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蒼海の軍神と真珠  作者: 秋月 菊千代
1章 嫁入り編
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3 レディ・エスター号



 宮殿に出仕する貴族達を集めての正餐会で、公位継承者である公孫マリー・ミシェットの成婚を告知し、祝辞も別れもそこそこに、その翌日には夫と共に出立――と非常に慌ただしい日程になった。

 事情が事情とはいえ、急に決まった早すぎる嫁入りに別れを惜しむ祖父と孫娘は、最後の夜を一緒に眠って過ごしたらしい。

 目覚めて支度を終えるとお互いをしっかりと抱き合い、堪えきれない惜別の涙を流していた。普段はどっしりと構えた峻厳な大公だったが、人目も憚らずに滂沱と涙を零し、宮殿を出るギリギリまでミシェットを抱き締めていたのが印象的だった。


「荷物はこれだけですか?」


 大公の様子に遠慮し、先に宮殿を出て出港準備の指示を出していたエリックは、運んで来られた幼い妻の嫁入り道具を見て、意外な思いで尋ねた。

 はい、とミシェットは頷く。


「気に入りの服と本を少し。あと、お母様とお父様のものを持って来ました」


 衣装箱が三つほどと、靴や帽子などと他の小物類が入った箱が同じく三つあるだけで、貴族女性の引っ越し道具としてはかなり少なかった。異母姉(あね)が嫁いだときなど衣装だけで荷馬車が六台も連なったほどだ。


「ミシェット様は物欲のない方なのです」


 そう答えたのは乳母だった。

 輿入れに同行するのは乳母――正確には、ミシェットの母の乳母だったらしいので、子守り兼教育係であるらしいニーナと、エリカとジャンヌという侍女達だという。彼女達の持ち物も小振りな衣装箱が二つずつで、なかなかに身軽だ。

 ジャンヌと名乗った方の侍女は、幼い頃から飼っている小鳥を連れて来たと言い、連れて行くことの許可を求めてきた。急に決まった輿入れに同行することになり、預け先も見つけられなかったのだろうと思い、鳥の一羽や二羽くらい問題ないと答えた。但し、放し飼いにだけはしてくれるな、と約束させる。


「ミシェット様はまだ成長途中ですので、これから背も高くなられます。新しいお衣装は、新居で落ち着かれてから仕立てて頂く方がよろしいかと」


 積み上げられた衣装箱を眺めていると、ニーナがそう付け足した。

 言われてみればまったくそのとおりだ。現在九歳のミシェットはこれから成長期を迎え、今よりずっと背も伸び、身体つきも娘らしいものに変化していくだろう。そうなれば今着ているものなど必要なくなるのは当たり前だ。

 帰国したら仕立て屋を呼ぶべきだな、と考えながら、荷物を積み込むように指示を出す。


 特に大事なものが入っている、と言っている大きめな鞄を抱えたミシェットは、これから自分が乗り込む船を見上げ、目を真ん丸にしていた。


「……これがエリック様のお船ですか?」

「そうですよ。レディ・エスター号といいます」

「女性のお名前なのですね」

「ブライトヘイルでは伝統的に、船に女性の名前を付けることになっているんです。初代国王の妃が……その、なんというか、とても有名な船乗りだったので」


 エリックが僅かに言い淀むと、ミシェットは不思議そうに見つめ返す。その純粋な視線に、エリックは思わず苦笑した。


「初代国王の妃は、北海で有名な女海賊だったのです」

「海賊、ですか?」


 そうです、と頷きつつ、船首へ目を向ける。


「レディ・エスターと呼ばれていた女傑で、討伐にやって来た初代国王に見初められ、妻となったという言い伝えです」


 北海沿岸の近隣諸国にも名の知られた船団を率いる大海賊だったが、後にブライトヘイルの初代国王となる青年騎士に捕らえられ、絞首刑にされそうになったところを求婚されたという逸話が残っている。

 エスターは王妃となっても戦があれば自ら船団を指揮し、新興国で力のなかったブライトヘイルを何度も勝利へと導いた。彼女が指揮を執ると撃沈される船はなかったとも言われている。


「彼女の戦功にあやかり、船が沈まないようにと祈りを込めて、女性の名前をつけます。この船は陛下が名づけてくださいました」


 因みに、アーネストの船はクイーン・ステラ号という。エスター王妃が後に呼ばれるようになったあだ名が由来だ。

 聞いていたミシェットは小さな手提げから手帳を取り出し、その場にしゃがみ込んでペンを走らせる。


「……なにをしているんです?」

「今教えて頂いたお話を忘れないように書き留めています」


 癖なのです、と笑って答えた。別に忘れっぽい性格をしているというわけでもないのだが、気に入ったことなどは書き留めて、何度でも、ちゃんと思い出せるようにしておきたいだけだ。

 真面目だなあ、と微笑ましく思う。


「エリック様はすごい海賊の子孫なのですね」


 書きつけ終わったミシェットが、ほう、と溜め息をつきながら零した。その瞳が好奇心にきらきらと輝いている。


「嫌ですか?」

「いいえ。そんなことないです」


 手帳を手提げにしまい直すと、よいしょ、と立ち上がる。そのとき一瞬よろけたので手を差し出すと、ミシェットは照れ臭そうに笑った。


「私は人魚の末裔なのです」

「え?」


 唐突に告げられた言葉に、思わず耳を疑う。


「エリック様のお国に女海賊の伝説が伝わるように、私の国にもそういうお話があるのです。人間に恋した人魚が、海の国からお嫁に来て、私のご先祖様になったそうです」

「ああ。ヴァンメールには人魚伝説がありましたね」

「はい」


 ヴァンメール公国は永い間、諸国から「不思議な国だ」と言われていた。

 建国は八百年ほど前で、近隣諸国の情勢を見ても、ひとつの一族がそれだけ長く統治した国はない古さだ。ブライトヘイルも建国は七百年ほど前になるが、一度他の一族に玉座を簒奪された過去もあるので、ヴァンメールほどではない。大陸に至っては国々が領土争いを繰り返し、新しい国が生まれては消えて行くのを繰り返している。最長でも三百年がいいところだろう。

 その特異な島国は二百年ほど前までほとんど外交を行わず、いつも霧がかっていて島影も見つけにくく、潮の流れが変わっているのか寄港するのも困難な島で、まさに鎖された国だったのだ。


 霧に包まれて人を寄せ付けないヴァンメールは『人魚に守られた国』と呼ばれてもいた。

 それがいつの頃からか霧が晴れるようになり、潮の流れも落ち着き、商船が行き来するようになった。

 謎に包まれていた島国はその門を開き、穏やかな気候で風光明媚な国土と、潤沢な宝石鉱山を有することを公表した。今のヴァンメールの主な産業は、宝石の原石及びその加工技術の輸出と、豊かな海での真珠の養殖だ。大陸の貴人達の間では、保養の為に長期逗留するのも人気だという。


「内緒の話なのですよ。お祖父様にも言われていたのですけど、エリック様は旦那様ですし、お話ししてもいいと思いました」


 にこにこと微笑みながら告げるミシェットは、その話を信じているのだろう。

 エリックもふっと微笑んだ。


「有名な海賊の末裔と、人魚の末裔なら、海洋国の我々にはとても似合いですね」

「ふふっ。そうですね」


 ミシェットは楽しそうに笑っている。けれど、その目許は涙に濡れて赤く腫れぼったい。

 エリックは羽織っていた外套を脱ぎ、幼い妻に着せ掛けた。


「今の時季の船上は冷えます。大きいですが、取り敢えずこれを着ていてください。あとで乳母殿にコートを出してもらいましょう」

「あ、ありがとうございます」


 裾を引きずるほど大きな軍用外套からは染みついた潮の香りがした。


(エリック様の、匂い……)


 スン、と匂いを嗅いでみると、エリックに抱き上げられたときと同じ匂いがした。安心する匂いだと感じる。


「……臭いますか?」

「えっ? いいえ、そんなことありません」


 匂いを嗅いでいることに気づいたエリックが、申し訳なさそうに尋ねる。そんなところを見られていたことに気づいたミシェットは驚き、慌てて首を振った。恥ずかしさから頬が熱くなる。

 よかった、とエリックは嘆息する。


「昼前には出港します。まだ時間はありますが、乗船しますか?」

「いいのですか?」

「はい。行きましょう。……ああ、それじゃあ歩きにくいですね。ちょっと失礼します」


 苦笑して断りを入れると、裾を持ち上げて立っているミシェットの鞄を下ろさせ、右腕だけで軽々と持ち上げた。驚いて目を丸くするが、彼はなんとも感じていないようで、下ろしていた鞄も持った。


 出港準備の為に行き来している乗組員達の視線が、エリックに抱え上げられているミシェットに注がれる。好奇の視線だ、と感じた。

 エリックが王命で花嫁を迎えに来たことは知られているのだろうし、その相手がこんなに年が離れているのだから、そういう視線を向けられるのも当たり前か。


「この船は軍船なので、女性を乗せるような造りにはなっていません。一番広いのが艦長室なんですが、そちらで過ごして頂くことにしてもよろしいですか?」


 各甲板などの状況を軽く説明しながら、あとをついて乗船して来たニーナに尋ねる。ええ、と乳母も侍女達も頷いた。


「船長はエリック様なのでしょう? 私達がお部屋を取ってしまったら、何処でお休みになるのですか?」


 驚いて尋ねる。大陸の外洋を回り込んで行くので、潮の流れや風向きにもよるが、ブライトヘイルに着くには十日ばかりかかるという。その間、エリックはどうするつもりなのだろうか。


「わたしは士官室に行っていますので、大丈夫ですよ」


 笑いながら答え、艦長室の扉を開けた。


「昨日のうちに片づけておいてもらったんですが、狭いですし、女性には少し酷ですかね」

「お心遣いありがとうございます、殿下。十分です」


 ニーナが部屋の中を見回して一瞬眉を寄せ、すぐに笑顔で応じたのをエリックは見逃さない。十分と答えていても、気に入らないところがあったのだろう。

 手厳しいな、と感じつつも、こちらも笑顔で「よかった」と答えた。


「そちらの棚は海図などが入っているので、できればあまり触らないでいてくださると嬉しいのですが」

「心得ました」


 荷物はすぐに運ばせます、と告げ、ミシェットを部屋の中程で降ろすと、用事があるからと出て行ってしまった。

 途端にエリカが大袈裟な溜め息を零す。


「なんだかどうにも埃っぽいですね。少し臭いますし……大急ぎで掃除が必要ですわね」

「およしなさいよ、エリカ。これで十分な手入れだと思われているのですから」


 同僚のジャンヌも嫌味っぽく応じる。


「やはり北の方は野蛮ですこと」

「ええ。粗雑でいらっしゃる」


 北方地域の国々のほとんどが、蛮族と呼ばれていた荒々しい気性の者達が略奪に略奪を重ね、侵攻の果てに興した国だ。そのことを指摘してエリカとジャンヌは声を潜めて忍び笑った。

 ブライトヘイルもその例に漏れず、小領主同士が長年争い続けた末に、エリックの祖先であるエミリオ・ラクレアが建国したのだ。しかもその妃は名の知られた海賊ときている。野蛮人の末裔と笑われても反論はできなかった。


 これ、とニーナが窘めると、さすがに二人は口を噤み、余計なことを喋っていたことを詫びる。


「出港して揺れ出す前に、手早く片付けてしまいましょう」

「はい、ニーナ様」


 部屋の中を見回すとコート掛けがあったので、ジャンヌは「丁度いいからお借りします」と連れて来た鳥籠をかける。覆いを捲って中を確かめると、満足そうに頷いた。

 二人が埃っぽいと笑っていたことを思いながら、ミシェットは室内を見回す。


(そんなに汚いかしら?)


 笑うほどに埃っぽくはないと思う。清潔感溢れるかと問われれば否だが、目立った汚れもなければ、荷物が乱雑に積まれている様子もない。整理整頓はきちんとされている。なにか独特な臭いがするのは、海の上の所為ではないだろうか。

 ここはお城の中ではないのだし、こんなものだと思うのだが、侍女達にとっては違うようだ。ニーナの指示のもとで片付けを始めた二人だが、すぐにブツブツと文句を零しながらあちこちを弄り始める。


「あの……あまり弄らない方がいいと思うのだけど」


 控えめに侍女達に告げると、彼女達は驚いたようだ。手を止めて顔を見合わせている。


「だって、ここはエリック様のお部屋です。少しの間お借りしているだけなのですから、あまり弄るのは……」

「ミシェット様のおっしゃるとおりですよ、あなた達」


 言いたいことが上手く言葉にできず、尻すぼみになりながらごにょごにょと自分の意見を伝えていると、頼りになる乳母が同調してくれた。


「確かに少し埃っぽくはありますが、殿下は我々が過ごしやすいようにと、一番広いご自分のお部屋を提供してくださったのです。ご好意は礼を尽くして受け取りませんと」

「でも、ニーナ様……」

「ここは殿下のお仕事場です。支障を来すかも知れないのに提供してくださったのですから、なるべく現状を維持しておくのが好ましいと思いますよ。ミシェット様もそうおっしゃりたかったのだと存じますが、如何ですか?」


 まったくそのとおりだ。ミシェットは乳母の言葉に大きく頷く。

 若い侍女達は少し納得できないような表情を見せたが、主人からの命であるのなら仕方がない。


「私達は何処で休むんです?」

「荷物が入りましたら、このお部屋でもさすがに狭いのでは?」


 必要最低限のものだけ手許に運んでもらい、あとは船倉に保管してもらうように手配はしたが、それでも手狭にはなる。一番広い船室といっても、四人が寝るには狭いのではなかろうか。

 ニーナもその考えには至ったようで、部屋の中を見回す。一番邪魔に感じるのは、恐らく軍議などにも使われるのであろう大テーブルだ。これが部屋の中を圧迫している。

 ハッとして手を打ち、ミシェットは扉に向かって駆け出す。


「エリック様に確認して来ます!」

「えっ、ミシェット様?」


 大きな軍用外套の裾を抱えて走り出した小さな姿に、ジャンヌが慌てて追い縋る。


「お待ちください。そのようなこと、私どもが致しますので」


 主人に使い走りなどさせられるわけがない。

 でも、とミシェットが表情を曇らせると、ニーナが「いいじゃないの」と侍女を諫めた。


「今日は足も痛まれないご様子ですね?」

「はい。お城を出る前に薬湯も飲みましたし、今は大丈夫です」

「私達は荷物の整理がありますし、ミシェット様が行ってくださると助かります。行ってくださいますか?」

「はい! 任せてください」


 乳母に言われてにっこりと満面の笑みで答えると、ジャンヌがもう一度引き止めるよりも早く船室を飛び出して行った。


「もう、ニーナ様ったら。何故あのようなことを」


 ジャンヌは閉まってしまった扉に溜め息をつきながら振り返り、呆れたように尋ねる。


「旦那様にお会いしたいのでしょう」


 外套を脱いで手近な椅子の背に掛けながら、ニーナは微笑んだ。


「お年は離れているし、ミシェット様は内気なお方だから、初めはどうなることかと思ったけれど……殿下はお優しそうな方ですし、上手くいきそうでよかったわ」


 内気で大人しいミシェットだが、元々人見知りをするような性格ではなかったので、慣れれば上手くいくとは思っていたのだ。三日前にエリックがこちらに来てから、なるべく一緒にいられるように仕向けてはいたが、多少は親しくなれたようだ。

 このまま夫婦とまではいわずとも、せめて兄妹くらいの親しさが生まれれば、遠い異国の地でも不自由なく暮らせるだろう。

 乳母の意図したことに気づいたのか、侍女達も頷いた。


「さあ、ミシェット様が戻られるまでに、少しだけ片づけさせて頂きましょう。あまり物を動かさずにね」


 はい、と侍女達は頷いた。


 一方のミシェットは、船室を飛び出したのはいいのだが、エリックが何処にいるのかわからず、うろうろと歩き回ることになった。

 入って来るときに、手前が副官の使っている部屋だと言っていたので、そちらをノックしてみる。三度ほど繰り返してみたが返事がなく、人の気配も感じられなかったので、ここは不在だと思われる。


 どうしよう、と思いつつ、取り敢えず甲板に向かおうとすると、向こうの方から見たことのある男が歩いて来た。昨夜の正餐会で会った特使だ。

 あの、と小さく声をかけると、気づいた彼は膝をついて視線を合わせてくれた。


「どうかなさいましたか、姫君?」


 直接話をするのは初めてだったが、エリックと似た優しげな声で尋ねてくれる。そのことにホッと緊張が解けた。


「エリック様を捜しているのです。どちらにいらっしゃるか、ご存知ではありませんか?」


 船長という呼び名で訊けばよかっただろうか、と思いつつ答えを待っていると、ああ、と彼は笑みを浮かべた。


「エリックなら、主甲板にいましたよ。操舵手と航海士と一緒だったから、針路について話しているのではないかな」


 まだ沖には出ていないが、今日は少し風が強くて揺れるから気をつけて、と忠告し、特使は立ち上がる。

 素直に礼を言って頷きつつ、彼がエリックを呼び捨てにしていることに気づいた。

 王から任命された特使とはいえ、王子であるエリックの方が上の立場ではないだろうか。敬称もつけないのが不思議だった。


 ミシェットが怪訝そうな表情をしたことに気づいた特使は、ふふっ、と小さく笑い、もう一度その場に膝をついた。今度は騎士のように跪いて。


「きちんとご挨拶するのは、帰国してからでもいいかと思ったのだけれど……初めまして、マリー・ミシェット殿下。わたしはクラウディオ・ロナン・ラクレアと申します」


 ラクレアという名はブライトヘイル王国の国主一族の名だ。


「エリックの異母兄(あに)です」


 驚いて双眸を見開いているミシェットに、特使は微笑んだ。

 言われてよく見てみれば、何処となくエリックに似ている。髪はエリックとは正反対の癖のある焦げ茶色だが、鮮やかな青い瞳は瓜二つだし、笑った顔は兄弟だと一目でわかるもののように感じた。


「驚かせてしまったようですね」

「――…少しだけ」

「帰国後に兄弟全員揃ってご挨拶しようと思っていたものですから」


 予定が狂って兄上に怒られるなぁ、と笑い、立ち上がって手を差し出す。


「バレたついでです。エリックの許までお供しましょう」


 どうですか、と片目を瞑って明るく言われたので、ミシェットも微かに笑い、その手を取った。


 仕事中はお互いに兄弟としてではなく、お互いの立場として接することにしているのだ、と道すがら語ってくれた。だから、昨夜の正餐会でもエリックは異母兄を『特使のロナン公爵』と紹介し、クラウディオもエリックを『ラクレア艦長』と呼んでいたのだ。

 長兄に対するときは二人とも臣下の礼をすると言われ、なんだか距離があるようで寂しいような気がしたが、兄弟が国政に関わるようになったときに揃って決めたことなのだという。公私をきちんと分けることが三兄弟の信頼の証なのだ。

 大人というのはそういうものなのか、と頷いているうちに、出港準備で慌ただしい主甲板へと出た。


 荷物を運び込んだり、綱を括りつけたりしている男達の目線が、いくつかミシェットとクラウディオの方へ向けられる。

 ふっと見回すと、エリックは舳先の方にいた。


「エリック様」


 蛇の巣のように散らばるロープの山を避けながら駆け寄ると、エリックが気づいて振り返る。怪我の治りきらない脚を庇いながらもとことこと駆けて来る姿に危うさを感じたのか、わっ、と驚いたような顔をした。

 案の定転びそうになるが、すぐ後ろをついて来ていたクラウディオが危なげなく抱き留め、何事もなかったかのように立たせてやっている。

 あれ、と思っていると、クラウディオがへらっと気の抜けたような笑みを向ける。


「ごめんね、エリック。バレちゃった」


 まったく悪びれた様子もなく言ってくる異母兄に、エリックは眉を寄せて「はあ?」と不満げな声を上げた。


「自分が黙っていようと言っていたくせに……」

「気が抜けていたんだ。うっかりしたよ」


 嘘臭い言い訳だ、と胡乱気に見つめると、クラウディオは慌てて「本当だって」と苦笑する。幼い頃に悪戯ばかりされていた末っ子は、こういうときに疑り深い。

 そんな兄弟のやり取りに、一緒にいた航海士のティムと操舵手のエドガーが声を上げて笑った。


「――…で、ミシェット。なにか用でしょうか?」


 恥ずかしいところを見られたとでも思ったのか、僅かに頬を赤らめながらエリックが身を屈めた。ハッとしてミシェットは大きく頷く。


「エリカとジャンヌ……私の侍女達が、何処に寝ればいいのかと言っていました」

「え? 同じ部屋では駄目なんですか?」


 驚いて尋ねられたのへ、慌てて首を振る。


「いいえ。私は構わないのですけど……」


 そんなに狭いとも思わないのだが、と心の片隅で思う。

 あの文句はきっと方便で、主人と使用人が同じ部屋に寝ることに対しての物言いだと思う。ヴァンメールの宮殿にいたときは、侍女は続き部屋に寝起きしていたのだ。

 そのことに気づいたのか、ああ、とエリックは頭を掻いた。


「すみません。わたしの姉が侍女と同じ寝室で寝起きしていたので、失念していました。普通の女性はそういうものなんですね」


 気が回らずに申し訳ない、と頭を下げられるが、未婚の男性が女性の生活態度に詳しいこともないだろうし、身近な女性を手本にして判断していて当然だろう。謝らないでくれ、と答え、頭を上げてもらう。


「あの部屋も隣が従者の控えになっているんですけど、今はわたしの荷物を押し込んであるので……すみません。これが終わったらすぐに運び出しますので」


 航路についての確認をしていたのだという。

 仕事中だ。それを邪魔するわけにはいかないので、頷いてその場を離れた。


「では、わたしが移動させておこうか。仕事が終わって暇だからね」


 傍で聞いていたクラウディオが、にっこりと笑って挙手をした。

 彼の仕事は特使として国王アーネストの書簡をヴァンメール大公に渡し、口上を伝えることにあった。なので、手ぶらになった帰路の彼は、輿入れする公女の案内役としての随行員という立場になるのかも知れないが、船上ではエリックが指揮官であり、客分であるのでやることはなにもない。暇は暇だ。


 なにか企んでいそうな雰囲気だったが、特に見られて困るような持ち物はないし、余計なことをしないように念押ししてから、荷物の移動をお願いすることにする。

 承諾したクラウディオは踵を返し、来たときと同じようにミシェットの手を掴んで船室に戻って行った。異母兄だとわかって安心しているのか、なんの抵抗もなくミシェットはついて行った。


 間もなく正午になる。

 以前の島に船を寄せつけない海流の名残りなのか、潮の向きがどうにも複雑で、上手く針路を読み取れない。島側から見てもそれは変わらなかった。

 困ったな、と航海士と頭を悩ませていたのだが、入港したときと同様、操舵手の技量に頼んで取り敢えず離島し、なるべく遠く沖に出て海流が落ち着いてから改めて針路を取ろう、ということで方針は決まった。

 海図を丸めながらエリックの声が響き渡る。


「出港する! 錨を上げろーッ!」


 応じる声が方々から響き渡り、海中に沈んだ錨を引き上げる重々しい鎖の音が重なる。

 航海士が風向きを確認して帆の向きを指示し、広げられた大きな白い帆布がいっぱいに風を孕むと、操舵手が慣れた手つきで舵輪をぐるりと回した。





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