表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蒼海の軍神と真珠  作者: 秋月 菊千代
2章 マルス王国内乱編
35/39

4 揺蕩う古の歌



 冬季の時化(しけ)で有名な北海は、初夏の今は余程天候が悪くない限り、決して荒れることはないが凪ぐこともない。それは航海が順調に行くことでもあり、船上の生活にあまり馴染みのないミシェットやアヌ王妃にとってはよいことだった。


 ブライトヘイル王国を出港した翌日も、陽射しは少し暑いくらいだったが快晴で、追い風も程よく吹いていた。

 海流のよい今は交易が最も盛んな時期であり、交易船の行き交う大陸間との海域は避けて本土を西回りに迂回して、マルス王国を目指す航路を取っている。最短距離を行くより二日ほど多い日程になってしまうが、安全面を考慮した結果、こちらの航路がよいという結論に至ったのだ。


 そんな穏やかな航海を続けるレディ・エスター号の主甲板には、乗組員達の歓声と笑い声が満ちていた。

 人々の中心にいるのは、艦長であるエリックと、その幼い妻のミシェットである。


「お嬢さん、頑張って!」

「艦長、それはやっちゃいけんでしょう」

「右ですよ、右! お嬢さん!」


 手が空いている者達は甲板に集まって、小さな身体でちょこまかと飛び回るミシェットの応援をしている。歓声を受けるミシェットは照れているのか頬を真っ赤にしていて、けれどその表情は真剣そのもので、目の前の夫を睨んでいる。


「えいっ!」


 掛け声と共に大きく踏み込み、短剣を握った手を突き出す。その手をエリックは軽々と避け、手首を返す動きだけで払って軌道を逸らした。それはごく軽い力であったが、非力なミシェットの小さな身体は簡単にころりと転がる。

 わあっ、とどよめきが上がり、エリックを責める声が口々に上がった。そんな野次馬達の声にエリックは大きく溜め息を零して首を回した。


「――…なにしてるんですか? あれ」


 航海士室から出て来たティムは、甲板で繰り広げられている奇妙な光景を見て、観衆の中にいるコレットに声をかけた。


「あぁ、ほら。前の航海のときに、お嬢さんはいろいろ危ない目にも遭っただろう? だから、なにか自分の身を守れる方法はないだろうか、って」

「なるほど」


 騎士王の興した国であるブライトヘイル王国の王族が修得する宮廷剣術は、基本的には長剣や長槍を使ったもので、主に平地や馬上での戦闘を想定したものである。しかし、揺れる船上では長剣を扱うよりも、短剣で素早く動く方が都合がいい。万が一海中に落ちたときでも、短剣の方が重量が少なくて済む。それ故にブライトヘイル海軍の兵士が必修としているのは短剣を用いた戦術だ。

 今エリックがミシェットに教えているのは、その基本的な身の熟し方のようだ。非力なミシェットには護身用に持つにしても短剣は都合がよかったし、彼女が将来的な所有者である『碧洋の真珠』の短剣が重さ的にも丁度よかった。

 一応は宝剣であるものを実際の戦闘に使うのは気が引けるが、何度か確認してみたところ、美術品というよりもかなり実用的なものであることはわかっていたので、丁度いいと思ってミシェットに持たせてしまった。幼い彼女は大切なものであることはわかっているようだが、振り回すことはあまり気にしてもいないようだった。


「捻りましたか?」


 起き上がっても立ち上がらず、その場に座り込んでいる妻に、エリックはちょっとだけ首を傾げる。子供のうちは身体が柔軟なので、ちょっとやそっと転んだくらいでは怪我をしないと思っていたのだが。

 いいえ、とミシェットは首を振った。


「ちょっと、息が……上がって、しまい、まし、た……」


 真っ赤な顔は人々に囲まれていることに緊張していたわけではなく、動きすぎて体温が上がっていることを示していたらしい。

 その様子を見ていた乗組員の一人がすぐに駆け寄って来て、水と手拭いを差し出してくれた。エリックが頼もうと思っていた矢先だっただけに少し面食らったが、部下達が妻の身をかなり案じてくれていることと大切にしてくれていることを感じ、小さく微笑んだ。


「休憩しましょうか」

「いいえ。まだ大丈夫です」


 水を飲んだミシェットは首を振って立ち上がる。エリックはなんともないということは、自分に体力がないだけなのだ、と思ったのだろう。

 エリックは困ったように小さく息をつき、ミシェットの手から短剣を取り上げた。


「海上は陸にいるより暑いんです。慣れない揺れもあるし、自分で思っているよりも体力を消耗しているんですよ」


 しっかりと諭すように告げると、ミシェットは少ししょんぼりとした顔をしながらも、素直に頷いた。


「艦長、陛下がこちらにいらっしゃると」


 聞き分けよく頷いてくれたミシェットの頭を撫でていると、クイーン・ステラ号からの伝令を受けたコレットが近づいて来て、エリックの後頭部にちらりと目を向ける。


「だから、その髪……直した方がいいんじゃないですか?」


 コレットが見上げるエリックの髪は、いつもの適当な纏め髪ではなく、編み込みを作って可愛らしいリボンが結ばれている。やったのはミシェットだ。今日の彼女も同じ髪型をしている。

 うーん、とエリックは軽く唸るが、髪型のことはたいして気にしている様子はなく、解く様子はなかった。

 そうこうしているうちにクイーン・ステラ号から降ろされた小舟が着き、アーネストが乗船して来た。乗組員達は一斉に背筋を正して敬礼をするが、それを手振りひとつでやめさせ、甲板の中程にいる艦長の姿へ目を向けた。


「ラクレア艦長――いや、エリック。今朝の戦利品を見せてくれないか?」


 はい、と軽く頷いて指示を出すエリックの様子に、アーネストはまったく動じなかったが、従って来た他の海兵達はギョッとしている。だから直せと言ったのに、とコレットは顔を顰めた。

 部下に運んで来てもらった古い木箱をアーネストの前に差し出すと、エリックは「これです」と端的に告げた。


「……本当に、これか?」


 木箱はどれもただ古いだけではない。元の色がわからないくらいに褪色しているところに、長年被って来ただろう土埃で黒ずんでいるし、ところどころ朽ちている。苔も生えていれば、蝶番も錆びついてボロボロで、ちょっと強い力を加えれば崩壊しそうだ。


「知りませんよ」


 疑うような口振りのアーネストに、エリックは少しムッとしたように答える。


「わたしが知っている範囲の心当たりですと、この箱の中身というだけです。それ以外は心当たりがありません」


 ふむ、と頷き、アーネストは箱を運んで来た男達に目配せする。彼等は心得たもので、すぐに箱の蓋へと手をかけ、破壊しないように慎重に開いた。

 中に納められていたのは、傷んだ布の塊だ。こちらも木箱同様に風化して薄汚れているので、元の色柄はわからないが、恐らく麻布だと思われる。

 その布の上に『クソッタレ』と赤黒い文字が殴り書きされていた。


「なんだこれ?」

「さあ? 以前に見たときも、そう書かれていました」


 エリックは肩を竦める。

 マルス王国行きの話がきちんと纏まり、随行員や航海計画なども大詰めになってきていた頃、アーネストがエリックに尋ねたのだ。お前はエリオットの行方を知っているか、と。


 興国の騎士王エリオット一世――エミリオ・ラクレアが名乗ることになったその名の由来となったのは、彼の家に伝わっていた領主の証である聖剣エリオットだ。

 本来なら国宝としてでも伝わっている筈の剣だが、元は五領主時代の以前にいた王から各領主に下賜された剣だったので、新しい国の建国を宣言する為に即位と同時に破棄したとも、エミリオがその剣を疎んじていたから破棄したのだとも言い伝えられていた。

 何処に棄てられたのかは一切伝わっていない。国内最高峰のブレスト火山の火口に棄てたとか、海神に捧げたとか、鎔かして大鐘楼の鐘を鋳造したとか、いろいろと言われてはいるが、はっきりとしない。


 エリックがこの箱を見つけたのは、五年前――領地として賜ったレヴェラント島に初めて渡ったときのことだ。

 だから今日の夜明け前、丁度レヴェラント島の傍を通るということで、少し寄り道をして回収して来たのだ。

 アーネストはボロ布の包みを取り上げ、そっと開く。


「これは――」


 現れたのは、一振りの剣だ。

 長年研がれずに放置されていたのであろうに、たった今完成したばかりのような鋭さと光沢を持ち、経たであろう年月をまったく感じさせなかった。


「それがエリオットかどうかは知りません。ですが、それらしいものといえば、その剣しか思い浮かびませんでした」


 初めて見たとき、エリックは確かにそう思った。何処に遺棄されたか不明の聖剣が、エスター王妃が根城にしていたという伝説の島にあったのだとしたら、なんだか運命的なものを感じる。

 しかし、当時のエリックは、それを持ち帰ることはしなかった。わざわざ本土から離れた島に置いたということは、持ち帰らない方がいいのだろうと判断したのだ。

 だが、リドウィニアはそれを取り戻せと言ったらしい。

 なにがなんだかわからない。エリオットは元々エミリオの持ち物だったのに、その妻であるエステルが授かった海神の加護を宿しているのだという。そして、そのエリオットが子孫であるラクレア家の手許にないから、授かった加護が失われつつあるのだとか。


 伝説の聖剣と思われるものを手にしているということで、アーネストは瞳をキラキラと輝かせているし、まわりにいる者達もみんな興奮気味だ。

 大海賊レディ・エスターの根城だったレヴェラント島には、昔から財宝が眠っていると言われていたが、それがこれのことだったのだろうか。


「……で、この下の包みはなんだ? お前は見たのか?」


 剣が納められていた箱の中には、もうひとつ同じような包みがある。

 ああ、と頷いたエリックは「圧し折られた戦斧です」と答えた。


「そっちは血糊がついたままだった所為で、どうしようもないくらいに錆びています。刃毀れもしているし、持ち手も折られているんです」

「聖斧、イヴォーンか?」


 尋ねながらアーネストは頬を紅潮させる。


「だから、それは知りませんってば。帰国後に史学博士にでも見せてみてはどうですか? 特徴を記した文献くらいはあるでしょう」

「そうだな。そうしよう」


 頷いたアーネストはいそいそと布で包み直し、木箱に戻した。


「じゃあ、これはクイーン・ステラの方に引き取るからな」

「どうぞご随意に。そちらの方が安全でしょうし、それが本物のエリオットなら、正当な持ち主は陛下です。お持ちになるのがよろしいでしょう」


 持ち帰ることを推奨するエリックの言葉を聞いたアーネストは、すぐに随行の海兵に命じて小舟に乗せるように指示する。レディ・エスター号の乗組員達も手伝って、朽ちかけている木箱を慎重に縄で縛り、小舟に移乗させる作業を始めた。

 顔の火照りなどが落ち着いてきたミシェットは、話を終えたらしいエリックの傍に寄って行き、控えめに袖を引っ張った。その様子に気づいたエリックは振り返るが、すぐに作業中の乗組員達の様子に目を戻してしまう。


(あ、まだお仕事中……)


 ミシェットはなにも言わずに夫の傍を離れ、甲板に出ているときは定位置になりつつある操舵輪の傍に置かれた木箱の方へ歩いて行った。

 変わらずに舵を取っている操舵手のエドガーは、ミシェットが木箱の上に腰を下ろす様子を横目で見つつ、厳つい顔にちょっとだけ笑みを浮かべる。以前の航海のときよりも少し陽に焼けた様子のその顔を眺めながら、ミシェットもニコッと笑みを浮かべた。

 今は一時的に停泊中で力強い潮風は感じられないが、それでも頬を撫でて行く風は心地いい。故郷のヴァンメール公国にいるときに感じていた南海の風とはまた違う空気に、ミシェットはすっかり馴染んできていた。


「艦長!」


 積み込み作業が終わり、アーネストもすぐに自分の船に戻るということで、最後にエリックといくつか言葉を交わしているときに、観測台に立っていたティムが声を上げる。


「南南東方向に船影四つ!」


 その報告の声を聞いたコレットがすぐに信号旗を持って来させ、後方のクイーン・ステラ号とフランシーヌ号に「警戒せよ」と合図を送る。

 南の方角と聞いたエリックは表情を険しくし、観測台に駆け上がって望遠鏡を翳した。


「シャー・ハヌーンの船だな」


 船影を確認したエリックの呟きに、やはり、とコレットとティムは頷いた。


「まだ距離はあるが、視認出来る距離なのが厄介だな。会敵準備をしつつ、針路を北寄りに、少しでも距離を取るぞ!」


 素早く指示を送ると、アーネストを振り返る。


「陛下、どうなさいますか? クイーン・ステラ号に戻るなら急いでください。取り止めるなら、小舟をこちらに引き上げて出航します」

「俺が戻る時間はあるのか?」


 その問いかけに船影を振り返り、逡巡してから頷いた。


「シャー・ハヌーンの船はそう速くありません。ただ、会敵すると、そこらの海賊船よりもかなり面倒です」

「では、急ぐとしよう」


 海賊との戦闘では連勝中であるエリックだが、その彼が面倒だと評するのならば、戦闘行為は避けるに限る。しかも今こちらには非戦闘員の女性達が十人ほど乗っている。

 南方の大陸にあるシャー・ハヌーン帝国の船は、そのほとんどが私掠船だ。迷惑なことに、標的は交易品などの物品ではなく、人――特に女性を奴隷として連れ去る。

 褐色の肌が多いシャー・ハヌーン帝国に於いて、北方人の白皙の肌と金髪碧眼は人気が高いらしく、そういう者が特に狙われている。アヌ王妃などは典型的な大陸北方人の外見であるので、一番に狙われるだろう。

 急いでくれ、と縄梯子を降りて行くアーネストを急かしつつ、他の二隻に指示を送る。了承の合図が返ったことを確認し、帆の向きを調整させた。


 穏やかさから一転して急に慌ただしくなった甲板の様子に、ミシェットはそわそわと立ち上がる。あの、と口を開きかけるが、大きな声で指示を交わし合って行き交い、誰もが物凄く忙しそうな様子に、どうしても口を噤んでしまう。

 けれど、動かなければ意味がない。自分にそう言い聞かせて小さく頷くと、意を決して立ち上がった。


 首からかけていた御守りを外して握り締め、座っていた木箱の上によじ登る。その様子に気づいたのは、観測台から視線を向けたティムだった。小さな身体がよろりとするのを見てギョッとして、けれど航海士の自分が持ち場を離れるわけにもいかず、どうしよう、と気持ちだけが焦った。

 ミシェットはそんな心配をされているとは思わず、真剣な目つきで海の方を向き、遥か遠くに豆粒の如く見える船を睨みつけた。あれがエリック達が警戒している船だ。

 これからマルス王国の国王即位式に向かうことだし、非力な自分もアヌ王妃もいる。エリックはきっと戦闘を回避したいと思っている筈だ。

 心臓がドキドキといっている。その上の服地をぎゅっと握って目を閉じ、ゆっくりと大きく深呼吸する。


(上手くいきますように……)


 こんなことをするのは初めてだ。けれど、自分にはきっと出来る筈だし、それが大好きなエリックの助けとなるのならば、今は手を尽くすべきだ。

 御守りの鎖の部分を持ち、それをひゅうんと振り回す。

 手首の力と指先の微妙な加減で綺麗な弧を描くように回すと、貝殻を模した宝石の中でひとつだけ棒状の形をしていた水晶が風を切り、小さく開けられた穴を風が通って「フォーン」と不思議な音をさせ始める。その音が安定してきたことを確認して、ミシェットは大きく息を吸い込む。


どうかこの祈りを(オーラーレ、)お聞きください(オーラーレ)大いなる海原に(オーラーレ・)住まう母よ(マレンデア)恐ろしいものが(プライドゥ・ダ)やって来ます(・マレーフィクサ)南の方からですメリディエースマレンネ真白き霧で(アルヴスネブラ、)我らに守護を(スクートゥム)どうかお守りくださいオーラーレ・デーフェンシオーラ我が偉大なる母よ(マレンデアーナ)


 それは独特な節回しの歌だった。

 ミシェットの幼く高い声は、大声で指示を交わし合う甲板にも不思議とよく響き、誰もがハッとして思わず手を止めた。


「オーラーレ、オーラーレ。オーラーレ・マレンデア。プライドゥ・ダ・マレーフィクサ、メリディエースマレンネ。アルヴスネブラ、スクートゥム。オーラーレ・デーフェンシオーラ」


 ミシェットは同じ詞を繰り返し歌う。

 何事か、と手を止めた水夫も士官達も揃って、外洋に向かって歌う小さな姿をぽかんとして見つめた。


「ミシェット!」


 平衡(バランス)を崩せば簡単に縁の向こうへ放り出されるような妻の姿に、エリックは青褪め、慌てて駆け寄る。けれど、ミシェットは歌うのをやめない。

 木箱の上から降ろそうとしたが、紅潮した幼い横顔は真剣そのもので、なにか強い意志を持って歌っている。その様子を受け止めたエリックは、ミシェットの邪魔をしないように後ろに立ち、そっと腰のあたりを支えた。揺れても落ちないように。

 何故突然こんなことをし始めたのか、エリックには見当もつかない。けれど、ミシェットの様子は真剣そのもので、肩幅に開いた脚を踏ん張っていることからも、彼女がこの歌を何処かに届かせようとしているようにも感じられた。


「オーラーレ、オーラーレ。オーラーレ・マレンデア。プライドゥ・ダ・マレーフィクサ、メリディエースマレンネ。アルヴスネブラ、スクートゥム。オーラーレ・デーフェンシオーラ」


 詞の意味はわからない。聞いたことのない言葉だ。

 なんだろう、と思いつつ、ミシェットが回している御守りを見る。不思議な音色を奏でるそれを見て、鳥笛のようなものだろうか、と思った。

 水夫達はミシェットの様子を気にしながらも各々の分担を熟して出航準備を整え、降ろしていた錨を引き上げる作業に移る。小舟で移動していたアーネストも、準備を終えたクイーン・ステラ号にようやく辿り着いたところだった。これでいつでも出航出来る。


 そのとき、観測台にいたティムが異変に気づいた。


「――…霧……?」


 雲の動きから風向きを計算し、シャー・ハヌーンの船との距離を測っていると、その視界が霞み始めたのだ。

 霧が出るような気候でもなければ、そういう海域でもない。この辺りは凪ぐことが多いが、視界が悪くなるような気象条件は持たない場所なのだ。おかしなこともある。

 ティムが首を傾げているうちに、霧はどんどんと濃くなっていき、シャー・ハヌーンの船影をすっかりと覆い隠してしまう。この様子には愕然とし、我が目を疑わずにはいられなかった。


「艦長」


 思わずエリックを呼ぶが、その霧が広がっていく様子は裸眼でもはっきりと確認出来ていたので、呼ばれるよりも先に、エリックは険しい表情でそちらを睨んでいた。


(なんだ、これは……こんな現象、見たこともない)


 海に出るようになってもう十年近くになるが、こんな気象状況に出くわしたことは未だ嘗て一度もない。仕事上、気象博士とも懇意にしているティムでさえ、こういう状況は経験したことも聞いたこともない。

 霧が発生するにはいくつかの気象条件が重なったときのことだが、この場合は、海水温と上空の気温に大きな差が生じた場合に発生することが多い。しかし、今は快晴の真昼で、季節も夏――霧の発生条件を満たすほどの温度差があるとは考えられなかった。しかも、霧が発生しているのは温暖な南海流の海域だ。それなのに、あの突然発生した霧は、まるで壁を作るかのように広がっていく。

 どういうことだ、と眉根を寄せていると、支えていたミシェットが「はあっ」と大きく息をついてふらついた。


「ミシェット!」


 すぐに抱え上げて木箱から下ろしてやると、ミシェットは真っ赤な顔に玉のような汗を掻いていた。

 だいぶ呼吸も上がっていたが、大きく息をつくと、エリックのことを見上げてにこっと笑みを浮かべる。


大成功です(・・・・・)! 今のうちに逃げましょう」


 ミシェットははっきりとそう言った。

 一瞬なんのことかわからなかったが、まさか、という思いが湧き上がった。


「――…ま、さか……あの霧は……ミシェットが?」


 そんなことがあるわけがない、と思いつつも尋ねると、傍にいたティムも、指示を出し終えてこちらに来たコレットも、驚いたように見つめる。

 ミシェットは大真面目な顔で「はい」と頷いた。





「――…鍵は、あの歌なのですか?」


 シャー・ハヌーンの船を完全に振り切り、少し落ち着きを取り戻した航海上の甲板で、エリックは幼い妻に尋ねた。士官や水夫達も手を止めて見守っている。

 はい、とミシェットは頷いた。


「お祖父様からこの御守りを頂いたとき、一緒にお手紙が添えてあったのです。これは『霧の灯台守の呼び笛』という名前で、奏でて歌えば霧を呼び出すと」


 大切な御守りを見せながら説明する。


「ヴァンメールの宮殿には、霧の灯台という鐘楼があるんです。灯台というのですけれど、夜になっても灯は入れません。主に時刻を知らせる為のものです」


 時報の鐘楼は何処の街にもある。その役割を担うものだという。


「昔、ヴァンメールを包み隠していた霧は、大公位を継いだ者がその鐘楼に登って、あの歌を歌うことで生み出していたそうなのです」


 話を聞いていた者達は皆息を飲んだ。

 南海の真珠とも呼ばれるヴァンメール公国は、二百年ほど前まで深い霧に包まれ、外界との交流をほとんど持たない国だった。人魚の末裔と噂される一族が統治するという噂と相俟って、摩訶不思議な島だと思われていた。

 その霧が晴れたのは、五代前の内乱が原因だろう、とミシェットの祖父である大公は言っていたが、詳しくはまだわからないという。


「詞は教えて頂いたのですけれど、内乱のとき以降、歌われることはなくなったそうで、お祖父様も詳しくはご存知ではなかったようです」


 御守りを握り締めてミシェットは呟くように語る。

 歌は直系にのみ口伝で伝えられていたので、五代も経った今では、大公ですらも知らないのだという。詞だけは書き留められているものがあったので、それを教えてくれたのだが、正確ではないかも知れないということだった。

 その話を聞いていたエリックは、ふとおかしなことに気づく。


「えっ、じゃあお嬢さんは、いったい誰に歌を習ったんですか?」


 同じ疑問を抱いたコレットが首を傾げた。

 そのとおりだ、と思って、つらつらと説明していたミシェットを見ると、彼女はそのことも説明しようと口を開くが、ハッとしたように怯えた表情になって口を噤んだ。

 この表情はなんだろう、と眉を寄せると、ミシェットは泣き出しそうな声で「ごめんなさい」と頭を下げた。


「リドウィニアさんに、教えてもらいました」


 その名前を耳にした者達は一斉にどよめいた。

 レディ・エスター号の乗組員達が、リドウィニアと名乗る異様な女と遭遇したのは二度ほどだが、一度目の邂逅時の衝撃がある故に、あまりいい感情を抱いている者はいなかった。エリックでさえ、ミシェットを危険に晒すかも知れないあの女のことは警戒している。


「……いつ習ったんですか?」


 尋ねるエリックの声が僅かに低くなる。その変化に気づかないミシェットは、


「お祖父様のお手紙を頂いてからです。音がわからないと歌えないので」


 明るい声で答える。

 その答えから、少し前にグリンフォード提督と街中を歩いているところに遭遇したことを思い出す。恐らくあのときだろう、とエリックは思い至った。それ以外に街中にひとりで出た話は聞いていない。

 はあ、と重く息をつくと、さすがに違和感に気づいたミシェットが、びくりと震えた。


()との約束は、ちっとも守るつもりがないんだな……」


 思わず零れた声音は低く、突き刺すような緊張感があった。その声を聞いたティムは、あっ、と小さく息を飲む。

 いつもと明らかに違う様子の夫に、ミシェットは「あの」と恐々と声をかけるが、彼はこちらを一瞥もすることなく立ち上がり、もう一度息をついた。


「悪いが、少し一人にさせてくれ」


 それだけを言い残し、エリックは甲板を後にしてしまう。

 コレットが慌てて立ち上がり、周囲を見回してエドガーに「ちょっと頼む」とだけ告げると、大慌てで上官のあとを追って行った。


「……ありゃあ、完全に怒ってるな」


 指揮官とその副官が立ち去った方向を見やっていたエドガーが、ぽつりと呟く。

 ミシェットは驚いて髭面を見上げるが、その目つきがやや困惑気な様子を見て、彼が言ったことが本当のことなのだと悟る。

 確かにさっきのエリックは、語調もいつもより強い感じだったし、まるでミシェットを突き放すような雰囲気だった。あんな様子は今まで見たこともない。

 エリックが怒るところを見たことがないわけではない。けれど、あんな様子は初めてだ。

 リドウィニアと会うなと何度も言われていたし、ミシェットもそれを約束していたのだが、あっさりと反故にしていたから怒らせてしまったのだ。子供の浅知恵で、気づかれないようにやればいい、と思っていた自分の愚かさを今更ながらに気づかされる。


「あ……っ、わ、私……、どうしよう……」


 役に立てたと思って意気揚々としていたミシェットだが、今は青褪め、大きな瞳を潤ませて声を震わせていた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ