第十五話
「お嬢さん」
何度か聞こえてきてはいたが、自分を呼んでいるのだと確信が持てるまで、クララはあえて無視していた。
「……私?」
自分以外誰もいないことを確認し、振り返る。そこに立っていたのは、見たこともない男。背広姿にサングラス。サラリーマンにしてはアンバランスな格好である。
「クララ・ベルさんですね?」
いきなり名前を呼ばれ、首をかしげる。
(知り合いだったかしら?)
とにかく父親の職業柄、様々な職種の知り合いがいる。弁護士、裁判官、商店街のおばちゃんに、縁側のおじいさんまで、カルロはあちこちで知り合いを作って来る。
「あの、どちら様ですか?」
顔は知らなくても、名前くらいは知っているかもしれない。そうだ、サングラスを外せば、知っている誰かの顔があるのかもしれない。
クララは、瞬時に色々な事を考えては否定した。声、背格好、立ちふるまい。どれを取ってもクララの記憶に該当する人物はいない。と、すれば、父の知り合いではなく、もしかしたら母の……? だとしたら余計にわからない。
訝しむクララに、男は不気味な微笑みを返した。どこか人を馬鹿にしたような、値踏みするかのような、嫌な笑いだった。
「あの」
男は何も答えようとしない。その沈黙がクララに「危険」と言っている気がした。
「私、急いでるので」
クルリ、きびすを返し反対方向に歩き始める。男の気配は消えない。威圧感のようなものが背中に感じられ、クララは知らず知らずのうちに、走り出していた。
ここは人気のない裏通りである。なんとかして大通りに出なければならなかった。それには森林公園を突っ切るのが一番手っ取り早い。
(そうよ、この時間なら犬の散歩やなんかで、必ず誰かいるはずだし)
ガサガサッ
裏通りから、直接薮の中に潜り込む。後ろから男が追って来る気配はない。
「ふぅ」
もう大丈夫。
そう、安堵の息を漏らした瞬間、木の蔭から突き出してきた二本の腕が、クララを捕らえた。
「ううっ」
悲鳴を上げる暇もなかった。タオルのようなもので力一杯口を押えられ、苦しさにもがく。だが、クララの抵抗など相手には何でもないことのようだ。余裕なのである。
「悪いな、嬢ちゃん」
「!」
さっきの男の声だった。巻いたと思っていたのに、いつの間にか先回りしていたのだ。
「……っ」
暴れていた体から少しずつ力が抜けて行く。意識が段々遠ざかる。何だろう、消毒液に似た匂い……。
そして、クララは静かになった。
「あと十年歳とってりゃなぁ、こっちも楽しみ甲斐があったのによ」
薬の染み込んだタオルを、無理矢理ポケットに捩じ込む。
男はクララをひょい、と担ぎ上げ、音もなく公園をあとにした。公園の入り口に立ててある看板を、撤去する。そこには
『工事中のため本日立ち入り禁止』
と書かれてあった。
*****
ヴィグは、まみれていた。
犬と、猫に。
サカキの家には、多数の犬と猫(その他諸々)がいる。全部、拾ってきたらしい。
「ったく、あのおっさん! なに考えてんだよ」
誰もいない(動物たちはいる)部屋で、呟いてみる。
自分は人殺しだ。
人生の大半、その想いを抱えたまま生きてきた。たかが十一年生きてきただけで大袈裟だが、ヴィグにとってはそれがすべてだった。
そんな自分を、引き取ろうとする人間が現れた。悪の大結社の総帥だ。
「悪の大結社だもんな。俺のダークな感じのところを利用したいってことだよな、やっぱ」
ヴィグは妙な勘違いをし始める。
壁を見ると、サカキの部屋には、写真が沢山飾ってある。飼っている犬や猫の写真もあるが、大半はクララという名前の女の子のものだ。サカキの説明によると、「将来の嫁」だという。年齢はヴィグの一つ上。ほとんど同い年。それを、嫁だと……? いくらなんでも有り得ない。確かに、可愛い顔の少女ではあるが。
それにしてもこの数は、異様だ。赤ちゃんの頃から今に至るまで、その成長過程のすべてが、所狭しと飾られている。もし警察がここに乗り込んできたら、何もしていなくても、ストーカーか変質者で逮捕されるに違いなかった。
「俺、何かあいつの役に立てるかなぁ……」
思えば今まで、周りの目を気にして生きてきた。ただ人の邪魔にならないよう、ひっそりと息をしてきた。それが、突然の環境の変化。「いらない」と言われ続けていた自分を、「必要だ」と言うサカキ。そんなことを言われたのは初めてであり、何をすればいいのかもわからない。だが、「求められる」という行為はとても強く、心に響いていた。
「あいつ、ほんとおかしなやつだよな」
雑種の猫……確か名前は「にゃん太郎」(だったか?)に向かって話しかける。
サカキに、人を殺したことがあると話した時に言われたのは「お前は誰も殺してなどいない」ということ。それから「これからは、自分の為に生きなさい」ということ。
しかし、現時点でヴィグには、それが理解出来ていない。
自分の為に?
どうやって?
「わかんねぇや」
ゴロン、とソファに寝そべる。
と、次々に犬たちがソファに上がりこみ、ヴィグを嘗め回した。
「おいっ、おま、やめろって!」
こんな風に犬や猫と触れ合うのも、初めてのことだ。今までは、動物と触れ合うような機会もなかった。
「可愛いよなー、お前ら」
代わる代わる頭を撫で付けながら、言う。
もしかしたらサカキは、自分のこともこんな風に見ているのだろうか?
可愛い、と?
「いや、それはなんか……」
(キモい)
頭をぶるっと振り、立ち上がる。
「あ、そういえば、名前考えなきゃな」
悪の大結社では、それぞれに呼び名がある。いわゆる「コードネーム」というやつらしい。
サカキはナイトキース。ラ・ドーンはマドンナ。レイナはリンダ。どれもパッとしないネーミングではあるが、自分も何か名前が欲しかった。ナイトキースジュニア、では芸がない。自分で考えろ、と言われたものの、なかなかいい名前が浮かばない。
自分だけの、特別な名前。
それはまるで、居場所を確保するために必要な、通過儀礼のようだった。
「ここにいたい」
ヴィグにとってそれは、初めて抱いた「欲」だったかもしれない。




