状況に置くことが前提となっている。つまり、勝てる自信がないときは戦うべきではない、とする考え方だ」
旦はこの状況に自分自身が興奮していることを感じた。
「と、いうことは……いま斉軍に追いつけば、滅ぼすことができます!」
龐涓はやや驚いたようであった。ほかでもない旦がそのようなことを口にしたことに、意外な思いを抱いたようであった。
「旦……本当にそう思うか?」
「もちろんです。もともと孫臏の軍略は相手の裏をかくことを旨としています。以前も邯鄲を救うと称して大梁に攻め込みました。今回は韓を救うと称して臨淄から出撃して間もなく、逃げだそうとしています。今ごろ孫臏は将軍が兵を退いたので、すでに韓は救われたと思っていることでしょう。その慢心をついて攻撃すれば、必ずや勝てます」
「つまり、旦は今すぐ斉軍を追って叩くべきだというのだな。太子と合流するより先に……それは私も思わないではなかったが、どうも罠のような気がするのだ。というのも、どうも嘘のにおいがする。感じるのだ」
龐涓はやや慎重なようであった。旦はそれをもどかしく思い、説得を試みようとする。なぜ自分がそう思うか、その点を丁寧に話すつもりであった。
「僕が太子とともに宋の外黄に辿り着いたとき、ある宋の官吏がその行く手を阻みました。彼は百戦百勝の術を授けるなどと言いながら、太子に行軍の無意味さを説き、それでいて撤退は不可能であることをも告げたのです」
龐涓は当然ながら、この発言に訝った表情を浮かべた。
「それのどこが百戦百勝の術だというのだ」
「実際のところ、よくわかりません。……しかしこの発言を受けて兵たちはひどく動揺しました。戦って勝っても意味がなく、負ければ破滅、それをわかっていながら撤退もできないとあれば、我が軍としては取るべき策がありません。まさに八方塞がりです。しかるに、この男は我々を困惑させるためだけにこのような発言をしたと思われます」
「口先だけで一軍の足を止める、ということか。しかしその話が斉軍の動きにどんな関係があるというのか」
「結局相手は我々の動きを止めたく思っているが為に、このような行動を取るのです。宋の官僚と同じように、斉軍は一見よくわからない行動を取っていますが……その実は我々を恐れていて、正面からぶつかることを避けているのです。韓を救うという目的を達した以上、逃げ出せばわざわざ魏軍が追ってくることはないと考えているのでしょう。そこに付け入る隙が生まれます」
旦は確信を込めた口調でそう語った。龐涓はなおも悩んでいたが、このときひとつの質問を発した。
「旦、おまえが外黄で出会ったという宋の官吏……その男は名乗ったか。いったい何者なのか」
「はい。その男は自らを徐子と名乗っておりました。僕はその男を鬼谷子の門弟だと考えているのです」
「徐子……徐子か」
龐涓は思い詰めている様子であった。つかの間彼は目を閉じ、ひとり誰にも邪魔されない思索にふけった。旦の目には、龐涓が喜んでいるのか、それとも悲しんでいるのかがよくわからなかった。
「旦は、なぜその男が鬼谷先生の門弟だと思うのか。その男が自らを語ったのか」
「いいえ。ですがいま、この時代にあって言葉で軍を惑わそうとする者はあまりいないでしょう? 徐子はたったひとりで軍勢の前に立ち、その弁論を披露しました。自信があったに違いありません。独学でそのような技術を得ることは難しいでしょうし、それならば誰かから教えを受けたのだと思いました。僕が知っている限り、そのような技術を教える人物は、鬼谷子以外に存在しません」
「……ううむ。おまえの読みは確かに正しい。徐子は鬼谷先生の門弟であった。深い付き合いはなかったが、確かに徐子とはともに学んだ」
「では……」
「おまえの判断は正しい。私は孫臏がまた我々を姑息な手段で騙そうとしているかもしれないと不安であったのだが、おそらくおまえの見立てが正しいのであろう。なにしろあの豎子……孫臏のことだが、以前は私と戦うことばかりを目的としていた節があった。今回はそのような動きを見せないことが、私としてはやや気がかりだったのだ。軍を北に向け、斉軍を追うことにする」
旦は自分の意見が通ったことに喜びを感じ、勇んで行軍の先頭に立ったのだった。
五
龐涓らが襄丘まで辿り着いたとき、そこには十万人分の竈が残されていた。おそらく、いや間違いなく斉兵たちが残したものである。これをそのまま受け取れば、斉軍は兵数十万を超える大軍勢であり、数ではまったく敵わない。この時点での龐涓の軍は、四万そこそこである。
「旦、どう思うか」
「恐れることはありません。兵数が倍以上であろうとなかろうと、相手は逃げている……このことだけが重要です」
「うむ……」
これは擬態ではないか。龐涓はそう感じたが、だからといってこの場ではこれ以上確認のしようもない。さらに斉軍のあとを追って、その実際の姿を目にするまでは……。彼らはさらに進み、濮水を渡ってそのほとりで兵を休ませた。
しかしそこで目にしたものは、五万ほどの竈跡であった。
「……明らかに減っているな」
「減っています。……将軍」
「まあ少し待て。まだ判断を下すには早い。さらに追って、斉軍の実情を探ろう」
旦には龐涓がいつになく慎重だと感じられた。と、いうのも旦には確信があるのだ。これは斉軍の勢力が半分ほどに失われたことを意味するのだ、という……。
——なぜ、将軍は決断しないのだろう。いま速度を上げて斉軍を追いつめれば、必ず倒せるというのに。
いっぽうの龐涓は、考えられる可能性を頭の中で数え上げていた。残されている竈の数が半減しているということは、単純に軍勢が半減していることを意味するわけではない。何かを意図して斉は軍を分けたのかもしれない。単に竈を作る労力を抑えるために、複数の兵でひとつの竈を囲んだだけかもしれない。そしてなによりも、これは擬態ではないか、と考えたのであった。だが確かに、斉の半数の兵士が逃亡あるいは脱落した可能性もある。
「仮に半分の兵がいなくなったとしても、斉の軍勢はまだ五万ほどの兵数を有している。まだ我々より一万ほど多い。もう少し状況の変化を見極めることこそが、いま我々が採るべき策であろう」
そう言われると、旦としては反論もできない。戦場で将軍の言葉は絶対であり、なおかつ相手は龐涓である。自身の養父であり、この世でもっとも尊敬している人物であることを思えば、自分自身の考えを押しつけるべきではないと思われた。しかしこのとき、兵たちも一様に状況の変化を感じ始めていたのである。
「行軍の速度を速めるべきだ」
「逃げられて斉の領地に入られてしまっては、手出しできなくなるぞ」
兵たちはそのようなことを言い合う。そのような状態で慎重さばかりを追求していては、士気が下がることを龐涓は理解していた。が、彼はかたくなにその姿勢を貫いたのである。
「私は以前に師から学んだことがある。それは『内面を堅固にし充実させることを知る者は、自らの気を養っている』というものだ。その理論に基づけば、反対に自分の内面を外に委ねてしまう者は、他人の気を養っている、ということになる。つまり相手が作り出した状況に左右されてばかりでは、相手を強めるだけなのだ。……奇襲がないという確信が得られるまでは、行軍を急ぐわけにはいかぬ」
やはり龐涓もこの時代に生きる兵法家のひとりなのであった。むやみに戦おうとするのではなく、勝利の確信が得られるまでは戦わないというのが兵法の大前提なのである。しかし残念なことにこのときの旦にはそこまでの知力がなく、慎重さを弱気と見なすことしかできなかった。
「孫武はその著書の中で『善く戦う者は、攻撃すれば絶対に勝てる状況を待つ』と述べています。将軍、今こそそのときではないでしょうか。僕にはそう思えます」
旦の不満げな問いに龐涓は答えた。
「だが孫武はこうも述べている。『攻撃されても絶対に負けない状況を作るのは自軍だが、攻撃すれば絶対に勝てる状況を作るのは敵軍である』と。ゆえにいかに戦上手な人物といえど、絶対に負けない状況を作ることはできるが、絶対に勝てる状況を作ることは難しいのだ。勝利は予測できてもその時期を決めることはさらに難しい……。私が判断するに、斉軍を本格的に攻撃するにはまだ早い。より追いつめてからでなければ、確信を得ることはできない」
「今の段階で攻撃を仕掛ければ、我が軍は返り討ちに遭う、と仰るのですか?」
「罠の可能性が極めて高い。孫臏は、あえて兵を分散させているのではなかろうか……その疑念が頭から離れない。いや、もしそうだとしても対応は可能なのだ。しかしどうしても確証は欲しい」
龐涓は、斉軍の勢力が十万から五万、さらには五万から二、三万となったところで攻撃を加えようとしていた。もし斉軍が兵の脱落を装い、他の場所に残りの兵を集約しているとしても、個別にこれを殲滅するつもりであったのだ。この時点で龐涓が決断しなかった理由は、数的優位を確保するためなのである。
「斉軍に比べ、我が魏軍は兵の精悍さで勝っています。そればかりか、武器の質や馬の大きさなど、すべてにおいて勝っているのです。これは、たとえ数で劣っていてもそれを補って余りあるものだと僕は考えます」
「斉兵は臆病だというのが我々の評価であるが、それはあくまで我々の評価であって、向こうは違う考えをもっているだろう。まあ、もう少し落ち着いて考えるのだ」
旦は諭され、引き下がらざるを得なかった。
——将軍はそれほど孫臏の能力を恐れているのだろうか。
旦はそう考えていたが、実のところ龐涓は戦術の基本に乗っ取って行動しているに過ぎない。魏に比べて斉の兵は臆病だという評価は、龐涓が言ったとおりあくまで魏の側の評価であり、斉側がそれを自認しているわけでもなかった。龐涓は斉軍に兵の離脱が相次いでいるのであれば、確実にその結果を見極めようとしている。自軍より相手が数的不利になったときに戦おうというのだ。
——脱走者が相次いでいる軍などを、まともな戦力として評価できるだろうか。未だ五万の兵数を備えているとはいっても、斉はほとんど戦えない状態にあると見るべきではないか。
旦は確信していた。その理由は、かつて目にした孫臏の印象である。あの人を見下げたような態度……おそらく自軍の兵に対しても同じような態度で接しているに違いない。離脱した兵たちは、そんな上官の態度に嫌気がさしたからそうしたのだ、と。
かつて孫臏や田忌によって捕らわれた龐涓を救い出したのは、紛れもなく自分であった。実際の戦場は経験したことがないが、旦は状況判断に自信を深めていたのである。その自分の進言を龐涓が認めないことに、旦はもどかしさを感じていた。
しかし翌日になって状況は一変した。甄の地に残された斉軍の竈跡が、三万を割っていたのである。
斉軍はこの甄から北上しているようであった。まさに後を追う龐涓の軍から逃れようとする動きである。しかも脱走兵の数は増え続けているようであり、いまや勢力は龐涓の率いる部隊を下回っているものと見なされた。
ここに至り、龐涓は笑みをこぼした。
「おまえたちの望んだ状況が、ようやくやって来たというわけだ」
兵たちは上官のかすかな迷いなどに気付かず、逆に煽るような言葉を叫び続けた。
「すぐに追いつめて、攻撃を加えましょう」
「これを好機と言わずして、どうするべきか」
「斉を滅ぼす機会は、今しかない」
ここにおいて、龐涓も決断を下さねばならなかった。そのためには兵の士気を鼓舞する威勢のいい言葉を選ばねばならない。彼は内面に潜む若干の不安を覆い隠すように、兵たちを前に語り出した。
「……追撃することわずか三日目で、斉兵の逃亡は半ばを越えた」
逃亡したと思われる兵たちは、おそらくどこかに潜んでいるだろう。……その懸念を龐涓は頭の隅に追いやった。こうなったからには、目の前の敵を屠るのみである。相手は自分たちより少数なのだから……。
「おまえたちがよく口にするように、斉の士卒はやはり臆病なことが明らかとなった。この機を逃さず、急追する。戦車隊が先行し、歩兵は後から続け。行くぞ!」
整然と並ぶ戦車をひく馬たちの背中に、御者の鞭が一斉に入った。追撃は本格的に開始され、状況は決戦の様相を示しだしたのである。
——これでよいのだ。
旦はそう思い、近い未来を頭の中で予測した。龐涓は功労を評されて魏公から厚くもてなされる。自分は龐涓に施という諱を与えられたことを公主娟を相手に誇らかに話し、陽光の下でともに笑い合う。おそらく公主は「よかったわね」と言ってくれることだろう。魏国は斉の脅威を排除することに成功し、その威を恐れた外国の諸侯たちは、続々と挨拶に訪れるだろう。その覇権が確実なものとなった理由は、苦しみながらも局面で優れた判断があったからこそだ。……これらの光景が、旦の頭の中にはまるで過去の事実であるかのように浮かんでいた。
彼の中で、勝利と繁栄は間違えようもない事実であったのだ。