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蒼海の軍神と真珠  作者: 秋月 菊千代
2章 マルス王国内乱編
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8 陰る神官王



 この国では、女性は顔だけではなく、人前で髪を晒すことも忌避する。

 それなのにオリンピアスは、実に堂々とした仕種で邪魔な布を取り払った。人々の合い間からは驚愕と侮蔑の混じったどよめきが巻き起こる。


「力なき王、バシリオス! お前は民を偽るだけではなく、最高神ウルテュメルをも欺く冒涜の者。王などではない!」


 人々のざわめきなどものともしない凛とした断罪の声が、広間の中に響き渡る。力強いその声音に、集まった人々からは動揺が広がっていく。


「なにを言うか、オリンピアス! 貴様こそ叛逆の徒、冒涜の淫婦め!」


 壇上に立つバシリオスは、断罪の声を上げる義母に反論する。

 お前の方が冒涜者だ、というその声に、アーネストはせせら笑った。


「あれは駄目だな」


 異母兄(あに)のその小さな呟き声に、隣にいたエリックは怪訝そうに振り返る。


「声が震えているし、感情的にただ怒鳴り返している。王たる者、この程度で動揺を見せていては務まらんよ。もっと泰然としていないとな」


 激高しやすいくせになにを言っているんだ、とエリックは僅かに呆れるが、よくよく考えてみれば、アーネストは臣下の集う議場などではあまり感情を見せない。いつも鷹揚としていて、特に怒りや悲しみなどの負の感情を出すことはなく、余程のことがない限りは議事の進行を妨げずに淡々としている。感情を見せるのは私的な意味合いが強い場面でだ。

 ここは即位式典で、他国からの賓客もある公的な場だ。そこで感情的になるのは愚かだ、とアーネストは言っているのだ。

 こういうところはやはり為政者的な立場と思考を持っているのだ、と納得しながら、庇うように前に出る。


「彼女一人でなにが出来るのかはわかりませんが、取り敢えず俺の後ろにいてください。帯剣してないのですから」

「そうだな。拳闘だとお前には劣る」

「剣術でも俺の方が上ですけど」

「海軍剣術ならな」


 長剣での試合を想定した宮廷剣術は、エリックの苦手とするところだ。それならアーネストの方が数段上手である。

 ムッとしながらも反論はせず、無言でアーネストと、アヌの叔父であるランデールの大宰相を守るようにする。

 参列者達がそうして身を守る為にざわついているうちに、警備を統括しているらしいラザロスが部隊長に指示を飛ばし、儀典用の配置になっていた兵士達に攻撃態勢を取らせていた。

 そんな様子をオリンピアスは一瞥して口許に笑みを載せたかと思うと、両腕を大きく広げて正面で交差させるような動きで振り、その動きに合わせて大広間の壁際に整然と並べられていた松明が大きく燃え上がった。目の前で燃え上がった炎の脅威に、格子の向こう側にいる女性達の甲高い悲鳴が重なる。

 悲鳴と怒号が幾重にも響き渡り、燃え上がる松明に皓々と照らし出される広間を、オリンピアスが駆け抜ける。

 まるで舞を舞うかの如く軽やかな足捌きで、襲いかかって来る兵士達の腕をするすると掻い潜り、再び大きく振るった手の先から炎を顕現させたかと思うと、その炎華を纏って宙に舞い上がった。

 想像していなかった事態に目を丸くしていると、背後で「おお!」とアーネストが感嘆の声を上げる。


「すごいな、あれは! 宙に浮いているぞ!」


 振り返って確かめなくてもわかる。好奇心の強い異母兄が少年のようにキラキラと瞳を輝かせて、満面の笑みを浮かべている様子が。


(彼女の神力は火を操る能力なのか)


 列席者や兵士達の頭上を軽々飛んで抜けたオリンピアスは、大祭壇の上で動揺しているバシリオスの前へと舞い降りた。

 赤々とした唇に嘲りとも見える笑みを載せた義母の姿に、バシリオスは激昂を向ける。


「この、奸婦が!」


 鋭く罵声を吐き捨てると同時に、手にしていた錫杖を振るう。頭上目がけて重く振り下ろされた王錫を、オリンピアスはやはり軽やかな動きで躱した。


「奸婦? よく言う。お前こそ、天を欺くただの簒奪者ではないか!」


 振り回される錫杖を身軽く躱しながら、オリンピアスは煽るように罵る。そういう言動に耐性の弱いバシリオスは簡単に乗せられてすぐに頭に血を上らせ、怒り任せに錫杖を次々と振り回すが、簡単に躱されていく。その様子に苛立ちを更に激しく募らせ、それが更に動きを単調に躱しやすくさせてしまっているのだが、恐らく彼は気づいていない。


「あーぁ」


 言わんこっちゃない、と呆れた調子の声を漏らすアーネストの口を塞ぎながらも、エリックもまったくの同意見だ。昔から気が短いところがある人ではあったが、ここまでだとは思わなかった。

 この隙に退場を促す警備の兵士達の指示に従いながら、怒り任せに錫杖を振り回しているバシリオスに対して、難なく身を躱しているオリンピアスのあれは上手いな、とエリックは思わず感心する。

 参列者の間を抜けるときは長槍の穂先が届かない高さを飛び抜け、そのままバシリオスのすぐ傍に位置を取る。上手くバシリオスの陰に入るように動いているので、あれでは兵士達は投擲による攻撃などが出来ない。そして、相手を怒らせて動きを単調にさせて躱しやすくしていることからも、彼の性格を見抜いている最善の対峙方法だ。

 あのまま兵士達が上手く間合いを詰めたとしても、激昂して錫杖を振り回しているバシリオスを下がらせるのは一苦労だし、攻撃を躊躇うその間に逃げることもあの身軽さなら可能だろう。女性ながら一流の戦士だ、と感心せずにはいられない。


「さすがは後宮護衛官を務めていただけはあるな。戦い慣れているじゃないか」


 同じく感心していたらしいアーネストが、笑いながら零す。


「そうなんですか?」


 意外な経歴に目を丸くすると、笑って頷かれた。

 オリンピアスが王妃になったのはエリックがまだ十歳にもなっていない頃で、今以上に他国の情勢などは関知していなかったので知らなかった。血筋を重視するマルス王国の王妃になるくらいなのだから、王家の傍流の出であることはわかっていたが、後宮護衛官だったとは。

 それではバシリオスが勝てるわけがないな、と思う。彼は武人向きの立派な体格をしてはいるが、武芸の方は並み程度で、そこまで得手としてはいなかった筈だ。


「俺のなにが簒奪者だと言う!?」


 ひらひらと躱されることに苛立ちながら、バシリオスが叫ぶ。


「俺は他の王族からの承認も、元老院全会の承認も得た。民も俺の即位を望んだ! 故に俺こそが正当なる王なのだ! 聖なる神殿を占拠し、穢した貴様と、その子イアニスの方が簒奪者ではないか!」


 力任せに振り下ろした錫杖が床を打ち、とうとうその先端が砕けた。鈍い金属音を響かせながら、破片があたりに飛び散る。

 その様子をバシリオスは愕然と見つめ、管理を任されていた大司祭は言葉を失って青褪めた。その錫杖の重要性を知っているラザロスや兵士達も身体を強張らせる。

 オリンピアスだけが、高らかに哄笑した。


「見ろ! 愚かなお前は祖王ガロがウルテュメル神より賜った錫杖を粗雑に扱い、破壊したではないか。それが王の為すべきことか!?」

「違……っ、これは、貴様が……貴様の所為で……!」


 折れた錫杖を指し示され、バシリオスは明らかに狼狽した。


「醜態を晒しているなぁ」


 祭壇上でのやり取りを見守りながら、アーネストが苦笑する。その様子にエリックは呆れながらも同意せずにはいられない。

 高い天井に合わせて出入り口の扉は背が高いが、横幅は狭い。三人が横並びでなんとか通れるほどの幅員しかなく、避難する参列者達は動揺している故に動きが鈍いところもあり、退出までに時間がかかってしまっている。その所為でバシリオスとオリンピアスのやり取りはすべて丸見えだ。

 オリンピアスの乱入が不測の事態だったとしても、バシリオスが気短で感情的であり、少々小心者であるらしいことは、ここにいるすべての者達の目には明らかだ。新王がそのような性格だと知れ渡ってしまえば侮られるのは必定だし、それがマルスの国益を損ねることにも繋がるだろう。


「陛下! お下がりください!」


 動転して色を失っているバシリオスの許へ、ラザロスがようやくに駆けつける。遠方からの攻撃は無理と踏んで、接近戦でオリンピアスを仕留めることにしたのだろう。

 ラザロスも神殿内では帯剣はしていなかった。警備兵から借り受けた長槍を携えてはいるが、それは儀典用に刃を潰したものであり、殺傷力はかなり低い。

 国内では最強とも謳われる武官ラザロスの登場に、オリンピアスはさすがに距離を取る。ひらりと後方へ飛び退くと、壁に据え付けられていた松明をひとつ掴んで構えた。


「イアニスは何処だ」


 間合いを計って槍先を向けながら、注意深く問いかける。


「あれを王に立てて、傀儡にするつもりだろう」

「まさか」


 オリンピアスは嘲笑する。


「お前とアイオニアでもあるまいし、そのような回りくどいことはしない。私自らが王となるに決まっている」

「それは異なこと。お前は王の子ではないではないか」

「おかしなことを言うな、ラザロス。王家の血を汲んでいれば資格はあるのだから、私にも当然その資格はある」


 マルス王国の王に選出される絶対条件は、王家の血を引いていて強い神力を有していることだ。直系であれば文句はないが、傍流であってもなにも問題はない。オリンピアスはその絶対条件のどちらも満たしている。


「そして、バシリオスよりも資質がある」


 自信に満ちた声音で言い放つ彼女は、確かに他者を圧倒するほどの攻撃的で強い神力を行使している。

 ラザロスは言い返す言葉を持ち合わせてはいなかった。

 法に照らし合わせれば、彼女は確かに王となる資格を持っていて、先王の王妃が即位してはならないという禁止事項も存在しない。承認さえ得られれば、オリンピアスでも王になれる。

 だが、彼女は他の候補者達からの承認も、国政に於いて大きな決定権を持つ元老院からの承認も得られはしなかった。

 そうなるように仕向けていたのは、ラザロスとアイオニアだ。

 二人は結託し、非合法な手段も用いながら対立する者を排除していた。そのすべてはバシリオスを玉座に据える為である。

 想定外だったのは、太陽神を祀る大神殿を占拠されて長期間に渡って反抗されたことと、その混乱の隙に『天文録』を盗み出されてしまったことだ。

 今日のこの乱入は予想はしていたが、もっと遅く――神殿前広場で民衆に即位を宣言するときだと思っていた。


 ラザロスは足許に散らばっていた錫杖の破片を拾い上げ、神力を込めてオリンピアスに向けて投げつける。

 人や物を動かす神力を持つラザロスだが、行使する為には一度直接触れねばならない。それが唯一欠点だと思っている。

 目を狙って投げつけられた破片だが、オリンピアスはそれを素早く躱す。

 その動きを見越していたラザロスは躱された破片の軌道を捻じ曲げ、逃げたオリンピアスを追わせた。しかし、そう来ることを予想していたオリンピアスは更に躱し、移動すると同時に火球を矢のように飛ばして反撃を試みる。――が、ラザロスもこれを読んでいて、辛うじて避けきった。


「天を見よ!」


 次の攻撃に移る為に体勢を整えようとしたラザロスの耳に、オリンピアスの張り上げた声が届く。

 その声は広間中に響き渡り、まだ避難の完了しきっていない来賓や兵士達の耳と目を、揃って振り向かせた。


「偽りの者バシリオスが王冠を奪おうとしていることに、最高神ウルテュメルがお怒りになっておられる!」


 オリンピアスの朗々たる声が示すのは、祭壇の後ろに開いた大窓だ。そこにはすっかり昇りきった朝陽がある。

 眩しさに目を細めながら、エリックはその違和感にすぐに気づいた。


(太陽が……歪んでいる?)


 真円の筈の太陽が、長細く、楕円のように見えるのだ。

 眩しいから気の所為かも知れない。けれど、確かになにか歪んで見える。


「――…蝕だ……」


 若い神官達に支えられながら避難しようとしていた大司祭が、茫然とした口調で呟く。そうして、その場にガクリと膝をついた。

 欠け始めた太陽を確認してラザロスが舌打ちするのと、オリンピアスが大窓から外へ身を躍らせるのとは、同時だった。


「民よ! 天を見よ!」


 大窓のすぐ下は、新王即位を祝う為に民衆達が集まる広場だった。

 オリンピアスの声はよく通る。その場にいた民の誰もが声の指示通りに天を振り仰ぎ、炎を纏いながら浮遊する女の姿にどよめくが、その彼女の指し示す先に視線を向けた。

 昇ったばかりの太陽は、もう既にその姿の半分ほどを隠してしまっている。

 民衆の間からいくつも悲鳴が上がった。


 この国に暮らす者にとって、太陽とはすべての信仰の中心に在る存在なのだ。その太陽が欠けてしまっているのだから、恐怖や怯えを抱いても仕方がない。

 彼等とて、日蝕の存在を知らないわけではない。しかし、今までならば、王が期日を予告してくれていたのだ。今回はそれが為されなかったことで心の準備が整っておらず、動揺が走っている。

 そうして、彼等は思った。


『何故、王は――新王は、このことを予告してくださらなかったのだろうか』


 その考えが浮かんでしまった瞬間、民衆の間には新王バシリオスに対する不信感が、小さくだがはっきりと生まれた。

 日蝕は、過去から続く観測記録と数値を許に天文学士達が期日を算出し、王に進言する。王はその進言を受けて神殿と共に祭祀を行う予定を立て、国民に伝えるのが常だった。

 その慣例が崩された今、小さな瑕疵を生んだ。

 マルス王国の王は、超常の力の有する神秘性と敬虔な信仰心を集めることで、その地位を確かとしてきた。それが僅かにでも揺らいだ。オリンピアスが想定していたとおりに。


「太陽神が――最高神ウルテュメルがお怒りになっておられるのだ」


 ざわめく民衆達に向かってオリンピアスは告げる。彼等はその声に耳を傾けた。


「天が認めぬ者が玉座を簒奪しようとした為、その姿をお隠しになられたのだ!」


 はっきりとその事実を示した瞬間、宙に浮いていた彼女の細い身体が衝撃に揺れる。

 傾いだその背には、長い棒が突き刺さっていた。

 その長い棒の正体が槍だと気づいた人々は、投擲されただろう方向を見遣り、そこに立っていたラザロスの姿を見つけた。


「真実を葬ろうとしたんだ!」


 民衆の合い間から誰かが叫ぶ。


「あれは簒奪者の弟だ! 自分達に都合が悪いから消そうとしたんだ!」

「そうだ! 暴かれたくなくて、前王妃様を殺そうとしたんだ!」


 その声に再びどよめきが起こった。

 背中に槍を生やしたままゆっくりと落ちて来るその姿を確認しながら、民衆達は理解した。あの女性が、生死問わずの捜索命令が出されていた前王妃オリンピアスなのか、と。


「前王妃様は王子達の悪事をお知りになり、ずっと追われていたんだ!」


 民衆達の反感を煽るように、誰かの声は更に続ける。


「偽王だ! バシリオス王子は、簒奪者だ!」


 予想外の日蝕から生まれた小さな不信感は、その言葉に触発され、小さな反感へと確実に育った。

 不信感と怒りが広場に伝播していく様子を見止めたラザロスは、鋭く舌打ちした。

 民衆に受け止められるオリンピアスの姿を確認して、彼女が狙っていたのはこれだったのか、と気づかされる。このまま民衆達を煽り立て、王家へ――バシリオス達へ攻撃を仕掛けさせるつもりだ。

 王家がいくら神力を持っていたとしても、それを使って攻撃すれば、民衆は黙ってはいない。民を虐げる王だと声を上げ、反乱を起こすだろう。

 兵士を使って鎮圧させようとしても、やはり民を虐げる王だと怒り、更に激しく反発するのはわかりきっている。


 民衆などたいした力もない、とは侮れない。圧倒的な数はそれだけで暴力だ。

 この王都に常駐している専任兵士は八千程で、禁軍を合わせても一万を少し超える程度。各地の砦を守っている者達すべてを招集したとしても、十一万くらいだ。それに集まるまでに三日はかかる。陸戦に不慣れな海兵達を合わせたとしても、十五万に届くぐらいか。

 それに対して、王都に暮らす市民は老若男女合わせて十万を軽く超している。徴兵制度を布いているので従軍経験のある者も多くいるだろうし、一万の兵力でその攻撃を三日も凌ぐのは相当きつい。どう考えてもこちらが圧倒的に不利だ。

 これが初めから彼女の狙いだったのだろう。民衆というか弱くも圧倒的な存在を味方につけ、手出しが出来ない王家を圧倒し、己の即位を認めさせることが。

 神殿も元老院も民の信心と忠誠の上に成り立っている。そんな彼等が民の声を無視は出来ない。民が強く望むのならば、オリンピアスの即位を認めるだろう。


 自分達が不利な立場に追い込まれたのだと気づかされたラザロスは、避難したバシリオス達を追うように王宮へ戻りながら、このことをアイオニアは予見出来ていなかったのか、と腹が立った。

 あの異母妹が得意とするのは予知と透視だ。そのどちらを使っても、今のこの事態は予想出来ていなかったというのか。


「宮殿に全兵を集めろ」


 行き合った禁軍の伝令兵に声をかける。


「オリンピアスに煽られた民衆が暴徒となれば、すぐに宮殿に攻めて来る。策はこれから練るが、それまで攻撃も反撃もするな。防御に徹しろ」


 伝令兵はすぐに指示を復唱して伝達の為に踵を返したが、その横顔に不安そうな表情が僅かに過ったのをラザロスは見逃さない。

 禁軍など、ラザロスが昔から関わっている組織だ。ラザロスに近いということはバシリオスにも近いということであり、彼等には好意的である筈なのだ。それなのに明らかに動揺しているのがわかる。

 先程のオリンピアスの大仰な断罪の大演説は、兵士達にさえも動揺を走らせることに成功しているということだ。士気に関わるような大きな楔を打ち込まれたことに、ますます腹が立った。

 それほどまでに太陽神信仰は根強く、国民感情に大きく作用する。

 封建的で信仰心の強い国柄というのも、こういうときは考えものだ。もう少し柔軟で先進的な思考を持って、正しい判断を示して欲しくある。





 ようやく神殿を抜け出したエリック達は、警備兵達の指示に従いながら、来たときと同じように移動の為の船へと乗り込んだ。

 神殿から宮殿へ通じる運河越しに市中を見遣れば、オリンピアスの言葉に触発された人々がわらわらと広場から駆け出し、宮殿を目指して進み始めているように見える。


「だから宗教は面倒臭いんだ」


 これは本当に暴動になりそうだ、と警戒していると、アーネストがつまらなさそうに呟く。


異母兄上(あにうえ)……、さっきからお言葉が過ぎます」

「だが、本当のことだ」


 窘める声はけろりと一蹴される。


「信仰を持つのは悪いことではない。うちだって海神信仰は受け入れているし、太古から根強い精霊信仰も否定しない。大陸の天主教も否定はしない。なにかあったときの心の拠り所は必要だからな」


 周囲に気を遣ってか、一応は声を落として囁く。エリックは溜め息をつきながら応じた。


「だが、その心を政治に利用してはいけないんだ。政治と信仰は切り離しておかないと、こういうことになる」


 ブライトヘイルでも信仰される創造神話がある。その神話の中で設定された海の神が守護神であり、国土を守ってくれていると信じられていて、その神々を祀った祈りの場もある。そこは司祭と呼ばれる僧侶達が管理していて、彼等はラクレア家の始祖よりも古くから信仰を守っている。

 その僧侶達は絶対に国政に関わることはない。時として、博識な彼等は王家の子女の家庭教師などに招聘されることもあるが、信仰心と国政は別物として、影響を与えるような思想を植えつけたりはしない。それが絶対的な掟だ。

 もちろん一部の地域では、そういった僧侶達が村長としてまとめ役についていることもあるが、あくまで相談や調停役としての村長という立場であり、それ以上の権限は有さない。そうして共存している。

 しかし、このマルス王国は神官の力が強い。それがよくない、とアーネストは言う。


 通りの家々からも人を呼び集めて徐々に膨れ上がっていく人波の様子に、異母兄の言わんとしていることの意味を悟る。信仰という共通認識のものがあるからこそ、彼等はこんなにもあっさりと、自分達の意思を共有してしまっている。

 その伝播の速さは驚異的だ。どんなに統率の取れた軍隊であろうとも、ここまで思考と意識の向かう先を揃えることは出来ないだろう。


「さぁて――どうするかな」


 宮殿の桟橋に船が着く頃、アーネストが呟く。

 どうするか、とは、ここに留まるか、早々に帰国させてもらうか、どちらにしようかということだろう。

 招かれた即位式典の席であるので、勝手に帰国などすれば確実に軋轢を生む。しかし、この混乱の最中にいちいち断りを入れる必要があるのかと問われれば、誰もが否と答えるだろう。


「取り敢えず、女性達や、残して来た従者達と合流しましょう」

「だな。それまでにあちらさんからの指示が来ているようなら、一応は従ってやるか」


 素早く船を降り、右往左往する内官達の案内を断って、自分達が逗留場所として提供されている館へと急ぐ。

 王宮内の庭を突っ切って急いでいると、脇道の方から女性達の集団が走り出て来るところに出くわした。どうやらそこの奥に、神殿と結ばれた通路があるらしい。

 女性達はマルス王国の慣習に則って皆顔を隠していて、誰が誰だかわからない。一際小さなミシェットならすぐに違いがわかるとも思ったのだが、頭ひとつ分以上低い彼女の姿は、人混みの中では埋もれてしまっているようだ。


「アヌ、こちらだ」


 ブライトヘイルの装束を纏った女性の姿を見つけ、アーネストが手を振った。それに気づいた女性はすぐにこちらに駆け寄ってきて、面布を外す。


「無事だったか」

「ええ。陛下もご無事で」


 いつものおっとりとした笑みで応じるアヌの様子に頷き返しながら、彼女の手にあるものに目を留めた。


「それは?」

「道中でお借りしましたの」


 女性達は地下通路のようになっている隧道を通り抜けて移動していたらしい。暗いとよくないから、と据え付けられた松明のひとつを拝借して来たということだ。

 松明を引っこ抜いてきたのではなく、青銅製の台座から圧し折られているようだということは見なかったことにしつつ、エリックはミシェットの姿を捜す。


(――…いない?)


 もう一度ぐるりと見回すが、やはり見当たらない。

 海上で鍛えたエリックの視力はかなり遠方まで見渡せる。けれど、その広い視野を持ってしても、あの幼い妻の小さな姿は見つけられなかった。


「アヌ王妃、ミシェットとは一緒ではなかったのですか?」


 嫌な予感がしつつ尋ねてみると、アヌは驚いたように首を振った。


「いいえ、私のすぐ後ろにおいでで……」


 答えながら気づいたのか、ハッとして周囲を見回す。その横顔がさっと色を失った。


「そんな……! 神殿を出たときはご一緒でしたし、出口のすぐ傍で振り返ったときも、私の後ろにおいででした」


 やっと出口ですね、と明るい方を指して振り返れば、義弟嫁である小さな少女も大きく頷き返してくれていた。その表情も声もはっきりと覚えている。

 人混みに紛れてしまって転んだりしていたとしても、すぐに立ち上がって追い駆けて来るに違いない。それとも、起き上がれないほどに大きな怪我でもしてしまったのだろうか。

 エリックは驚いて悲鳴を上げる女性達の間を駆け抜け、彼女達が通って来たという隧道に入る。


「ミシェット!」


 石造りの隧道は先が見えないほどに長く、途中で緩やかに曲がってもいるようだが、いくつも灯された照明のお陰でちっとも暗くはない。それなのに、ミシェットの姿は見つけられない。


「ミシェット! 何処だ!?」


 誰もいなくなった隧道の中に、エリックの声だけが虚しく響く。

 確認する限りで脇道もない。それなのに、ミシェットの姿は見当たらない。


「ミシェット!!」


 捜す為に奥まで入ろうとしたとき、それに気づいた女官に引き止められた。女性の為の道であるので、男性が入ることは遠慮して欲しい、ということだった。

 心配そうにこちらを見ているアーネスト達の元へ戻りながら、服の中へ落とし込んでいた鎖を引っ張り出す。

 そこに通された指輪を手に取り、僅かな光がないかと目を凝らしてみるが、いつも淡い光を纏っていた大粒の真珠はすっかりと沈黙している。共鳴し合う宝剣を所持しているミシェットが傍にいないということだ。

 溜め息とも舌打ちとも取れない息を吐き出し、エリックは周囲を睨みつけた。




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