第97話 となりで微笑む その2
「だから瑞穂ちゃんを叩き出すんじゃなくて、ふたりを……」
勉を窘めようとしていた茉莉花は途中で口ごもり、きれいな顎に白い指を這わせた。
軽く目蓋を伏せて、少し口を尖らせて。
その眼差しが宙を彷徨って。
「立華?」
「『どうやって仲直りさせればいいか考えよう?』って言おうと思ったんだけど、どうすればいいのかな?」
「……」
即答できなかった。
何だかんだとわかった風な口をきいてみても、勉だって茉莉花だって家庭内のいさかいについて有用な意見を持っているわけではないのだ。
それは厳然たる事実であった。
「お義父さんは親子喧嘩のやり方って言うか終わらせ方を知りたいみたいだけど、それってどういう方向性で考えてるんだろうね?」
「方向性……か……」
「うん。自分が頭を下げるのか、瑞穂ちゃんに頭を下げさせるのか、どっちなのかな」
「……後者だろう」
直に義父と話した印象から導き出した答え。
それを口にした瞬間、言い知れぬ苦みを覚えた。
「狩谷君の話を聞く限りでは私もそう思う。それに、お義父さんは別に間違ったことを言ってもいないとも思う。でも……」
「一方の当事者の意見だけを鵜呑みにするのは危険だな」
「だよね」
瑞穂が何を思って勉の元を訪れたのか。
昨日の今日とは言っても、義妹の胸中を知らないままに話を進めるのは危険極まりない。
義父は自分と娘がふたりきりで顔を合わせたら喧嘩になると言っていたが、今のままでは勉が間を取り持とうとしても同じ結果になるのが目に見えている。
「譲れない願い……瑞穂が何を考えているのか、何を求めているのか。確認しておかないと方針が立てられんな」
「だよね。だから、お義父さんが言ってた喧嘩の仕方とか終わらせ方云々は置いといて、とにかく目の前のツアーを乗り切ることを最優先に考えないといけないって朝の段階では考えてたけど……そのあたりも瑞穂ちゃんとお話ししないとね。お義兄さん」
「それは……たしかにそうなんだが」
「何でそこでためらうの?」
「こんなことを言うのは本当に情けなく思うんだが」
「思わないから」
「……俺は、アイツがわからんのだ」
胸の奥に永らくつかえていた言葉が、口から零れ落ちた。
両親の再婚によってできた新しい妹。
たとえ血が繋がっていなくとも自分たちは家族で……にもかかわらず、彼女が何を考えているのか全然理解が及ばない。
それが義理とは言え兄として、あまりにも情けない。
「だったら今からでも知っていけばいいじゃん」
「立華?」
「え? 変なこと言ってるかな」
「いや、それは……変ではないが」
変ではないが、何だろう?
心の中で首を傾げる。
言われてみれば『それはそうだ』と納得できてはいるのだが、素直に頷けない。
「私だって初めて狩谷君と一緒に帰ったとき、狩谷君のこと全然わからなかったよ」
「それは俺も同じだ」
「だよね。それから私は狩谷君のことをわかりたくなって色々あって」
「……色々あったな」
中間考査に向けてノートを貸して。
教室でからかわれていた茉莉花に助け舟を出して。
雨に降られて電車が止まって帰れなくなった茉莉花を家に泊めて。
そして、茉莉花の計画が発動して――
「うん、色々あった。でも……」
「でも?」
「でも、今でも私は狩谷君のすべてがわかってるわけじゃないって思ってる。人間をひとり丸ごと完全に理解しようなんて、それってきっと無理なんじゃないかな」
「立華?」
「諦めてるんじゃないよ。思い上がりたくないって感じ。少しずつ相手のことを知っていって、わかったつもりがわかってなくて。間違えて、やり直して、ずっとその繰り返し」
「ずっと、か」
「うん、ずっと。理解し合えなくても、理解し合おうとし続けることは大切だと思うし」
「それは……確かにそうなんだが……」
「家族になるって、そういうことじゃないかな」
書類を役所に提出するとか。
ひとつ屋根の下で暮らすとか。
告白するとか、告白されるとか。
名字が変わるとか変わらないとか。
そして――結婚するとかしないとか。
そういう形式的なことはさほど重要ではなくて、どこかの瞬間から唐突に関係性が『家族』に変化するわけでもなくて。
「しかしな……それは俺たちの話じゃないか」
義妹の話をしていたと思ったら、いつの間にか自分たちの話になっていた。
話の流れがいきなり変わるのは珍しくはないものの――
「そうだよ。私たち、付き合ってるじゃん。だったら……その先にあるのは、そういうことだよ」
「……それはそうだな」
「狩谷君、私と付き合うことを軽く考えていませんでしたか?」
「それはない。それはないが……」
「それはないけど?」
「そうか……同じか。どっちも家族になると言う点では変わらない。そういうことか」
自分が抱いていた『家族』の姿が固定観念にとらわれ過ぎていたと気づかされた。
母と義父が『親』で、自分と瑞穂が『子』
頭の中では大人ふたりと子どもふたりの上下関係を主としたイメージがあった。
実際には母と義父は『夫婦』だし、自分と瑞穂は『兄妹』だ。
ならば自分と義父は?
母と義妹は?
様々に入り混じった関係性の矢印、そのすべてをまとめたものが『家族』だ。
そして、母と義父の関係は自分と茉莉花のそれに近しい。
おかしなところはどこにもない。
すべて『家族』の話だ。
「思ってた以上に本気で考えてた」
「当たり前だろう」
「う、うん。そうだね」
まじめに答えたのに、茉莉花の頬が若干引き攣っていた。
ちょっと不本意だった。
「ま、まぁ……ともかく、狩谷君は私を放り出したりはしなかったよね?」
「正確には立華が俺を逃がしてくれなかったという感じだが」
「せっかくいいこと言ってたのに台無しにするの、狩谷君の悪い癖だと思う」
「自分でも気づいているくせに事実を指摘されると怒るのは、立華の悪い癖だな」
「む~」
「……ふっ」
義父と話して以来ずっと付きまとっていた重苦しい空気が消えた。
空を見上げた。どこまでも高く、遠く、そして広くて青い空。
「わからないからと言って瑞穂を放り出すのは、よくないな」
「うん」
横合いから重みを感じた。
先ほどまでのプレッシャーとは異なる、暖かくて柔らかい存在感を。
「形だけ瑞穂に頭を下げさせたり、逆に義父に頭を下げさせたりするよりも、全員で考えて納得のいくところに落とし込みたいところだ」
それは義父から頼まれたことに似ていて――明確に違う。
あの時、咄嗟に返事を保留しておいてよかった。
後付けで理由を考えて見れば、心の中で何かが引っ掛かっていたのだろう。
――俺も少しはまともな人間になれたのか。
人の心の機微に疎いと言う自覚が、他者と関わることを疎んじる自分を正当化するための言い訳になりがちだった。
いつまでもそのままではいられない。
いつまでもそのままでいたいとも思わない。
少なくとも自分は茉莉花の恋人で……彼女との幸せを目指すのならば、殻に閉じこもり続けるのは得策ではない。
「色々と教えられることばかりだな」
時間はない。
時間がないことは間違いないが、それに囚われて視界を狭めていたから、ゴールが見えなかった。
今は見える。
「狩谷君ならできるよ」
「気楽に言ってくれる」
「じゃあ、お義父さんが納得できるように瑞穂ちゃんの勉強を見てあげるとか?」
「……気楽に言ってくれる」
「え? そう? あの子の成績って、そんなに悪いの?」
「俺が知る限り、いつも赤点ギリギリだった」
「お、おう……」
茉莉花は若干引いていた。
なんだかんだ言って彼女もまた成績優秀なものだから、赤点がデフォルトの人間の生態をイメージしづらいのだろう。
なお、勉は一年以上ひとつ屋根の下で暮らしていたがサッパリわからなかった。
「まぁ、それは今回の件を解決してからだな」
「ね、ところで私ずっと気になってたんだけど……お母さんは?」
「む?」
「だから、狩谷君のお母さん。さっきから聞いてた感じだと、全然話題に出てこないなって」
「お袋か……」
茉莉花の指摘はもっともなものだった。
昨晩瑞穂が襲撃してきて、今朝になって義父に相談されて、そして今、茉莉花と話し合って。
その間ずっと母親を意識の外に追い出していた。
「お袋か……」
繰り返した。
声に苦みが混じる。
眉間に皺が寄るのを感じる。
「狩谷君?」
「……その、あまりお袋には迷惑をかけたくないな、と」
「マザコンか」
「かもしれん」
「これはお節介かもしれないけど、ひとりだけ除け者にされちゃったら、そっちの方がショックなんじゃないかな?」
「それは、そうなんだが……気が乗らんのだ」
「そうなの?」
「ああ」
勉の母は狩谷家にとっての聖域と化している。
義父は妻として愛している。
義妹は母として慕っている。
そして、勉は語るに及ばず。
だから、トラブルに母を巻き込むことに躊躇がある。
おそらく義父も義妹も同じことを考えている。
仮に母を介してこの問題をクリアできたとしても、その後の狩谷家の雰囲気がどうなるか……と想像すると、積極的に活用していきたい切り札ではなかった。
「狩谷君が度を越えたマザコンなのはこの際置くとして」
「俺だけじゃないが」
「まぁまぁ。でも、今は時間がないよね。瑞穂ちゃんの」
「……そうだな」
後のことを考えている余裕はない。
瑞穂とは話す。
あのバカ妹が何を見て何を考えているか、察することができないから直接聞く。
その上で狩谷家として納得がいく着地点を探る。
遠回りに見えるが、それが一番いい。
基本方針は決まった。
それはそれとして――時間が足りない。
活用できるものは何でも活用すべきだと言う茉莉花の意見はもっともなものだ。
なまじ回り道をするだけに、ショートカットの手段を探るのは道理にもかなう。
茉莉花は感情に重きを置いているように見えて、思考は論理的で合理性を尊ぶ。
「ほかに手はないか……」
「……あるかもしれないけど、思いつけないってね」
「……」
茉莉花の指が勉のポケットからスマートフォンを取り出した。
そのままスマホは勉の手に。
渋々ながら自分でディスプレイに指を這わせると、連絡先の一覧が表示された。
義父。
義妹。
茉莉花。
史郎。
そして――
スマホを耳に当てて待つこと数秒。
味気のないコール音の後に、勉は口を開いた。
「お袋……今、少し時間、大丈夫か?」
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しつこくなってしまいますが、何卒よろしくお願いいたします。
なお、次回が第2部第2章のラストとなります。




