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蒼海の軍神と真珠  作者: 秋月 菊千代
2章 マルス王国内乱編
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6 砂漠の魔女の思惑



 ブライトヘイルから海峡を隔ててほんの三日程の距離だというのに、マルス王国はとても暑かった。

 南海育ちのミシェットだが、ヴァンメール公国は年中通して温暖な気候であり、真夏のほんの数日を除いては、こんなにちりちりと肌が焼けるような陽射しを感じることはない。

 以前に立ち寄ったときは秋の終わり頃で、陽射しも随分和らいでいたのだろう。乗り換えまでの少しの時間滞在しただけではあったし、暑いと感じるようなことはなかった。

 式典参列の為に三日程船を空けることになるエリックは、コレットに不在時の指示を出している。その話し合いが終わるのを甲板の片隅で眺めていると、足許にエミリーがすり寄って来た。


「暑いね」


 毛皮を着込んでいる猫のエミリーには、この暑さは過酷だろう。


「うんー。暑いの嫌いぃ」


 間延びした口調がうんざりと零す。目もとろんと半目で、明らかに元気がなさそうだ。


「倉庫番はいいの?」

「今、お荷物運んでるから、お外に避難してるのー」


 人と遊ぶのは好きなのだが、荷運びの最中に傍に寄るとかなりの高確率で蹴られるので嫌なのだと言う。その心底うんざりした様子に、ミシェットは笑って頷いた。

 数日間の滞在になる場合、船は補給を済ませて沖に停泊することになるのだという。大型帆船が寄港先で何隻も停泊していたのでは港を塞いでしまう為で、国際海洋法でそう定められているのだということだ。

 島国育ちで、唯一の外交港のすぐ傍で育ったというのに、ミシェットはそういうことをなにも知らない。疑問に思うといつもエリックやティムが説明してくれるのだが、もう少し自分で勉強してみるのもいいかも知れない、と行き交う人々を眺めながら思った。


「気をつけてね、ミシェット」


 後ろ足で首のあたりを掻き、欠伸をしながらそんなことを言われる。

 思わず首を傾げて見つめ返すと、エミリーはエリックによく似た青い瞳をきらりと光らせる。


「ミシェットはお魚さんだから、暑いと干からびちゃう」

「お魚?」

「そお。海が好き」


 確かに海を眺めるのは好きだけれど、ともう一度首を傾げていると、エリックに呼ばれた。もう下船の時間なのだろう、慌てて立ち上がる。

 そんな様子に尻尾を振りながら、エミリーは「気をつけてね」ともう一度言い、船倉へ繋がる扉の方へ歩いて行った。

 いったいどういう意味だったのだろう、と奇妙な気分になりながら、エリックの許へ急いだ。


「どうかしましたか? 具合でも?」


 浮かない表情をしながらやって来たミシェットに、エリックは首を傾げる。

 北国育ちの自分より暑さ慣れしていると思っていたが、実はそうでもなく、暑気中りを起こしているのだろうか、と心配になって額に触れてみると、ミシェットは慌てて首を振った。


「いいえ、大丈夫です。……あの、私、お魚の臭いしますか?」

「え? そんなことないと思いますけど」


 不安そうな声で突然そんなことを言われたので、エリックは驚いて即座に否定する。

 ミシェットはホッとしたように微笑み、それでも少し心配そうに、掌や袖口の臭いを嗅いでいる。


「誰かになにか言われたんですか?」


 今日は後ろの高い位置で結わえられている髪を掴んで臭いを嗅いでみて、別に生臭さは感じないけれど、と首を捻りながら尋ねると、エミリーに言われたのだ、という答えが返ってくる。その言葉に思わず苦笑した。


「あれは一応猫ですから、我々とは感じ方がちょっと違うのかも知れないですね。でも、大丈夫ですよ。魚の臭いはしませんし、気になるのなら、逗留先ですぐに湯を貸してもらいましょう」


 そう答えながら、白い麻布を頭からかけてくれる。

 なんだろう、と不思議に思って脱ごうとするが、陽射し除けなので被っているように、と言われた。

 手を引かれて港に降り立つと、先に着いていたアヌや侍女達も同じように麻布を被っていた。アーネストは被ってはいなかったが、暑そうに首のあたりを手で扇いでいる。


「エリック! 久しいな」


 アーネスト達と合流して少し話をしていると、エリックを呼びながら近づいて来る男の姿があった。


「ラザロス」


 親しげな口調のとおりにその彼とは知り合いであったらしく、エリックも彼の名を呼んで手を振った。

 ラザロスと呼ばれた大柄な男はアーネストの前にやって来ると、慣れた様子で膝をつく。


「ブライトヘイル国王陛下並びに妃殿下、遠路遥々ようこそお出で下さいました。此度は我が国の新王即位式典へのご参列を快諾くださり、心より御礼申し上げます。貴国には常々ご厚情を賜っておりますゆえ、本来ならば新王バシリオス自ら出迎えるべきなのですが、明後日の即位式の準備などもあり、名代のわたくしめでご寛恕お願い申し上げる」

「遠路といっても船で三日程だ。お気になされるな、ラザロス殿。こちらこそ、新王陛下の腹心の弟君自らのお出迎えに痛み入る」


 笑顔で応じるアーネストに一礼すると、ラザロスは立ち上がり、案内の為に先に立って歩き出す。


「今回、姻戚の方々には王宮内に逗留場所をご用意しました。このまま王宮に向かいますが、市内でご覧になりたい場所などはありましょうか?」

「いいや、特にはないな。アヌはあるか?」

「薄物の織物が美しいと伺っていますので、少し見てみたいと思っておりました。お義姉様へのお土産に」


 年間を通して気温が高く、陽射しの強さと乾季が長いマルス王国では、通気性のよく丈夫な布地が人気だ。ブライトヘイルでも真夏の衣服に重宝される。

 ラザロスは微かに笑みを浮かべて頷いた。


「では、明日は時間が取れるでしょうから、商人を招いておきましょう。昼頃には来れると思いますよ」


 その提案にアヌは礼を言って微笑んだ。

 王宮までの移動には水路を使う、と言われ、桟橋の方へ案内される。下ろした荷物などは、既にそちらへ積み替えられているということだ。


 なるほどな、とアーネストはひっそりと思う。先王妃オリンピアスの叛乱の話も、その鎮圧に時間がかかっているという話も事実だったのだ。

 建物が並ぶこの港からでは窺い知れないが、恐らく市中はまだ少しその混乱が残っているのだろう。安全性を考慮して、市中を通るのを避けての水路なのだろうと予測がついた。

 そんな中で即位式を行うことになろうとは、バシリオスも難儀なものだな、と六年前の自分の即位式のときに会った男の顔を思い起こす。あの気位の高そうな威圧的な男にしてみれば、ケチをつけられたようなこれは物凄く屈辱的な状況だろう。

 案内された船に乗り込む順番を待ちながら、渡し板のところで女達に手を貸してくれているラザロスの顔を横目に見遣る。バシリオス側の彼もまた、苦々しいものを胸の内に抱えているに違いない。


「……陛下にも、手をお貸ししましょうか?」


 視線を感じたらしいラザロスが振り向き、生真面目な顔で尋ねてくる。

 いいや、とアーネストは首を振った。差し出された手を遠慮して、さっさと乗り込む。


「キャロル王女もどうぞ」


 アーネストの態度に気を悪くした風でもなく、ラザロスはミシェットに向かって手を差し出した。その呼びかけに、当のミシェットは目をぱちくりとさせる。


「違うよ、ラザロス。彼女はキャロルじゃなくて、ミシェットだ」


 戸惑うように動きを止めたミシェットを抱え上げながら、エリックは笑った。

 その様子に、ラザロスは僅かに眉を寄せる。


「それは、お前が娶ったという……?」

「そうだ」


 微笑んで頷くエリックの腕の中で、ミシェットは小さく会釈した。その様子にラザロスは眉根を寄せたまま軽く首を振る。


「そうだな。キャロル王女にしては大きいとは思ったんだ。確か、六つだもんな」

「キャロルはまだ五つになったところだよ。今回は留守番している」


 確かにミシェットは同年代の中では小柄な方だが、さすがに五歳の子よりは大きい。

 苦笑しながら答えるエリックに頷きながら、ラザロスはミシェットを見つめる。その視線に居心地の悪さを感じて、ミシェットはエリックの肩を掴む手に僅かに力を込めた。

 昔、叔母から向けられていたような、害意のある視線ではない。けれど、彼女の周囲にいた重臣や貴族達のような、なにか含みのある視線と同質のものだと感じられた。

 なんだか落ち着かない気分になって、胸の奥がぎゅっとなる。ラザロスの視線から逃れるように顔を俯け、僅かに背中を丸めた。


 二十人ばかりが乗り込んでも十分な広さのある大型の遊覧船だが、漕ぎ手がいない。帆があるわけでもないので、漕がなければ進まないのではないだろうか、と構造などを確かめるようにエリックが見回していると、舳先に立ったラザロスが軽く腕を振るった。すると、船は水上を滑るように遡り始める。

 そうだった、とエリックは思い出す。ラザロスの持つ神力は人や物を動かす力なのだ。


「ラザロスの力だと、海流も風向きも関係なくて羨ましいな」


 ゆっくりと流れて行く岸辺の風景を眺めながら呟くと、ラザロスはからりと笑う。


「お前の船程大きいものは無理だ。俺が動かせるのは精々がこの船ぐらいさ」

「そういうものか?」

「ああ。それに、力を増強させる術具を使って、だな」


 そう言って、右の手首にある腕輪を見せた。手甲のような形のそれに象嵌された石が、僅かに光を帯びている。

 そういうものか、と頷き、不思議そうにしているミシェットにも今の話を伝えてやる。ミシェットは目を丸くしてきょろきょろと辺りを見回した。不思議でならないのだろう。アヌや侍女達もアーネストから話を聞き、楽しそうに水面を眺めたりして笑い合っている。


 水上を滑って移動した船は程なくして、王宮内に直接入れる水門に辿り着いた。

 既に待ち構えていた内官達からの丁寧な出迎えを受けたあと、滞在場所として用意された館へと通された。美しく整えられた泉が涼やかなその館が選ばれたのは、北国のブライトヘイル人に少しでも快適に過ごしてもらえるように、とバシリオスからの指示らしい。


「この建屋ひとつをすべてご利用頂けますので、お好きなお部屋をお使いください。なにか必要なものがあれば、後程下官を参らせますので、その者達にお伝えを」


 一通りの説明をしてくれた内官に、アーネストは「感謝する」と鷹揚に答えた。


「アイシスやイブラヒム、あとアイオニアは? 挨拶したいんだけど」


 荷運びを見守っていたラザロスを呼び止め、エリックは他の従兄弟達のことを尋ねる。

 即位式の主役であるバシリオスは忙しくて無理であろうが、それ以外の者達なら時間が取れるのではないかと思ったのだ。二十人ばかりいる従兄弟達だが、幼い頃に親しくしていたのは年齢の近い数人だし、久々なので少しくらい挨拶をしたかった。

 ラザロスは至極残念そうな顔で溜め息を零し、首を振った。


「イブラヒムはここにはいないし、アイシスもアイオニアも縁談が纏まってもう後宮からは出ないから、挨拶をするにはちょっと手間がかかる」


 マルス王国の身分の高い女性は、基本的に近しい家族以外の男性とは会わない。面会が叶ったとしても、手も通せないような飾り格子のついた小窓越しになる。

 少し残念に思いながら、そうか、と頷いてラザロスと別れた。


「エリーック! 一番広い部屋はアヌが使っていいか?」


 国が違えば勝手が随分違うものだ、としみじみ感じていると、何処からかアーネストの声が聞こえる。見やすいように庭に出て捜してみると、丁度そこに異母兄の姿があった。


「もちろん構わないですよ。……ミシェットは?」

「そこで侍女達と話している」


 ラザロスと話している間放ったらかしにしてしまった妻の行方を尋ねると、すぐ傍の部屋の中を指差される。

 覗いてみれば、アヌも交えてなにか説明しているような様子だった。

 今回のミシェットは、ひとりで船旅に出ている。普段の身支度は自分で出来るようになったし、式典に参列するような身支度はアヌの侍女達に手伝ってもらうように頼んだので、ひとりで大丈夫だ、と言ってニーナやノラには留守番をしてもらっているのだ。

 声をかければ、幼い妻はすぐに振り向いた。


「放っておいてすみません。なにをしていたんですか?」

「式典の日はどんな髪型にしたいか訊いてくださっていたんです」


 直前に決めるよりも、前以て相談しておきたいということらしい。

 頷きながら侍女達の方を見遣ると、中の一人が会釈してくる。ミシェットが「エイダさん」と示したので、彼女が身支度の手伝いをしてくれることになっているのだろう。よろしく頼む、という意味を込めて、こちらも会釈を返した。


 アーネストとアヌが滞在する部屋を決めたので、今度はエリックとミシェットも部屋を選ぶ為に他の部屋を見て回る。

 長く馴染んだヴァンメールとも、慣れてきたブライトヘイルともまったく異なる造りの建物に、ミシェットは興味深そうに彼方此方と視線を彷徨わせる。そんな様子にエリックは笑みを零した。


「ところでミシェット。少々提案があるのですが」

「なんでしょうか?」


 改まった口調に首を傾げると、エリックはほんの少しだけ眉を寄せる。


「これは――これでも一応、一人の紳士として、お目付け役であるばあやさんがいないところで言うのもどうかと思うのですが……」


 なにか言いにくそうな口調で言葉を途切れさせるので、ミシェットはもう一度首を傾げる。乳母がいないと困ることでもあるのだろうか。


「同じ寝室を使いたいと言ったら、嫌ですか?」


 いったいなんなのだろう、と不思議に思っていると、ようやく告げられたのがそれだ。ミシェットは僅かに双眸を瞠った。


「もちろん、いやらしいことが目的ではありませんし、そんなことは絶対にしないと神に誓います。嫌ならやめますし」


 生真面目な表情で言われるので、ミシェットは首を振った。


「嫌だとは思いませんけれど。なにか事情があるのですか?」


 自宅でも寝室は別々だ。日中に長椅子での昼寝のときなどは一緒に寝たこともあるが、夜に一緒に眠ったことはない。それなのにわざわざ断りを入れてまで同衾しようとするには、なにか事情があるのだろうか。

 エリックは小さく頷き、先に部屋を選ぼう、と言った。

 特にこだわりや好みがあるわけでもなかったので、アヌとアーネストの部屋から中庭を挟んで対面の部屋を選んだ。泉は見えないが、北側なので陽が沈めば涼しくなるだろう。

 アーネスト達の護衛兼エリック達の護衛でもある近衛士官達に部屋の場所を伝え、ミシェットを中に落ち着かせると、エリックは周囲を警戒するように様子を探った。


「マルスではつい最近まで、内乱があったんです」


 部屋の奥まったところで声を潜めて告げられた言葉に、ミシェットは僅かに緊張する。


「一応、半月ほど前に決着がついたことになってはいます。けれど、恐らくまだ終わっていない。だからラザロスが出て来たんだと思います」

 ラザロスはバシリオスが最も信頼を寄せている軍人で、即位後には禁軍総督を任されることになっていると聞いている。そんな男が、以前からの同盟国で姻戚関係にあるとはいえ、わざわざ出迎えに出て来るなど妙なことなのだ。


「内乱って……?」


 エリックの緊迫した空気が伝わり、ミシェットは僅かに震える声で尋ねる。


「マルスは世代交代の際に、誰が跡目を継ぐかで必ず争うんです。平和的に話し合いだけで終わることもあれば、武力でぶつかり合うこともあります。今回はほぼ異論なくバシリオスに決まったらしいんですが、ただ一人、先代の王妃が反対して強く対立したと」


 その説明に思い起こされるのは、ミシェットの叔母であるアイリーンだ。彼女もまた、ミシェットの持つ公位継承権を奪おうと命を狙ってきた。

 暗い気持ちになりながら息をつき、エリックに話の先を促す。


「王妃の私兵はほとんど掃討され、それで内乱は鎮圧されたことになったようなんです。けれど、王妃とその息子であるイアニスはまだ捕まっていない――というのが、ディオ異母兄上(あにうえ)からの報告でした」


 外務大臣であるクラウディオは、多くの密偵を使って他国の情勢を事細かに探っている。その彼等が集めた情報を事前に聞いていたのだ。

 船上から目視した限りでは市中に内乱の気配が残っている様子はなかった。けれど、ラザロス自身が出て来たことで、クラウディオからの情報が事実なのだと裏づけられたようなものだ。

 このことは恐らくアーネストも気づいている。だから、身動きが取りやすいように、広い部屋をアヌに使わせることにしたのだろう。


「そういう事情から、いつなにがあるかわかりません。なるべく一緒にいたいので、同じ寝室を使いたいんです。あなたを守る為にも」


 エリックの言葉は真摯にミシェットへと届く。お互いに隠し事はやめようと話し合ったので、変に濁したりせず、包み隠さずにきちんと説明してくれているのだ。


「……ミシェット。恐い話を聞かせて申し訳ありません」


 僅かに青褪めているミシェットを抱き寄せ、宥めるように背中を撫でる。ミシェットは頷きながらエリックの脇に腕を回した。


「ちゃんと話してくれて、ありがとうございます。エリック様のおっしゃるとおりにします」


 きちんとわかるように説明してくれたので、不安はなにも感じない。エリックが最善だと思う提案に従うのに異論はない。

 よかった、と安心したようにエリックが呟くので、ミシェットは笑みを向けた。





 夜半過ぎ――

 アイオニアは常のように、淡い光を放つ水鏡を睨んでいた。

 彼女の力は夜の方が強くなる。特に新月に近くなる方が強まるのだが、生憎今はほぼ全円に近い十三夜だ。それでも水面を睨む目つきに余念はない。

 早く見つけなければ、と気持ちは逸る。あと一日しかない。

 そもそも水を使うアイオニアと、火を使うオリンピアスは力の相性が根本的に悪かった。それ故に、アイオニアの透視が上手く作用しないのだ。


「……忌々しい」


 他の場合ではこんなことがないのに、オリンピアスを視ようとすると映像がよく途切れる。姿を少し垣間見る程度なら問題はないが、正確な居場所をはっきりと把握しようとすると、途端に切れ切れになるのだから性質が悪い。

 太陽主神殿を占拠していたときまでは視ることが出来ていたが、それ以降は居場所がまったく把握出来ない。相性が悪い上に、念入りに防護の護符でも使っているのだろう。

 意識を集中し過ぎていた所為で眩暈を感じ、舌打ちを漏らして水盤から視線を外す。


「見つかったか?」


 溜め息をついていると、後ろから声をかけられた。

 ラザロス、と声の主を呼ぶと、柱の陰から姿を現せる。集中していたので邪魔をしないように気配を殺していたのだろう。

 こういうところがバシリオスとは違う、とアイオニアは笑みを浮かべた。彼の場合は他人への気遣いなどすることはせず、自分の都合だけで振る舞うのだ。


「いいえ、まだよ」


 問いかけの答えを口にすると、ラザロスは残念そうな、苦々しげな表情を浮かべた。


「急げ」


 端的な言葉にアイオニアは双眸を眇める。


「きっと杞憂に終わるわよ」

「そうなればいいが、相手はあの妖婦だ。時間はかけられない」


 きつい口調に、わかっているわよ、とアイオニアは頷いた。

 オリンピアスの企てた叛乱の所為で、ただでさえバシリオスの即位にケチがつけられている。これ以上悪い事態を重ねるわけにはいかないというのに、天意を受けて統治するという建前のマルス国王にとって重要なものを盗み出し、彼女は逃走中なのだ。

 長期間に渡って太陽主神殿に籠もることで自ら囮となり、その裏で天文台から盗み出した重要文書――『天文録』だ。

 星の動きを読んで季節を探り、雲の動きから天候を把握するのは、天文台に従事する天文学士達だ。彼等の助言を得て王は祭祀を執り行い、その力を国民に示す。

 その学士達が基準として用いるのが、盗まれた『天文録』なのだった。

 賊に侵入されるという失態を犯した彼等が口を揃えて言う。曰く、近々日蝕が起こる筈なので、正確な日時を導き出さなければならない、と。

 間抜けなことに、明晰な天文学士達が数十人も揃っているというのに、誰一人として正確な日付はわからないのだという。日時を導き出す計算方法はわかっていても、基準となる数値を把握していないのだ。

 凡その頃合いは把握している。前例どおりならば、予定のひと月ほど前に正確な日時を算出し、国民に周知し、王による祭祀を執り行う準備をするのが常だった。


 太陽神を主神としていることからもわかるように、マルス王国では太陽を一番尊いものとして信仰している。

 天意を受ける最高神官という立場の国王は、その太陽の加護を受けているというのが、大昔からの国民の認識だった。

 その太陽が欠けるとなれば一大事だ。全部が隠れる皆既日蝕などは特に重大だ。

 もし万が一、その瞬間が即位式に重なるようなことがあれば――太陽神の加護を受けられなかった国王として、その権威は失墜する。それだけは避けなければならなかった。

 だが、もう既に時間がない。こうなってしまっては、日蝕があと数日後であることを祈るばかりだ。


 溜め息を零しつつ、もう一度水鏡に向かい直す。

 探索の為の人手は既に出し尽くしている。それでも見つからないのだから、あとはアイオニアの透視に頼るしかない。


「それよりラザロス。エリックを取り込むことは出来たの?」


 銀の光を双眸に宿しながら、アイオニアは当初の計画の進捗を尋ねる。

 ラザロスは首を振った。


「無理だな。過保護なブライトヘイル王の目もあるし、妻を娶ったというのも本当だった」

「それは困るじゃない。海神の守護を持つあの子は、我が国に必要だわ」


 年々砂漠化が進むマルス国内に於いて、水系の神力を持つ王族は重要視されている。

 エリックにはその素養がないが、海神の加護を得ているブライトヘイル王家の血を引いているので、その恩寵を持っている筈なのだ。それを取り込む為に、姉妹のうちの誰かと娶わせようと計画していたのだが、半年ほど前にラザロスが受け取った手紙で、今はまだ諸外国には非公式ではあるが結婚した、という報告をされていた。


「ああ、忌々しい」


 吐き捨て、手許にあった水差しを乱暴に払う。中に残っていた聖水が、石畳の上に大きく水溜まりを作った。


「なにも計画通りに進まない。何故なの? これが天意だとでも?」

「苛立つな、アイオニア。気が乱れては視えんだろう」


 窘めるようなその物言いに腹が立つ。


「私にばかり頼らないでちょうだい。あなたのその脚は飾り? 頭は空っぽ? そのご立派なお身体で、王都中を駆けずり回って捜せばいいのだわ」


 腹立ち紛れに床を打ち、せせら笑う。昔から口ばかり達者で、自分ではなにもしない男達が大嫌いなのだ。

 けれど、彼がなにも手を尽くしていないわけではないということくらい、アイオニアにもわかっている。今のは八つ当たりだ。


 溜め息をつきつつ水盤に視線を戻し、波紋の向こう側に目を凝らす。

 その視界の端に、別の光が映り込んだ。

 なんだろう、と思って目を向ければ、先程床に零した水溜まりから光が零れ、そこに新しい映像を結び始めていた。


「……アイオニア?」


 水溜まりを覗き込んだまま身動きせずにいる様子に、ラザロスは怪訝に思って声をかける。

 しばらくそちらに集中していたアイオニアだったが、不意に笑みを浮かべ、くつくつと喉を鳴らして肩を震わせた。


「エリックの妻というのに、会った?」


 ややして顔を上げると、そんなことを尋ねてくる。ああ、とラザロスは頷いた。


「それは――小さなお嬢さん?」

「ああ、そうだ。まだ子供だった」


 それがいったいどうしたというのだ、と首を傾げると、アイオニアは心底愉快そうに哄笑した。


「あぁ、なんたる僥倖。なんたる福音。これこそが天意というものかしら」


 うっとりと呟く恍惚とした表情に寒気を感じ、ラザロスは眉根を寄せる。異母妹の言っていることの意味がわからない。

 今度は水盤に向き直るが、視点を新しく変える為か、水面を掌で撫でて波立たせる。そうして揺らめきに再び目を凝らし――もう一度笑った。


「その子供、海の娘だわ」


 満面の笑みで告げられる言葉に、ラザロスは僅かに双眸を瞠る。

 アイオニアは興奮気味に瞳を煌めかせ、うっとりと水面を撫でた。


「夫婦揃って、我が国にご招待致しましょう。即位式のあとも滞在してもらって、末永く、暮らしていって頂かなければ」

「それは……」


 無理だろう、という言葉は、アイオニアから投げつけられた鋭い視線に飲み込んだ。


「あの子供だけでも引き留めてちょうだい。どんな手段を使っても構わないわ」


 その言葉に揺らがない強い意志が込められている。断固として譲るわけにはいかない、という強さだ。

 こういう語調のアイオニアには、昔から決して逆らえない。彼女が言葉に込めた神力に、誰もが従わされる。


「あんなに強い水の加護を持つ子供なのだから、我が国に水の恩恵を下されるに違いないわ。月神への供物にしなければ」





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