表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蒼海の軍神と真珠  作者: 秋月 菊千代
1章 嫁入り編
1/39

プロローグ



 ひと月に渡った航海から愛する祖国ブライトヘイルへ帰港すると、桟橋には屋敷からの迎えが来ていた。

 わざわざ迎えに来ること自体が稀だが、港の外ではなく、こんな桟橋のところまで出ていることなど初めてのことだ。


「王宮からのお召しがございます」


 屋敷の留守を任せている家令のジョージ自らがそこにいたのだが、彼は出迎えの言葉に続いてそう言った。


「このまま行くのか?」


 驚いて思わず尋ねてしまう。今回の航海中は雨が少なく碌に風呂にも入っていないので、かなり臭う。衛生管理上なるべく洗濯はしていたのだが、着替えはそう頻繁に行っていたわけではないので、衣服もそれなりに汚れている。


 今回の航海は王の命で海賊討伐に出ていたわけで、責任者として報告の為に王宮には行く予定だが、報告書を揃え、最低限の身形を整えてからのつもりだったし、それが通例でもあった。それをどうして急がせるのか。

 とにかく急げ、とジョージは急かして主人を待たせていた馬車に押し込んだ。


「王はなにを言ってきたんだ?」


 三日前に届けられたという書状を開きながら、思わず溜め息が零れる。七つ年の離れた異母兄は、もう一人の兄と一緒になって、末弟のエリックに対してどうしようもない無茶振りばかりする。それは幼い頃から変わらないことで、今回もそういった類かと思ってみたが、書面には『帰還次第早急に顔を見せるように』ということが書いてあるだけだった。


「臭いだのなんだのと言われんといいんだがなぁ」


 だんだんと近づいて来る王城を眺めながら、苦笑交じりに零す。海戦は王も何度か経験しているし、帰港したばかりの船乗りがどういう状況なのかは承知しているだろうから、そのことで馬鹿にされることはないと願いたいのだが。

 久しぶりの波揺れ以外の振動を全身に感じながら、ほんの少しだけ微睡む。詳しい内容が書かれていないからこそ、あの異母兄がなにを言ってくるつもりなのかわからなくて、逆に恐ろしい。それに備える為に少しでも体力を回復しておきたい。

 対面に座っているジョージはそんな主人のことをわかっているのか、静かに控えていた。


 浅く意識が沈み込んだところで、車輪から伝わる振動が僅かに変わる。王城に近づいて来た証拠だ。


「顔ぐらい洗いたかったな」


 潮風を浴び続けて固まっている髪を撫で上げながら、欠伸を噛み殺す。ジョージは足許にあった籠を持ち上げると、ポットとタオルを差し出した。


「絞ったもので拭われますか?」

「……気が利いて嬉しいよ。だが、もう少し早く渡して欲しかったな」


 馬車に乗ったときにくれればよかったのに、と不満を漏らすが、ジョージは聞き流しながら器用にタオルを湿らせ、手渡してきた。受け取ったタオルは温かい。有難かった。

 王城の外門の鉄扉を潜るのを見ながら顔を拭うと、タオルは埃と垢ですぐに汚れてしまう。やはり風呂に入りたかったな、とうんざりする。


「このまま戻るか?」

「お時間がかかるようでしたら、一度戻りますが」

「王陛下の用件がわからんからな……なんとも言えんが」

「では、このまま先に戻って、荷解きをしておきます。港から届く頃合いでしょう」

「助かる。俺は馬を借りて戻るから、迎えは気にしなくていい」


 車寄せに停まると同時に、控えていた衛兵の手によって扉が開かれる。エリックはジョージに別れを告げて降りると、案内を乞う前に通い慣れた王の執務室へと向かった。

 王の執務室へ着くと、控えていた侍従がすぐに中へと取り次いでくれる。


「お帰り、エル坊」


 入室が許可されると、書類仕事をしていた国王アーネストが微笑んで迎えてくれた。

 幼い頃からの呼び名を口にされ、思わず口許が引き攣った。


「随分遠くまで行っていたみたいだな」


 サインを終えた書面を裁可済みの山に片づけながら、入口のところで姿勢を正している異母弟を手招きする。


「時間がかかり、申し訳ありませんでした」

「中間報告書は見たよ。足が速い連中だったんだって? お前のレディ・エスター号でも追いつけないとはな」

「エスターの足は速いですが、他はそうでもないので。いくら三隻の海賊船とはいえ、エスター一隻での深追いは危険ですし、仕方がなかったのです」


 当初の予定では、長くても十日あれば拿捕もしくは壊滅させられると計算していたのだが、海賊達にのらりくらりと海上を逃げ回られ、予想より遥かに手間取る追い駆けっこに発展してしまったのだ。お陰でこちらの士気は下がりまくるし、散々だった。


「指揮官としては当然の判断だな。我が異母弟(おとうと)は本当に優秀で嬉しい限りだ」

「詳しい報告は明日の朝には上げられます。少しお待ち頂ければ、と……」


 屋敷に戻らず、王宮の執務室で仕上げてしまおうか、と頭の片隅で考える。早く風呂に入って揺れない寝台でひと眠りしたいが、こちらの方が仕事が捗る面もある。

 うんうん、と笑顔で頷いていたアーネストは、ところで、と唐突に話題を変えた。


「お前、身を固めろ」


 一瞬なにを言われているのかわからなかった。

 たっぷり時間を置いたあと、眉間に皺を刻んで首を傾げる。


「聞こえなかったか?」


 大きな反応のない異母弟の様子に、アーネストは不思議そうに尋ねる。


「いや、聞こえていますけど……唐突になにを言っているんですか?」


 まったく以て理解不能だ。昔から兄弟だけのときは突拍子もない言動をする長兄だったが、今は一応、王と臣下として対面しているのだ。そういう場面で公私混同する人ではないのだが。

 呆れつつも真意を探っていると、アーネストはにこにこと微笑んだまま立ち上がった。


「縁談が来ているんだ。結構いい縁だぞ」

「……俺宛てに、ですか?」

「というより、我が国宛て、だな」


 では相手は国外の姫か令嬢か。

 王族の端くれとして、自分の結婚には政略的なものが絡むことは理解しているつもりだが、なかなかに突然の話だ。予想もしていなかった。


 来い、と隣室の応接間へ招かれる。そのついでに、控えていた侍従に茶の支度を頼んでいる。これは話が長引きそうだ。


「お相手はヴァンメール公国だ。海軍のお前ならよく知っているだろう?」

「ええ、まあ」


 大陸を挟んで南方海域にある小さな島国ヴァンメールは、穏やかな気候と鉱石の輸出が有名で、人魚伝説も残る不思議な国だ。

 ブライトヘイルとヴァンメールは規模は違えど同じ島国であり、海洋国家である為、交流は昔からあった。五十年ほど前にブライトヘイルの公爵令嬢が嫁いだことで、同盟国としても親交は深い。その国からの縁談だという。

 交易を始めてから何十年も経つが、関係は非常に良好だ。今更縁談などとはいったいどういった意図だろうか。


「俺は国王で可愛い妻もいるし、四つになる天使のような娘もいる。クラウディオは一昨年結婚したし、兄弟の中で独り身なのはお前だけだ」

「そうですね」


 王族に近く連なる血筋の男子だと、エリックの一つ上と三つ下の従兄弟達がいたが、二人とも今年の初めに結婚している。適齢期の男子で独身となると今現在はエリックしかいないのは事実だ。


「お相手は、マリー・ミシェット公孫殿下だ」


 告げられた名前に思わず双眸を瞠る。


「マリー?」

「そう、マリーだ」


 聞き返してみても、聞き間違いではなかったらしい。

 ヴァンメール公国には内外に知られたある慣習がある。国主である大公位を継ぐのは男女問わず第一子であり、継承権一位の男児にはジュリアン、女児にはマリーの名を与える、というものだ。そして、継承権は生まれの順番如何に関わらず、長男長女で一位と二位となり、次男次女以下の兄弟はその下になるという。また、長子に子供があればその子が第二位となり、兄弟達は更にその下へと位置づけられる。

 つまり、マリーの名を持つというこの縁談の相手は、かなり上位の継承権を持つ姫君ということになる。


 次期大公を妻にするなどできないに決まっている。そうなると、エリックが婿に行くことになるだろう。立場的にいずれ政略結婚もあるとは思っていたが、自分が国外に出ることはあまり考えていなかった。

 エリックが黙り込むと、異母兄はその心の内に気づいたのか、おいおい、と呆れたように声を上げた。


「婿取りじゃない。公孫殿下がこちらに嫁がれるんだ」

「でも、マリーの名を持つ姫じゃないですか」


 長子継承は建国以来八百年の伝統だという。他国のこと故にそれほど詳しくはないが、過去にジュリアンとマリー以外の名の者が国主になったのは一度もなかった筈だ。それをわざわざ破る意味がわからない。

 アーネストはエリックを手招きし、小声で「これは大公の密使から齎された話なんだ」と前置いた。

 どういうことか、と怪訝に問えば、更に身を寄せるように示される。広い応接間の中で、異母兄弟は鼻先を突きつけ、小さく身を寄せ合った。


「マリー・ミシェット殿下は長子継承の慣例に則り、現在継承位は第一位だ。しかし、それを面白く思っていない者がいるらしい」

「命を狙われているとでも? いったい誰が?」

「宮廷で公然の秘密となっているらしいのだが、マリー・ミシェット殿下の叔母であるアイリーン公女殿下が公位を狙っていると」


 五年前にマリー・ミシェットの母であり、当時の継承権の第一位にあったマリー・ソフィア公女が事故で夫君共々亡くなり、慣例の許、継承位は一人娘のマリー・ミシェットが引き継いだ。それはヴァンメールの法律でもはっきりと定められていて、誰にも覆せないものなのだが、叔母であるアイリーンは気に食わなかったらしい。自分の方が年齢も上であり次期大公には相応しい、と議会に訴え出るも、法律と伝統の許に満場一致で却下されている。


 アイリーン公女はマリー・ソフィア公女と双子であったこともあり、議会の答えが尚更気に食わなかったようだ。たった数時間の違いで生まれたからといって、次女である自分がここまで蔑ろにされるのは許せない、と憤慨し、周囲に当たり散らしていたという。

 そして、両親を亡くして一人きりになったミシェットの周囲で、小さな事故が起こるようになった。幸いに大怪我をするようなことはなかったが、一歩間違えれば死んでいた可能性がある事故もあった。それらをすべて躱せていたのは幸運としか言いようがない。


 しかし、昨年アイリーンに男児が生まれた。

 それ以降、ミシェットの身に及ぶ事故は明らかに命を狙うものとなり、とうとう脚の骨を折る大怪我を負ってしまった――それがふた月前のことだという。


 普段の言動から、それらをアイリーンが仕組んでいるのは明らかなのだが、なんの証拠も痕跡もないので追及できない。アイリーンも、知らぬ存ぜぬ言いがかりだ、自分も叔母として案じている、と疑いの声を一切受け付けない。

 しかし、このままでは、今度こそミシェットは命を落としてしまう。

 大公は悩んだ末に、同盟国であるブライトヘイルに助けを求めてきた。


「マリー・ミシェット殿下が成人前に大公が亡くなられると、摂政としてアイリーン殿下が立つことになるらしい。それを大公は避けたいというお考えだ」

「それと俺の結婚がどう結びつくんです?」

「継承者本人が成人前でも、成人した配偶者がいれば、議会はその配偶者を摂政として招聘する」


 つまり、エリックが摂政として立つことになる。


「待ってください!」


 ぺらぺらと回るアーネストの口許に掌を突きつけ、エリックは大きく首を振った。


「俺は軍人で、政治のことはほとんどわかりません。況してや他国のことなんて……」


 つまりはミシェットが成人前であった場合、エリックが摂政として立つことを望まれているのだ。

 そういったことなら、外務大臣として外交に腕を振るう次兄のクラウディオの方が向いていた。しかし、クラウディオは既に妻帯していて、それは叶わない。時期が悪かったとしか言いようがない。


「まあ、そうはならないと思うぞ。あのじいさんはしぶとそうだし、あと十年くらいは余裕で生き延びるさ」


 じいさんというのは大公のことだろう。確かまだ五十代で、一応は目上の相手に対して随分な言い様だ、と若干呆れる。

 確かに、大公が亡くなるまでにミシェットが成人してくれていれば、摂政は必要ないのだ。若かろうとも、十八になっていれば彼女自身が政務を行うことになる。

 そこでふと、あることに気がついた。


「陛下……いや、異母兄上(あにうえ)。ちょっとお訊きしたいことがあるのですが」

「うん?」

「公孫殿下はいくつになられたんですか?」


 諸国では十八になれば成人だと言われている。エリックも十八の年に成人の儀を行い、海軍に正式に入隊した。政治的な意味を含んだ結婚では、貴族の間では男女とも十五を過ぎた頃からよくあることだが、対外的に成人するのとは別の話だ。

 アーネストはにこにこと笑顔を浮かべ、眉間に皺を寄せる異母弟に言った。


「来年の春で十歳だったかな」


 つまり、今は僅か九歳ということか。

 エリックは眩暈がして思わず額を押さえ、大きく仰け反った。


「…………俺は、今、二十三なんですけれど」

「知ってる」


 それがどうした、とアーネストは首を傾げた。

 政略結婚が当たり前の王族に於いて、多少の年の差など儘あることだ。現にアーネストの妻も隣国の第三王女で、彼より七つほど年下だ。

 しかし、十四歳はさすがに離れ過ぎだと思う。一歩間違えれば親子にもなり得る年齢差ではないか。


「――…あっ! そういえば、従兄弟のロナウドのところに、今年十一歳になる男の子がいましたよ。そちらの方が釣り合いが取れているじゃないですか」


 あまり年齢が離れすぎているのはやはり花嫁も嫌がるだろう、と必死に訴えるが、答えは否だった。


「お前の好き嫌いは聞いていない。もちろん姫君の好き嫌いも同様だ。この婚姻に於いて、多少年齢が離れていようとも、現時点で成人している相手が望ましく、また、公位継承者の相手として、伯爵家の三男坊など問題外だ」


 年齢が釣り合っていようとも、家格が合わない。国主の継承権を持つ姫君の相手としては、王族の中でもかなり上位の者でないと、親交深い同盟国に対して失礼であるし、恥を忍んで頼ってくれた大公に対しても礼を欠いている。そのすべての要件を満たしているのは、エリックだけなのだ。だいいち、従兄弟は従兄弟でもアーネストの母方の従兄弟であり、王家の傍流ということではない。

 アーネストの言葉にすべて間違いはない。これが最良であり、最善の運び方なのだ。


「いいか、エリック。マリー・ミシェット殿下はヴァンメールの伝統のとおり、継承権を維持したままお前の妻となる。この婚姻は外交であり、政治だ」


 いつになく真剣な表情で、アーネストはエリックに言った。悲しいことに反論の言葉が出ない。

 エリックが言葉を探して黙り込むと、よしよし、と満足気に頷いたアーネストが肩を叩いてくる。


「すぐにレディ・エスター号の整備と補給を終わらせて、花嫁を迎えに行け」

「すぐに?」

「当たり前だろう、姫のお命が懸かっているのだから。――あ、だが、風呂には入って行けよ。あと報告書も今夜中に提出しろ」


 王命だぞ、と尤もらしく言うが、この異母兄は絶対にこの状況を楽しんでいる、とエリックは確信していた。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ