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戦国に生きる ー魏国興亡史ー  作者: 野沢直樹
第一部
1/20

序章 鬼谷の教え

この作品は史実をモチーフとしたフィクションです。登場人物や都市名などの固有名詞はできるだけ史実に沿ったものを設定としておりますが、一部そうでないものもございます。

挿絵(By みてみん) 

鬼谷(きこく)とは江南の陳国に生まれた人物で、弁論の術を学問として体系化し、それを書物に著したのだという。その活動はいわゆる戦国時代に認められ、記録には数名の男たちが鬼谷の教えをもとに自らの名を上げたという事実が残されている。しかし具体的に鬼谷がどのような人物であったかについては、記録に残されていない。

 一説には、仙人であるという。人間界で百歳を超えたころに現世との関わりを超越し、雲に乗って空を飛ぶこともできるようになった、とも言われる。一聞しただけではとても信じられないそのような逸話が残った背景には、鬼谷その人がある時期を境にぷっつりと消息を絶ったという事実がある。事実として彼は多くの教えを残したが、実際に書物として記録を残した者は、その教えを受け継いだ後世の人物たちだとも言われている。もしそれが正しければ、俗にいう「鬼谷子」と呼ばれる書物は、鬼谷自身の著作ではないということになる。が、その記述が鬼谷自身の言葉を示したものである以上、誰の著作かはたいして問題ではなかろう。

 その教えは、観念的なものではなく非常に現実に即した具体的なものである。のちに伝わった鬼谷の仙人的な人物像と比較すると、実に興味深い。


「鬼谷子」に残された彼の言葉によると、(ぎょう)(しゅん)などに代表される古代の聖人は、「口」で人々を統率したのだという。頭の中で状況を理解し、ひとり得心したとして、何も始まらない。それを口から言葉にして人々に知らしめることで、統治が成り立つのだと言うのである。

 至極当然のことを述べているかのように聞こえるが、これが「鬼谷子」における弁論術の入り口なのだ。鬼谷は言葉を大事に扱い、その言葉が発せられる「口」を「存在と滅びの門(存亡の門戸)」と称している。

 さらには人同士が口を開きあって自分の考えを示し合うということは、それ自体が相手と気持ちを同じくしていることだと説き、反対に双方とも口を閉ざしている状態は、それが異なっていることなのだと説く。

 しかしこれは相手が真実を語っている場合に限られる。お互いに言葉を多く発しているときでも、その言葉が本音ではなかったり、建前や嘘であれば、口を閉ざしていることと同じなのだ。鬼谷が語る術とは、このような状態のときに相手から本音を引き出すものなのである。その具体的な方法は、あえて相手を怒らせたり、あるいは褒めあげ、あるいは泣かせる……というようにさまざまだが、端的な例として以下の文がその著作に残されているので、ここに挙げてみたい。


 仁者は金銭を軽んじるため、利で誘うことはできない。しかし、金銭を出させることはできる。

 勇士は困難な状況を軽んじるため、災いを話題にして恐れさせることはできない。しかし、危地に赴かせることはできる。

 智者は物事の道理をわきまえているから、ごまかしや嘘で欺くことはできない。しかし道理を示せば、手柄を立てさせることはできる。

 これらを逆に考えれば、愚者は騙しやすく、未熟な者は恐れさせやすく、貪欲な者は利で誘いやすいのである……(鬼谷子「謀篇」第十)


 すべてにおいて、事象には裏と表がある。これがいわゆる「陰陽」であり、この考え方から考証を進めれば、人の性格は千差万別といえど対応方法はそれなりにあると鬼谷は言うのである。鬼谷がのちに仙人のような印象で語られた理由は、その論拠の多くがこの「陰陽」という道家的な思考法で語られたためであろう。鬼谷は陰陽を支配していたため、占いによって人の未来を言い当てることもできたと言われるが、当時の卜占(ぼくせん)とは立派な科学であって、決して詐術的なものではなかったのだ。よって、彼が雲に乗って空を飛んだと言われても、多くの者がそれを本気で信じたのである。


 鬼谷とはそのような人物であった。彼が江南の陳出身であることは先に述べたが、私塾を開いて学生に教えを垂れた地は臨淄(りんし)である。臨淄は当時の斉国の都であり、斉は多くの学者を都に招き、自国の発展に寄与させていた。鬼谷が直接斉国の発展に尽力したという記録は見当たらないが、彼が育てた学生の中には後世に名を残した者が数名存在する。その人物たちは、斉国のみならず、中国全体の歴史を左右する存在となったのだった。


 鬼谷が臨淄に私塾を設けたごく初期に、龐涓(ほうけん)という学生がいた。龐涓は、鬼谷の術をそのまま活かして弁論家になることはなく、のちに魏に渡り、その国を代表する武将となった。

 


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