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蒼海の軍神と真珠  作者: 秋月 菊千代
2章 マルス王国内乱編
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7 太陽神の神殿



 揺り起こされるような感覚に、ミシェットは飛び起きた。

 緊張しながら素早く辺りを見回せば、目の前には驚いたような表情でこちらを見ている夫の姿がある。


「エリック様」


 緊張を深めて身構えると、逆に彼は僅かに破顔した。


「驚かせてしまったようですね、すみません。なにもありませんよ」


 なにか危険なことが起こるかも知れないから同じ寝室を使おう、と言っていた手前、変な時間に起こしたので警戒されてしまったようだ、と申し訳なく思う。宥めるように告げると、ミシェットはホッとしたように緊張を解いた。

 そろそろ身支度を始める時間だから、と起こされた理由を伝えられたミシェットは、思わず首を傾げる。

 照明がたくさん焚かれていて明るいとはいえ、時刻はまだ未明どころか深夜といっても過言ではない頃合いではなかろうか。


「マルス王国では、太陽を守護する神様を最高神として祀っているんです。王はその加護を受けているということなので、即位式は日の出と共に行うそうです」


 そんな説明に、国によっていろいろな伝統があるものなのだな、とミシェットは頷いた。


「因みにブライトヘイルでは、聖堂で戴冠式をする前に、新王が海神と初代国王を祀った海上の祠に詣でることになっています」

「あ、それはヴァンメールでも同じです。祠はお城の地下から行けるところなんですけど」


 海の神の守護を受けているという性質上、似ている部分があるらしい。

 お揃いですね、とミシェットが笑うと、エリックも頷いた。

 顔を洗って寝起きの頭もすっきりした頃、身支度を手伝ってくれることになっているアヌの侍女がやって来た。


「こんなにも早くお目覚めで、眠くはございませんか?」


 衝立の向こう側に入りながら、エイダはやわらかい声で気遣わしげに尋ねてくれた。


「大丈夫です。エイダさんは眠いですか?」

「そうなのですよ、お恥ずかしい。もし欠伸をしてしまったら、見逃してくださいましね」


 言いながら小さく欠伸が零れてしまったようなので、ミシェットは見なかった振りをして笑った。

 礼装は、ヴァンメールのものをニーナに用意してもらった。既にブライトヘイルに嫁いだ身として、本来ならばブライトヘイル流のものを仕立てるべきだったのであろうが、エリックがこちらの方が似合うと言ってくれたのでその言葉に従ったのだ。

 その言葉にはニーナも嬉しそうにしてくれて、気合いを入れて新調してくれたようだった。真新しい夏生地の胴衣にはヴァンメール伝統の刺繍が施されているが、普段着など目ではないくらいに凝った紋様に仕上がっているし、裾や袖口にも同じぐらいに細かく美しい刺繍が並んでいる。

 この即位式への出席を伝えて以降、ニーナとは何日も顔を合わせない日が続いていたのだが、こんなことをしてくれていたのだから納得だ。たった一人でよくここまで素晴らしい衣装を調えてくれたものである。


「見事なものですね……。こんなに細かく刺繍が入っているのに、そんなに重く感じられないなんて」


 服を広げて前後を確認しながら、エイダは感嘆の言葉を漏らす。

 ミシェットは少し照れ臭く笑った。よくは知らないが、ヴァンメールの製糸と刺繍技術はかなり高度なものなのだとニーナが教えてくれたし、その手仕事の確かさがあの小さな祖国の大きな誇りでもあり、そのことを褒められたのが嬉しい。

 見慣れない外国の装束だというのに、エイダの手許に迷いはない。きっちりと綺麗に着つけてくれてから「子供服は手間が少なくて着つけやすいですね」と笑ったが、その言葉が不適切だと思ったのか、ハッとして慌てて謝ってきた。本当のことなのでミシェットは軽く首を振って受け流す。

 髪型は、お願いしていたとおりに『大人っぽく見える』纏め髪にしてくれた。きっちり編み込んで纏めるような髪型は、あのお披露目式のとき以来で少し気恥ずかしい。

 如何ですか、と尋ねられ、頬を染めながら頷き返すと、エイダは安心したように頷いて、最後の仕上げに布で作られた小花のついた櫛を挿してくれた。

 靴は夏の礼装用のサンダルだったのだが、長い紐を足首から脹脛のあたりにかけて複雑に巻きつける仕様になっていて、これにはさすがのエイダも苦戦したようだ。あらあら、と困惑気に零しながら四苦八苦している。やり方を教えてあげたいところだが、ミシェット自身もこれの結び方はよくわからなくて、二人でなんとか格好がつくように整えるのが精一杯だった。


 サンダルを履くのに随分手間取ってしまったので、用意が終わって衝立の裏を出た頃には、エリックはすっかりと身支度を整えて待っていてくれている状態だった。

 待たせたことを詫びながら駆けて行くと、剣帯と『碧洋の真珠』の短剣を差し出される。


「保安上のことから帯剣は許可されていないんですが、ミシェットなら服の中に隠せるのではないかと思いまして」


 なにかあったときの為に持っていた方がいい、ということだ。

 ミシェットは頷き、その剣帯を受け取った。


「着け方わかりますか? やりましょうか?」


 留め具の形などを確認していると、困っていると思われたのか、エリックは首を傾げて尋ねてくる。それは大変有難い申し出ではあったのだが、ミシェットはちょっとだけ困ってしまう。


「えぇと……隠すということは、服の中に着けるってことですよね?」

「そうですね。スカートの中なら隠せると思ったんですけど」


 エリックが上着の内側に隠していてもいいのだが、スカートの中の方がさっと取り出せるだろうし、ミシェットが持っている方が身を護りやすいと思ったのだ。エリックなら素手でも身を守れる。


「着けて頂けるのは助かるんですけど、そのぅ……」


 慣れない自分がやるより正確に着けてくれるだろうし、その方が途中で外れたりすることもないだろうし安心なのだが、問題がひとつある。

 言いにくくてもごもごしていると、拙速を貴ぶ軍人の気性なのか、エリックは断りを入れてミシェットのスカートを捲り上げ――すぐに戻した。


「……そういうことなら、はっきり言ってください」

「ごめんなさい」


 眉間に皺を寄せて気不味そうに呟くエリックに、ミシェットも真っ赤になって俯く。

 ヴァンメールでは、二次性徴を迎える年頃まで肌着をつける習慣がない。つまり初潮を迎えるような年齢に達していないミシェットは、足首までの長さの薄い下着の中は裸だったのだ。

 いくら結婚して夫婦であるとはいえ、見てはいけないものを見てしまったようだ。自分の短慮さをエリックは恥じた。


「前から思っていましたが、ミシェットはもう少し慌てるとか、大きな声を出すようにした方がいいです」


 自分の無礼な失態を棚上げして、ミシェットの方へ非を押しつけているような物言いになってしまったが、これは以前から思っていたことだ。


「大きな声、ですか?」


 ミシェットはとにかく大人しい。楽しくて笑うときでも大きな声を出すようなことはなく、驚いて悲鳴を上げるときでも身を竦めて小さく短いもので、泣き声も押し殺すように嗚咽を漏らす程度だった。話す声が小さいわけではないし、遠くから大声で名前を呼ばれたことも何度かあるので、声が出せないわけではないのだろうが、自分の感情を大きく表に出すことがないように感じる。


「大きな声を出すのははしたないとか、そういう躾をされていましたか?」

「いいえ、そういうわけでは……」


 自分ではわりと大きな声を出していたつもりだったのだけど、とミシェットは少し困惑した。けれど、もう少し大きな声を出す方がいいらしい。


「わかりました。なにかあったときは、大きな声でエリック様を呼びます」


 頑張ります、と小さな握り拳を作って真剣な表情で言われるので、エリックも頷いた。言いたかったこととはちょっと解釈の方向性が違ったのだが、仕方がない。

 それでは改めて、剣帯は下着の上からつけるかとやってみると、涼しい生地の所為で厚さが少し足りないらしく、思ったよりも短剣の形がよく見えてしまう。仕方なく、大事な場所はスカートで隠したまま手だけを入れて着けていると、片付けを終えたエイダが通りがかってその様子にギョッとした。


「いかがわしいことをしているわけではないから!」


 エリックが慌てて言い繕い、真っ赤になったミシェットもこくこくと強く頷く。

 なんとか剣帯を着け終えてスカートを戻すと、下着の上から着けたときよりは目立たない。ただ、首からかけた指輪と共鳴してしまい、淡く光っているのが少し透けている。


「別々に持っていた方がいいようですね」


 ミシェットは鎖を外し、エリックに指輪を渡した。

 それをエリックが首にかけるのを見たあと、小さく笑って「いつもと逆ですね」と言うと、そうですね、とエリックも頷いた。少し変な感じだ。


「暑くないですか?」


 襟をきっちりと直していると、ミシェットが首を傾げて尋ねてくる。


「暑いですよ。でも、そういうことも言っていられませんし、慣れです」


 盛夏時の一番薄手の生地で仕立てられたものを持って来たが、軍装は仕立てがしっかりしている分、きっちり着込めばとにかく暑い。寒冷地であるブライトヘイルではなんともなくとも、こう陽射しの強い地域には大変に不向きだ。

 だから式典は嫌いなのだ。退屈だし、窮屈だし、普段は着崩していてもいい服装も、こうしてきちんとしていなければならないのだから。


「――…ご歓談の最中、失礼致します」


 薄絹と衝立で目隠しされただけの出入り口の方から、控えめな声がかけられる。


「刻限となりましたので、神殿の方へご移動願えますでしょうか」


 迎えの内官のようだ。

 返事をして揃って部屋を出ると、丁度アーネスト達も外に出て来たところで、アヌは薄絹で顔を隠していた。


「姫君、こちらをお使いください」


 内官の後ろで控えていた女官の一人が、ミシェットへ向かって薄絹を差し出した。

 なんだろう、と首を傾げて瞬いていると、断りを入れた女官がそれを着けてくれる。この女官やアヌと同じように顔を隠す為のもののようだ。


「慣れないと煩わしいことかと存じますが、我が国では、女性は家族以外の男性に素顔を見せない伝統がございます。嫁がれているのならば尚のこと、夫以外の男性には決して見せません。素顔でいらっしゃれば奇異の目を向けられ、ご不快に感ずることも多々ございましょうから、避ける為にもお召しくださいませ」


 要は、素顔で出歩いているとおかしな子だと思われるので、顔を隠した方がいい、ということらしい。目の下から胸のあたりまで被さっている布に、これはちょっと暑いなあ、と思いながらも、ミシェットは素直に頷いた。


 案内されて外に出れば、照明が皓々と灯されていてもまだ夜と言っていいぐらいに真っ暗で、そんな時間に起きていたことも外出したこともなかったミシェットは、妙に昂揚とした気分になった。同時に、なにか悪いことをしているような後ろめたさのようなものも感じて、不安からエリックの手を握ろうとしたのだが、先程の女官にそれを止められる。

 何事かと思えば、もうここから男女は別に移動しなければならないということだった。

 それがこの国の掟なのだと言われれば頷くしかないが、ミシェットはますます不安になってしまう。


「エリック様……」


 困惑から夫を呼べば、彼は笑みを向けて軽く頭を撫でてくれる。だが、それだけだった。

 またあとで、という言葉と共に、エリックは他の男性達と一緒に行ってしまう。

 エリックと離れることがこんなにも心細く感じるのは、見知らぬ人々に囲まれ、初めて訪れる異国の地での出来事だからだろうか。


「寒くはないですか?」


 落ち着かない心地で案内に従って歩いていると、気を遣ってくれたのか、隣からアヌが声をかけてきた。


「とても暑いお国だと思いましたけれど、朝晩は涼しいというより、冷えるくらいですね」


 そう言いながら、肩を竦めて二の腕を摩る。

 確かにそうだ、とミシェットは頷いた。元々体温が高い所為なのか、寒さも意外と平気だったので気になっていなかったが、肌寒いくらいではある。


「砂漠というものは、陽が暮れるととても冷えるものなのです」


 案内してくれている女官が、そっと口を挟んでくる。なるほど、と二人は頷いた。

 そうこうしているうちに、別の方向からやって来た三十人ほどの女性達の集団と、それとはまた別方向からやって来た数人の女性達と合流することになった。あとからやって来た数人の女性達は服装もバラバラだったので、恐らくミシェット達と同じように王宮内で滞在していた別の国からの招待客なのだろう。

 女官が丁寧な所作でお辞儀をしたので、ミシェットとアヌも会釈した。女性達もそれぞれに会釈する。


 そのまま再び案内に従い、石造りの隧道(トンネル)のような通路を通って行くと、槍を構えた兵士が守る扉に辿り着いた。

 兵士達がなにか複雑な操作をして重そうな扉を開くと、そこが目的地のようだった。


 そこは恐らく神殿と呼ばれる場所なのだろうが、ミシェットの知っている神殿というものとは随分と趣が違う。装飾の施された太い石柱が等間隔に並び、全体的に石造りの大広間のようなところだった。ミシェットから全景が把握出来ないのは、視線が低いからだけではなく、目の前には視界を遮るように飾り格子が取りつけられているからだ。

 大人の女性は、家族以外の男性とは格子越しに面会するという話をエリックから聞いていたので、これがそうか、とミシェットは納得した。恐らくこの格子の内側が女性の参列席で、他の場所には男性達が並ぶことになるのだろう。


「先程の道は、女性専用の通り道なのでしょうかしらね」


 興味深く辺りを見回していると、アヌがひっそりと呟いた。

 きっとそうだ、とミシェットも思った。神殿というからにはお参りをすることもあるのだろうし、王宮で暮らす女性達の為に、人目に触れないように直接繋がる通路があるものなのかも知れない。


「顔を見せてはいけないとか、男の人と女の人は別々じゃなきゃいけないとか、お国によって随分といろいろ違うものなんですね」

「そのようですね。私はランデールの出身ですけれど、ブライトヘイルとは同じ雪深い国の所為か、そこまで大きな違いというものは感じなかったのですけれど、マルス王国はまた随分と違いますのね」

「そうですね。ヴァンメールとも随分違います」


 服装や家の造りや調度品だけでなく、食事もなにもかもが随分と違っていた。言葉だけは世界公用語で通じるので有難いと思ったが、本来はまったく違うものなのかも知れない。

 不思議だね、と二人で囁き合っていると、すぐ傍で微かな笑い声が零れるのが聞こえた。

 聞こえてしまっただろうか、と少しバツが悪くなりながらそろりと振り返ると、マルスの衣裳を着た女性が立っていた。


「……あら。お話のお邪魔をしてしまってごめんなさい」


 話すのをやめてしまった二人に向かい、女性は申し訳なさそうに呟いた。


「いいえ、こちらこそ。不躾にあれやこれと……お気を悪くなさいませんでくださいまし。悪気があったわけではございませんの」

「もちろんわかっておりますわ。ブライトヘイルの、王妃殿下でいらっしゃいますね?」


 薄絹の合い間から見える空色の瞳が微笑みかける。

 ええ、とアヌは頷いた。


「お初に御目文字致します。アイオニア・ナデル・マルクトゥスと申します」

「アイオニア様とおっしゃられますと、新王陛下の……」

「はい。即位後には、妃となります」


 そう言って、アイオニアは艶やかに微笑んだ。

 新王の即位式典のあとは、そのまま婚礼の儀及び新王妃の立后式となる予定なのだと、前日の内に説明は受けている。祝宴は日没以降も続くので、丸一日堅苦しくしていなくてはいけない、と式典嫌いのエリックがうんざりしたように言っていたことを思い出す。

 あの話を聞いていたときは、離れ離れで出席することになるとは思わなかったな、と思わず溜め息を零しそうになっていると、視線を感じた。

 見上げてみれば、アイオニアがこちらに微笑みかけている。ミシェットは慌てて挨拶代わりにお辞儀をした。


「初めまして。エリックの奥方だと伺いましたけれど」

「はい。マリー・ミシェットと申します」

「お小さくていらっしゃるのに、しっかりとしていらっしゃいますのね。ご立派ですわ」

「あ、ありがとうございます」

「こんなに早起きをさせてしまってごめんなさいね。眠くはないかしら?」

「はい、大丈夫です。もうしっかり目は覚めました」


 優しい声音に安心しながら受け答えしていると、アイオニアはジッと目を凝らすように見つめてくる。その視線にはちょっぴり怯んでしまった。


「お顔を隠すの、煩わしいでしょう。こちらにいる間は外していても大丈夫ですよ」


 なにか不安な心地になる目つきに落ち着かない気分になっていると、その視線には似つかわしくないやわらかい口調が、慣れない面布(フェイスベール)のことを指摘する。飾り格子の内側には女性しかいないので、外していてもいいそうだ。

 ミシェットは僅かに躊躇う。そう言われても、他の人達はみんな着けたままであるので、やはりいけないことのような気がしたのだ。

 けれど、他の人達も同じような説明を受けたのか、マルス人以外の女性達は次々に布を外し始める。

 お言葉に甘えて、とアヌも外したので、ミシェットも安心してそれに倣った。


「……本当にしっかりした方で、しかもこんなにも可愛らしくて、エリックは果報者ね」


 そんな様子をアイオニアはジッと見つめてくる。

 口調や声音はやわらかく慕わしげなものだというのに、見つめてくるこの目つきにはあまり友好の印象を受けられない。

 こんな視線をつい最近も何処かで向けられていたな、とミシェットは思い出す。

 恐かったり腹が立ったりするようなほどの不快さではないが、まるで品定めでもされているかのような、落ち着かなく居心地の悪くなるこの視線は――ラザロスから向けられたものと同じものだ。

 いったいなんなのだろうか。マルスの王族はエリックの親類だとは聞いていたが、その結婚相手として歓迎されていないということなのだろうか。

 それならそれで仕方がないと思う。けれど、ミシェットが嫁いだのはブライトヘイル王国で、その臣民には快く受け入れてもらえている。エリックも今のミシェットでいいと言ってくれているのだから、悲しくなることも恥じることもないのだ。


 毅然と顔を上げてアイオニアを見つめ返すと、彼女の視線も更に強く見つめてくる。顔のほとんどを覆い隠して目だけが見えているので、そればかりが気になる。

 その瞳の奥底にある違和感にミシェットは気づいた。

 違う、と思った。彼女の目つきは、ラザロスの向けてきたものとは違う。

 なにがどう違うのかはわからないが、なにかが違うと感じる。ラザロスにはなかったなにか違うものが、明らかにミシェットの様子を探っているのだ。


 こういう不安を感じるとき、最近はいつもエリックが傍にいてくれた。袖口や大きな掌に縋るのが癖になってしまっているのか、無意識に夫の気配を捜してしまい、その彼がいないのだと改めて気づかされ、ミシェットは緊張した。

 なにか危害を加えられるような気配ではないが、アイオニアの独特の雰囲気は、あまり居心地のよいものではない。

 その緊張を見透かすかのように見つめていた視線が、不意に逸らされる。


「殿方もいらしたようですわね」


 飾り格子の向こう側へと視線を投げかけながら、歌うように呟く。

 ミシェットもその視線を追って向こう側へ目を向け、エリックの姿を捜した。


「エリック様……」


 背が高い彼の姿はすぐに見つけられた。アーネストもその隣にいて、誰かは知らない異国の装束を纏った人達と話しながら、広間の中に入って来た。

 格子越しにエリックの姿を捜しているうちに、アイオニアは立ち去っていた。

 祭壇に近い方へ歩いて行く姿を見て、ミシェットは内心でホッとする。敵意や害意を向けられたわけではないとわかっているのだが、あの視線から感じた緊張に、叔母と対峙したときのことを思い起こしてしまった。

 離れてくれたことに安心しつつも、やはりあの視線の意味がわからなくて、胸の奥にモヤモヤとした思いを抱える。

 こういうとき、いつもならすぐにエリックに相談出来るのに、異国の慣習の所為でそれが出来ない。目の前の飾り格子が腹立たしかった。


「独特な雰囲気の方でしたね」


 恨めしげな気分で格子を見つめていると、アヌがそっと囁きかけてくる。


「魔法を――神力を使われると伺っておりましたけれど、不思議な力がおありの方は、雰囲気も不思議なのかしら」


 声を小さくしてコソコソと囁きかけられる言葉に、それか、とミシェットは得心した。

 不思議な力を持っている人だから、もしかしたらなにかミシェットとは違うものが見えていたのかも知れない。その所為で、なにか探るような目つきに感じたのだろう。

 知らない場所でエリックと離れ離れという不安から、変に緊張していた自分の考え過ぎだったか、とちょっぴり安心していると、ドォン、とお腹の底に響くような低く重たい音が響き渡る。

 ドォン、ドォン、と何度も連続して響くそれが銅鑼の音だと気づき、これはもしかすると即位式の始まりの合図ではなかろうか、とアヌと二人で姿勢を正したところで、祭壇の上に白い長衣を纏った壮年の男が姿を現した。


 絵本の中に登場する魔法使いや大賢者と呼ばれるような雰囲気の出で立ちだ、とミシェットは思った。胸許にまでかかるたっぷりとした顎髭も威厳があるように見えて、あれはきっと司祭様なのだろう、と理解した。


星月(ほしつき)朔日(ついたち)、天は火の季節の到来を告げ、気は満ちる」


 祭壇の上の司祭が声を上げる。


「今こそ、新王践祚のとき」


 司祭の宣言に合わせ、神殿の広間の彼方此方に整列していた兵士達が、掲げていた長槍の柄で床を打ち鳴らす。同時に再び銅鑼の音が響き、扉が開かれた。

 堂々たる足取りで入場して来たのは、司祭と同じような長衣と葉で出来た冠を被った大柄な男だ。ゆったりとした衣裳であるようなのに、男には少し窮屈そうに見える。

 その男の後ろには十人程の青年達が付き従い、最後列には、ラザロスが続いていた。


「バシリオス・ラー・カイゼル・ガルシオス・マルクトゥス」


 司祭が名を呼ぶと、バシリオスは祭壇の階下で膝をつき、深々と頭を下げる。


「汝、神官王ガロの血を引く者。偉大なる王の築かれた意志を継ぎ、猛き神力と、英邁なる知性と、慈愛ある心で御柱の声を聞き、民を導けるか?」

「身命を賭して」

「その言葉に偽りなきや?」

「我が身に流れるガロの血に懸けて」

「なれば、この錫杖を手にせよ」


 控えていた青年から身の丈より遥かに長い錫杖を捧げ持ち、司祭は告げる。

 深々と頷いたバシリオスは立ち上がり、祭壇の上まで昇って行くと、司祭の前で跪いて両手を掲げた。その手に、司祭が錫杖をしっかりと握らせる。

 俯いたまま錫杖を胸許へ引き寄せるバシリオスの頭から、司祭は葉で出来た冠を取り上げる。畏まって俯いたままのその頭の上に、そっくり同じの金で出来た冠を載せた。


「面を上げ、立ちなさい」


 司祭の囁きに頷き、バシリオスは立ち上がる。

 その様子を見届けながら司祭は祭壇の下へと下りて行き、そこで居住まいを正した。

 空気に緊張感が走ったような気がしてミシェットも思わず姿勢を正すと、アヌも同じように感じたのか、やはり背筋をピッとさせる様子が視界の端に映った。


「第五十二代国王バシリオス陛下、ご践祚をお慶び申し上げます」


 司祭の寿(ことほ)ぎの言葉が響くと同時に、居並ぶ重臣や兵士達の間から「万歳」の声が上がる。その声に合わせて招待者達の間でも拍手が沸き起こった。

 その瞬間、祭壇の後ろに大きく開かれていた空間から、朝陽が昇り始めた。神々しいまでの光が、一人立つバシリオスの背から照らし上げる。


 マルスの王は太陽神の加護を受けているから、即位式は日の出に合せて執り行われるとは、こういう意味だったのか、とミシェットは拍手をしながら目を丸くした。

 この様子はまるで、太陽神の降臨だ。太陽神が王を祝福しているようだ。

 神聖を重んじている国ならではの演出なのだろうとは理解出来るが、あまりにも大がかりで、恐れ多くて、ミシェットは思わず身震いした。


 そのときだった。


「バシリオスは、偽りの王だ!」


 朝陽の満ち広がる神殿の広間に、女性の声が響き渡る。

 その声のした方へ居合わせた誰もが視線を向ける。


「――…オリンピアス!」


 声の主に対してすぐに反応したのは、広間の中程で控えていたラザロスだった。

 鋭い声で名を呼ばれた先王の最後の妃は、被き布を脱ぎ捨て、豊かな黒髪を揺らした。




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