幕間4 冬の日~見舞い~
今日のタウゼントは朝からかなり冷え込んでいる。
いつもの日課の鍛錬を熟したエリックだったが、今日は身体が温まるのが精々で、いつものように汗を掻くまでには至らなかった。これは本格的に冬季に突入したな、と白い息を吐き出しながら払暁の空を眺める。
その寒さを物語るかのように、エリックが屋敷を出るとき、ミシェットは小さなくしゃみをしていた。くちん、と本当に微かな音を漏らすので、あまりの可愛らしさに笑みが込み上げた。
「今日は随分と冷えています。風邪をひかないように」
すっかり習慣化した頬への接吻をして告げると、ミシェットははにかみながら頷いた。
「エリック様も。お馬で行かれるのですから、寒くないようにしてくださいね」
「わかっています。手袋も持ちましたから」
ほら、と防寒の皮手袋を見せると、ミシェットは安心したように微笑んだ。
行ってらっしゃいませ、と振られる手の小ささを愛しく感じながら、エリックは愛馬の手綱を引いた。
いくつかの書類仕事を済ませ、先日の海戦で破損したレディ・エスター号の改修が何処まで進んでいるのか確認の為に港に向かおうと部屋を出たところで、エリックは思わず「げっ」と小さな声を零してしまった。慌てて口許を押さえるが、相手には聞こえていないと思いたい。
「おぉや? これはこれは、エリック王弟殿下ではありませんか」
丁度部屋の目の前を通り過ぎるところだったのは、エリックの苦手なニコラス・グリンフォード侯爵だった。
「……ご無沙汰致しております、グリンフォード提督」
一応上官であるグリンフォードに向かい、エリックは敬礼の姿勢を取った。彼の補佐官も敬礼を返してくる。
「お怪我の方は、もうよろしいのですかな?」
「はっ。既に完治し、四日前より軍務に復帰しております」
「それは結構」
グリンフォードはくいっと顎を上げ、自分よりも随分と上の方にあるエリックの顔に向かって笑みを向けた。相変わらず友好さの欠片もない嫌味な雰囲気の笑みだ。
「そういえば、ご結婚されたそうですな」
形式的な挨拶は済んだのだから、いつものようにすぐに立ち去ればいいのに、今日は珍しく話を振ってくる。少し嫌々ながらもエリックは受け答えた。
「はっ。若輩者ながら、よき縁に恵まれまして」
「そのようですなぁ。王陛下のお名前で、お目見えの宴を催されるとか。招待状が届けられておりました」
「陛下のご命令ですので」
これ以上はあまり話したくない話題だ。なにせこの披露宴について、仕切っているのはアーネストとクラウディオの二人で、当事者である筈のエリックはなにも関わっていないのだから。
元々が他国の王族同士の婚姻であるので、主導するのは外交を司る外務省と、王室関連の一切を担う儀典省直轄の王族侍従局だ。普通の貴族の家のように、本人や親などが主導して式の準備をすることはない。
そのことはグリンフォードもわかっていることだろうに、なにか言いたげな目をエリックに向けてきている。勘弁してくれ、と内心でうんざりだ。
しかし、今日は珍しく、これ以上ネチネチと責められることはなく、ここで話は切り上げられた。
「宴は十日後でしたな。ご祝儀をたくさん包ませて頂こうか」
「はっ。お心遣い痛み入ります」
「殿下のご結婚に、陛下にご嫡男のご誕生――王家は喜ばしい話題続きでいいことですな」
ほんの少しだけ棘を含んだ口調でそう告げ、グリンフォードは補佐官を引き連れて立ち去った。その後ろ姿をエリックは敬礼で見送る。
角を曲がって老提督の姿が見えなくなったところで、はあ、と大きな溜め息が零れた。
「やれやれ、だぜ……」
あまり人に対して好き嫌いを抱かないエリックだが、グリンフォードだけはどうしても好きになれないし、歩み寄りたいとも思えない。極力関わり合いたくないのが本音だ。
昨年の人事異動で、彼が王都の本部勤務から南方支部司令に就任してくれたので、物理的な距離感で離れられたのを内心喜んでいたのだが、結局は月に一度か二度は顔を合わせることになっているのだからうんざりだ。チクチクと嫌味を言われる所為なのか、敵意を隠そうともしない視線を投げかけられる所為なのか、彼と会うとほんの少しだけ胃が痛い。
(胃が痛いといえば……)
きゅうっと痛む胃を抑えながら、胃に穴を空けて療養中の副官のことを思い出す。
昨日の昼に顔馴染みのあるブランドンに頼んで見舞いに行ってもらい、思っていたよりも元気そうだった、と報告してくれているので安心しているが、そろそろ復帰してもらわないと困る。主に事務方の仕事面で不都合を来し始めているのだ。
しばらく海上には出ないのだし、この際だから事務仕事も覚えろ、とクラウディオから叱られたのだが、机の前に座っているのはどうにも性に合わない。
副官というのはお前の秘書でも従者でもないのだぞ、とアーネストからも呆れられているが、書類仕事はどうしてもコレットを頼ってしまう。
「ラクレア艦長、外出ですか?」
外套を羽織って厩に行くと、見回り中の衛兵に声をかけられた。
「ああ。第五船渠のエスターの様子を確認してから、王立病院に行って来る。戻りは昼過ぎかな」
「わかりました。お気をつけて」
明るい笑顔で敬礼されたのでこちらも微笑んで返し、愛馬に跨った。
レディ・エスター号が収容されている第五船渠は、王家所有の船舶の係留場所と隣接してはいるが、海軍司令部のある港から商業港を挟んで向こう側にあり、他の船渠とは少し離れている。軍属ではあるが王家の船舶という微妙な所属身分がそうさせているのだが、少し不便だった。
丁度大型商船が入港した時間帯だったようなので、人混みを避けて港を迂回し、倉庫街を抜けて港の端に向かう。途中ですれ違った子供達がエリックの姿に気づいて声を上げるので、笑顔で手を振って馬を急がせた。
海賊ゴッサムとの戦闘からひと月と少し――傷ついていたレディ・エスター号は、もうすっかりとその修理を終えていた。
「棟梁」
若い船大工達に指示を出していた厳つい男に声をかけると、彼は物凄い形相で振り返ったが、呼びかけたのがエリックだと気づくと破顔した。
「殿下! 謹慎は解けたんですかい?」
「あんたまで知ってるのか」
「知ってますよ、そりゃあね。なんたって陛下が直接教えてくださったんだから」
エリックが昏倒している間に帰港した折に、船の修理を命じながらその話もしたのだ。余計なことを言いやがる、とエリックは異母兄の行動を恨めしく思った。
微妙な表情になったエリックを見て、レディ・エスター号の建造から関わっている熟練の船大工は豪快な笑い声を響かせた。
「ご無事でよかったですよ。この姫君もね、そこまで大きな破損じゃなかったから」
丁度いいことに定期修繕をする時期であったこともあり、戦闘での破損個所の修復と共に、海水で傷んだ部品などの交換も済ませてくれていた。既に最後の仕上げの段階なので、あと三日もあれば再び出港できる状態になる。
そうか、と頷きつつ、すっかり元どおりになった船体を見上げた。
潮風に混じって真新しい木材の匂いがする。新しい船が出来上がったときのものに少し似ているその香りが、エリックはとても好きだった。
「船はね、いくら壊してかけさせても、こうして修理ができますんで、いいんです。人間はそうもいかんのでね」
隣に並んで同じように船体を見上げた棟梁が呟いた。
もしかすると、昏倒して運び出されるエリックの姿を彼も見たのかも知れない。命に関わるような重篤なものではなかったが、彼の息子にも怪我をさせている。心配させたのだろうと思われた。
「気をつけるよ」
頷いて返すと、棟梁は照れ臭そうに鼻を擦った。
「そういやね、ご希望にあった船室の改修なんですが」
思い出したように腰に下げてある道具袋から図面のひとつを引き抜き、エリックの前に広げて見せる。
「技術屋に相談したら、ここをこうして、こうするのがいいだろうってんで、こっちに仕切りを入れて、こうしたんですよ」
「ああ、いいね。広さも丁度よさそうだ」
「でしょう? ま、これ以上は弄りようがないんですがね」
これ以上どうにかしようとなると、新しい船を一から作った方が手間が少なくて速い、と棟梁は笑った。
少し改装するだけで普通の修理の倍の時間がかかってしまっているのだから、確かにそうだろう。無理を言った自覚はあるので、エリックは心から感謝の言葉を述べた。
「おじいちゃん!」
修理の状況の報告を受けていると、小さな女の子が駆け寄って来て棟梁に抱き着いた。
「おぉ、イジーじゃないか」
危ないから来ては駄目だろう、と叱る口調になりながらも、目尻は下がってデレッとしている。エリックは苦笑し、あとからやって来た少女の母親へ目を向けた。
「やあ、サム」
「ご無沙汰しております、殿下。先日はお見舞いに来て頂いて……」
「エドガーの怪我は俺の所為だからな」
恐縮する態のサムに首を振り、改めて自分の失態を詫びた。
「お父さん、明日からお仕事に行くって」
祖父に抱き上げられたイジーはエリックに笑顔を向けた。医師から全快のお達しが出たらしい。そうか、とこちらも笑顔で頷く。
「お休みいっぱいあったから私は遊んでもらえて嬉しかったけど、働かないと王子様が困るんでしょ?」
「そうだな。お父さんがいないとお船が動かせないからな」
一度航海に出ると、最低でもひと月は戻らない。それ故に、エリックの下で操舵手を務めるエドガーは留守がちで、しかも冬になると南方支部に単身赴任してしまうことになるので、一人娘のイジーは寂しい思いをしていることだろう。これが仕事とはいえ、まだ六歳の幼い少女には少し不憫だ。
イジーはちょっとだけ寂しそうな笑顔をエリックに向けた。
「でも今年の冬は、ナイチキンムだって言ってた」
「ああ、そうだ。今年は南に行くのが間に合わなかったから、王都に残るんだ」
たぶん内地勤務の言葉の意味は理解していないだろうな、と思いながら頷く。
「ナイチキンムは毎日お家に帰って来れるんでしょう?」
「毎日は無理かな。当直勤務があるから」
「そっかぁ……でも、トーチョクキンムがないときはお家に帰れるんでしょ?」
「そうだよ」
エリックが質問に頷くと、イジーは「くふっ」と嬉しそうに笑みを浮かべた。
サムは娘の態度を申し訳なく思う。気安く接してくれる人ではあるが、目の前の青年は国王の弟なのだ。本来なら、サムやイジーは顔を合わせることも、直接話をすることもできないような身分の人なのだ。
すみません、と頭を下げるサムに首を振り、エリックは外套の隠しから小さな包みを取り出した。
「いい子のイジーに、俺の間食を分けてあげよう」
「なぁに?」
「俺のお嫁さんが作ってくれた焼き菓子だよ」
手渡すとイジーは嬉しそうに微笑み、礼を言った。
「じゃあ、棟梁。引き続きよろしく頼む」
「任せてくださいよ、殿下!」
どんと胸を張る棟梁に笑みを向け、エリックは再び馬上の人となった。
胃潰瘍で入院中だったコレットは、見舞ったときに丁度退院許可が下りたところだったらしく、明日から職場に復帰する、と鼻息荒く伝えられた。
「艦長のことですから、どうせ書類を溜め込んでいるんでしょう?」
エリックが思わず口ごもると、そらみたことか、とコレットは自信に満ちた笑みを浮かべた。
「なんでもお見通しですからね? わたしがいないと本当になにもやらないんだから、艦長は! 困ったもんですね、まったく!」
怒った口調で言っているが、表情はなにやら明るい。ものすごく嬉しそうだ。
はあ、とエリックが溜め息混じりに頷いていると、隣の寝台を使っていたティムが笑っていた。
「素直じゃないですよね、コレット大尉は」
コレットはエリックに頼られることに喜びを感じているし、自分が彼を支えているのだと自負していた。だから小言を言いつつもエリックの無茶に付き合うのだ。
そんなもんかな、とエリックは首を傾げる。コレットはエリックの所為で胃に穴を開けたというのに、そんな存在に付き合っていて楽しいことなどないだろう。仕事で仕方なく付き従っているだけだと思っている。
この考えにはコレットが眉を吊り上げた。
「お言葉ですがね、艦長。わたし以外にあなたの無茶に付き合える人がいると思います?」
いないと思う。
ほらね、とコレットはにんまりした。ティムがまた笑ったが、塞がったばかりの傷口に響いたのか、小さな声で「痛たたた」と呟いた。
二人とも先日見舞ったときよりも元気そうだ。
銃創を負ったティムは失血が酷かったこともあり、三日も昏睡したままで一時はどうなることかと危ぶまれたが、体内に残っていた弾丸も無事に取り除かれ、化膿したりもしたが順調に快方へと向かっている。それでも今回の怪我人の中では二番目に重傷であり、退院もあと数日は先になるとのことだった。
「ミシェットが見舞いたいと言っていた」
興奮しているコレットを宥めながら告げると、ティムは口許を綻ばせ、コレットは僅かに残念そうにする。
「そうですか。お嬢さんはお元気ですか?」
「ああ、元気だよ。前々から見舞いに来たがっていたんだが、ちょっと家の方で面倒が起きていてな」
「わたしは今日退院するんですけどね」
「時機が悪かったな。すまん」
「別にいいですけど」
今度は拗ねたような口調になるコレットの様子に、相変わらず感情の起伏が忙しい奴だな、とエリックは苦笑する。
エリックより二つ年下のマーティン・コレット大尉は、元々かなり感情豊かな青年だ。けれど、船上では副官という立場もあり、上官であるエリックが無茶ばかりするので、補佐としてなるべく冷静でいようと努めてくれているらしく、怒りっぽいことを除けばかなり大人しい。それ故に陸に上がったときとの差が大きく感じる。
「食事が普通のものを食べて馴染んできたら、茶を飲みに来いよ。ミシェットが菓子を焼いてくれるから」
実はコレットは、今回の退院は二度目になる。
一度目のときは十日ほどで症状が落ち着いたので退院し、自宅療養に切り替わったのだが、見舞いと称した姉達の口撃に堪えかねて二ヵ所目の穴を作り、僅か三日ほどで病院に逆戻りしていたのだ。お陰で数日前まで絶食していて、なんとか重湯を食べれるようになったので退院が許可されたところだった。
今回は自宅には戻らず、直接宿舎に行くことになっている。少し体調面に不安はあるが、もう一度穴を開けるよりは百倍マシだという判断だ。
エリックの提案にコレットは瞳をくるりと回した。
「お嬢さんのお手製ですか?」
「ああ。なかなか――いや、かなり美味い」
「惚気じゃなくて?」
「……少し含む」
今までにいくつか食べさせてもらっているが、いくら料理人に手伝ってもらっているとはいえ、九歳の子供が作っているとは思えない出来栄えのものだ。それに手伝いといっても、刻むのを手伝ってもらうとか、危険なので竈の火加減の調節を手伝うとかいったことらしく、基本的な調理はミシェット自身が行っているという話だ。
夫としての贔屓目を引いても、お菓子作りに関してはかなりの上手だと思われる。
コレットは再びにんまりとした。
「それは楽しみです。是非お伺いしたいですね」
「いつでも来い。だいたい毎日なにかしら作っているから、いつ来ても大丈夫だろうさ」
今日は確か、なにか野菜を使ってパイを焼くと言っていた。ずっとエリックの好きな林檎を使ったものばかり作っていたので、少し趣向を変えてみることにしたらしい。
早く帰って来てくださいね、と微笑んだ妻の顔を思い出し、エリックは口許が緩みそうになる。咳払いをする振りをして慌てて隠した。
「――…さて。そろそろ戻るか」
少々長居してしまった。溜まっている書類仕事を少し片づけなければ事務方に文句をつけられるのは目に見えているし、明日からはコレットにもせっつかれることになるし、終業時刻までに多少は進めておきたい。
「お気をつけて、艦長。雪雲が来ていますから」
立ち上がって帰り支度を始めたエリックに、ティムが窓の外を見上げて告げる。どんよりとした厚い灰白の雲を見つけ、本当だ、とエリックも頷いた。
だいぶ冷え込んできて、間もなく雪が降るだろうと気象官が予測を立てた範囲から三日程過ぎているが、空気が乾燥していて雪になるほどの水分が足りていないのか、深夜にほんの微かに降ることはあっても積もるほどではなく、日中に降ることもない日々が続いていた。だが、今日のこれは確実に降り積もる雰囲気の雲だ。
「初雪は一緒に見ようと思っていたんだがな」
南海出身の幼い妻は、きっと雪を見たことがない筈だ。喜ぶのか、驚くのか――どんな表情で舞い散る白を見つめるのか、見ていたかったのだ。
曇天を見上げて無意識のうちにぽつりと呟くと、二人は声を立てて笑った。ティムがまた小さく呻く。
「あいたた……。だったら早く帰ればいいじゃないですか」
「もちろん、仕事をきっちり片付けてからですよ」
そんなことはわかっている。
考えていることを口に出していたとは思っていなかったエリックは急に恥ずかしくなり、むっつりと仏頂面を作って病室をあとにした。
一応持って来ていても、鞍の左右にかけられている袋に挟んだままにしていた防寒用の皮手袋を取り出し、しっかりと身につけてから手綱を握り、海軍司令部への道へ向かって馬首を返した。
昼食の時間はとうに過ぎている。サムの実家の食堂に寄って食事をしようとしていたのだが、その時間が惜しく感じられた。
さっさと仕事を片付けて、雪が降り出す前に屋敷に帰ろう。そして、ミシェットが作ってくれた美味しい菓子と、ジョージが淹れてくれる温かいお茶を持って、二人で初雪の降る様を眺めよう。




