7 宴会への招待
沖に停泊していた不審船は予想どおり、定期船を追うように進んで行った。
すぐそのあとを要請を受けた四隻のマルス海軍船が出港して行ったので、あれをどうにかしてくれることを期待する。
マルス海軍と同時に出港したエリック達は、そのまま予定どおり北西方面に針路を取り、レヴェラント島を目指すことにした。
「奥方様、食事はどうしますか?」
陽が沈んでだいぶ経った頃、ミシェットが艦長室に閉じ籠もっていると、コレットがやって来て尋ねた。
「いつもこの部屋で召し上がっていたでしょう。でも、今夜はお一人ですし」
言われてみればそうなのだ。今まではニーナ達とこの部屋に食事を運んでもらって食べていた。けれど、ひとり分を運んでもらうのも悪い気がするし、ひとりで食べるのも味気ない。
「よければ下に来て、我々とご一緒に如何ですか?」
どうするのがいいだろうかと考えていると、そう提案してくれる。
今夜は士官達もみんな下に降り、定期的に行われている宴会になるのだという。長い航海中は娯楽もなく鬱屈とする為、交戦中でなければ、週末には必ず宴会を催すことになっているらしい。
「男ばかりでむさ苦しいし、女性にはあまり居心地がよくはないかも知れないですが、歌や音楽もあり、大変盛り上がるんですよ」
少し躊躇うように考え込むミシェットに、コレットはおどけた調子で言い添えた。
「艦長も参加しますし」
騒がしいのが好ましくないのなら、今までどおり部屋に食事を運ばせる、と言ってくれたが、少し興味を引かれたので参加してみることにする。エリックもいるなら安心だ。
お嫌でなければ、と手を差し出されたので、遠慮なく掴ませてもらうことにした。実は先程から少し脚が痛むのだ。
この数日の航海中、コレットは常にカリカリ怒ってばかりいたので少し恐かったのだが、話してみると存外気さくな性格の好青年だった。あまり慣れない相手と歩いていることで気不味くならないようにと気を遣ってくれているらしく、主にエリックが上官としてどれだけ素晴らしいかという内容だったが、あれこれと話をしてくれた。ミシェットはそれを楽しく聞く。
士官室のある階より下には行ったことがなかったのだが、宴会場は水夫達の利用する食堂で行われるのだという。見知らぬところを探検しているようでなんだかドキドキした。
食堂が近づいて来ると、多くの笑い声に混じって音楽が聞こえてきて、とても盛り上がっているのがわかる。扉を開くとそれがわっと飛び出してきた。
「艦長、奥方様をお連れしましたよ!」
やんやと最高に盛り上がっている乗組員達の喧騒に負けぬよう、コレットが声を張り上げた。部屋の中寄りのところにいたエリックは気づき、こちらへ手を振る。
「騒がしくてすみません」
ミシェットが近づくと椅子を勧めてくれ、そう謝ってきた。
いいえ、と首を振っていると、ドン、と目の前に大きな塊肉が置かれた。
「たんと食べてくだせぇ!」
いい匂いの湯気を撒き散らす塊肉を運んで来たのは、この船の料理長なのだという。
シーモアと名乗った料理長は大きな身体を揺すって笑い、アテルニアで仕入れたばかりだという新鮮な果物も置き、ミシェットの好みを尋ねてきた。料理人の彼等は厨房で食事作りに大忙しで宴会には参加できないのだが、交替で料理を運び、その折に少しだけ酒を飲み交わしているらしい。
少し野菜が食べたい、とミシェットが答えると、サラダでも作ってきてやろう、と言いながらシーモアは立ち去った。
「肉は嫌いですか?」
「いいえ。でも、あまり食べないです」
国土の狭いヴァンメールは昔から放牧地の必要な畜産より、周囲に広がる海を利用した漁業の方が盛んで、食事も魚介料理の方が中心となっている。
「じゃあ少しだけ」
エリックは塊肉を引き寄せるとナイフで食べやすい薄さに何枚か切り取り、皿に取り分けてくれた。ミシェットは礼を言って一枚食べてみる。宮廷で食べる晩餐のような手の込んだソースなどはかかっていなかったが、程よい塩気で味は問題なく、思ったよりも柔らかくてとても食べやすかった。
「とても賑やかですね」
少し音楽が途切れていたが、誰かが空になった酒樽を軽快に叩き始めると、手風琴と洋琵琶を持ち寄っていた士官が弾き始め、まわりから手拍子が巻き起こる。ミシェットにはあまり耳馴染みのない曲だったが、皆楽しそうに笑い合い、何人かは合わせて歌っている。
「こういう光景は珍しいですか?」
エリックには見慣れた光景なのだろうが、夜会にもあまり参加したことのないミシェットには、こういう宴会はまったく初めての光景だった。
楽しげに歌い踊る船員達の姿をぼんやりと眺めていると、ドン、と大きな音で目の前に新しい皿が置かれた。見てみるとサラダだったが、持って来たのは先程の料理長ではなく、エリックと同じくらいの若い青年だった。
「はいよ。お姫様の食べるような上等なものじゃないけどな」
無愛想な口調で告げるその青年には見覚えがあった。この船に乗って最初の食事のときに、エリカが文句を言っていた給仕の青年だ。文句の内容は確か、給仕の仕方が美しくないとか、盛り付けが悪い、貧相な料理だ、などだったかと思う。
サラダは三種類ほどの葉物が少しと茹でて潰した芋が乗っていて、ミシェットには十分な内容だった。そんなに食べる方でもないので、これだけあれば腹が膨れる。
「ありがとうございます。お芋、好きです。シーモアさんにもお礼をお伝えください」
ぺこりと頭を下げてフォークを突き刺すと、彼は決まり悪そうにもごもごとなにか呟いたあと、ふいっと立ち去った。
かなり年下でも立場は上のミシェットに対し、今の彼はとても態度が悪かった。ミシェット自身はあまり気にしていなかったが、その様子を目撃した何人かが少し注意しているのが見える。
「ミシェット、肉より魚の方が好きですか? 茹で海老もありますよ」
エリックも彼の態度のことは見逃すことにしたのか、別の話題を振ってきた。
海老を少しだけ欲しい、と答えると、適当に身を捥いで肉の横に乗せてくれ、残りは自分の許へ引き寄せて齧りつく。豪快で少々粗野な振る舞いに、ミシェットは少し驚いた。
なんだかエリックには、王子様のときの紳士的な顔と、船の上にいるときの活動的な顔と、まったく違ったふたつの顔があるような気がしてくる。
よくよく見てみれば、いつもきちんと着込んでいた軍服がなく、シャツも胸許までゆるく寛げられている。初めて目にする姿だった。
「…………? どうかしましたか?」
じっと見つめられていることに気づき、首を傾げる。ミシェットは慌てて首を振り、誤魔化すように分けてもらった海老を頬張った。
「艦長! 歌ってくださいよ!」
葡萄酒の瓶を引き寄せようとした腕を掴まれ、士官のひとりに誘いを受ける。少し考えたあとに「今日はいい」と断ると、またまたぁ、と笑われた。
「奥方様も聴きたい筈ですって、艦長の歌! ね、奥方様!」
同意を求められ、驚いて口の中の海老を一気に呑み込んでしまう。幸いにも喉に詰まったりはしなかったが、思わず目をぱちくりとさせた。
「すごぉく上手いんですよぉ、艦長はぁ」
赤ら顔の士官はにこにこと笑いながら、聴きたいでしょう、と更に念押ししてきた。結構酔っているようだ。
困ったな、と思いつつも、少し聴いてみたい気もする。
ちらりと見上げると、エリックは小さく溜め息をつき、立ち上がって瓶から直接葡萄酒を飲み干すと、手風琴を弾いている士官の許へ行った。ピュイピュイと囃し立てるようにあちこちから指笛が鳴らされる。
なにか指示を受けたらしい奏者が頷き、軽快な音楽を奏で始める。調子が乗ってくると手拍子が加わり、エリックが何故か酒瓶を持ったまま歌い出した。
耳馴染みのない曲と歌詞だったので、ブライトヘイル王国の民謡かなにかなのかも知れない。明るく楽しげな曲調で、こういう場所には似合いの曲だ。
士官のお世辞ではなく、エリックは本当に歌が上手かった。朗々たる声で歌い終わると拍手喝采だ。ミシェットも一生懸命両手を打ち鳴らす。
エリックが奏者の傍を離れると、今度はコレットが二人がかりで引きずられて行った。かなり嫌がっているところを見ると、彼はあまり歌が得意ではないのか、恥ずかしがり屋なのかも知れない。
「本当にお上手なのですね」
戻って来たエリックに満面の笑みで答えると、彼は礼を言って新しい酒瓶を引き寄せた。
「聴いたことのない歌でした。どういう歌なのですか?」
「あー……戦に駆り出された漁師が、故郷に残してきた恋人に早く会いたいっていう、そういう歌です。昔から船乗りの間でよく歌われているんですよ」
恋人がどれだけ美人で可愛いか、自分がどれだけ彼女を愛しているか、そんな彼女にどんなに会いたいか――と仲間に語る内容の歌詞なのだという。明るく楽しげな曲調で、歌詞も前向きでその気持ちがわかりやすく、ブライトヘイルの船乗りなら誰でも歌えるような、昔から人気の歌なのだという。
頷いて聞いていると、今度はエリックがじっと見つめてきた。
「…………?」
「ふっ。ついてますよ」
小首を傾げて見つめ返すと、微笑んだエリックの手が頬の方へ伸びてくる。ふわりと優しく触れたかと思うと、口の横についていたらしい食べかすを取り除き、それをひょいと自分の口に運んだ。
ハッとして真っ赤になったミシェットは隠すように口許を覆い、照れ笑った。そんな彼女を見つめながら、よかった、とエリックが小さく呟く。
「笑ってくれて安心しました」
なんのことだろう、と不思議に思う。すると、彼は困ったように眉を下げて微笑んだ。
「アテルニアを出てからずっと沈み込んでいたようだから、心配していたんです。無理もないことですけど」
あっ、と小さく声を零し、思い至ったミシェットは黙り込んだ。
侍女達が自分を裏切ったのかも知れないということにショックを受け、頼りになる乳母とも離れてしまったことも気にかかり、ひとりでずっと落ち込んでいたのだ。涙が出そうになるのを堪えているうちはまわりのことを気にかける余裕もなく、コレットが声をかけてくれるまで陽が暮れたことも気づいていなかった。
コトリ、とまた新しい皿が置かれた。
「僕の取って置きです。如何ですか?」
そう微笑んだ航海士のティムが、乾蒸餅を持って来てくれたのだ。保存食の硬く味気ない乾蒸餅ではなく、甘い菓子だった。
もうお腹はかなり膨れていたが「ありがとう」と一枚もらうと、ティムはにこにこと嬉しそうに笑っている。
乾蒸餅をもそもそ食べていると、いくつもの視線がこちらに向いていることに気づいた。エリックについて歩き回った甲板で出会った見覚えのある水夫達だったが、名前も知らない彼等がにこにこしながらこちらを見ている。
「……美味しいです。ありがとうございます、ティムさん」
半分ほど齧ったところで、向かい側に座っていたティムに微笑んだ。彼は更に笑みを深め、よかった、と声を弾ませる。
その遣り取りがなにかの口火を切ったらしく、ちらちらと視線を向けていた水夫達がわっと押し寄せてきた。
「奥方様、葡萄酒どうだい?」
「馬鹿。まだ小せぇんだから、飲めねぇだろ」
「肉はもういいんですかい? 新しいの取って来ましょうか?」
「これも食べたらどうですか? 美味いですよ」
「汁物がいいですかね?」
あちこちから一気に言われ、ミシェットは困ってしまう。どうしよう、と助けを求めてエリックを見るが、彼は笑っているだけで手を貸してくれそうにはない。
「えっと……お腹はもういっぱいなので。ありがとうございます。その果物だけ頂きます」
差し出された林檎だけ受け取り、申し訳なく思いながら礼を言った。それでも水夫達はにこにこと嬉しそうに笑っている。
「あと、あの……奥方様って呼ぶの、やめてくださると嬉しいです」
隣でエリックが双眸を見開くのが見えた。
「いえ! あの、エリック様が嫌だとか、そういう意味ではなくて……私、まだお嫁様らしいことをなにもしていないので、そう呼ばれるのが心苦しいというか……」
言葉を選びながら一生懸命に自分の考えを口にすると、ピュウッ、と誰かが口笛を吹いた。それに同調するようにドッと笑い声が巻き起こったが、ミシェットにはなにがなんだかわからなかった。
「止せ、お前達。深い意味はない」
なにか変な言い回しをしてしまっただろうか、と困惑していると、エリックが低く唸るような声で周囲を黙らせる。
わかってますよぅ、と笑いを堪えながら口々に答えが返る。
「敬意を込めてそう呼ばせてもらってんです。でも、お嫌ならやめますよ」
「代わりにどうお呼びすればいいでしょうかね?」
「お嬢さん……じゃ、気安いですかね? 艦長」
話を振られたエリックは、先程の渋面のままミシェットを見た。
「本人が嫌がらなければいいんじゃないか」
溜め息交じりに答えたかと思うと立ち上がり、料理の残っている皿を適当に掴む。
「エドガーに差し入れて来る。少しの間、ミシェットを頼んだぞ」
はーい、と周囲の男達が返事をするのを背中で聞きながら、エリックは食堂を出て行ってしまった。
不安になったのはミシェットだ。みんな気さくでいい人達だとは思うが、大きな男の人達にはまだ慣れないし、ひとりで残されると困ってしまう。
どうしようもなくて「エリック様……」と呼びながら椅子を飛び下りた。
「ありゃりゃ」
「やっぱり奥……じゃなくて、お嬢さんは、艦長の傍がいいんだなぁ」
「俺達フラれちまったなぁ」
いつものようにエリックのあとを追い駆けて行ったミシェットの小さな後ろ姿に、明るい笑い声が起きる。
詳しい事情は聞いていなかったが、乗り換える筈だったミシェットがひとりだけで戻って来たことで、なにかがあったらしいことはすぐに伝わった。見るからに落ち込んでいる様子だったし、エリックが甲板に立っていても出て来る気配はなかったし、それで心配していたのだ。
いつもの宴会を開こう、と提案したのはティムだった。彼は酒に弱いのでいつも積極的に参加したりしないくせに「楽しく飲み食いする場に来れば、少し元気になってくれるんじゃないでしょうか」と呼び掛け、皆がそれに同意した。
この提案に一番乗り気だったのは料理長だった。いつも食事を好き嫌いなく綺麗に食べてくれるので、嬉しかったらしい。
レディ・エスター号の乗組員達は、この数日の間に、すっかり小さな姫君のことが大好きになっていた。そんなミシェットが明らかに元気がないようなのだから、誰もが心配して当たり前だ。
ようやく笑顔が見えたと思ったらエリックを追い駆けて行ってしまったので、まだ人見知りされているようだな、とみんなで苦笑するしかなかった。
「エリック様」
食堂を出てからエリックを呼び止めるが、潮騒と宴会の喧騒で声が届かなかったのか、先を行くエリックの足が止まることはなかった。少し脚が痛んだが、ミシェットは追い駆けて走り出した。
それにしても速い。いつもはミシェットに合わせて随分ゆっくりと歩いてくれていることに気づく。
「エリックさ――あっ!」
追いつくのに一生懸命になってしまい、足許にまで注意がいかなかった。縺れさせて躓いてしまう。
その音にさすがに気づいたのか、エリックがようやく足を止めて振り返った。
「ミシェット……どうして出て来たんです」
すぐに戻って来て抱え起こしてくれる。すみません、と謝るが、転んでしまったことが恥ずかしくて顔が上げられない。
「エドガーに食事を渡したらすぐに戻りますから、食堂にいてください」
「でも……」
一緒にいたいと言ったら、我儘だと呆れられてしまうだろうか。
宴会に参加していた乗組員は皆悪い人ではないし、ミシェットに好意を持って接してくれているのもわかっている。けれど、まだ大勢の男の人の中にいることに慣れてはいないので緊張してしまい、ひとりでいることが不安になるのだ。
ふう、と小さな溜め息を零すと、エリックは「これ持ってください」とミシェットに差し入れの皿を渡した。
言われるままに受け取り、落とさないようにしっかりと両手で持つと、いつものように抱え上げられる。
「一緒に行きましょうか」
「……はいっ!」
思わず力いっぱい頷くと、エリックは微かに笑ってくれた。
よかった、とミシェットはホッとする。食堂を出て行くときのエリックは、なんだか怒っているような気がしていたのだ。笑ってくれてよかった。
「脚は痛くないですか?」
「あ、大丈夫で……いいえ、ちょこっと痛みます。ごめんなさい」
心配させたくはないが嘘をつくのもよくないと思い、慌てて言い直すと、エリックは怪訝そうな顔をした。
「なにを謝るんです? 今日は無茶をさせましたから、痛んで当然です。いつも飲んでいた薬湯はどういうものですか?」
「ばあやが用意してくれていたので、よくわからないです。たぶん生薬を煎じたものだと思うんですけど……」
「生薬か……」
薬湯の予備を持ってはいないだろうと思っていたが、案の定だった。ニーナだけが煎じられるものを飲ませていたのだろう。
恐らくミシェットが幼い為に、あまり効き目の強くない香草や薬草類を鎮痛薬として与えていたのだと思われる。船に置いてあるものだと強すぎるかも知れない。
怪我をしたときの治療などには、麻酔の代わりに葡萄地酒や糖蜜酒を飲むことがあるが、まさかまだ子供のミシェットにそんなものを飲ませるわけにはいかない。痛みを取り除くどころか、逆に身体を壊すに決まっている。
なにが適切だろうか、と考えているうちに甲板へと出て来たので、ひとり孤独に船の針路を守っているエドガーの許へ赴く。
「――…おっ、艦長。宴会はどうしたんですか?」
いつものように明るい笑顔を向けながら舵輪を握っているので、ミシェットを下ろし、皿を渡すように背中を押し出す。
エドガーには何度か会って話をしているので慣れてきているのか、嫌がりもせずに近づいて行き、はい、と料理を差し出した。
「ああ、これは奥方様! わざわざありがとうございます」
エドガーは嬉しそうに笑って皿を受け取ろうとするが、操舵をどうしようかと一瞬考えたらしく、手許を見遣った。
「替わろう。そこらで食ってしまえ」
「すみません」
恐縮した態で操船を替わると、いつも休憩に使っている木箱に腰を下ろした。その横を少し空け、ミシェットにも座るように手招きしてくれる。遠慮なく座らせてもらうことにする。
ミシェットは舵を取るエリックを物珍しげに見つめ、少し楽しくなった。
「エリック様はお船を動かすこともできるのですね」
「艦長は一通りおできになりますよ。操舵手と航海士が倒れても問題なく航行できます」
へえ、と驚いて見ていると、エリックは肩を竦める。
「見よう見真似で齧っているのと、本職にしているのを一緒にするなよ。俺が航海士になったら一日で遭難するし、操舵手やったら座礁する」
この口振りだと、航海士や操舵手だけでなく、水夫やもしかすると料理人をやらせても、なんとなくできてしまうのではないだろうか。またエリックの新しい一面が見れたような気がして嬉しくなる。
「ところでミシェット。歩いても平気そうなら、エドガーに温かいスープを持って来てやって欲しいのですが」
ここは冷えるから、と言われ、確かに夜風が冷たいと思い、頷いて立ち上がる。
大丈夫です、十分です、とエドガーが引き留めようとするが、寒くて風邪をひかれても大変だろうと思い、食堂へ引き返した。みんなはまだ盛り上がっているのだろうか。
「……行っちまいましたねぇ」
指についたソースの汚れを舐め取りながら、エドガーが零す。ミシェットと同じ年頃の娘がいる彼は、殊更あの小さな姫君のことを気に入っている。
「ところで、艦長?」
「ん?」
「なにかご機嫌斜めのご様子ですが、なにかあったんですかい?」
窺うように尋ねると、エリックの眉間にスーッと皺が寄っていく。
「……わかるか?」
「ええ、まあ。付き合いはそれなりに長くなってますからね」
エドガーとは、海軍予備隊入隊後に初めて配属された船で出会ったので、彼此九年ほどの付き合いになる。因みにティムとは予備隊の同期入隊だった上に、その後の配属が重なっていたこともあり、それ以降ずっと一緒にいる。
親友と呼ぶのとはまた少し違う感じだが、お互いに家族の次くらいに理解し合っている存在だとは思っている。
「俺は、自分の心の狭さが嫌になる」
盛大な溜め息を零しながら、自分の胸の内を吐露する。
宴会場での経緯を掻い摘んで聞いたエドガーは、声を立てて笑った。自分の狭量さにうんざりしかけていたエリックは、なにがおかしいんだ、と突然笑い出した年上の部下を睨みつける。
「いいんじゃないですか。自分の嫁で下世話な考えを持たれたら、誰だって腹立ちますって」
「そういうものか?」
「そりゃそうでしょうよ。俺だって嫌ですよ」
「俺は、お前のところみたいに好きで好きで堪らなくて、追い駆け回して嫁にもらったわけじゃないからなぁ」
随分な言い方だが事実である。
エドガーの妻サムは、海軍宿舎の傍にある定食屋で働く娘だった。とびきりの美人ではなかったが、雀斑顔に浮かべる笑顔が明るく愛嬌のあるいい娘だったので、エドガーが一目惚れをしたのがきっかけだ。
一時期、定食屋に通うのをつき合わされたことを思い出し、エリックは笑う。
「半年通って結婚を申し込んでフラれ、めげずにひと月毎に求婚し続け、一年経ってようやくお許しが出たんだっけな」
エドガーの一途さに根負けして結婚してくれたようなものだが、今ではすっかりおしどり夫婦として仲間内で有名だ。
「すぐに艦長もそうなりますよ」
どうだかな、と思っていると、ミシェットが戻って来た。
小さな手が大事そうに抱えて来た器を「どうぞ」と差し出す。エドガーは満面の笑みで受け取り、感謝の言葉を述べた。
「奥方様は、きっといい嫁さんになられますなぁ」
しみじみと呟くと、ミシェットははにかんで頷いた。