5 夫婦喧嘩は猫が食う
とにかく謝らなければ、とミシェットはエリックの姿を捜した。
けれど、艦長室にもいないし、一緒にいなくなったコレットの部屋にもいなかった。
常に誰かしらのいる食堂を覗いてみても見当たらず、いったい何処に行ってしまったのだろう、と不安ばかりが募っていく。
泣き出したい気持ちになりながらとうとう船倉に辿り着いてしまった。ここには今まで一度も来たことがなかったが、林檎が好きな夫がよくここからくすねて懐に隠していることを知っていたので、もしかすると、と思って来てみたのだ。
人気がない所為で真っ暗で、潮と黴臭いような臭いが混じり合った不思議な空間に、恐る恐る顔を近づける。
「エリック様」
壁にかけられたランプの僅かな灯りの照らす室内に、震える声をかける。返事はない。
やはり違ったか、と少しホッとしつつ部屋を出ようとしたミシェットの視界の端を、なにか白いものがシュッと素早く横切った。驚いて悲鳴を上げそうになるが、それが一匹の猫だとわかり、ホッと胸を撫で下ろす。
「なにしてんのー?」
突然聞こえた子供の声に、今度こそ「きゃっ」と悲鳴を上げてしまう。慌てて振り返るが、誰もいなかった。
ドキドキする胸を押さえながら、空耳か、と安堵する。たぶんここはあまり入ってはいけない場所なので、叱られると思ったのだ。
そうこうしているうちに、木箱の山を身軽く降りて来た白猫が、するりとミシェットの足許にまでやって来た。
「猫ちゃん……?」
深い青の瞳が見上げてくるので、恐る恐る呼びかけてみる。すると、白猫は尻尾をぴーんとまっすぐに立てた。
「猫ちゃん違うー。あたしエミリー!」
また聞こえてきた子供の声に、ミシェットはギョッとしてその場に硬直した。
聞き間違いだろうか。いや、そうではないだろう。
恐る恐る、白猫の前に膝をつく。
「……エミリー?」
尋ねるように白猫へ声をかけると、綺麗な青い瞳をきらりと煌めかせられる。
「うん、そう! エミリー! あたしの声聞こえるのね!」
嬉しげに声を上げた白猫――エミリーは、尻尾の先をくるりと動かせた。
やっぱりこの猫の声だったのか、とミシェットは思った。
もちろん猫が喋るわけがない。今までそんな猫に会ったことなどなかったし、受け答えをした今でも少し半信半疑なところはある。
けれど、この半年ほどの間に海賊に襲われ、叔母に命を狙われ、不思議な真珠を所持することにもなったし、人魚にも会った。いろいろとありすぎて、奇妙なことだろうが不思議なことだろうが受け入れられてしまえるような、そんな胆の太さが備わってしまったようだ。
エミリーはミシェットの膝に擦り寄って来て、ゴロゴロと喉を鳴らした。とても人懐っこくて、危険な感じはなにもなかった。
「私はマリー・ミシェット」
「知ってるよ。お兄ちゃんのお嫁さん!」
「お兄ちゃん?」
顎の下を指先で撫でながら言うと、楽しげな声が返ってきた。その言葉に思わず首を傾げる。
「うん。エリックお兄ちゃん」
弾んだ声が答えてくれる。よくなついた子供のような口調だった。
そう、とミシェットは頷いた。
「私、そのエリック様を捜していたの。ここにはいない?」
「いないよぉ。さっき来たけどね、すぐ出てっちゃった」
「そう……」
どうやらすれ違ってしまったようだ。やはり林檎を取りに来ていたのだろうか。
溜め息を零して立ち上がると、エミリーがするりと身を躱す。
「あたし、お兄ちゃんのいるとこ知ってるから、呼んで来てあげる。上のお部屋にいて」
「え?」
首を傾げている間に、エミリーは黴臭く薄暗い廊下を走り出した。
人語を話すというなんとも奇妙な猫だが、やはり猫は猫なのだろう。あっという間にその白い姿は見えなくなってしまった。
なにがなにやら、とミシェットはしばらく呆然としていた。けれど、ここにいても仕方がない。言われたとおりに上の部屋――恐らく艦長室のことだろうと予測して、戻ることにする。
(――…猫、だったよね……?)
階段を昇りながら、思い出したように首を傾げる。猫だと思っていたが、実はなにか他の動物だったのだろうか。
そもそも猫は喋らない。鳥の中には喋る種類もいるのは知っているし、見たこともあるが、さっきみたいに会話が成立するようなものではない。聞いたことがある人間の言葉をただ真似して喋るだけだ。
他の犬も牛も馬も、人間の言葉を話せるなんて知らない。見たことも聞いたこともない。
ではやはり、さっきのエミリーと名乗った猫は、猫ではなかったのだろうか。
(リドウィニアさんとかみたいな、そういう『人以外の人』なのかな?)
古い古い時代には、不思議な力を使う人々も存在していたという話だ。人間ではない不思議な存在もたくさんいて、そのうちのひとつがリドウィニアのような存在であり、ミシェットの祖先であるマリーナ姫なのだ。
悶々と頭を悩ませながら艦長室に戻り、椅子のひとつに腰かけてしばらく待っていると、不機嫌そうな顔をしたエリックが部屋に入って来た。頭の上にはエミリーが乗っている。
「連れて来たよ!」
元気よく言うと、エミリーはエリックの頭の上から飛び降りた。軽やかな動きはやはり猫のように思える。
「お兄ちゃんはね、考えごとするときいっつもマストの上にいるの。今日もいたよ」
そのまま足許に駆け寄って来たエミリーの頭を撫で、小声で「ありがとう」と礼を言うと、喉を鳴らして笑ったように見えた。
「……あの、エリック様」
少し前に夫を怒らせたばかりのミシェットは、緊張しながら声をかける。
彼はまだ少し不機嫌そうな表情のまま、無言で視線を向けてきた。
「ごめんなさい、エリック様」
「なにに対する謝罪ですか」
頭を下げるミシェットに答えるエリックの声は、多分に棘が含まれている。そんな尖った声音を初めて聞いたミシェットは、やはり彼がとても怒っているのだと改めて気づかされ、小さく震えた。
けれど、ちゃんと謝って、自分の気持ちをきちんと伝えようと決意して、彼のことを捜していたのだ。ここで萎縮していては始まらない。
きゅっと唇を引き結んでから、改めて顔を上げる。
「お言いつけを守らず、リドウィニアさんと会っていたことに対して、です」
エリックは黙っている。険しい目つきをしたまま、無言でミシェットのことを見つめていた。
ミシェットはもう一度唇を引き結び、小さく深呼吸してから、改めて口を開いた。
「言い訳になるかも知れないですけれど、私の話を聞いてくださいますか?」
不愉快そうな視線が恐くて、声が少しだけ震えた。それでも、気持ちだけは強く、しっかりと夫の目を見つめ返す。
「もう! お兄ちゃん!」
ミシェットの足許で成り行きを見ていたエミリーは、苛立たしげな声を上げて尻尾をぱんぱんと床に打ちつけると、エリックの許へ駆け戻って行く。
「どうしてお返事しないの! お耳聞こえなくなった?」
「うるさい、エミリア」
「うるさいないー!」
尻尾の毛を逆立てたエミリーがエリックの足首のあたりに咬みつく。
あっ、と思って目を丸くしたミシェットの目の前で、エリックは無言でエミリーの首根っこを掴むと、そのまま部屋の隅の方へ放り投げてしまった。
「エミリー!」
なんと乱暴なことをするのだろうか。あんまりだ、と思いながら悲鳴を上げて駆け寄るが、そこはやはり猫だったのか、くるりと姿勢を整えて何事もなく綺麗に着地している。
「お兄ちゃんのバーカ! 乱暴者!」
全身の毛を逆立てたエミリーはそう叫ぶと、ミシェットの胸許へと飛び込んで来る。慌てて両腕を広げて抱き支えた。
そんな様子に、エリックは怪訝そうな表情を向けてくる。
「……それの声が聞こえているんですか?」
まだ少し尖った雰囲気の残る声音に、訝しむような響きが混じっている。
はい、とミシェットは頷いた。エミリーが人語を解しているのは、やはりミシェットの勘違いではなかったようだ。
エリックはなにか言いたげに口を開きかけたが、溜め息をついて乱暴に髪を掻き上げ、椅子を引いて腰を下ろした。
「謝罪をする相手に無言で返すのは、失礼でした。すみません」
まだ少し何処か不機嫌さを滲ませる声音ではあったが、エリックはそう言った。
いいえ、とミシェットが首を振ると、隣の椅子を指し示された。
「あなたがなんの考えもなく、わたしの言いつけを破るとは思っていません。わたしの言葉が足りなかった部分もあるのでしょう。だから、言い訳でもなんでも聞きます。なにか事情があったのなら話してみてください」
腰を下ろしたミシェットに向かって告げられたその言葉は、ほんのりと反省のようなものが滲んでいるように聞こえた。そのことにミシェットは少し安堵した。
なので、ちゃんと正確に伝わるように言葉を選びながら、ゆっくりとだが自分の考えを話し始めた。
「お祖父様に頂いたお手紙の歌が、エリック様のお役に立てるのではないかと思えたのです。エリック様はお船に乗られますし、戦うことをなるべく避けられたいと思われるでしょうし、もし、本当に霧を呼び出せるのならば、きっとお役に立てると思ったのです」
祖父からの手紙は俄かには信じ難い内容のものだったが、二百年ほど前までヴァンメールが深い霧に閉ざされた国であったということは、遠方の諸国に至るまでの誰もが知っている事実なのだ。その不思議な霧を、国土を守る為に超常の力で人為的に作り出していた、と言われれば納得も出来る。
同じ海洋国のブライトヘイルで、その力はきっと役に立つ筈だ、と思ったのだ。
その為には、どうすれば二百年前と同じ状況を作り出せるのかということを、ミシェットがきちんと学ぶ必要がある。けれど、肝心の祖父はそのことを知らないようなのだ。
悩んだ末に、リドウィニアなら知っているのではないか、と思い至った。なにせ彼女の言を信じるのならば、少なくとも千年近くのときを生きているらしいのだから。
それに、リドウィニアはミシェットの祖先であるマリーナ姫の知己である。きっとなにか知っていると確信があったのだ。
「リドウィニアさんは『霧の灯台守の呼び笛』のことを知っていて、歌も教えてくれました。あの笛も、歌も、元々人魚の――ウィンディーナの一族に伝わるものなのだそうです」
ミシェットの説明を、エリックは黙って聞いていた。
一通り話し終えて息をつくと、彼もまた小さく息を吐き出し、眉間に皺を寄せて額のあたりを掻く。なにか考え込むような表情だ。
エミリーは話に退屈したのか、ミシェットの膝の上で丸まって欠伸を零している。
「……ちゃんと事情があったのなら、それを話してください」
エミリーの背中を撫でていると、エリックの声がした。
「俺が怒ったのは、あなたが約束を破ったこともそうですが、それを秘密にしようとしていたことに対してです」
「あ……」
ミシェットは思わず言葉を詰まらせる。
「アーネスト異母兄上は、あなたの行動を子供の屁理屈だと言っていました。一人で海に行くなと言うから、シャーロットと二人でならいいだろうと、これなら約束を破ってはいないからと、そういうことにしようという屁理屈だと」
言われ、そういう考えがなかったとは言い切れないな、と俯く。確かにシャーロットと、咎められたときはそう言って切り抜けよう、と笑い合っていたこともあったのだから。
「あなたなりの事情があったのなら、事後報告になるようなことにせず、先に相談してください。俺だって、頭ごなしにすべてを駄目だと否定するようなことはしません。相談がなかったことに怒っているんです」
エリックが何故こんなにもミシェットが海に近づくことに対して警戒しているのか、そのことについてはきちんと説明を受けている。だからこそ、なにをしても叱られると思っていたミシェットは黙って行動していたのだが、そのこと自体がそもそもよくなかったらしいことに、ようやく気づかされる。
自分の考えの浅さの恥ずかしさと申し訳なさに頬を染め、唇を噛み締めた。
「……は、はじめから、リドウィニアさんに会いに行きたいと相談していたら、エリック様は許してくださいましたか?」
顔色を窺うように尋ねると、エリックは眉間に皺を刻む。
「……そうですね。俺が付き添えるときだったら、許可したと思います」
危険だとわかる場所に向かうのならば、せめて自分の手で守ってやりたい。なにかあるとしても、自分の目の届く範囲で遭難して欲しい――それはエリックの身勝手な思いではあるが、夫として、ミシェットの祖父から彼女の庇護を任された身として、それだけは最低限守りたい矜持であった。
そんなエリックの答えに、ミシェットは小さく頷いた。その表情には反省の色が窺える。
エリックはもう一度溜め息をついた。
「俺は、どうにも言葉が足りないようで……。最初からもっときちんと話していれば、あなたがコソコソとすることもなかったのでしょう。すみません」
頭を下げるエリックに、いいえ、とミシェットは慌てて首を振った。
「私がちゃんと相談すればよかったんです。エリック様はどんなにお忙しくても、傍にいるときならお話を聞いてくださるとわかっていたのに、ただ、反対されるとか、叱られるんじゃないかとか、そんな余計なことを考えてしまって……もうこんなことはしません。なにかあれば、ちゃんと相談します」
しっかりと前を向いて伝えられる言葉は、ミシェットの固い決意の表れなのだろう。幼い大きな瞳は、年齢よりも大人びた強い光を湛えていた。
エリックも頷き返す。
この幼い妻は、年齢よりも随分大人びているのだと改めて痛感させられた。子供扱いして隠しておいたりせずに、最初から対等な者同士のやり取りとして、しっかりと話してしまっておいた方がいいのだ。
先程の言葉からもわかるように、彼女はただ守られていることをよしとはしていない。まだ幼く力ない自分が庇護を受けるのは仕方がないとは理解しているのだろうが、逆に、自分の出来る範囲であったらエリックのことを支えたいと思っている。
(俺の方が子供だったな……)
自分の短慮さに僅かに苦笑を浮かべていると、ミシェットが「あの」と躊躇いがちに声をかけてくる。
「私もこれからはちゃんと相談するので、エリック様も、私に隠し事はなるべくしないでください」
真剣な口調に思わず瞬く。
「もちろん、お話し出来ないことを無理に話して欲しいってことじゃないです。私、これでもエリック様のお嫁様なので、他人行儀じゃなくていいですってことです」
夫婦というのはそういうものだろう、と言われ、ますます首を傾げてしまう。
他人行儀といえば、ミシェットの方ではなかろうか。最近になってようやく泣いたり怒ったり、年齢相応に我儘や感情の起伏を見せてくれるようになったが、それまではなにかあっても黙って控えめに微笑んでいるような、少し距離を持った接し方だった。
エリックの方が感情的になっていたようにも記憶していたので、他人行儀と言われてもよくわからない。
そんなエリックの困惑を察したのか、ミシェットは少し悲しそうな目を向ける。
「言葉遣いです」
「言葉? なにか変でしたか?」
船に乗るとどうしても少し荒っぽくなる。そのことだろうか、と思っていると、どうやらミシェットが言いたいのは少し違ったようだ。
「お船でも、お義兄様達の前でも、エリック様はご自分のことを『おれ』とおっしゃるんです」
「あぁ……そうですね」
「私の前では『わたし』とおっしゃいます」
それはそうだろう、とエリックは思った。何故なら、年長者などの目上の人間と女性に対しては敬意を持って接しろ、と幼い頃から教え込まれていたからだ。使用人達は別として、そのように振る舞うように気をつけている。
「でも、怒っているときは『おれ』になるんです」
「え?」
悲しげに小さな声で零された言葉に、思わず顔を上げる。
そんなことはないだろう、と否定しかかって――思い当たることがあって口を噤んだ。言われてみればそのような気がしてくる。
「あ……それは、すみませんでした。気がつかないで……」
確かに指摘のとおりだった、と自覚して思わず謝るが、ミシェットは首を振った。
「いいえ、いいんです! ……そうじゃなくて、いつもそうしていて欲しいんです」
頬を紅潮させ、真剣な目つきで訴えかけられる言葉に、エリックは僅かに首を捻る。
どういう意味だろう。常に怒っていろということだろうか、と馬鹿な考えが浮かんだが、さすがにそうではないということくらいは即座にわかった。
軽く苦笑し、一生懸命自分の思いを伝えようと頑張っている妻の頬を撫でる。
「わかりました。今度から、そうします」
ミシェットはホッとしたような顔になり、嬉しげに笑みを浮かべた。
二人の行き違いはようやく『和解』となった。
「ところで、話は変わるのですが――」
安心してエミリーの首のあたりを撫で始めていると、エリックの指先が、そのエミリーを指し示す。
「ミシェットは、エミリアの声が聞こえているんですか?」
その言葉にエミリーが顔を上げて耳を振った。
「そうみたいー」
答えるのは嬉しげに弾んだ声だ。ミシェットも頷く。
なるほど、とエリックは息をついた。
「聞こえてはいるんですけど……エミリーは、その……猫なんですか?」
様子を窺う調子の声には僅かに困惑が紛れ込んでいる。そうなるだろうな、とエリックはもう一度息を吐き、ミシェットの膝の上から白猫を抱え上げた。
「一応、猫です。普通の」
答えながら喉の下を擽ると、ゴロゴロと気持ちよさそうな音を漏らす。その様子にエリックは苦笑した。
「中身は、俺の妹らしいんですけど」
その告白に、ミシェットは瞬いた。怪訝そうな顔になり、僅かに首を傾げる。
それはいったいどういう意味なのだろうか。ミシェットにはまったく理解が出来なかったし、夫がなにを言っているのかもよくわからなかった。
「信じられないですよね?」
苦い表情を浮かべて問いかける声は、ふざけているような雰囲気ではない。かといって、迫真という風でもない。
頷いていいのか、首を振る方がいいのか、ミシェットは判断に迷った。
「俺の亡くなった母は、魔女だったんです」
「魔女?」
反応に困っているうちに、話の内容が変わった。けれど、また首を傾げずにはいられない内容だった。
「国許では神官と呼ぶそうなんですが、要は『不思議な力を使える人間』だったわけです」
「そうなのですか」
不思議な力というものの定義はよくわからないが、そんなものはまったく信じられない、と否定するつもりはない。
ミシェットは服の中に隠している『碧洋の真珠』を握り締める。これもまた、不思議な力を宿した宝物である。
「母の持つ力は『癒しの力』だったと、異母兄上達は言っていました。小さな擦り傷くらいなら治してしまえるし、木や花などの生命力を高め、成長を促すことも出来たとか」
亡くなった母リディアのことは、実はあまりよく覚えていない。まだ三歳になったばかりの頃に亡くしてしまったので、顔などは残された肖像画から覚えたようなものだ。
「その母は、出産のときに亡くなったそうなんですが――そのとき死産したのが、この猫の中にいる妹だというのです」
「そうなの!」
重苦しい口調で話しているエリックに、不似合いなほどに明るい声でエミリーが相槌を打つ。その様子にムッとしたように、エリックはエミリーの口を塞いだ。
「母の不思議な力――神力と呼ぶそうなのですが、これは遺伝します。力の強さ弱さ自体は親とは関係なく、個人の資質に因るらしいんですけど……、痛てッ!」
押さえていた指先をエミリーに咬まれ、エリックは話の途中で声を上げる。白い尻尾は苛立ったように太腿をバシバシと叩いていた。
その話を聞いていたミシェットは、出発前に聞いた話を思い出す。
今向かっているマルス王国は、不思議な力を持つ王家が治めている国なのだという。王家に連なる血筋で不思議な力を持つ者に王座を継ぐ資格があり、血縁的にはエリックもその一人とされているのだが、肝心の不思議な力が顕現しなかった故に王候補から外されたのだということだ。
「つまり、エミリーもその不思議な力を持っていて、その猫に生まれ変わったっていうことですか?」
聞いた話と想像力を働かせてそんな仮説を立ててみるが、エリックは首を振った。
「正確には、この猫の身体を乗っ取ったんだと思うんですよね。妹を名乗っているし、亡くなったのも妹なんですが、これは雄猫なんで」
ほら、と言って抱え上げてお腹を見せてくる。後ろ足の間に小さなふぐりが見え隠れる。ミシェットは僅かに頬を染めて瞬いた。
「声も、今までは俺にしか聞こえてなかったんです。これは母方の血の関係かとも思うんですけど、こういうことに詳しくはないのでわかりません」
秘密を暴かれて腹を立てたエミリーは、エリックの手の中から抜け出し、苛立たしげに尻尾で床を叩いてから「下に行く!」と牙を剥き、扉を開けるように要求した。
言われたとおりに扉を開けて外に追い出すと、エリックは溜め息をついた。
「エミリアと名づけたのはディオ異母兄上なんですけど、雄猫を女性名で呼ぶのも変なので、普段は『隊長』と呼ばれています」
「隊長?」
「貯蔵庫防衛守備隊長の意味です。この役職はアーネスト異母兄上がつけました」
そう言われ、潮の臭いと何処か黴臭さのようなものを漂わせた薄暗い船倉のことを思い出す。あそこを守っているということなのだろう。
けれど、小さな身体の猫がいったいなにから食糧を守っているのだろうか。
首を傾げると、エリックは「鼠ですよ」と答えた。
「ねずみ……っ!?」
「長い航海で困るのは、水と食糧と病気の問題です。鼠に食材を齧られると傷むし、うっかりそれを食べれば病気になります。伝染病は命取りですから」
そういう理由で、昔から船には猫を何匹か飼っておくのが常識なのだという。
しかし、そうだからといって、仮にも女の子――しかも自分の妹だという存在に、薄暗い倉庫の中で鼠取りをやらせるだなんて、とミシェットは愕然とした。
そんなミシェットの動揺を、エリックは不思議そうに見つめ返す。
「まあ、確かに女の子にやらせるような仕事ではないと思いますが、本人も楽しんでいますしね」
問題はないということだ。
そういう事情から、エミリーはなんと海軍で大尉の階級を得ているのだという。レディ・エスター号副艦長であるコレットと同格だ。
ブライトヘイル海軍での昔からの伝統だ、とエリックは言った。
ミシェットは呆気にとられながら、せっかく友達になれるかと思ったのに、と少しだけがっかりした。