雪解け石
山、石の配列、雪、カフェ、
窓の外を見れば、我らの街を見下ろす山に雪解けが訪れようとしていた。
「店長、もう春ですかね」
あたしはコーヒー豆を焙煎している壮年の男性に声をかけた。天気の話題によく食いつく彼なら、きっと食いつきがいいだろうと思ったのだが、返事がない。
「店長??」
「そうだね」
思ったよりも近くから声が返ってきた。
「ぼくの今日の仕込みは終わったよ、店内の掃除は終わったのかな」
「すみません」言って、あわてて箒を構えなおした。先週日曜日の夜掃除したっきり、使われていないホールはそんなに汚れはないが、それでも気を付ければ気が付く程度のほこりがたまっている。
わたしは店長が週末だけ開店するカフェの給仕として雇われている。給料の分の仕事はしなくてはいけませんね。つまり、そう真面目にやることはないということだ。
「客が来ないからね。まだゆっくりやってもらって結構だよ」
「はーい。店長、ひょっとして春、嫌いなんですか?」
「苦手だね」彼はマグカップを磨きながら答えた。「ほら、ボク花粉症だから」磨いたものを取り出した棚にしまった。
「そこ、もう磨いたやつしまう棚ですよね」窓のサッシをこぼうきで払った。昨日の雨で、汚れが黒く固まって見えていたので、力を入れてやると、きれいに落ちていく。
「目ざといね、君は」もう一つとなりのマグを取り上げた。「そうなんだ。僕は春ってやつが苦手なんだよね」
「春が嫌いですって、そんな人がこの世にいるんですか。春といえば、春爛漫。百花繚乱、お花見、卒業式。いいことづくめですよ」
「いるんだよ。春が好きな人があれば、春が嫌いな人もいるだろう。僕は嫌いな方だということだ」
「でも雪国には春が嫌いな人はいないって聞きました。雪の期間が長いから、そこから色を取り戻す季節の価値は、雪国以外からは想像もつかないらしいですよ」
「君はこのへんの出身じゃないだろう」
「でも店長はこのへんな雪国出身です」
「そうだね。それはあってる。僕はこの変なところの出身だ。」
「じゃあ春好きじゃないですか」
「それが間違ってるんだよ。だいたいそれも春を心待ちにする人が、他の地方の人よりも多いというだけで、全員が好きとは限らないじゃないか」
「たしかにそうですね」
「わかってくれてうれしいよ」
「でも、好きじゃないならともかく、嫌いってのは珍しくないですか」
「好きの反対は、嫌いじゃだめかい?」
「だめです。私たちの中じゃ、好きの反対は嫌いじゃなくて無関心っていうのが流行ってるんです」
「そりゃ、面白い流行語だね。原典はあるの?」
「あ、わかんないです。すみません」
「出典を明示するのは責任転嫁する良い方法だからね。欠かさずやるといい」
「はぐらかされませんよ。無関心ではなく、嫌いに至った理由があるはずじゃないですか」
「なんにでも理由があるはずだと思うのは若すぎるんじゃないか」
「納得できない理由を探求するのをあきらめるほど老衰していないだけです」
「あの窓の向こうに、山が見えるだろう」
「ええ。見えます。誰でも見えると思います」
「あの山って結構険しいんだけど、意外と登ろうと思えば子供でも登れるんだよね。僕も学校の遠足で行ったことがあるんだ。たぶん小学生じゃ小さすぎるから、中学の部活の親睦会みたいな企画でピクニックしたんじゃなかったかな。まあ、楽しい思い出の山なんだよ」
「なるほど、そんなことがあったんですか。ふう、悲しい事件でしたね」
「違うよ。事故があって親友がなくなったから心を痛めて春を嫌ってるわけじゃない。お手軽にトラウマを創作しないでくれ」
「捜索はされたわけですね?」
「なかったよ」
「友達の死体が?」
「不謹慎だよ」
「すみません」
わたしは頭を下げた。つい楽しくなってしまった。不謹慎ジョークが大好きなんだ。誰も笑えないくらいのブラックなやつが大好物。
「ピクニックの時のいやな体験があるんだ」
「それは春が嫌いな話ですか?」
「ああ、この話を思い出すから僕は春が嫌いなんだ」
「そんな話を思い出させてしまってすみません。話すのもいやだったりしませんか」
「いいんだ。もう思い出しちゃったものは仕方ない。むしろ人に言いたくて仕方ないんだ。最後まで話したら、それは店長が悪いわけじゃありませんよって言ってくれ」
「わかりました。お約束しましょう」
「いや、やっぱりお前が悪いって言ってくれてもいいよ」
「わかりました。請け負いましょう」
「いやなことの方を力強く請け負わないでくれ」
「へへへ、新鮮な命令に上書きされるタイプの機械なので」
「中学生だった僕は、小学校からの友達と一緒に、陸上部にはいることにしたんだ。高地トレーニングってわかるかな。気圧の高いところで運動すると、ヘモグロビンに溶解する酸素の容量が少し増えるんだ。だから大会前の追い込みとして標高の高いところで運動するプロの選手も多いんだよ。陸上部、というかうちの中学の運動部はみんな大会前にあの山に登って練習するんだ。だから、先輩としてはなじみのある場所なんだね。そんななじみのある場所に遠足気分でレクリエーションをしようというのが、そのピクニックのコンセプトだったというわけだ。新入生歓迎オリエンテーションみたいなものを想像してくれればいいよ。大学でもあるだろ?」
「いやですね。大学院で馴染めていれば、2年生に上がる春休みの天気のいい週末にこんなところでバイトなんてしていませんよ。それこそ下級生歓迎オリエンテーションの下見と称して合宿場でコンパをするのが今頃の2年生です。それを横目にバイトに入るのがわたし」
「悪いことを言っちゃったね。大学生になったら、こんなに近くの山で合宿はしないよね。というか、あの山には今は合宿所がない。僕らのせいでね」
「そんなに悪いことをしたんですか」戦慄する。ひょっとして犯罪の暴露話でも始まるのだろうか。
「ああ、僕らのせいってのは、中学生の僕らじゃなくて、この町の大人ってことだよ。中学校に通うような子供がこの町にはもう中学校を作れるほどいないだろう、その責任を感じるなあってことだよ。中学生にそんな大層な仕出かしはできないさ。中学生たちは、日帰りだから合宿所には立ち入ってないし」
「落書きでもあったんですか?」
「惜しいね。全然違うとも言えるけど」
「じゃあ違うじゃないですか。そんなに自信のある回答ではなかったんですけど」
「その年の夏、大会前に合宿所を訪れたテニス部が発見したんだけどね。練習場に石が並べられてたんだってさ。わざわざ、なにか文字になってたんだっけな。それが落書きに近いかもしれないと思って。それで、あの山に登る人自体が少ないだろう。それが、まあ、春に行った人達の仕業だろうってんで、犯人探しに巻き込まれちゃったんだよ。というか、犯人とされたのは、当時最後の新入生歓迎オリエンテーションであの山に行った僕ら陸上部ということにされて、反省文を書かされる羽目になったんだ。中学生からするとね。無実の罪で怒られるというのがもうすごいストレスでね。しかも、当時陸上部のオリエンテーションにはいったが、肝心の陸上部には僕は入らなかったんだ。それもまあまああることなんだけど、あんまりいい関係ではない。聞き取り調査の時も僕と陸上部の人って並びで職員室に呼び出されるし、気分が悪くて。なによりも、気分のまずいことはね」
店長は、言葉を切った。それから絞り出すように言う。「僕、いれたんだよね」
「入れたんかい」わたしは吹き出しかけた。
「いや、違うんだ。僕がいれたのは、雪玉のはずなんだよ。溶けかけの雪で、雪合戦をしたんだ。それで、友達が作った雪玉を僕が投げて、それのうち、友達に当たらなかったものが、たぶん練習場に入ったってこと」
「え、それって、つまり」
「そうだね、友達が雪玉に石を入れてたってことになる。そのあと誰かが、石を並べに入ったって不思議さが書き消えるくらい嫌な話だろう」店長が磨きこみすぎたマグカップをしまった。「これでおしまい」
「なるほど、そんなことがあったんですね。」
「わかってくれるかな。いやな気分になるだろう?」
「ええ、春っていうより、雪が解けかけのこのタイミングが嫌いなんですね。ああ、それから」私も、椅子から立った。「やっぱり店長が悪いですよ。練習場に雪玉でも投げ込んじゃだめです」
「ちゃんと言ってくれるね。君は」
「請け負いましたからね。わたしは約束を守る女ですよ」
「そうだったね。それじゃあ、そろそろ常連さんが来る頃だから、今日の日替わりメニューの看板出してきてくれるかい?」
「いや、まだですよ」
「そりゃ、まだ十時じゃないが。あとほんの十分じゃないか」
「あ、いえ、そういうことではなくて。看板は出してきますよ」
わたしは黒板が二枚つながったような構造の外看板に日替わりサンドイッチの中身を書き込む。えー、今日は。
おお、ハムサンドじゃないか。いや、私が作るんだけど。ここのハムは分厚くて好きだ。
「まだ、約束の方は守っていないじゃないですか」
「約束??」
「店長は悪くないよっていう方です。だってそれ、本当は人間がやったわけじゃないですよね」
「雪玉の中に石が入ってる怖さって、つまり、投げた人を怪我させようとしてたんじゃないかってことでしょう」
「はっきり言うとそういうことだよね。ついでに言えば、そうやって僕を通して誰かを怪我させようとしてたってことだし、それも怖い感じがした」
「石の大きさってわかりますか」
「いいや、でも怒られるほどの大きさだっていうなら、こぶしくらいの大きさじゃないか?」
「そんなに大きかったらかなり重いですよ。私はそれ、もっと小さいんだと思うんです」
「そしたら怒られないだろう」
「いや、さっき行ってたじゃないですか。『並んでた』から怒られたんですよね。大きさの話はしてなかったはずです。自分がいれてしまったことと、友達がそういったたくらみをしていたかもしれないことに恐怖してしまったことから、思い込んでしまったんじゃないですか」
「そういわれれば否定することはないけども。じゃあ石を練習場に並べた犯人は誰だったってことになるんだ。僕ら以外の人が投げ入れた様子なんて見なかったから、じゃあ犯人は石を運び込んで並べたってことになるのかい。鍵がかかった練習場に忍び込んで、鍵をかけたまま立去るなんて誰にもできないよ」
「いえ、石を運び込んではいません。それに彼らは、練習場に入り込みましたが、鍵はかかったまま侵入し、鍵を開けずに脱出したのです」
「それはおかしい」店長はむきになっているようだった。「コートの周りは鉄条網になっていて全然乗り越えられるようなフェンスではなかったよ」
「フェンスなんて関係ありませんよ。彼らというのは、鳥です」
「鳥?」ポカンとした顔を浮かべた。
「ええ、雪玉に一緒に巻き込まれた小さな石を練習場に並べたんでしょう。そういった行動をするらしいですよ。その原理は謎なんですが。最近、線路に石を並べる不届き者は誰だ、監視カメラで撮影してやるという話になって、映像を見たら、カラスだったという事件がありました。理由はわかりませんが。山の練習場ではそういう鳥もいたでしょう」
「なるほど」
「だから、店長は悪くないですよ。店長も、その友達も、だれも怒られるほど悪いことはしていないんです」
彼は脱力したようにカウンターの椅子に座った。
「そうだったのか」
「20年目の真実ですね」
「そんなに経って、ないよ」焦点のあっていない目で言う。「老け顔だけども」
「じゃあわたし、これ出してきちゃいますからね」
日替わりサンドイッチの案内を書き終わった外看板を広げて外に置きに行く。のれんをくぐって戻ってみると、彼はコーヒーを入れていた。今日の一杯目だ。本人曰く一日の中で一番うまく入るらしい。
「どうしたんです、春が好きになりましたか?」
「いや、そんなにすぐには好きにならないよ。でもまあ、嫌いではなくなったかもね」カップをカウンターにおいた。
「謎解きのお礼に一杯どうだい?」
「おや、それはごちそうさまです」
窓から風が通り抜けた。白梅の香りがした気がする。
春がきますね。
FIN