2 エリックの帰還
遠征から戻ると、港に屋敷からの迎えの馬車が待ちかまえていた。家令のジョージまで控えているときている。
なんだかいつぞやも見かけた光景だぞ、と思いながら、エリックは桟橋を渡った。
「王宮からのお召しがございます」
これまたいつかに聞いた覚えのある口上を述べるジョージに、エリックは片眉を持ち上げた。
「二度目の結婚をするつもりはないぞ」
「恐らく違うと思いますが……奥様のことに関するという意味では、正しいと思われます」
その答えに今度は眉を寄せた。
「奥様は三日前から、王宮にて謹慎を申しつけられておりまして、お屋敷を留守になさっておいでです」
「謹慎?」
どういうことかと問えば、更にわけのわからない答えが返された。エリックはますます混乱する。
自宅謹慎ですらないことがまた不穏な雰囲気だ。いったいなにをして、あの幼い妻は王宮での謹慎などという身になってしまったのだろうか。
とにかく急げ、とジョージに急かされ、エリックは馬車に乗り込んだ。
王宮に着いてすぐに国王の執務室の扉を開けると、待ちかまえていた異母兄が不機嫌そうな顔つきで睨みつけてくる。
「お帰り、エル坊」
「ただ今戻りました。それより、陛下。ミシェットは!?」
エリックはアーネストを睨み返し、妻の所在を尋ねた。その言葉にアーネストはますます不機嫌そうな顔になる。
「お前は、大好きなお兄ちゃんよりも、嫁のことが心配なのか!」
「当たり前じゃないですか。馬鹿なことを言っていないで、どうしてミシェットを王宮で謹慎なんかさせているのか、きっちりとご説明願いたい」
エリックの表情には珍しく怒りの色が浮かぶ。異母兄に対してこのような態度を取ることは本当に稀だった。
これは余程幼い妻のことが心配なのだろうな、とアーネストは思い、やんちゃな末っ子が自分の妻をとても大切にしているのだと改めて気づかされ、微笑ましい心地にさせられた。
来い、といつものように手招きすると、エリックはムスッとしたまま執務机の傍に立ち、まだ睨むような目つきで見下ろしてくる。その様子に思わず溜め息が零れた。
「悪いことをした子供には、仕置きが必要だろう。お前のときのように尻を叩いてやってもよかったんだが、さすがに人の細君に対してそのようなことも出来ないし、俺の監視下に置いて謹慎させたんだ」
「悪いこと? ミシェットがいったいなにをしたと言うんです?」
すぐに泣き出す大人しいあの妻が、お仕置きを受けなければならないほどの悪さをするとは、俄かには信じられなかった。なにかの勘違いではないかとさえ思える。
「お前との約束を破って、海にいた」
その答えにエリックは双眸を瞠り、異母兄を見つめ返した。
「あろうことか、人魚とやらを呼び出して、楽しげなお喋りだ。俺は目を疑ったぞ」
異母兄の言葉にまったく現実感を得られず、思わず「まさか……」と零すと、呆れたように鼻を鳴らされた。
「ディオにも訊いてみるといい。シャーロットも一緒になってそんなことをしていたんだからな」
次兄のクラウディオの妻であるシャーロットには、初代国王エリオット一世とエスター王妃の伝承について詳しく調べて欲しいと頼んであった。約七百年も前のこと故に、虚実混じった伝説しか伝わっていないので、もっと真実に近いことが知りたかったのだ。そのことにミシェットはとても興味を示していて、気にしているような素振りだったのは記憶している。
まさかエリックが留守にしたあとに、あの大人しいミシェット自らが、ほとんど会ったこともないような義兄嫁の許を訪ねていたとは、まったく思いもよらなかった。人見知りというほどではないが、エリックの部下達に慣れるまでにも少し時間が必要だったので、他人と関わるのにそこまでの積極性はないと思っていたのだが、女性が相手だと違うのかも知れない。
アイリーンのことがあってから、リドウィニアのことを警戒している旨はアーネスト達に伝えてあった。そのお陰で様子を気にかけていてくれたようで、すぐにミシェットの不審な行動に気がついてくれたようで安心した。自分の知らないところであの幼い妻になにかあったりしたら――と思うとゾッとする。
事態を把握したエリックはふっと肩の力を抜き、怒りを向けたことを異母兄に詫びた。アーネストもその謝罪をすぐに受け入れ、二人はまたいつもの調子に戻った。
「……それで、今回のことをミシェットは?」
「叱られるのが嫌なのか、なにも語らん。シャーロットもだんまりだ。仕方ないから二人揃って南翼のお前の部屋に謹慎させている」
共に行こう、と言われたので頷き、揃って執務室を後にする。
王城の南区画には王が家族と暮らす私的空間がある。エリック達が生まれ育ったのもそこだ。父王が崩御してアーネストが即位し、代が変わった故にクラウディオとエリックはそこを出てそれぞれに屋敷を構えたので、まともに足を踏み入れるのは随分と久しぶりのことだった。
一応は謹慎という態なので、扉の前には衛兵が配置されている。それを下げさせて鍵を受け取り、アーネストは錠を外した。
相嫁達は窓際の陽射しの温かな場所へ車座になり、床に広げた書面の整理に勤しんでいて、扉が開けられたことにも気づいていないようだった。
「ミシェット」
声をかけると、床の上に視線を落として集中していた幼い妻は、弾かれたように顔を上げる。驚きに瞠られた大きな双眸がエリックのことを見つめ返した。
「――…エリック様!?」
手紙にはあと数日で戻れるということは書いておいたが、正確な日付は記していなかった。それ故に、エリックが目の前に現れたことに驚いているのだろう。
駆け寄って抱き締めたかったが、ここは少し心を鬼にして、怒っているということを態度で示さねばならなかった。
夫のいつもと違う様子に、妙なところで大人びていて勘のいい妻はなにかを察したのか、ハッとしたような表情になり、そのまましゅんと顔を俯けた。その隣でシャーロットも青褪めるやら赤くなるやら、顔色をくるくると変え、気不味そうに目を逸らす。
エリックは悲しげに俯く小さな姿を見て思わず溜め息を零し、ゆっくりと近くへと歩いて行き、隣に膝をついた。それでもミシェットは顔を上げない。
「なんでこんなところで謹慎させられているんですか?」
ずっと黙秘を続けているという理由を訊き出したくて、きつくならないように口調に気をつけながら尋ねてみる。ミシェットは僅かに顔を上げたが、すぐに眉尻を情けなく下げて俯き、首を振った。
これは訊き出すのに時間がかかるだろうか、とほんのりと覚悟を決めながら、更に質問を続けることにする。
「わたしとの約束を破ったそうですね」
この問いには大きく肩を揺らしたが、叱られると思っているのか、顔を上げることはなかった。
仕方なく手を伸ばし、縮こまる小さな身体を抱き上げる。まだまだ軽い子供の身体は簡単に持ち上がり、エリックの腕の中へと違和感なくすっぽりと収まった。
「ミシェット、ちゃんと話して欲しいのですが?」
「…………」
「ここについている可愛いお口は飾りですか?」
黙ったままの妻の小さな唇を指先で軽く抓むと、彼女は驚いたように視線を上げ、それからとうとう瞳を潤ませた。
「――…ごめっ、……さい……っ」
「泣かなくていいですよ。まだ怒っていませんから」
しゃくり上げ始めたミシェットの背中をぽんぽんとあやすように撫でていると、背後から異母兄の視線を感じる。どうせニヤニヤ顔で眺めているのだ。
「海に行っていたと聞きました。なにをしていたんですか?」
宥めながら静かに問いかけると、ミシェットはようやく観念したのか、手の甲でごしごしと目許を擦りながら顔を上げた。
「リドウィニアさんに、会っていました」
涙に濡れる声で懸命に回答を紡ぐ様子を見ながら、アーネストが言っていたことはいつもの冗談でもなんでもなく、真実だったのだとわかる。隣で必死に視線を逸らしているシャーロットの方へ向き直ると、彼女は焦ったように表情を青褪めさせるが、ミシェットの言っていることは正しいのだと同意するように、こくりと小さく頷いた。
無意識のうちに溜め息が零れると、その様子を怒りを抑えようとしているとでも思ったのか、ミシェットが身体を強張らせる。
「なんで会っていたんですか?」
この質問にはすぐに返答はない。瞳を潤ませて口をもごもごさせてから俯いた。
「――…あの、殿下!」
また黙ってしまったミシェットの代わりに、シャーロットが声を上げる。人見知りが酷く、自分の夫とすらまともに話せない彼女が自分からエリックに声をかけてきたことはほとんど初めてのことだったので、つい驚いて振り返ってしまう。シャーロットは顔を真っ赤にして、緊張からなのか、眼鏡の奥の瞳を潤ませていた。
「なんでしょうか、義姉上?」
他者と接することが極度に苦手なシャーロットに対しては、急な身振りなどは控え、声は大きくならず、静かに落ち着いた口調で話しかけると通じやすい――と以前クラウディオから聞いたことがある。そのことを思い出して意識しながら、エリックは胸許でぎゅっと手を組んで震えている兄嫁を見つめた。
声をかけはしたものの、言うべき言葉の内容は纏まっていなかったらしく、シャーロットは小さく息を飲んで「あの、その……あの……」と震える声と泳ぐ視線で必死になにか考えているようだった。
「ゆっくりとでいいです。なにか仰りたいことがあるのならば、落ち着いて、ゆっくりと」
それを待てる気の長さは持ち合わせている。気短なアーネストは痺れを切らしそうだが、彼も一応はシャーロットの性格をよく知っているし、急かすようなことはないだろう。
沈黙の降りてきた部屋の中に、ミシェットの鼻を啜る音と、シャーロットの荒い息遣いだけが、静かに時間の移ろいを示していた。
生憎ハンカチの持ち合わせがなかったので、首許のスカーフを緩め、その先でミシェットの涙の痕を拭う。幼い妻は驚いたようだったが、その仕種に怒っている様子はないと感じ取ったらしく、小さな手で躊躇いがちに上着を掴んできた。
しばらくして、言葉が纏まったのか、シャーロットがか細く「あの」と声を上げた。
「わ、私が、マリーに頼みました。……リ、リドウィニアさんに、会ってみたい、って」
「お前がか? 何故?」
アーネストが思わず尖った声を零す。その様子に怯えるように身を竦められたので、怒ってはいない、と慌てて口調のきつさを訂正した。
しかし、彼女はリドウィニアの存在を知らない筈だ。それなのに何故、その存在に会いたいなどと思うのか。
それはエリックも同じ気持ちだ。妻を溺愛しているクラウディオが話したのかとも思えるが、昔から三人の間で秘密にしていることは決して口外しない。暗黙の了解ともいえる。そんな彼がいくら妻だからといって、気軽に口を滑らせるとは思えなかった。
(そうなると……)
エリックは自分の腕の中にいる妻を見つめた。ようやく泣き止んだ彼女は、泣いた為か少しぼんやりした様子だった。
別にリドウィニアの存在に対して箝口令を布いているわけではない。レディ・エスター号の乗組員達は全員知っているし、エリックから口外してはならないと言った覚えもない。それでも、あんなわけのわからない存在のことを軽々しく口にする者はいないし、誰に話しても信じてもらえないだろうと思い、他所の人間に話そうとは思っていないのが一致した意識だといえた。
ミシェットの行動の理由に考えが及ばなくて悩んでいると、シャーロットがまた口を開いた。
曰く、王立図書館で資料を漁っていたシャーロットの許にミシェットがやって来て、一緒に文献を見たい、と申し出たらしい。人付き合いが極端に苦手なシャーロットだが、分別もつく年頃の子供なら多少は話しやすいらしく、少し話をしたあと、一緒に建国史の洗い出しをしようと手を結んだということだった。
当時のことに詳しい人が生きていればいいのに、と夢のようなことをぽつりと呟いたシャーロットに、ミシェットがリドウィニアのことを話して聞かせたのは、一緒に調べるようになって半月程が過ぎた頃のことだという。
「だから、マリーは悪くありません。私が頼んだんですから」
言葉を選んでつっかえながらたどたどしく説明を終えたシャーロットは、大きく息を吐き出した。口下手な彼女には相当な労力を要したことだろう。頬を真っ赤にして額を汗ばませている様子を見て、彼女がミシェットを守ろうと頑張ってくれていたことに気づく。その優しい心遣いがミシェットの夫として嬉しかった。
アーネストがシャーロットの隣に身を屈め、ビクつく彼女にハンカチを差し出した。怯えながらもそれを受け取った様子ににこやかな笑みを浮かべると、エリックへと振り返る。
「やれやれ。お前がいるとご婦人方の口が軽いのは、昔からだな」
幼い頃から異母姉や女官達に囲まれて甘やかされていたことを揶揄うように口にするので、そのことを不満に思っていた当の末っ子は、むっつりとした表情を異母兄に向けた。
アーネストはからりと笑って異母弟の視線を躱し、シャーロットに向き直る。
「このことをさっさと話していてくれれば、三日もここに軟禁されることはなかったんだぞ?」
その言葉には二人が揃って「えっ!?」と声を上げた。わざわざ王宮での謹慎を申し付けられたのだから、そう簡単に出られると思っていなかったのだ。
そんな弟嫁達の反応にアーネストはにやりとする。
「まあ、ミシェットには言いつけを破ったお仕置きもあるから、エリックが戻るまではここにいてもらうつもりだったがな」
これ以上海に近づかせない為に監視する目的もあったので、目の届く範囲に置いておきたかったのだ。自宅にいさせると周囲が甘やかす可能性もあったので、王宮に呼び寄せただけのことで、本人に反省を促させる以外でたいして深い意味合いはない。
そして、今回のことで面倒だったのはクラウディオだ。
彼は長年の片思いを実らせて結婚した最愛の妻が家を空けてしまったので、ここのところずっと消沈している。この謹慎の件は自分で言い出したことだというのに、シャーロットの不在は相当に堪えたらしい。
馬鹿な奴だよなぁ、と笑うアーネストの姿に、エリックは嫌そうに顔を顰めた。この悪ふざけが大好きな長兄は、自分には一切害のないこの状況を絶対に面白がっている。
「そんなわけだから、二人とももう帰っていいぞ。シャーロットは少し待っていろ。そろそろディオが仕事を終わらせて迎えに来るから。ミシェットは帰ったら、エリックからしっかりと説教を受けるように」
これにて一件落着、とアーネストは笑った。
やっぱり面白がっている、と思いながら、エリックは溜め息を零した。
ひと月振りに帰国した主人と、三日前から王宮で謹慎を命じられていたその奥方の帰宅に、レヴェラント公爵邸の使用人達は安堵の表情を見せた。
「姫様……ミシェット様……!」
先に戻っていたジョージから話を聞いていたミシェットの乳母であるニーナは、転がるようにして玄関に飛び出して来た。
エリックに抱えられていたミシェットがニーナの声に振り向き、その稚い丸い頬に涙の痕があることに気づくと、ニーナはその場にひれ伏すように膝をついた。
「ああ、殿下! 申し訳ございません。すべては私が悪いのです。お出かけになられる前に、ミシェット様のことを見ているようにとお申し付けくださったのに、このようなことになりまして……っ」
「ニーナさん、ちょっと落ち着いて」
自分の非を捲し立てて謝り倒す乳母を押し留め、エリックは帰国してから何度目になるかわからない溜め息を零した。
「今回のことは、しっかりとミシェットと話してから出かけなかったわたしが悪いんです。ニーナさんの所為じゃないし、きちんと伝わっていなかったミシェットの所為でもない」
「殿下……」
「だから、ちょっとしっかり話してきます。来月のこともあるし」
知らずうちに声が低くなったのは、気分が滅入ってきていたからかも知れない。
もう一度、今度は疲労感を滲ませる溜め息を零してから立ち上がり、ミシェットの部屋へと向かった。
「――…いいですか、ミシェット」
真面目な話をするつもりなのできちんと椅子に座らせ、エリックも正面に腰を落ち着けた。その様子に気づいたミシェットは、さっきからずっと潤んだままの瞳をまっすぐに向けてきて、しっかりと頷いて身構える。
「あなたの叔母上のことは覚えていますよね? あの方が、どうなってしまったのかということを」
ミシェットは慎重に頷いた。
以前からヴァンメール公国の国主の座を狙っていたアイリーンは、継承順位が自分よりも上位のミシェットを邪魔にしていて、命を狙っているという噂が絶えなかった。その彼女に本当に殺されかけたミシェットだったが、危ういところをリドウィニアに助けられたことは記憶に新しい。
朦朧としていてすぐに意識を失ったミシェットは、その場をはっきりとは見ていないが、アイリーンはリドウィニアとその同族の者達に海中へと引きずり込まれ、浮いて来なかったのだという。エリックや、彼の部下達は多くを語らずにいてくれたが、そのことはなんとなく窺い知れた。
そして、リドウィニアもはっきりと言っていた。動かなくなってしまったの、と。
叔母は亡くなったのだと思われる。リドウィニア達に海の中に引き込まれ、溺れ死んでしまったのだ。
「わたしはね、ミシェット……あなたまでも、アイリーン公女のようになられてしまわないかと、不安で仕方がないのです」
妻の幼く小さな手を握り締めながら、エリックは本音を告げる。その声音があまりにも苦しげだったので、ミシェットは不安げにその表情を覗き込んだ。
エリック様、と幼い声に呼ばれ、顰めていた顔を緩めて無理矢理に微笑む。
「実は今、あなたのお祖父様――ヴァンメール大公に、質問状をお送りしているのです。紛失などが恐ろしかったので、ちょっと面倒な手続きを踏んでいて、余計な時間がかかってしまっているのですが」
しかもヴァンメール公国のある南海が、長年幅を利かせていた大海賊ゴッサムが捕縛されたことにより、今まで抑えつけられていた小物の海賊達が暴れ始めて荒れていた為、親書の輸送には時間のかかる陸路を使うことになっている。それ故に、更に時間がかかることになってしまっているのだが、そろそろその返事が戻って来る頃合いだ。
「お祖父様に質問状? なにをお訊きしようとなさっているのでしょうか?」
「はい。エル・ダンテス家と、人魚の伝承のことを」
ミシェットは静かに双眸を瞠った。
「あなたは気を失っていたので聞いていなかったでしょうが、リドウィニア達は言っていたのです。アイリーン公女に向かって『マリーナとジュリオの子、お帰りなさい』と。そして『行きましょう』と公女の手を引き、海の中へと消えました」
楽しげに、嬉しげに笑う女達の声に交じり、アイリーンの絶叫が響いて消えたあの波間の残響を、今でもありありと思い起こせる。
「ヴァンメールの二代目大公であったジュール公と、その奥方のマリーナ姫の話は、あなたからも、ニーナさんからも聞きました。それ故に不安なのです。あなたもまた、マリーナとジュリオの子だから」
二人の末裔であるアイリーンが、その血筋を理由にあのようなことになったのだとしたら、ミシェットも例外ではない。いつどのようなときに、アイリーンと同じように海中へと引き込まれるかわかったものではない。
杞憂であればどれだけいいか。しかし、美しい南海に囲まれた島国に暮らしながら、いくら命を狙われて宮中深くで暮らしていたからとはいえ、生まれてからの十年近くの間、一度も海に出たことのないと語ったミシェットの環境に不安を感じずにはいられない。なにか海に出られない事情があったのではないか、と。
ミシェットは黙ってエリックを見つめ返していた。彼がそんなことを案じていたなどと、露ほどにも思っていなかったからだ。
彼が何故、出征前に何度も念を押すように海に近づくなと言っていたのかわからず、深く考えもせずにただ頷いていたのだが、ようやく理由がわかった。ミシェットがリドウィニア達に因って、叔母と同じ道を辿るのではないかと案じてくれていたのだ。それなのにミシェットは、なにも考えずに人気のない入り江に近づき、軽々しくリドウィニアと交流を持ってしまっていた。
結婚したことを祝ってくれた彼女を悪い人だとは思えなかったのだ。実際に呼び出してみたら気さくに話してくれるし、いつもにこにこと微笑んでミシェットのことを眺めていたし、見知らぬシャーロットにも親切に語りかけてくれていたし、そんなに害があるような存在だとは思ってもいなかったのだ。
ミシェットは自分の考えの浅さに気づいて恥ずかしくなり、心配してくれていたエリックに申し訳なくなって、思わず涙を零し始めてしまう。
今日は泣いてばかりだ。めそめそとしていたらエリックが困るのはわかっているのだが、どうしても止められない。
「……ごめんなさい、エリック様」
しゃくり上げながら謝ると、彼はやはり少し困ったような顔をして、静かに首を振った。
「あなたは意外と泣き虫だったのですね」
そう言って苦笑したエリックは、小さな妻の身体を抱き寄せた。
泣かれるのは困るのだが、感情を露わにしてくれることは嬉しく感じている。
ミシェットと出会ってから既に半年――彼女は最近、怒ったり泣いたり、そういった負の感情もエリックにぶつけてくれるようになった。遠慮がちに微笑んでいるだけではなく、自分の思ったことを態度に出すようになってくれたということは、打ち解けてきてくれているということに他ならない。それがエリックは嬉しかった。
「さあ、もう涙を拭いてください。もうひとつ、大事な話があるのです」
あやすように肩を優しく叩きながらそう告げると、ミシェットは不思議そうに小首を傾げ、瞬きをする。涙がぽとぽとと零れ落ちたが、それが最後だったようだ。
「少し先のことになりますが、マルス王国に行くことになりました」
ミシェットはその国名を耳にして、少し不愉快そうに眉を寄せる。エリックはひと月程前にその国に呼び出され、ウルシア王国との合同海賊掃討軍に参加し、行って帰って来たばかりではないか。
そんな妻の明らかな不満顔に、エリックは笑みを向ける。
「大丈夫です。今度は一緒に行きましょう」
「お仕事ではないのですか?」
「うーん。お仕事はお仕事ですが、これは軍務ではなく、王族としてのお役目ですね」
ミシェットにわかりやすいように言葉を選びながら、その理由を伝える。
「今度、マルス王国に新しい王が即位するのです。その式典に参加するのと、同時に新王が婚礼を挙げるというので、そちらへの参列が目的です。つまり、わたしの妻であるミシェットにも来てもらわないといけないのです」
他国のことでも、親交のある王族に関わることであるのなら、そういったものに参列するものだ、と言われ、ミシェットは頷いた。そういう理由で祖父が何度か遠出していることは知っていたからだ。
ミシェットが素直に頷いてくれたので、よかった、とエリックは笑った。
「お腹が空きましたね。夕食にしてもらいましょうか」
「はい。――あっ」
立ち上がってからミシェットはハッとして声を上げた。その様子を怪訝に思って振り返ると、幼い妻は申し訳なさそうに「あの」と言いながら見上げてきた。
「言い忘れていることがありました」
「なんですか?」
深刻な口調のミシェットの様子に、エリックも僅かに緊張を滲ませる。
「お帰りなさいませ、エリック様――と、言うのを、すっかり忘れていました。申し訳ありません」
心からすまなさそうにそう言う妻の様子に、エリックは一瞬呆気に取られたが、すぐに破顔した。
「わたしも言い忘れていました。ただいま、ミシェット」
そう言って笑い合っている二人は、まだ知らなかった。
これから向かうことになる砂漠に魔女が巣食っていることを。