1 小さな姫君
初めて夫となる人と対面したとき、大きな人だなぁ、とミシェットは思った。
「ブライトヘイル王国のレヴェラント公爵エリック王弟殿下だ」
共にやって来た祖父が、軍装の青年を紹介した。彼は背筋を伸ばし、綺麗な礼をとる。
「こんな格好でごめんなさい」
椅子に腰を下ろしたまま、やって来た青年を見上げて謝った。
いや、と彼は首を振り、その場に膝をついて目線の高さを合わせてくれた。
「怪我をされたと聞いています。お加減は如何ですか?」
気遣ってくれる低い声音は優しく、見つめてくる青い瞳も優しげだ。
ミシェットはちょっぴり頬を染めてはにかんだ。
「もうだいぶいいのです。痛む日はまだ杖があった方が安心ですけれど、ちゃんと歩けます。ばあやが心配して、お部屋から出してくれないだけで」
あまり怠けていると歩けなくなってしまうのに、心配性の乳母はミシェットが出歩くことをよしとせず、このふた月の間ほとんど部屋から出ていない。手洗い以外で寝台から他へ行くことも許されないくらいだ。
今まで毎日行っていた両親の墓参りにも行けず、とても悲しい気持ちで過ごしていた矢先、大好きな祖父から縁談を持ちかけられた。相手は金髪の素敵な王子様だ、と言われていたが、その言葉に嘘はなかったようだ。
ちらり、と見上げると、祖父は厳しい顔つきでこちらを見守っている。
「お祖父様」
そっと声をかけると、祖父はすぐにいつもの優しい笑顔になる。
「ああ、可愛いミシェットや。エリック王子はいい男だろう? なかなかの好青年だ」
「……まだよくわかりません」
返答に困って首を振りつつ、視線を合わせてくれているエリックに目を戻す。
いくつくらいなのだろうか。亡くなった父よりは年下だろうけれど、ミシェットよりずっと大人であることは確かだ。
女官達の囁き合う声から、金の肩章や飾りのついた濃紺の制服は、ブライトヘイル王国海軍の将校のものなのだということがわかる。つまりこの人は軍人なのだ。どうりで背筋がスッと伸びていて、歩き方やお辞儀の仕方など、仕種のひとつひとつがきちんとしているわけだ。
髪の色はミシェットと同じ金色だが、随分と色が濃い。ちょっと赤味がかった蜂蜜みたいな色は濃紺の軍服によく似合っているし、鮮やかな青い瞳の色もよく映える。
容貌の美醜は幼いミシェットにはよくわからないが、控えている女官達がさわさわと囁き合い、頬を染めたりしているし、祖父もいい男だと表現していたので、美形の部類であるらしいことはなんとなくわかった。年頃の娘から見れば素敵な男性なのだろう。
「あの」
素敵な男性だからこそ、ミシェットは申し訳ない気持ちになった。
「私などがお嫁様で、いいのでしょうか?」
女官達が頬を染めるくらいの色男なら、同じ年頃の恋人がいてもおかしくはなかっただろう。それなのに、まだ子供でしかない自分と結婚することになり、怒っているのではないだろうか。
幼いからといって、自分の立場が理解できないほどには愚かではない。両親が亡くなって以来、度々寝物語を読み聞かせてくれていた祖父が、お前だけの王子様を捜してやろう、と常々言っていたこともあり、自分は両親のような恋愛結婚にはならないのだろうということは、なんとなくわかっていた。けれど、その相手がこんなに年上の人で、嫌だという気持ちより、自分が幼いことが申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
ドレスを握り締めていた拳に、そっと大きな手が重ねられる。
「戸惑いがないと言えば、嘘になります。遠征から戻って唐突に聞かされた話ですからね」
エリックが静かに答えた。彼は十日程前にひと月の航海から戻ったと思ったら突然縁談を聞かされ、すぐに迎えに行け、と追い出された、と笑って言った。
王の横暴には参りました、と冗談めかして零すけれど、とても優しい笑顔だった。それが亡き父の笑顔に似ているような気がした。
その笑顔につられ、ミシェットもふっと口許を緩める。
「ミシェットや」
祖父がそっと声をかけてくる。振り返ると、彼もまた膝を折り、腰かけている孫娘の視線へと高さを合わせた。
「エリック王子のお国は、ブライトヘイルという北方の島国だ。けれど、同じ島国の我が国よりも強大であり、とても頼もしい国だ」
「はい」
「お前はヴァンメールを離れ、王子と共にその国へ行く」
ハッとミシェットは息をつめた。
国を離れることなど考えたこともなかった。しかもこれは旅行などではなく、ずっと長いこと離れるという意味だ。
ヴァンメールとブライトヘイルがどれくらい離れているのかはわからない。けれど、隣街に行くのや避暑地に行くのよりも離れていることくらいは、地理に疎いミシェットでもわかった。
「お祖父様……」
急に不安を感じて小さな声で呼ぶと、祖父は静かに抱き締めてくれた。
「離れても、二度と会えぬわけではない。だが、今のこの国は、お前にとって危険なのだ」
それは薄々感じていた。使用人達の噂話がまったく耳に入らない立場にいるわけでもないので、自分が今どういった状況にあるのか、周囲がどう思っているのか、おぼろげながら理解している。
もうほとんど治っている筈の脚が僅かに痛んだ。警鐘を鳴らすように。
バルコニーの柵が外れて怪我をしたとき、とても恐かった。何日も痛かった。そういったことがこれからも起こり続けるのだと女官達が陰で話しているのを、怪我の発熱で寝込んだ寝台の中で聞いていた。
祖父も乳母も、不幸な事故だったとしか言わない。けれど、女官達は人為的なものだと噂した。
いつかもっと大きな怪我をすることがあるのだろうか、とぼんやり思っていたときに、祖父が縁談を持って来た。つまりこれは、ミシェットを安全に国外に出す為の話なのだ。
このことをエリックは当然知っているのだろう。それでも話を受けてくれたのだ。
ミシェットはエリックに対し、ますます申し訳ない気持ちになった。
「急なことですが、早いうちがいい。二、三日中には出立できますか?」
エリックは準備を取り仕切るだろう乳母に尋ねた。彼女は頷き、すぐにでも支度に取り掛かる、と答える。
本来、公女の輿入れともなれば、衣装や装飾品、調度など一式揃えるのに最低一年は必要となる。随行の人員や日程の調整なども含めれば、それ以上の時間が必要になるのは必至だ。だが、これは急を要する事態なのだ。体裁が整う最低限のものを用意できれば構わないだろう。
「姫君、別れは悲しいこととは思いますが、ご理解頂けますでしょうか?」
エリックは伺いを立てるように、あくまで下手からものを言ってくれる。ミシェットの気持ちを優先してくれようとしているのだろう。その心遣いを感じられたことが嬉しかった。だから、困らせたくなかった。
はい、と頷くと、彼はホッとしたように微笑んだ。
「急ぐのには理由があるのです。ブライトヘイルの王都タウゼントの港は北海の更に北側にあり、冬季になると凍って閉鎖されてしまいます。そうすると、南寄りの遠方の港に寄港し、そこから陸路を行くことになってしまう。それは病み上がりの姫君にも、もちろん我々にも、負担になるのです」
北方の冬はもうすぐそこまで迫っている。帰港する為にはあまり時間がないのだ。
「式は時機を見て挙げるということにして、婚姻宣誓書は明日にでも署名しましょう。よろしいですか、閣下?」
ヴァンメールの法律に従い、継承権のあるミシェットはヴァンメール国内で婚姻した実績が必要になる。過去に内乱があった際、継承者が国外に亡命していた歴史もあるので、結婚後の他国への移住は自由なのだが、ヴァンメールの住人であるという証拠に、婚姻宣誓書を王宮で保管しなければならないのだ。
「午前の内に司祭を呼んでおく。聖堂で宣誓を交わして欲しい」
大公はエリックの提案に応じ、素早く出立までの予定を説明し始める。
「明日は支度に慌ただしくなろう。差し迫った状況での急いだ行程であるが、仮にも公女の輿入れだ。夜逃げではないのだから、ミシェットの快癒と婚礼のことを周知させねばならん。明後日の夜、正餐会を開こう。王子のこともそこで公表する」
「わかりました。わたしの方の随行員で爵位を持つのは副官と特使だけなので、三人で出席させて頂きます」
「そのように手配する。ニーナ、明日明後日の二日で、ミシェットの輿入れの支度を整えろ」
「畏まりましてございます」
祖父と夫の指示で、乳母や女官達が慌ただしく動き始める。ミシェットが祖国を離れることを惜しみ、悲しみに暮れる暇はなかった。
翌日の早朝、ミシェットはエリックに連れられて、久しぶりに両親の眠る墓所へと向かった。今日明日と忙しくなるので、まだ余裕のある朝の内に少し話をしてみたい、とエリックが誘いに来てくれたのだ。
怪我が完治していないミシェットの為に馬を借り、宮殿の外れにある墓所までの緩い坂道をゆっくりと進む。
「わたしには兄が二人と、姉が一人います」
道すがら、エリックは自分の家族のことを話してくれた。
自分だけが上の三人と母親が違うのだが、そういったことで差別されることはなく、兄弟仲は良好な方だった。それでも小さい頃は兄二人に随分と虐められた、と笑う。笑って言うくらいなのだから、それは凄惨な虐めではなく、愛情のある悪戯だったり揶揄いだったりしたのだろうが、当時の幼かったエリックは幾度となく泣かされたのだという。今でも兄達には逆らえないらしい。
国王である長兄の許には可愛い王女がいて、ミシェットが着いてからいくらかした頃には、二人目の子供が生まれることになるだろう、と言われ、少し楽しみになる。
姉は降嫁していて兄達よりは会うことが少ないが、やんちゃ盛りの男の子が一人と、早熟な女の子が三人もいるらしく、たまに会いに行くと喧しくて敵わない。
「ああ、そういえば、上の女の子は姫君と同じ年頃です。よければ友達になってやってください」
「それは楽しみです。仲良くしてくださるといいのですが」
「口が達者で生意気でしょうがないとも思うんですが、それはわたしが大人だからでしょうね。下の子達の面倒をよく見るいい子ですよ」
ふと、ミシェットの表情が曇る。その様子に、エリックは目敏く気づいた。
「退屈でしたか」
昨日会ったばかりで、どういった会話を好むのかわからず、取り敢えず今後縁戚となる兄姉の話をしたのだが、あまりよい内容ではなかったようだ。女の子は難しい。
「え? いいえ、そんなことは……」
ミシェットは慌てて首を振る。
「ただ……お姉様のお子さんと同じ年頃の私などがお嫁様で、エリック王子様に申し訳なくて」
昼前には司祭がやって来る。司祭の前で誓いを立てて婚姻宣誓書に署名したら、エリックとミシェットは夫婦になるのだ。
今ならまだ間に合う。取り止めるのなら、司祭が来る前に決断しなければならない。
ミシェットの言いたいことがわかったのか、エリックは押し黙る。
「……少し、大人の話をしましょうか」
丁度墓所の前で手綱を引くと、小さな溜め息と共にそう囁いた。ミシェットはその申し出に困惑したが、了承して頷く。
馬から降りるのに手を借りようとして、そのままエリックの腕へと抱えられる。いい、と断ったのだが、怪我がまだ完治していないのだから、とやんわり諭され、静かに従った。
父母の墓の前まで運んでもらうと、そっと降ろされる。久しぶりに来たわりに、石棺の上には真新しい花が供えられていて、手入れを頼んでいた女官がきちんとしてくれていたのだと知れる。
「姫君は……ご自分のお立場について、何処までご存知でいらっしゃる?」
隣に並んだエリックが静かに尋ねる。えっ、と顔を上げて見上げると、少し悲しげな瞳がこちらを見下ろしていた。
その視線に、ああ、と小さく吐息が零れる。
彼の言わんとしていることがわかる。気に入っていた小物が頻繁に壊れること、可愛がっていた小鳥が死んだこと、身の回りで小さな事故が重なること、大きな怪我をしたこと、急すぎる結婚のこと――それが使用人達の噂に繋がり、その噂と自分がどう関わっているのかということを。
「……叔母様が、私を邪魔に思っているという噂は、聞いたことがあります」
昔から叔母に嫌われているのは確かだ。そして、信じたくはない話だが、使用人達の噂話では、叔母がミシェットの命を狙っているということになっている。
「お祖父様ははっきりと言いませんけれど、エリック王子様との縁談のお話も、私を遠くへ逃がす為のものだと理解しています」
悲しげに零されるミシェットの答えに、エリックは素直に驚いた。まだ十歳にならない幼い子供だと思っていたが、彼女は随分と聡く、自分の置かれている状況を正確に把握しているらしい。
エリックは膝をつき、俯き加減のミシェットの視線に目を合わせた。
「前例のないことらしいのですが、姫君が継承権を放棄することを議会に認めさせれば、簡単に片付く問題だとわたしは思っています。けれど、大公閣下はそれをよしとはしておられぬご様子で、その為に、あなたとわたしの婚姻が必要となったのです。わたしが――我がブライトヘイルが、姫君の後ろ盾となれるように」
何故ミシェットに継承権を放棄させないのか不思議でならないが、恐らくアイリーンに大公位を継がせない為だと思われる。噂によると随分と野心家な女性のようだが、それ以上になにか理由があるのかも知れない。
「これは政治的な結婚です。祖国を離れられる姫君には、見知らぬ土地で寂しい思いをさせることがあると思います」
両親のように恋愛結婚ではなく、年も離れている愛情のない結婚であるのはわかっていたが、少し突き放されるような口振りに、僅かに悲しさを滲ませながらも頷く。
「四方を海に囲まれる我が国には海軍が重要で、王より一艦隊を任されることもあるわたしは、一年の大半を海の上で過ごすような生活をしていました。今後もそういう生活が続くことと思います」
「はい」
「けれどわたしは、あなたに笑顔でいてもらいたい」
予想していなかった言葉に、ミシェットは小首を傾げる。
エリックは微笑み、ミシェットの小さな手を優しく押し戴くように握り締めた。
「わたし達は年が離れていて、あなたもまだ幼く、一般的な夫婦というものとは少し違う関係になるかも知れない。それに、異母兄達に言わせれば、わたしは武骨者で気が利かず、女性にはとても退屈な男なのだという……。そんなわたしですから、お恥ずかしいことに、あなたを幸せにすると胸を張っては宣言できません。けれど、悲しませることだけはしないと誓います。努力を惜しみません」
強い声音ではっきりと言ったエリックの視線は、両親の眠る石棺へと向けられる。
「ご両親に誓います。あなたがいつも笑顔でいられるように努力することを」
「エリック王子様……」
胸の奥に込み上げてくるこの感情をなんと言えばいいのか、ミシェットにはまだわからない。けれど、夫となる青年の言葉がとても嬉しくて、彼が自分のことを真摯に考えてくれていることが有難くて、涙が溢れそうになる。
「エリックでいいですよ、姫君」
そう言って微笑んだエリックは、ミシェットの潤んだ目許にそっと手を伸ばし、大きな掌で触れてきた。温かいその手が、決して自分を傷つけるものではないのだと、ミシェットにははっきりとわかった。
「では、私のことも、ミシェットとお呼びください」
その温もりの優しさに応えるように、ミシェットも微笑んだ。
「妻として、ミシェットを大事にすると誓います」
囁いたエリックの唇がミシェットの手の甲に触れた。優しい口づけに不快さはなく、ホッと安らぐ心地になる。その感覚に、エリックのことを好きになれる筈だ、と思った。
年齢も離れているし、お互いのこともよく知らないが、きっと仲良くなれる、と確信めいたものがミシェットの中に生まれる。それは不思議な感情だったが、大きな違和感はなく、遠くない未来のことだとはっきりと感じられた。
自分はまだ子供だからなにもできないけれど、いつの日にか、亡き両親のような温かい家庭を築けると嬉しいと思う。
戻りましょう、とエリックに促される。そろそろ朝食の時間だ。
照れ臭いながらも素直に頷くと、再び抱き上げられる。ふわりと高くなる視界に、無意識のうちに胸が弾んだ。
「重くないですか?」
「ちっとも。姫……ミシェットよりも重いものはいくらでも運んだことがあります」
「力持ちですね」
「これでも海の男ですからね」
「私、海に出たことはないんです。エリック様のお国には、お船で行くのですか?」
「はい。大きい船ですよ」
「お船に乗るのも初めてです。少しわくわくしています」
「それはよかった」
楽しく笑い合いながら墓所の鉄柵を開いて外に出ると、乗馬中の女が待ち構えていた。
「随分と楽しそうですこと」
朝陽の反射で誰かわからなかったが、含み笑いながら零された声ですぐにわかった。途端にミシェットの気分が沈み込む。
「お嫁に行くのですってねぇ、ミシェット」
濃い色の日除けのベールの所為で口許しか見えないが、真っ赤な唇が弓月の形に歪んでいる。微笑んでいるにしては、なにか嫌な空気を感じる笑い方だった。
誰だ、とエリックは顔を顰めた。口振りからすると、ミシェットと近しい間柄のようだ。
「ご両親に報告していたの?」
軽く手綱を引いて馬首をこちらへ向けながら、重ねて問いかけてきた。
「アイリーン叔母様……」
ミシェットが小さく呼んだ名前で、この女性が件の公女か、とエリックは気づく。
「そちらがブライトヘイルの王弟殿下でいらっしゃるのかしら?」
アイリーンはエリックに視線を向け、僅かに首を傾ける。その視線に冷たさを感じ、これはなかなか厄介な相手だな、と判断した。
「よくご存知ですね、公女殿下。こちらには非公式で伺ったのですが」
公的な訪問となると、大々的な出迎えや、国主主催で歓迎会などを催さなければならなくなる。そういったものを抑える為にお忍びという態を取り、大公とミシェットの側近ぐらいにしか話は伝えていなかった筈なのだが、それを詳しく知っているということは、彼女の情報網が宮殿の奥深くにまで伸びていることになる。
エリックはアイリーンの出方を窺った。
彼女はころころと笑い声を立てて徐に日除けのベールを持ち上げると、警戒するエリックに向かってその顔を晒した。
「非公式と言えど、ブライトヘイルの軍船が入港したことはわかりますもの。それも、連戦連勝中の王弟殿下乗船のレディ・エスター号の入港なのですから、私などの耳にもすぐに入って来ましてよ」
「……エスターの名前がそこまで有名だとは知りませんでしたね」
「ご謙遜を。ブライトヘイルの第三王子と言えば、武功で有名なお方ではないですか」
直接お会いできて嬉しいわ、と微笑むアイリーンに、エリックは剣呑な目を向ける。
(よく言うぜ……)
エリックは海軍に入隊してまだ五年ほどである。十三の年から予備隊に入隊はしていたので軍歴自体は十年にはなるが、指揮官の一人として艦隊を任されるようになったのはほんの三年前のことで、レディ・エスター号が建造されたのはその半年ほど前だ。この三年で戦功を立てるような大きな戦もなかったし、同盟国として親交の深い国とはいえ、大陸を挟んで離れた海域に位置するヴァンメールまで名前が知られているとは思えない。
野心家という噂は聞いていたが、他国の情報を集めているほどとは思わなかった。
朝陽に照らされた容貌は、双子だったというだけあって、亡くなったミシェットの母マリー・ソフィアとよく似ている。けれど、アイリーンの顔には生来の気の強さが滲み出ているのか、決して二人を間違えるようなことはないだろうと思われる。
母と同じ顔をしている女にここまで敵意を向けられるということが、ミシェットはつらくはないのだろうか、と腕の中の少女が不憫に思えた。
「――…そろそろ朝食の時間になりますので、失礼致します。公女殿下」
視線を外して軽く会釈し、乗って来た馬へとミシェットを乗せた。彼女は不安そうな表情でこちらを見つめてきたが、言葉にはせず、そっと笑みを浮かべて頷いてやる。
「あら。では、私も戻ろうかしら」
婿を迎えたアイリーンは慣例に従って宮殿内には住まず、すぐ近くに屋敷を構えているらしいのだが、日中のほとんどは宮殿の元の自室で過ごしているという。それ故か、背を向けながら「また後ほど」と告げて去って行った。
エリックも手綱を解いて騎乗し、行きと違って馬を急がせる。その速さにミシェットは少し驚いたようで、エリックにしがみついてきた。
あまり乗り気ではなかった縁談だが、ミシェットと直接会い、大公と言葉を交わして気が変わった。
この小さな少女を守らなければ、とエリックは強く思った。