3 出航
「アイオーニア! アイオーニア!」
バシリオスは長衣の裾を翻しながら、水庭園の奥を目指して足音荒く突き進んでいた。
国土の半分近くを砂漠に浸食されつつある乾いた国だというのに、宮殿の奥深くにあるこの庭園は、いくつもの噴水と、大きな留水池を複雑な流れの水路が結び、空気を潤わせている。その水の迷宮のお陰で緑も美しく豊かだった。
大声で呼ばれたアイオニアは覗き込んでいた水鏡から顔を上げ、まわりに控えていた女官達を手振りで下がらせると、こちらに向かって来ている異母兄の姿へと目を向けた。
「ここにいたか、アイオニア」
優雅な仕種で拝跪して出迎えた異母妹を立たせながら、バシリオスはホッとしたように笑みを浮かべる。そんな様子に、アイオニアは口許をほっそりとした指先で覆いながら、涼しげな笑みを零した。
「水のある場所ならば、私はいつでもそこに控えておりますわ」
「ああ、そうだな。そうだった」
謎めいた響きを含んだアイオニアの笑み声に、バシリオスは苦笑する。失念していたつもりはないのだが、そのようだったらしい。
「なにかご用でした?」
顔隠し用の薄衣をそっと頭から外し、紅い唇を笑ませて見つめ返すと、ああ、とバシリオスは思い出したかのように頷いた。
「オリンピアスの動きはまだないか?」
表情を引き締めたバシリオスからの問いかけに、アイオニアは先程まで見つめていた水鏡にもう一度視線を戻し、その上に掌を翳して意識を集中させる。しばらくすると、水鏡――聖水の張られた水盤は淡く光を放ち、風もないのに水面が波打って波紋を刻み始めた。それを見つめるアイオニアの空色の瞳も同じように銀色の光を帯び始め、バシリオスには見えない世界を見つめ始める。
マルス王国を統べる玉座を得る資格のある者とは、王の血統に連なる者であると同時に、この超常の力を有する者のことだ。アイオニアが持つ力は、バシリオスの持つそれよりも強大だった。
他国では『魔導師』や『魔法使い』などと称される存在は、マルス王国ではその呼称を厭い、天神に仕える『神官』と呼び、王は天の意を得て政を行うということになっている。
「……相変わらず、太陽神の神殿に立て籠もっておいでのようですね」
水鏡を見つめながらアイオニアは答えた。彼女の瞳には遠い神殿にいるオリンピアスの姿が見えているのだろう。
そうか、と頷きながら、アイオニアの背後へと回り込み、同じように水鏡を見つめてみる。だがやはり、バシリオスにはぼやけた像が薄っすらと見えるだけで、それがなにかまではわからない程度にしか感じられなかった。
アイオニアが翳していた手を引くと、光は消え、波紋も徐々に静まっていく。
「すっかりと膠着状態ですわね。如何なさいますの?」
見慣れた空色の瞳に戻った異母妹に問いかけられ、バシリオスは口許を歪める。
「知れたこと。三日後に発する最後勧告に応じなければ、太陽神への供物にしてやるだけだ。母子共々強い力を持っておるのだから、供物には最適だ。太陽神も悦ばれよう」
戴冠式は王都の太陽主神殿で行われることになっている。それを知っているオリンピアスは、ひと月前から私兵を率いてそこに立て籠もっているのだ。戴冠式を邪魔する為に。
まあっ、と恐ろしげに顔を顰めるアイオニアだが、バシリオスの言動を諫めはしない。それが当然の報いなのだから仕方がない。マルスの王位はこうして血を流しながら受け継がれて来たのだから。
そんな異母妹の頬へ、バシリオスの大きな手が伸ばされる。
「美しきアイオニア、我が妹――否、我が妻よ。お前のその力で、我を玉座へと導け」
バシリオスの言葉にアイオニアは微かな笑みを浮かべ、見つめてくる黒い瞳を見つめ返した。
「はい、異母兄上――いいえ、我が君。あなた様のお望みのままに」
その望みを叶える為に、手に入れなければならないものがある。
アイオニアがそっとバシリオスの背後に目を向けると、控えていたもう一人の兄弟がその視線に気づき、静かに目線を伏せた。
こんにちは、と笑顔で挨拶されたとき、ミシェットは少し怯えてしまったのだが、アレイスターがいい人だということはわかっているので、きちんと挨拶を返した。
エリックと接して慣れていたと思ったのだが、大きい人と相対するとやっぱり緊張してしまう。駄目だなぁ、と思いながらも、無意識のうちにエリックの袖口を握っていた。
そんな挨拶を交わしたのは港に着いてすぐのことだ。その大きな二人が桟橋のところで地図を広げて話し込んでいる様子を、ミシェットはレディ・エスター号の甲板から見下ろしていた。
「つまらなさそうですね、お嬢さん」
声をかけられたので振り返ると、コレットが立っていた。さっきまであちこちに指示を飛ばしていたようだったが、落ち着いたのだろうか。
そんなことないよ、とミシェットは首を振って見せるが、コレットは信じていないようだった。
「今回の航海は、前にお嬢さんをお迎えに行ったときのように単独行動ではないので、念入りに行程確認をしておく必要があるのですよ。行き違いがあったら困るので」
船団と呼ぶほどではないが、三隻の船で行くことになっている。その船にはそれぞれ艦長と呼ばれる指揮官が存在しているが、行動を共にする上で、指示系統はひとつにした方がいいに決まっている。そのまとめ役を担っているのが、今回はエリックなのだという。
ミシェットはコレットの説明に頷きながら、もう一度エリック達の様子に視線を落とした。ちょっと目を離していた間に、もう一人、ミシェットの知らない人が加わっている。あれが恐らくクイーン・ステラ号の艦長を任された人物なのだろう。
「アーニィお義兄様……国王陛下は、ご自分のお船の指揮はされないのですか?」
エリックはレディ・エスター号の所有者であり、艦長だ。けれど、クイーン・ステラ号の所有者はアーネストなのに、艦長は別にいる。
はい、とコレットは頷いた。
「もちろん陛下が自ら指揮を執られることもありますが、基本的には海軍から艦長に任じられた方が指揮を執ります。今はイブラル・ノックス艦長です。船を動かすのに多くの水夫や士官が関わっているのはご存知ですよね? クイーン・ステラ号は王家所有の御座船ですが、操船は海軍の士官達が携わっています。つまり、既に確立されている指揮系統をそのまま運用した方が、行動は迅速になるのです」
そういう事情から、アーネストは自分の船でもお客様の立場なのだという。なにかがあれば、例え国王という地位にいても、艦長の指示に従うのだ。それが海の男の鉄則だった。
もちろん慣例ではそうだが、例外の場合もある。以前レヴェラント島での戦闘時は、アーネストが総司令官として全権を持って指揮していたので、すべての海兵はアーネストの指揮下に入っていた。
エリックは元々軍属なので、自ら指揮を執るのは当たり前のことなのだ。
ミシェットは手提げの中から手帳を取り出し、コレットが教えてくれたことを書きつけた。船に乗るといろいろと興味深い話が聞けるので、覚え書き用の手帳が大活躍する。
「お嬢さん、落としましたよ」
屈んで膝の上を机代わりに書きつけていると、コレットが同じように隣に身を屈めて首を傾げた。その手が持っているのは、貝殻を模った水晶や紅玉等の宝石で作られた装飾品だった。
「あっ、ありがとうございます!」
いつの間に落としてしまったのだろうか。大切なものなのにうっかりしていた。
すぐ足許に落ちていてよかった、と安堵しながら受け取っていると、エリックとティムが甲板に上がって来た。
「エリック様」
慌てて手帳をしまい、立ち上がって駆け寄る。
駆け寄って来た妻の姿に気づいたエリックは、笑顔を向けてその小さな身体を抱き上げ、いつものように腕に抱いた。
「お話は終わったのですか?」
「はい。今運び込んでいる荷の積み込みが終わって、陛下達が到着されたらすぐに出港になります」
頷きながら、立ち上がって敬礼をするコレットに目を向ける。
「コレットが相手をしてくれていたのか? すまなかった」
「いいえ。こちらもすべて手配を終えたところでしたので、問題ありませんよ、艦長」
笑って返す様子を見ていると、胃の調子は悪くなさそうだ。先月の海賊討伐遠征のときにまた痛み出したようだったが、落ち着いているようで安心する。
だが、エリックはわかっていない。航海中に自分が無茶をすることに因って、コレットの胃が痛み出すことを。
よかったよかった、と安心しながら、なんとなくミシェットの手に目が留まる。
「最近、いつもそれを持っていますね」
エリックの記憶に間違いがなければ、彼女の祖父への問い合わせに対する返事が来たとき、一緒に届けられたものの中にあったものだと思われる。海産物を模しているので一見するとヴァンメール公国の民芸品にも見えるが、使われている宝石の磨かれ方などを見ると、宝飾品の意味合いの方が強い印象だ。そういったことを判断出来る程度には、目は肥えている。
はい、とミシェットは頷いた。
「海に出るときは持っていた方がいいだろうって、お手紙に書いてありました。御守りになるだろうからって」
そう言ってエリックの目の前に持ち上げて見せる。しっかりとした金鎖に貝殻型の宝石が連なっていて、簡素な首飾りのようにも見えるが、エリックにはどうも違うように感じる。御守りというから、身に着けやすくなっているだけなのだろう。
(御守りか……)
結局のところ、あれだけ時間と手間をかけて問い合わせをしたというのに、エリックは望む答えを得られないでいた。
人魚に関する伝承は、今でも伝わっている御伽話のもの以外、ヴァンメール公国の史書庫にも、エル・ダンテス家自体にもほとんど残っていなかったのだ。
アイリーン公女のことがあって以来、大公も歴史書を紐解いていてくれたらしいのだが、それでも目新しいものはほとんどなく、返事には『恐らく霧の消えた約二百年前の内乱時に、なにかがあったのだろう』と書かれていた。そのあたりに目星をつけ、歴史家達に重点的に調べるように命じているところなのだという。
なにかわかり次第すぐに連絡をくれるということになっていたが、未だにそれらしいことはなかった。
ほんの数日間のこととはいえ、ミシェットはこれから海に出ることになる。それまでになんらかの返事が欲しかったのだが――とエリックは貝殻を模した宝石達の中で、唯一なんの変哲もない棒状の形の水晶を眺めながら思った。残念でならない。
海に出ることが不安なのだったら、ミシェットには留守番をさせておけばいいことだと思われるだろうが、きちんとした招待を受けているので、そういう対応をするには少し問題がある。
それに、残したら残したで、また勝手に海に近づいて、リドウィニアと会うに決まっている。すぐに駆けつけられない距離にいるときにそんなことになられるよりは、手の届くところにいて欲しい。
エリックが帰国してからのひと月の間、ミシェットは反省したのか、海に近づいている様子はなかった。シャーロットに会いに行ったり、メリーウェザーに呼び出されてお茶をしていたりする様子はあったが、その他に外出している様子はなかった。
(――…いや、それだけじゃなかったな)
一度、海軍本部のすぐ傍で、グリンフォード提督と歩いている姿を見かけたときは驚いた。なにがあったのかと思えば、屋敷で暇をしていたので、料理長のお遣いを買って出たのだが、道に迷っていたところを助けてもらったらしい。
以前より随分と態度が軟化したグリンフォードは、ミシェットに親切に接してくれていた。それがエリックには心底意外ではあったが、グリンフォード家は昔から孤児院をいくつも支援している家柄なので、子供は嫌いではないのだろう。だからミシェットにも親切なのかも知れなかった。
「なに難しい顔しているの?」
不意に目の前で手を振られ、ハッと意識を元に戻すと、クラウディオが立っていた。いつの間に来たのだろうか。
「ディオ異母兄上……?」
「おや? 驚いてるね。見送りに来たんだよ」
きょとんとしている異母弟の様子ににこにこと笑みを向けながら、クラウディオは楽しげな口調で答えた。
今までに何度も航海に出ているが、そんなことしたことなんて一度もなかったのに、と首を捻るエリックの前で、クラウディオは懐から色とりどりの糸の巻かれた木片を差し出した。
「はい。海難除けの御守り」
クラウディオの領地であるロナンのある南部地方には、海岸に流れ着いた流木に、願掛けをしながら色糸を巻きつけたものを御守りにするという風習がある。土産物としても好まれるらしいので、エリックも以前に何度か目にしたことはあった。
しかし、これまた今まで一度も貰ったことのない餞別だ。
「ミシェットにもあげようね。あまり可愛くはないけれど、エリックとお揃いだよ」
本当になにを考えているのだろう、と更に首を捻っていると、同じものをミシェットにも差し出している。そこで納得がいった。
エリックがミシェットと海の関わりを案じていることを知っているので、この御守りを用意してくれたのだろう。気休め程度にしかならないかも知れないが、クラウディオの心遣いが嬉しかった。
「ちゃんとしまって、持ってることは内緒にしててよ」
「なんでです? 別にわざわざ言い触らすつもりはないですけど」
変なことを念押すな、と思って首を傾げると、クラウディオはちょっとまわりを気にして声を落とし、
「兄上達の分は用意してないんだ。あの人のことだから、見つけたら騒ぐだろう?」
と気不味そうに囁いた。
確かにそうだろう。何故自分の分はないのか、と声を上げ、ずるい、と言うに決まっている。そして、クラウディオはどうせすぐに逃げてしまうので、そのアーネストの口撃を受けるのはエリック一人になるのだ。
それは面倒臭い、と内心でうんざりし、素直に頷いた。
そこへ、桟橋の方から国王夫妻が到着した声が上がる。
「じゃあね」
クラウディオはいつものへらっとした笑みを残すと、そのまま桟橋へと降りて行った。アーネストと話すことがあるのだろう。
相変わらず掴みどころのない人だなぁ、とミシェットは少し呆気に取られていた。いつもにこにこしながらふわふわっと現れ、ふわふわっと去って行く。初夏の頃に見かける綿毛のような人だな、とその姿を見る度に思っていたのだが、今日もやっぱり綿毛のようにふわふわしていた。
四姉弟達の中で一番のんびりとした口調の所為だろうか。クラウディオはとても不思議な人だった。
「遅刻だ、陛下……」
寄って行ったクラウディオと話し始めたアーネストの姿を見下ろしていると、街中の鐘楼から正午を報せる鐘が鳴り響く。その鐘と共に出港の予定だったというのに、ここに到着したばかりで乗船すらしていない。
はあ、とエリックは溜め息を零し、仕方なく自分も挨拶に行くことにした。当然ミシェットも一緒に行くことになるので、慌てて手提げの中に祖父からもらったものと、クラウディオからもらったものの二つの御守りをしまった。
「おお、エル坊――いや、ラクレア艦長」
クラウディオに続いてやって来たもう一人の弟の姿に、アーネストは笑みを向ける。その後ろで久しぶりに会うアヌ王妃も会釈した。
「遅刻ですよ、陛下。時間を守って頂かないと、困るんですけどね……」
鐘が鳴り終わっているのに気にもしていない様子に、エリックはつい本音を口にした。団体行動なのだから予定をきちんと遂行してくれないと困る。
「乗り遅れたわけじゃないんだからいいだろう」
などと言って、アーネストはエリックの言葉を笑い飛ばした。
あなたの到着を待っていたのですよ、という言葉は辛うじて飲み込んだが、代わりに溜め息が零れた。この長兄にはなにを言っても無駄なのだ。
「あとは陛下の乗船を待つだけなんですから、早くしてください。あと、我儘を言って、ノックス艦長に迷惑をかけないように……」
「わかってるって! 俺をなんだと思っているんだ、お前は。子供じゃないんだぞ」
失礼な奴だな、とエリックの言葉を遮って眉を寄せるアーネストだったが、そんな彼の袖口を妻のアヌが引いて、文句を垂れる口を止めさせた。
「私達が遅れたのは事実ですし、その原因も、陛下がキャロルを離さなかった所為ですし、口答えはよろしくありません。指揮官であるエリック殿下のお言葉に従ってくださいませ。それが海上での鉄則なのでございましょう?」
アヌの言葉はまったくの正論だった。それでも「今はまだ陸上だ」とか屁理屈を捏ねて見せるが、アヌがにこりと微笑むと、そのおっとりとした笑顔の圧に負けてさすがのアーネストも大人しく頷くしかない。
よかった、とエリックは安堵し、そんな異母兄に「早く乗船準備を」と告げて踵を返した。その様子に、あら、とアヌは首を傾げる。
「マリー・ミシェット殿下は、クイーン・ステラに乗られるのではないのですか?」
エリックには自分の船があるのだからそちらに乗るものだとはわかっていたが、彼の船であるレディ・エスター号は軍船だ。女性の滞在には適していない。クイーン・ステラ号も軍船と同じ造りではあるが、今回のように国王一家の移動手段として用いられることもあるので、王妃や王女の滞在しやすい女性用の船室が元から設計されている。
そんなアヌの疑問に、アーネストはにやりとする。
「エスターにはミシェット用の部屋が用意してあるんだよ」
「まあ。そうなのですか?」
「新婚だから離れたくないんだろう。なあ、エル坊!」
「いいから黙ってさっさと乗船してくださいよ! いったいいつになったら出港出来るんでしょうかね!」
揶揄い口調のアーネストの声に腹が立って、思わず強い口調で言い返す。その様子にクラウディオが噴き出し、アヌが目を真ん丸に見開いていたが、知ったことか。
アーネストが絡むといつもこうなる。彼はエリックを見かけると揶揄わずにはいられないのだろう。まったく以て迷惑な人だ。
レディ・エスター号の甲板に戻ると、桟橋でのやり取りは見られていたらしく、乗組員達からなんだかニヤニヤとした視線を向けられた。その様子にエリックは僅かに頬を染め、ミシェットを下に降ろしてから、
「出港準備! 手を動かせ!」
と大声を張り上げた。
明らかに照れ隠しのその様子にドッと笑い声が上がるが、乗組員達はみんなてきぱきと自分の仕事の手を休めず動き回り、持ち場へと就いた。
港の方でも慌ただしく人々が行き交っている。荷物の積み残しがないか最終確認をしてくれているのだが、その中の責任者が合図の旗を大きく振り、異常がないことを連絡してきた。
「艦長、問題ありません。出港出来ます」
確認したコレットが報告し、エリックも頷き返す。
「ティム、風向きはどうだ?」
「タウゼント近海は西風。少し弱いけれど、航行にはまったく問題なし」
「よし。出港する! 錨を上げろーッ!」
エリックの声が大きく響き渡った。
応じる声が方々から上がり、海中に沈んだ錨を引き上げる重々しい鎖の音が重なる。エリックの声に呼応するように、同行するクイーン・ステラ号もフランシーヌ号も、錨の巻き上げを始めた。
ミシェットは船が港から出航する様子を甲板から初めて見た。以前のときは船室に入って乳母や侍女達と一緒にいたので、乗員達が合図し合う声は聞こえていたが、どんな様子なのかは知らなかった。
錨の太く頑丈な鎖を引き込んでいるのは少し下の階層だが、それでもズズズッと響くような振動を足許から感じる。その様子にミシェットは気分が高揚するのを感じた。
(海に出るんだ。エリック様と一緒に、また海に……)
故郷であるヴァンメール公国を出港したとき、ミシェットには不安しかなかった。会ったばかりの人と知らない人達に囲まれ、知らない土地に行くことになるのだから、心細くて不安で仕方がなかった。
けれど、今は違う。
大好きなエリックと共に航海に出るのだ。それがこんなにも胸躍ることだとは知らなかった。
以前の航海では何度か恐い目にも遭ったし、死にかけたりもした。けれど、これから出かける海は楽しみで仕方がない。いつもよりもキラキラと輝いて見えた。
「エリック様」
振り向いて声をかけると、彼はなにかを察してくれたのか、コレットに「ちょっと離れる」と言い置いてミシェットを抱え上げ、舳先の方へ歩いて行った。
ティムが再度風向きを確認して帆の向きを指示し、マストに登った檣楼員達の手で広げられた大きな白い帆布がいっぱいに風を孕むと、エドガーが慣れた手つきで舵輪をぐるりと回し、レディ・エスター号は緩やかに離岸して行く。
舳先に辿り着いたミシェットは、吹きつける潮の香りに目を細める。
故郷を離れたときの秋の海の物悲しいものとは違う。夏が近づいている海の生命力を感じる潮風が、とても快かった。