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シャルトリューは美食の使い〜千鶴と美里の仲良し事件簿〜

  (一)


 「宅配便で〜す。代引きで二万一千三百五十円になります」

 ドアホンに応え、ドアを開けた母親の美津子に配達員は送り状を見せた。

「ええっ、アクセサリー? だれが?」

 心当たりのない通販の品物に、彼女はまゆをしかめた。

「ご主人のご注文みたいですね。奥様に内証にプレゼントしようと買われたのではないでしょうか。ときどきそういう方がおられますが」

「そやけど、うちの人、いままでプレゼントしてくれたこともないのに。それも通販で……」

「いや、たまたまTVで見ていてとか。いつも苦労ばかりかけてるから、何か買うてやろか、と思うて」

 配達員というより販売員のような口調に、美津子は不審をつのらせ、

「それに、ウチが受け取るのをわかってて、代引きで注文するなんておかしいわ。ちょっと見せて」

 と、送り状を手に取り、のぞき込んだ。

「この注文主の人、ウチと違いまっせ。番地は合うてますけど、名前が違います」

「ええっ、違う? おかしいなあ、何で間違えたんやろか」

 びっくりする配送員に、彼女は答えた。

「ウチは3の5。この人の住所は5の3で、ほら、あそこに見える高級マンションの方ですわ」

 美津子は、公園の植木越しに見えるしゃれたマンションを指さした。

「はあ、そうですかぁ。鈴木さんとは違うんですか。えらいすんまへん。何で番地が違うてるんやろ、あ、お邪魔しました」

 あいさつもそこそこに男はドアを閉め、きびすを返した。

 通路側に面した千鶴の部屋の前を通り過ぎようとした配達員は、別の男に呼び止められた。宿題をしている彼女と、カーテンのかかった窓をへだてて数十センチのところである。

「どうしたんや。金もろうたんか」

「いいや、番地はここやけど、名前が違うてたんや。向こうの高級マンションに住んでた男で……」

 配送員の返事に、男の機嫌は悪くなった。

「表札で名前を確認したんか」

「あれへん。最近用心が悪いから、みんな玄関に名前を書けへんようになったさかい」

「新聞をよう見とけ。3と5を写し損ねたんやろ。ちゃんと見て書きんかい。ドジ踏みやがって」

 なじられた男は口をとがらせた。

「そんなことないワ、ちゃんと二回も三回も見直したんやから、絶対間違うてなんかないはずや」

「ほな、何で違うんや」

「それが、わからんのや」

 男は、しきりに首をかしげているようすだった。


  (二)


 宅配便だというのに、新聞やら写し間違いやら、わけのわからぬことを言い合う男たちの話が気になり、千鶴は居間へと出て行った。

「おかあちゃん、いまの人だれ。宅配とちがうの?」

 洗い物をしていた母親は答えた。

「そうや、でも、届け先が間違うてたんや。向こうの高級マンションに住んではる社長さんの注文やったみたいやで」

「ふーん」

 しかし、それがなぜ新聞と……、千鶴はそのつながりが理解できなかった。

「でも、おかあちゃん、何であんな高級マンションの社長さんを知ってるの。知り合い?」

 親類にそんなお金持ちがいるなどと、いままで聞いたことがない。係累、知人でチョウと名がつくものになったのは、せいぜい盲腸か脱腸くらいなものである。

「あほなこと言いな。そんな知り合いおるかいな。実はわけがあるんや」

 手をふきふきリビングに出てきた母親は、今朝の出来事を話し始めた。

 夫と娘の出て行ったあと、スーツを着た男性が玄関口に立った。差し出した名刺を見ると、新聞社の社員。

 かしこまったあいさつをした彼が打ち明けたのは、朝刊の死亡記事のことだった。手違いで「5の3」を「3の5」とミスってしまったという。このため、謝罪に訪れた。

 ふつうの誤植なら、翌日の新聞で訂正を出すか、電話による謝罪ですませる場合が多いが、ことは死亡記事である。番地間違いで弔電が届くこともありうる。たまたま病人がいて、体に差しさわりでも出たら大変である。そのようなことがなくとも、縁起でもないと気にする人は多い。

 亡くなったのは、その高級マンションに住む大会社の社長さんだった。

「そやけど、おかしいなあ。同じ日に、うまいこと同じ人の荷物が間違うて届くなんて。どないなってるんやろか」

 母親も、奇妙な符合に首をひねった。

「新聞をよう見とけとかいうてたし、記事の間違いと何か関係あるんかなあ」

「わからんなあ」

 いくら考えても答えは出ず、話は消化不良のまま終わった。


  (三)


何週間かたったある日。

 学校から帰り、自分の部屋へ入ろうとした千鶴を、母が呼び止めた。

「あの、鈴木さんの奥さんが――」

 記事の誤植が縁となり、母親の美津子は例の元社長夫人とことばを交わすようになった。

 間違いは新聞社の手違いで何ら自分には責任もないのに、お葬式のあと、迷惑をかけたのではないかと手みやげ持参で家へあいさつに来てくれた。律儀な人である。

 以来、美津子はパートで働いている書店のレジで軽い世間話をしたり、夫人の興味を引きそうな新刊書があると紹介したりするようになった。

「あのひとの飼ってはるねこが、お葬式いらい行方不明になったらしいんよ。それで、あんたに捜してくれへんかて頼まれたんやけど、言うこと聞いてあげてくれへんやろか」

 ねこ、と聞いていっぺんに千鶴の顔はほころんだ。

 たぶんにもれず、彼女も大のねこ好きである。だが、自宅のマンションはペット禁止で犬、ねこのたぐいは飼えない。ときどき祖父の長屋隣のお重さんが飼っている黒ねこをかわいがって気をまぎらわせているだけに、興味津津、胸がおどった。

「ねこって、どんなの?」

 ランドセルを背負ったまま、娘は台所の母親のところまで走り込んだ。

「おかあちゃん、ねこのことはよう知らんのやけど。あのう、何とかいうたなあ、シャ、シャ、シャネルトユー、いや違うな。フランスのねこで、シャ、シャ、あかん、思い出せん」

「おかあちゃん、シャルトリューと違う?」

 千鶴は目を光らせて叫んだ。

「そやそや、そんなシャンパンか香水みたいな名前や」

 美津子は両手を打った。

「ウチ、そのねこ大好き。ただかわいいだけでなくて、上品な感じがエエねん」

 シャルトリューは、フランスの産である。シャルトリュー派修道院の僧侶が、もともといた雑種とペルシャなどを交配して作り出したといわれる。ロシアンブルーと同じブルー系だが、ちょっとグレーっぽい。

 性格はおとなしく、人なつこくて、賢い。それでいて、飼い主に従順となれば、千鶴でなくとも、ちょっと飼ってみたくなる。


  (四)


「ところがねえ、うちのモンドノスケときたら、性格がまったく正反対。人見知りで、攻撃的、全然ひとの言うことを聞かないの。飼い主に似たのね。死んだ主人が、ビジネスでフランスへ行ったときにいただいてきたのよ」

「モンドノスケっていうの?そのねこちゃん」

 聞いていた千鶴と美里のテンションが少し下がった。

 母親から鈴木夫人の依頼を受けた彼女らは二つ返事で承諾し、いま高級マンションで詳しい話を聞いているところである。

「そうなのよ、ヘンでしょ。あの人がつけたの。ノラネコとけんかしたのか、どこかから落ちてけがでもしたのか、みけんに傷があったので、モンドノスケにしたってわけ、それもメスに。もうちょっとしゃれた名前をつけてあげればいいのに。変わっていたから、主人の性格」

 古い時代劇映画に旗本退屈男というのがあった。その主人公、早乙女主水之介さおとめ・もんどのすけのトレードマークが、額にある天下御免の向こう傷。真正面から敵とわたり合った、つまり堂々たる真剣勝負の末に受けた傷、勇者のしるしである。

 わざともっさりした名前をつけてアンバランスなのを楽しんでいたそうだ。

 しかし、このうえなく愛情を注ぎ、モンドノスケも彼にだけは従順だった。そのかわいがってくれた人が他界したのがショックだったのか、お葬式から数日していなくなった。

「だれかが、小さな子供さんにさがしてもらうのが一番だと言ってたので、お母さんにお願いしたの。迷惑じゃなかった?」

 迷い猫や犬の捜索には、子供に聞くというのも効果的な方法である。

 小さい子は動物好きだ。公園や空き家など野良猫や犬のいそうなところで遊ぶことも多く、仲間になってしまう。だから、迷い猫などもよく見ていることが多い。

 夫人も、いろいろ捜してはみた。

 部屋飼いだったが、近所のねこがいそうなところ、たとえば駐車場の車の下や家と家のすき間などをのぞいてみた。夜中のゴミ集積場をもライトを持って歩き回ったが、姿を見つけることができなかった。

もちろん動物センターや警察にも届けは出した。業者にも頼んでみたが、なぜか行方はつかめない。わらをもすがる思いで子供たちの手を借りようと考えたわけである。                                  

                                       

  (五)


「ウチらねこちゃん大好きやから、迷惑やなんてあらへん。なあ、みさちゃん」

 美里は、こくりとうなずいた。

「見つけてくれたら、ごほうびは奮発するわよ。何がいい」

 そう言われても、なら現金というのもはしたない。メスだというから、子供を産んだら一匹といっても、ペット禁止のアパートで飼ってやれない。

 もじもじしている二人を見て、夫人はこう言った。

「じゃあ、ホテルでごちそうはどう。モンドノスケのふるさとフランス料理は?」

 料理と聞いて目がくるりと上向いたのは、またしても美里だった。

「フランス料理ていうたら、あのフォアグラとかトリュフとかが出てくる食べもん?」

「キャビアもあるわよ」

 とたん、二人のおしりがソファから少なくとも三十センチ以上は跳び上がった。

「それ、それっ。おばちゃん、それ、お願い」

 まだ見つけてもいないというのに、美里などはハシ、いやナイフとフォークを持って走り出さんばかりの勢いで身を乗り出した。

「ウチ、そんな食べもん見たことない」

「大阪でもキャビア料理て、食べられるん?」

 相も変わらぬ自身の貧しい食生活をさらけ出す彼女たちだった。

「よっしゃ、絶対さがしたるで」

「うん、明日から捜索開始や」

 二人は、顔を見合わせ大きくうなずいた。


(六)


 次の日、近くの図書館で「迷い猫のさがし方」という本を借り出した。

 家の中だけで飼っている場合、あまり遠くへは行かず、近所で発見されることが多い、となっている。

 周辺を、名前を呼んでさがし回れと書いてあった。

「ほな、行こうか」

「行こ、行こ」

「みさちゃん、名前呼んでみて」

「ちづちゃんの方が、先に声を出してェな」

「ウチ、ちょっといまノドの調子が、エヘッ、エヘン」

「ウチも風邪が治ったばかりで、大きな声は……」

「うそっ、ずっと元気で走り回ってたやん」

「あんたかて、さっきまで大声出してたのに」

 やってきた公園は、ちょうど昼下がりで小さな子供を連れた母親や、彼女らと同じような年ごろの小学生でにぎわっている。

 友達がいるかもわからないこの中を、モンドノスケ〜、モンドノスケ〜と叫び回るのはちょっと恥ずかしい。なぜ、ミミとかクロとかいう名にしてくれなかったのだろうか。

「ヘヘェ、とりあえず黙ってさがすだけにしよか」

「そやなあ」

 しょっぱなから捜索方針を転換、夫人から預かったモンドノスケの写真を手に公園から神社の縁の下、いつもおばさんがノラにエサをやっている木陰を回ってみた。だが、多くのねこや犬はどこかへ姿をかくしてしまったのか、ほとんど見かけることはなかった。

 子供二人がちょっとさがしただけで見つかったのでは、プロのペット捜索人が泣く。日暮れまで歩き回ったあげく、結局この日は骨折り損に終わった。


  (七)


 翌日の放課後は、エサによるおびき出し作戦を取ることにした。普段食べている食事を、ねこの通りそうな場所に置いて、出てくるのを待つのである。

 聞いてびっくり、日常食はなんとねこまんまだった。フランス生まれのねこというと、テレビCMのようなゴージャスな缶詰をエレガントに食べている姿を想像するが、死んだ社長は苦労人で、アフリカで飢えて死ぬ子供たちがたくさんいるのに、ペットにぜいたくはさせられないと、余りものを与えていた。

 慣れればヨーロッパ産のねこでも同じで、ご飯の上にカツオのふりかけがの乗ったものを食べるようにになった。ちなみに、これは美里の大好物でもある。

 おなかをすかせた愛猫のことを思いやった夫人は、ほかほかの魚沼産コシヒカリを、さすがお金持ち、欠けたとはいえマイセンの小皿にたっぷりよそい、◯美屋のカツオふりかけをたっぷり混ぜ込んだ。

 効率を考え、この日はぞれぞれ別行動をとった。千鶴は公園へ、美里は神社へ向かい、ねこの出てきそうなところへエサを置いてから近くの物陰に身をひそめた。

 二時間後、二人は時計台の下で落ち合った。

 千鶴のお皿は、少し飯が干からび、まったく手つかずの状態だったが、美里のはきれいに平らげてあった。

「うわっ、ねこちゃん出てきたン!?」

 千鶴はびっくりして声を上げた。

 だが、美里は

「ちょっと、おしっこに行ってる間に……」

 と、口ごもった。

 あれだけの量が短時間でなくなるには、ノラネコが団体ででも食べに出て来たのかと、なにげなく友の顔を見たとたん、千鶴は思わず噴き出してしまった。口のまわりにカツオのふりかけが、いっぱいくっついていたからである。

 きょうは、学校帰りのその足で依頼主宅へかけつけたため、二人ともおやつを食べていなかった。

 家では標準米しか食べていない美里の目の前に、日本一ともいわれる銘柄米のごはんが湯気を立てて出てきたのである。それも、ふりかけつきで。

 ねこまんま美里の異名まで持つ彼女にとっては、まさにねこにかつおぶしだった。

 最初はがまんしていたのだが、少し離れたところからじっと見つめているうち、ついふらふらと出て行き一口だけとつまんだのが、いけなかった。とうとう最後のひとつぶまで残さず食べつくしてしまったという。

「しょうがないやん、ウチとこも一匹も出て来なんだから、ご飯があってもなかっても結果は同じやったと思うわ」

 友の慰めに美里はバツの悪そうな顔をした。


 公園の水道で顔をきれいに洗い、二人は依頼主のマンションに戻った。

 お皿を見た夫人は、ころころと笑った。

「お手洗いの間に来たのは、モンドノスケじゃないわ」

 ドキッとして、美里は夫人の顔を見上げた。

「だって、お皿まできれいになめてあるもの。モンドノスケはあちこちにご飯粒を残しながら食べあさるのがクセだから」

 ねこよりも、いやしいと言われているようで、彼女はなおさら小さくなった。


  (八)


 二人の目だけではなかなか行き届かない。そう感じた彼女らは最後の手段、友達へのメール作戦に打って出た。

 送信用のデジカメデータをもらいにマンションを訪れた二人に、夫人はマイクロSDカードにあわせてスナック菓子を渡した。

「きのうは、おやつを忘れていてごめんね。おなかがすいたでしょう」

 ねこまんまを平らげたのがだれか、わかっていたのである。

 美里はクラスの友達に、モンドノスケの写真を添えて情報提供を依頼するメッセージを発信した。そして、捜索範囲を少し広げ、千鶴の祖父が住んでいる隣の町内まで出かけた。

 裏通りからさらに石畳の路地を入ると、祖父、徳治の住む長屋である。

 周辺は太平洋戦争の焼け残りで、戦前からの街並みがいまだにそのまま残っている。だから、小さな家が多い。古い住宅が多いだけに、若者は少なく老人が目立つ。

 都心回帰の傾向があるとはいうものの、主を失った空き家が増えた。大都市の真ん中で、屋根が落ちたり、草ぼうぼうの廃屋状態となっている家が見られるのはすさまじい。

 祖父の家にカギの掛かっているのを見た千鶴らは、隣のお重さんちの玄関を開けた。

「こんにちは、おばあちゃんいる?」

「だれやな、セールスやったら、帰ってやぁ」

 押し売りと間違われた子供たちは、玄関からわきの土間廊下を通って裏の台所へ回った。

「なんや、ちづちゃんらかいな。まあ上がりぃ」

洗い物の手を止めて、お重さんは二人を部屋に招き上げた。四畳半のすみには黒ねこのタマが手足を投げ出して昼寝中だった。

「ちょうど、お茶でも飲もうと思うてたんや。お菓子もあるで」

 ちゃぶ台に乗っている電気ポットのスイッチをお重さんが入れる前に、美里の手はもう菓子器のおせんべいに伸びていた。元社長夫人宅でもらったスナックは別にちゃんと抱え込みながらである。

「おばあちゃん、こんなねこちゃん、見ぃへんかった?」

 見せられた写真を、

「どれどれ」

 と、みけんにシワを寄せ手に取ったお重さんは、老眼鏡をかけた。

「そのねこ、迷いねこなんよ。この間飼われてた家からいなくなったん。いま捜してるの」

「知らん。見たことないわ、こんなハイカラな猫」

 お重さんは眼鏡を外して答えた。

「どこか、この辺にノラネコのたまり場ないかなあ」

 彼女がつぶやいたとき、美里の携帯にメールの着信音が響いた。

                                      

  (九)


「幽霊アパートの近くで目撃情報あり、やて。香奈ちゃんからのメッセージやわ」

 メールを開いた美里は、大声を上げた。

「香奈ちゃんて、この近所やんか。おばあちゃん、幽霊アパートって知ってる」

 千鶴は、お重さんを振り向いた。

「知らいでかいな。この辺では有名なボロアパートや。もう人は住んでへんけどな」

 戦後、住宅不足のときには、このような木造アパートがたくさん建てられた。

 大体は、真ん中に廊下が通っており、向かい合わせに部屋がある。入ったところが半畳の靴脱ぎ場、一畳の押入れがあり、部屋は四畳半や六畳ひと間。窓の外に突き出たような小さな流しとガスの一口コンロがついている。

 粗末な住宅のように思えるが、借家の少なかった時代、間借りといって民家の一間や二階を借りて生活することが多かったころには、プライバシーが一応守られる、夢のような住居だったのかもしれない。このような狭い部屋に親子三、四人で生活する家族も見られた。

 手洗いは共同で、廊下の突き当たりにいくつかの個室と男性用の便器が並んでいた。ただし、水洗ではなく、いわゆる汲み取り式。便槽に貯めておき、バキュームカーが収集に来る。

 一時は隆盛を誇った木造アパートも、高度成長期を迎えるとともに主流が鉄筋住宅に移り、マンションと呼ばれるようになると、次々と空き部屋が目立つようになる。

 この幽霊アパートもその一つで、二階建て上下合わせ三十室あまりと割合大きな部類の建物だった。持ち主もいつか亡くなり、孫子の代に移ったが、相続関係がややこしく長年放置されていると聞く。

 このため、ノラネコや犬のすみかとなり、用心も悪いので近所から苦情が絶えない。

「どこにあるの、そのアパート」

 千鶴の問いに、お重さんはしかめ面を見せた。

「ゆうれんが出るとか、けったいな子らが出入りしているとかいうさかい、行かん方がエエで」

 古い大阪人らしく、ゆうれいでなく、ゆうれんと発音した。

「見に行くだけや。中へは入らへん」

 渋るお重さんを説得してその場所を聞き出し、二人はアパートへと向かった。またもや身の毛もよだつ恐ろしい体験をするとも知らずに。


  (十)


 上町台地のはずれに、そのアパートは建っていた。

 どんよりと曇った夕空を背景に、朽ちかけた木造建物が薄暗いシルエットを描き出している。

「なんや、気味の悪い家やなあ」

 急に吹き出した風にあおられた二階のトタン屋根が、バタンバタンと乾いた音を立てた。

「とにかく行ってみよ。虎穴に入らずんば虎児を得ずや」

 きょうは、美里のほうが積極的である。父親から聞かされた難しい言葉をはいて、先に立ち坂を上って行った。ごほうびのフランス料理が後押しているのはいうまでもない。

 アパートの周囲には鉄条網が張り巡らされ、敷地内へ入れないようにしてあったが、いつしか一部が破られ、人ひとりがやっと出入りできるような穴が開いていた。

「呼んでみよか」

「そうやな。ここやったら人もおらんし、恥ずかしないもんなぁ」

 二人はあたりをうかがいながら、ねこの名を呼んだ。しかし、何の応答もない。

 次に、モンドノスケが使っていたトイレの砂を、建物の裏手にまいた。自分のにおいをかぐと、ねこは安心して姿を見せるという。

とりあえず、いったんその場を後にし、あたりを見て回ることにした。

付近には空き地や草むらがたくさんあった。崩れかけた建物の軒下や廃材のすき間は、動物にとって格好の隠れ場である。ひとつひとつのぞいてみるだけでも、けっこう骨が折れた。

ノラたちがいそうなところをめぐり、アパートに戻ってきたころ、あたりは薄暗さが増していた。

「もう一度呼んでみよ、モンドノスケ〜」

二人は声をそろえて叫んだ。

すると、建物の下部、縁の下に開いた破れ穴の中で、きらりと二つの丸い反射光が光った。

「あっ、ねこや!」

 叫ぶより早く、美里の体は鉄条網の破れ目から敷地内に飛び込んでいた。あわてて千鶴も従った。

 ポケットから取り出したペンライトを縁の下へ差し込み、のぞき込んだ美里の目に天下御免の向こう傷が見えた。

「モンドノスケや、おったで!」

 少女の歓声にモンドノスケはきびすを返し、奥の暗がりへと消えた。

「あかん、フランス料理が逃げる」

 おばあさんの忠告も忘れ、美里は建物の下にもぐりこんだ。

「みさちゃん、待って」

 一足遅れて千鶴も飛び込んだ。

だが、慣れぬ目に縁の下は真っ暗がりで何も見えない。すえたにおいと、顔にへばりついたクモの巣が気味悪かった。


  (十一)


まもなく薄ぼんやりと周りの光景が見えてきた。床を支える根太や柱に筋交いが入り組み、奥まで続いていた。

 美里の姿は見えず、目の先に消えたペンライトだけが転がっていた。拾った千鶴は、点灯し直し遠くをすかした。

 風化してあちこち傷んだコンクリート基礎の上に、木材の骨組みが続いている。、何本かの柱の向こうに白い衣服と二本の足が見えた。各部屋は仕切られているが、床下は素通しになっている。

「みさちゃん、だいじょうぶ?」

「だ、だいじょうぶやけど……」

 少し息苦しそうな声が返ってきた。

「どうしたん。ねこちゃん捕まえられへんかったん?」

 ねこに逃げられて、落ち込んでいるのかと千鶴は思った。はうようにして、進んだ彼女は目の前の状態を見て、友の声の理由がわかった。

 ねこを捕まえた美里の体が、床下に置かれた清酒用より少し大きめの木箱に挟まっていたのである。モンドノスケを放せば抜け出せそうだが、一度手放せば、見知らぬ人間に捕まえられた恐怖からおびえて切ってしまい、再度捕らえるのは難しくなるだろう。

 目の前にぶら下がってきたごほうびのフランス料理が、一瞬にして雲散霧消してしまう。食べ物にこだわりを持つ彼女がそんなことをするはずはない。木枠に頭を突っ込んで体が挟まれたまま、ひしとモンドノスケを抱え込んでいた。

 ミニスカートのおしりをほうり出した状態で、薄暗がりに白く見えたのは彼女のパンツだった。

「みさちゃん、手をはなさんと木箱の外に出られへんで」

 千鶴は周りを注意深く観察して言った。箱といっても、周囲を完全に囲んだものでなく、骨格だけを板材で組んだもので、木枠箱といってもいい。

「いやや、ねこは離せへん」

 このねこは、トリュフとキャビアとフォアグラの引換券である。いまこの機会を逃したら、このような高級食材を一度に口することができるのは、上流社会の結婚式に親戚のような顔をして紛れ込むか、シェフになってつまみ食いする以外にない。美里は、そう固く信じて疑わなかった。

「なあ、ねこを抱いたまま、どないかしてここから出して」

 とはいうものの、美里の頭側は基礎のコンクリートに阻まれ、前に回りこむ余裕はない。一方、両側は木枠でがっしり固められているので、モンドノスケだけを先に預かるということもできなかった。

 結論として、後ろへ体を抜く以外解決法はない。

 美里は母親ゆずりの体形で、ややぽっちゃり型。狭いところにはまり込むと、なかなか抜くことは難しい。ちょうどおへその辺りに木枠の一本が食い込んでいて、ふうせん細工の金魚みたいな形になっていた。

 抜けないものが、どうして入り込んだのか、いくら考えても不思議だが、高級料理をいちずに夢見て、無理やり突入したとしか考えられない。

「しょがないなあ。そしたら、ウチおじいちゃん呼んでくるわ」

「いややあ、きょうは見られとうない」

 美里は体をゆすって嫌がった。

「なんで、いやなん? カッコわるいから?」

「うん」

「でも、いつもはスカートがめくれ上がっても気にしてないやん」

 おかしなことを言う、と千鶴は首をかしげた。

 祖父の徳治ともよく遊び、下着が少しくらい見えたからといってそう恥ずかしがることはないはずだ。だが、よく聞いてみると、なるほどと納得した。

 いつもは、見せパンをはいているが、きょうは洗濯物が乾かず、たまたま母親が未使用で残していた、旧式のかぼちゃパンツをしてきたのだという。

「こんなブカブカの古パンツなんかはいてるて知られたら、うち家出するゥ」

「でも、新品やろ」

「新品でも、はき古しでも、かぼパンはかぼパンや」

「そない言うても……、そうや、ちょっと待っといて」

 何かを思いついた千鶴は、そう言いおいて戻りかけた。

「どうしたん。ウチひとりで置いとかんといて」

 美里は情けなさそうな声を出した。

「エエことあるねん。すぐ、帰ってくるわ。ちょっと待っててね」

 千鶴は、友を残して床下から飛び出すと、祖父の長屋へと走っていった。


  (十二)


 祖父の家に着いた千鶴は、ガラガラッと戸を開け部屋へかけ込んだ。

「おじいちゃん、のこぎり貸して」

「ああ、びっくりした。なんやねん、飛び込んで来るなりノコを貸してくれって」

 夕飯の用意をしていた徳治はおどろいて、米をとぐ手を止めた。

「何を切るねん?」

 息せき切って、千鶴は答えた。

「木ぃや」

「当たり前や。そののこぎりでは鉄は切れんで」

 勝手に道具箱からのこぎりを取り出した孫に言った。

「何に使うのか知らんけど、気ぃつけや。けがしたらあかんで」

「うん、わかってる」

 答えるより早く、彼女はまた飛び出して行った。

「台風みたいな子ォやなあ」

 開けっ放していった玄関を閉めながら、徳治は心配げに孫を見送った。


「この板を切ったら、すぐに体がすぽっと抜けるで」

 床下に戻ってきた千鶴はのこぎりを取り出し、体をはさんでいる木箱の横板を切り始めた。

「切ってくれるのはエエけど、けがさせんといてね。ぎりぎりでこわいわ」

 床下の天井が低い空間で、体のはさまった木箱の板を切り落とすのはちょっと難しい。木枠と体の間にのこぎりを差し込み、千鶴はそろそろと動かし始めた。

「ちづちゃん、あのう、時々おしりが寒いんやけど」

 少しすると、美里が恥ずかしそうにつぶやいた。

「ええっ、何で?」

 と、千鶴がのこぎりの先を見ると、もこもこと盛り上がったかぼちゃパンツが、すぐわきを前後する刃先にからんで動いてくる。

 動きに応じて、パンツが三分の一くらい脱げたりはいたりしていた。そのたびに、寒くなったり、元に戻ったりしていたのだ。暗い縁の下だから良かったが、外ではちょっと恥ずかしい格好に違いない。

 と突然、床上をドタドタと人の歩いてくる音がした。

 千鶴は手を止めた。美里もじっと耳をすまし、様子をうかがった。


  (十三)


「やっぱりアカンやないか。おまえが、昔の映画でうまいこと金もうけしてたと言うたさかいやってみたけど、失敗したやないか」

 古い米国映画で遺族にうそをついて、小金をだましとるものがある。そのやり方はこうだ。

 新聞に載った死亡記事をもとに、妻の名前入り聖書をこしらえる。遺族のもとを訪れた詐欺師は、生前に死者が妻のために注文していたとだまし、代金をせしめるというものである。

 これを千鶴の家でやって失敗した。たまたま新聞が死者の所番地を間違ってのせたため、振り出しからつまずいたのである。

 正しい住所に行ってみると、お金持ちのことで葬儀場は当然別のところ、いたのは留守番だけだった。話がかみあわず、結局はくたびれもうけ。

 その後、近所に葬式はなく、遠くへ出かけて計算の合う詐欺でもない。映画では、父娘が車で旅をしながら地元紙で獲物を探し、犯罪を繰り広げていくという筋書だった。

「そらあ、やっぱりいまの流行はやりはこれやで」

 と、一人の男はポケットから、ある品物を取り出した。

「なんや、ケータイやんか。電話売るんか」

 最初の男は、ケッと舌打ちし声を荒らげた。

「あほか、こんなとこでどないして携帯電話売れるんや。オレオレ詐欺に決まってるやろが」

 取り出した携帯を頭の上で振り回し、

「おとうちゃん、おかあちゃん。オレや、オレや、て泣き声出したら五十万、百万はあっという間や。一万、二万のはした金をとるのに、顔を見せてぺこぺこする必要もない。時給にして何十マンという夢のお仕事や」

 とらぬタヌキの皮算用をはじいて、ほくそえんだ。

「ここに町内の老人会名簿があるから、適当に番号選んで電話かけたれ」

 犯罪をおかすにも日常の行動範囲から脱しきれない男たちだった。


「えらいこっちゃ。上に来たんはオレオレ詐欺のやつらやわ。どないしよ。話を聞かれたんがわかったら、どんな目にあうかわからんで。ちょっと、静かにしてよ」

「うん」

 のこぎりを持つ方も、木枠にはさまった方も、とりあえずがまんを決め込んだ。

 ただ、ねこだけが、どうにかして逃げ出そうともがいていた。

「しぃーっ」

 美里はやさしくたしなめ、頭をなでた。


「おとうちゃん、オレや、オレや」

 弟分とみられる男が、泣き声をまじえ話しかけた。

「おとうちゃん、オレ、事故ってもうてん。……エエッ、ウチは小学校やて。あ、えらいすんまへん。間違いです。おじゃましました」

 男は、終話キーを押しながら、

「あははは、番号間違うてしもた。痛っ!」

 兄貴分の手が飛んだ。

「ちゃんと確認して電話せんかい。相手が警察やったら、どないするねん。ボケッ」

 もう一発手のひらが上にあがったのを、両手で制しながら弟分はあやまった。

「すんまへん、すんまへん。今度はちゃんとかけまっさかい」


 (十四)


「できた、できた。今晩は炊き込みご飯や。食べよ、食べよ」

 IHジャーのふたを開けると、もわーっと湯気が立ち上った。そのにおいをかぎながら徳治は目を閉じ、幸せそうに首を左右に振った。

「えーっと、みそ汁とタコの酢のもんを並べてと」

 そのとき、整理だんすの上にある電話が鳴った。

「だれやな、もう。ひとがおいしい晩ご飯を食べよとしてるのに……。あ、もしもし」

「おとうちゃん、オレや、オレや。オレやんか」

 受話器の向こうから、聞き覚えがありそうな、なさそうな声が聞こえてきた。

「正男か。元気にやってるか」

 声の似ていた次男の名前を呼んだ。

「おとうちゃん、オレ、ヤミ金に手を出して払えんようになってん。五時までに金払わんと命がないて、いま組事務所でおどされてるねん」

 思いもかけぬ話に、徳治は息をのんだ。

テレビや町内会の回覧板で振り込め詐欺に対する注意を見聞きしていたが、いざ実際に緊急事態を訴える息子らしき人物から電話がかかると、そんな呼びかけは頭から吹っ飛んでしまった。

 次男は離れたところで商売をしているが、金回りが悪いと日ごろからこぼしていた。つい少し前にもややこしいところから借金したため、四苦八苦してカタをつけてやった経緯がある。

 そこへ百年に一度とかいう、このたびの不況。資金繰りは大丈夫だろうかと心配していた心理がわざわいし、相手のペースにはまってしまった。

「そやけど、この前用立てたったやないか。またやったんか」

「おとうちゃん、ごめん。ほかにも、ひとつ残っててん。三百万やけど、とりあえず五十万だけ……、キャー、痛い! 堪忍してくださいー」

 話が途切れ、突然叫び声が響いてきた。

「どうした? どうしたんや? 大丈夫か」

 徳治は真っ青になった。


 こちらは、幽霊アパートの男二人組。ケータイをかまえ、深刻そうに演技を続けながらも、にやにやと見つめ合っていた。

「こらあ、いけまっせ、あにき。うまいことかかってきよった」

 息子役は、送話口を指先で押さえながら、小声で報告した。

「五十万でのうて、百万にしたらようおましたなあ」

「いやいや、よくばったらあかん。あまり額が大きいと、二の足を踏みよる。とりあえずすぐ用意できる金でエエ。あとで、次々しぼり取るんや」

「なるほど。ククククッ」

 弟分は、うれしくてたまらないとばかりの笑顔を、携帯と反対側の手で隠すようにして答えた。


「みさちゃん、上のやつら、悪いやつやで。お年寄りをだましてお金、ふんだくるつもりや」

 床下では、少女二人がじっと耳をすまして部屋のやりとりを聞いていた。

「どっちでもええけど、そののこぎりが止まってから、おしりがえらい寒いんやけど、なんとかならへん?」

 美里を救い出そうと木枠を切っていたのこぎりが、ちょうど手前に引いた位置でストップしたため、おしりがちょっと飛び出したままになっていた。

「ごめん、ごめん。ほんなら、あまり音がせんよう静かにいくで」

 千鶴はまた、おもむろにのこぎりを動かし始めた。


  (十五)


「えらいこっちゃ。そやけど、銀行の振込みは、まだ大丈夫かなあ」

 徳治は、受話器を握りながら柱の時計をながめた。

「あかん、早めに行かんと振込み料がかかる。もしもし、正男、聞いてるか」

 息子の身に危険が迫っているというのに、ATMの手数料の心配をしているのも不思議に思われるが、案外、人間危地に追い込まれるとわけの分からぬことを考えるものだという証明であろう。

 しかし、柱に目をやったのが良かった。横の壁に張ってある老人会の標語が目に入ったのである。

 ちょっと待て 振り込む前に 電話せよ――。振り込め詐欺の啓発ポスターだった。

「おい、正男。お前まさかオレオレ詐欺やないやろな」

 もう半分金を手に入れた気になって、ほくそ笑んでいた男の顔がこわばった。

「な、何言うてんねん。袋だたきに遭うて死にかけてんのに、おとうちゃん、あんまりや」

 かろうじて演技を続けながら、もう一人の男に助けを求めた。

「えらいことですわ、詐欺やないかと疑い出してますわ。どないしまひょ」

 少しあわてはしたものの、さすが兄貴分だけにすぐ落ち着きを取り戻した。

「適当に引きのばせ。そのあいだに考えるから」

 指示された男は、必死で“父親”をくどき始めた。

「早う、早う、お金頼むわ。でないと、殺されてしまうがな」

「ほんなら、おかあちゃんの名前、言うてみ」

 男はびっくりした。

 詐欺にも周到な下準備が必要である、たぶん。――経験がないのでわからないが、常識的に考えて、である。

 彼らは、想定問答集も作っていなかった。金をどこで引き出すか、送金時間がいつまでかさえ調べていない。電話と銀行口座さえあればOKと思っている、まったくのトーシローだった。

 だから、ちょっと予測しない反応を相手がとると、うろたえてしまう。彼は、しどろもどろになった。

「え? お、おかあちゃん、おかあちゃんの名前か。オレを生んでくれた……」

 当たり前である。義理でない限り産んでいるはずだ。

「そや、静子の名前や」

 返事してから、徳治は失敗に気づいた。

 これで形勢が逆転した。せっかく犯罪者を追い詰めながら、足をすべらし自滅したようなものだ。

「あ、しもた。自分で言うてもうたがな」

「そや、おかあちゃんの名前は静子や。決まってるやんか。おとうちゃん、そんなにオレのこと信用でけへんのんか。もう、なぶり殺しにされてもええんやな」

 脅しとも泣き落としともいえる演技で、相手は迫ってきた。

「えーっと、ほな、きょうは何日や。あ、いや違う、これはテレビでやってたボケの自己診断やったな、えーっと」

 息子が窮地に立っているのではないかという心配と、詐欺かもしれないと疑う心が交錯して、徳治の頭はさらに混乱した。

「ほな、ワシいま何色のパンツはいてる? あ、そんなんわからんわなあ。ワシも忘れてしもうてるし。最近物忘れがひどうて、あははは、はぁ〜」

「こいつ、もう完全にボケとるわ。イケル、イケル、ばっちりや」

 男二人の顔が緩んだ。

「ワシこっちから電話するわ。ほんなら間違いないし」

 やっとのことで、撃退マニュアルを思い出した徳治だったが、犯人らはすでに余裕を取り戻していた。

「電話する? けど、この電話はこのままにしといてや。切ったら、払う気ないと思われて、どないされるかわからへんから」

 相手は交換条件を持ち出した。兄貴分が耳打ちで、悪巧みをさずけたのである。

「携帯からかけてえな。番号間違えんといてな。わかってるか? それに、オレの携帯、光に変えたから、電話番号の間で何秒か空けて打たんとあかんで」

「ええっ、そないせんとあかんのか?」

 機械にうといお年寄りに、いいかげんな作り話をして混乱に陥れようという算段だ。光に替えろ、替えろと迫ってくるテレビCMが頭に残っているだけに、事実と思わせてしまう効果を持っている。

「50**と、17**の間に入れるんか?」

「そやそや、その前もやで」

「0*0の次も空けたらええんやな」

「そやそや」

 男たちは、声を押し殺し笑い転げた。同時に、兄貴分の指はすでにもう、その番号を押していた。


 (十六)


一、二……と、勘定しながら徳治が次男の番号を押している間に、もう一人の男は隣の空き部屋に移動し、息子と話し出していた。

「お忙しいところを、恐れ入ります。わたくしハイパーインターナショナル国際宇宙コスモス・エージェンシーの渡辺と申します。今回はハイクラスの皆さまにスーパーウルトラ・ハイグレード・マンションのご案内を……」

 

 何度かかけ直した徳治は

「あ、また話し中や。やっぱりほんものの息子が電話をかけて来てるのにちがいない」

 と確信した。

 彼らの計略にやすやすと、だまされてしまったのである。

「すまん、すまん。お前を信用せんで」

 電話のところに戻ってきた徳治は、急いで受話器を持ち直した。

「いまから、すぐに銀行へ行くわ。お前の口座番号教えてんか」

 シメタとばかり、男は身を乗り出した。

「番号は……」

 偽セールスの必要がなくなった兄貴分は、適当に通話を切り上げ戻ってきていた。男の携帯に耳を近づけ、やりとりを聞いていたが、なぜかまゆをひそめ畳に目を落とした。

「なんや、床下からゴリゴリ音がするで」

 送話口を押さえた弟分は、

「どないしましてん? えっ、床下から変な音が聞こえる? そんなの、気にしなはんな。ノラネコが騒いでまんねやろ」

 と、邪魔くさそうに答えた。

「いいや、何か木をこするような、切るような妙な音や。だれかおるのとちゃうか」

 じっと床を見つめていた男は、半ば立ち上がり、古畳をめくりかけた。


「えらいこっちゃ、ちづちゃん。上のおっちゃんら、ウチらに気ぃついたみたいやで」

「よわったなあ。畳めくられたら、見つかってしまうがな。何とかせんと」

 二人は窮地に陥った。

「そうや、みさちゃん、ねこの声聞かせたろ。ちょっと軽くおしりつねってみて」

「うん」

 美里は、ねこを片手に抱き直した。

「どうや、つねったか?」

「うん」

「鳴けへんなあ」

「そうやなあ」

「つねり方が弱いからかなあ」

「そうかぁ」

 シャルトリューは辛抱強い性格で、あまり鳴かない。

「もっときつうに、やってみたら」

「ふうん」

「……あかんなあ、力が足らんのとちゃうか。もっと強うに、ぎゅうっと」

「そんなに力入れたらウチ痛いやんか」

 下を向いて一心に板材を切っていた千鶴は、ふと友を見上げた。

「あんた、何してるのん? 自分のおしりつねって」

「違うの? え? ねこちゃんのおしり? そんなんかわいそうやん」

 勘違いにも程がある。これでは間に合わんと、千鶴は直接自分の手でモンドノスケを強くつねった。

「ふぎゃー」

 美里の手の中で、ねこはあばれて大声を出した。彼女は逃げられないようぐっと抱き直した。


「やっぱり猫か」

「そうでんがな、猫が柱でツメといでまんねんやがな」

 男たちも納得したようだった。

「あ、そうや。おとうちゃん、おとうちゃん、口座番号は大日本帝国銀行夕空支店の総合……」


 (十七)


「切れたっ!」

 のこぎりをひいていた千鶴は小声で叫んだ。横板がはずれ、美里の体はすぽっと抜けた。

 とたん、木枠がメリメリッと音を立てた。

「あぶない! こっちへおいで」

 千鶴は友の手を引っ張った。次の瞬間、木箱はばらばらに壊れてしまった。

 老朽化の激しかったアパートは当然、縁の下もかなり傷んでいた。床を支えていた束柱はすでに抜け落ち、たまたま置いてあった木箱が代わりをつとめていた。そのかなめとなる横木が切られたため、箱は崩壊、根太は支えを失った。

「えっ、地震か、なんや、なんや。うわあ」

 畳がぐらぐらっと動いたとおもうと、床がベリベリベリとへりから外れトランポリン状態で宙づりになった。驚いた男は携帯を取り落とした。

 外れた床板のすき間から、下にいる子供の頭が見えた。

 男は怒鳴った。

「こらあっ、お前ら、こんなとこで何してるねん。さっきから聞こえていた音はお前らやったんやなあ」

「兄貴ィ、全部こいつらに聞かれてしもうて。どないしまひょ。オレオレ詐欺がばれてしまいましたがな」

 あわてふためいた二人の会話が、携帯に伝わった。

「ええっ、やっぱり振り込め詐欺やったんか」

 電話の向こうで徳治はびっくり仰天、目を丸くした。

 うろたえた男はトランポリンの上でバランスを失い、拾おうとした携帯を、かえってはじき飛ばしてしまった。畳の上をすべった電話はすき間から床下へ。ちょうど少女らの目の前へ落ちた。

「ちづちゃん、たいへんや。おっちゃんらこわい顔してにらんではる」

「そやから、幽霊アパートへ入ったらあかんて、みさちゃん止めたのに、言うこときかへんから」

 携帯からもれてきた孫たちの声が、さらに徳治を驚かせた。

「あ、千鶴の声や。のこぎり持って走り出して行ったとおもうたら、あの子ら幽霊アパートへ行ってるんかいな。危ない目に遭うてるみたいやないか。こら、おまわりさん呼んでこんと」

 あたふたと受話器を置くと、玄関にあった下駄とスリッパを互い違いに履き込んで、彼は近所の交番へと走った。


(十八)


「ようし、お前ら、待っとけよ。すぐそっちへ行ったるさかい」

 叫んだ男は、部屋を飛び出し、千鶴らと同じ建物の破れ目から入り込んだ。

 子供なら自由に動き回れる床下も、大人の体では動きがとりにくい。はいずるようにして、少女二人のいるところへ近づこうとしたが、半分落ちかかっている床に阻まれた。

 ふと見ると、右手に束柱のない広い空間が見えた。地面と思える部分が一段低く、移動しやすくなっている。

 男はその方向へ回り込み、四角いコンクリート枠に囲まれた穴状の部分に下りようとした。

「おっちゃん、あかん。そこへ入ったら大変なことになるで」

 ねこを抱いた美里は、大声を上げた。

「何ぬかしてやがんねん。その手には乗らへんぞ。すぐとっ捕まえたるさかいにな」

 男は忠告も聞かず、穴に飛び込んだ。

 とたん、彼の体はずぶずぶずぶと沈みこんだ。

「うわーっ」

 叫び声とともに彼は、見る見る腰まで沈んだ。

 前にも説明したように、このアパートは古く、水洗ではなかった。つまり、汲み取り式で、大きな便槽が地中に掘り込んである。三十近い家族の一カ月分以上が貯留できるようになっていた。

 居住者が立ち退いたあと、大家はどうも最終処理を怠ったみたいで、ものが大分残っていた。

 昔は、し尿を農作物の肥やしに使った。現在、化学肥料をお金を出して買い取るのと同様、農家の人に汲み取ってもらったうえに、野菜などのお礼がもらえた時代もある。

 集めた肥料は、いったん畑のわきの穴に貯留し、時間をおいて発酵させる。このとき、上部が乾燥して、周りの土と似た形状になる。これが落とし穴で、子供たちが遊んでいて、はまることもあった。

 薄暗い床下で、彼が見誤ったのも無理はない。ただ、美里の親切心を無視したのがウンのつきだった。

 これを目撃した千鶴らは、男よりもその状態に恐怖を抱いた。文字通り、こちらにとばっちりが飛んで来ないよう、注意深くわきをすり抜けて脱出しようとした。

 子供たちを逃すまいとするのと、早く抜け出したいという焦りで男は足をすべらせ転んでしまった。状況はさらに悪化した。

「みさちゃん、早う行って、早う」

 千鶴は、後ろから迫ってくる男をなるべく見ないようにし、はって逃げていた。

「そんなん、言うても、ねこちゃん抱いてるから急がれへん。ちょっと待ってぇな」

「ほなら、ウチ先に行くわ」

「あかん、うちだけほっといて逃げたらあかんやん」

「いやや、ウチあんなんに捕まるくらいやったら、死刑になった方がエエ」 

 追い抜かされそうになった美里が振り返ると、浮き上がった男は、人類というより色違いのゾンビのような姿になっていた。

「だははあ、こふぁい〜」

「たふけてへぇ〜」

 二人はパニックになって、出口へ猛ダッシュした。


(十九)


 外は、日も落ちかかっていた。

 騒ぎを聞きつけ、床の破れ口でもう一人の男が待ち受けていた。そこへ、二人が駆け出してきた。

 トップを切ったのは、美里だった。だが、先に大事なねこちゃんを助け出そうと、まず建物の外へ突き出した。

 待っていた男は、夕やみの中、飛び出してきたのを子供の頭だと思い込み、ねこをぎゅっとつかんでしまった。驚いたモンドノスケは、敵に向かって猛然とつかみかかった。

「ふーっ、ふぎゃー、ばりばりばり」

 ねこは、手にかみつくなり、ツメで彼の顔をかきむしった。

「ぎゃーっ」

 男は、悲鳴を上げた。

「あ、裏手でだれかが叫んでる。あっちに何かありまっせ」

 交番のおまわりさんを連れて、徳治が幽霊アパートに駆けつけてきたのは、ちょうどこのときだった。


 男は、動物愛護法違反容疑であっさり逮捕されてしまった。嫌がるねこの意思を無視して無理やり引っ張ったということらしいが、もちろん、これはとりあえずの逮捕容疑。あとで詐欺で立件するつもりである。

 二人目が厄介だった。子供たちを救出したあと、彼も出てこようとした。

 だが、

「出るな、出たらあかん!」

 と、止められてしまった。

 立てこもりでも、強盗でも、警官隊が犯人に「出て来い」と怒鳴るのが当たり前だが、「出てくるな」と命令するのは、警察署発足以来の珍事である。

 外へ出たとたん、もし逃げ出されたら、捕まえようがない。刃物を持った犯人に飛びついていく勇気はあっても、汚物でゾンビ状態になった男に、身を挺してまで向かって行く公僕精神おう盛な警官は、いまの時代皆無といっていい。

 とりあえず首だけ外部に突き出させ、刺す股で押さえながら警官隊は対策を練った。

 結局、消防署から小型ポンプ車を派遣してもらい、存分に洗い流してからトラックの荷台に乗せて警察署まで護送した。

 途中、どこで取り調べをするか、もめたそうである。本署側では届出があったことを理由に交番で行うことを主張したが、交番勤務を担当する地域課員らが猛反発し、とりあえず通常の状態に戻るまで、車庫の一角を空けて留め置くこととなった。


  (二十)


 三日後、サウスオーサカ・ハイソサエティホテルの38階フランス料理店ル・マンジューヌに、約三人の姿があった。

 テーブルでは鈴木夫人と千鶴、美里がフルコースを味わっていた。

「うわぁ、恥ずかしい。他人みたいな顔しとこ」

 千鶴は顔をそむけながら、友の姿を横目で盗み見た。元社長夫人は、その情景をほほ笑ましげに眺めていた。

 美里は、サーブしてくれた料理を平らげるたびにお皿を両手で抱え、なめ回している。 

 その足元で、モンドノスケは特別料理のねこまんまを食べていた。彼女はそれをもうらやましげな目でにらんでいた。


                                                                              (おわり)



次の作品もよろしく。


●千鶴と美里の仲よし事件簿 『尿瓶も茶瓶も総動員、人質少女を救い出せ』『グルメの誘いは甘いワナ』『昔の彼は左利き』

●超短編集 『美しい水車小屋の娘』『虹色のくも』『はだかの王さま』『森の熊さん』『うさぎとかめ』『アラジンと魔法のパンツ』『早すぎた埋葬』

●前期高齢少年団シリーズ 『ケータイ情話』『ミッション・インポシブルを決行せよ』『車消滅作戦、危機一髪』『さよならは天使のパンツ大作戦』『秘密指令、目撃者を黙らせろ』

(上段もしくは、小説案内ページに戻り、「小説情報」を選んで、作品一覧からクリックしていただければ、お読みになれます)



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