第91話 三人の食卓
勉、茉莉花、そして瑞穂。
三人がひとつのテーブルで朝食を取っている。
勉の正面に茉莉花がいて、その隣に瑞穂がいる。控えめに言って絶景。
以前では考えられなかった不思議な食卓としか言いようがなかったが、いずれは慣れるはず。
そうあってほしいと願う自分がいる。
――ふむ。
茉莉花はどう思っているだろうかと目を向けてみたら視線が合った。
まったくの偶然ではあったが、その顔には柔らかい笑みが浮かんでいる。
何となく自分と同じことを考えているような気がした。
もちろん想像を想像のままで置いておくのではなく、あとで一応確認するつもりだ。
『昨晩瑞穂とどんな話をしたのか?』とか、そのあたりも含めて。
茉莉花が瑞穂に変なことを吹き込んでいたら気恥ずかしいし、瑞穂が茉莉花に変なことを吹き込んでいたら腹立たしい。
どっちにせよ、ロクなことがない点だけは間違いない。
「義兄さんの味ですね」
「そうか?」
パンをちぎって口に放り込む瑞穂の感想に首を傾げる。
今日の朝食は――食パン、ハムエッグ、サラダ、インスタントのコーンポタージュ。
いずれもありふれた上に手抜き気味で、個性が発揮されるようなメニューではない。
「今は……家では、どんなものを食べているんだ?」
家を出た本人としては聞きづらかったが、食事中の沈黙が思いのほかに重かった。
騒がしい朝食を好む気質ではなかったものの、気まずさに負けた。
――実際のところ、どうなってるんだろうな?
勉がまだ実家にいた頃は、勉が朝食を用意していた。
概ね今とあまり変わり映えのしないものばかりだったが。
そして高校入学とともに家を出てからは、ただの一度も帰っていない。
残された瑞穂たちが何を食べているのか。
誰が用意しているのか。
今までまったく考えたことがなかった。
これは薄情のそしりを受けても仕方がない。
「瑞穂ちゃんじゃないの?」
瑞穂と同じようにパンを口に運びながら茉莉花が問う。
無邪気な口ぶりだったが、勉は黙って首を横に振った。
瑞穂の視線が鋭さを増したが、それは色々な意味で仕方がない。
勉の母は忙しく、義父が用意しているイメージは湧かない。
消去法で義妹が……と狩谷家の事情に詳しくない茉莉花が考えるのも無理はないと思いながらも『それはない』と否定した。
再婚してなお働き続ける勉の母が忙しいのは間違っていないが、現役アイドル『片桐 瑞稀』という別の顔を持つ瑞穂の忙しさは、ともすれば母を上回る。
……と言うのは建前で、そもそも瑞穂は料理をはじめとする家事全般を苦手としていた。
義父と揉めているように学業も微妙で、人間関係に優れているという話も聞かない。
付け加えるならば、スポーツの類に秀でていたなんて噂も耳にした記憶がない。
両親が再婚する前から瑞穂はアイドルだったし、義妹の資質というか才能はそっちの方面に徹底的に特化されている印象があった。
「……最近は父が」
「そうなのか?」
「はい。義兄さんの見様見真似ですが」
「そうなのか……」
ポツリと呟く瑞穂の声に滲む重力を感じ取り、自分がいない狩谷家の朝に思いを馳せて妙な気持ちになった。
あまり溶け込めていなかった自分が家を出れば狩谷家は上手く回るとひとり勝手に思い込んでいたが、案外そんなに都合よくはいってないのではないかと疑問が首をもたげてくる。
じっと勉を見つめてくる瑞穂の双眸が、推測を裏付けているようにすら感じられる。
だからと言って、今さら実家に戻るつもりはさらさらなかったが。
「……瑞穂、お前、今日はこれからどうするんだ?」
勉は首を横に振って余計な思考を頭から追い出し、喫緊の問題を口にした。
あまりたくさんの問題を一気に抱え込むのは得策ではない。
彼女が所属するアイドルユニット『WINKLE』の全国ツアーが迫るタイミングで娘の芸能活動に否を突き付けてきた義父を説得しなければならない。
なるべく早く、すぐにでも。
勉の人生を振り返ってみても、これほど時間が残されていないトラブルは他に例を見なかった。
家の事情云々は――今は考えるべきではない。
そこを履き違えると、きっとロクなことにならない。
これまでは何かにつけて『焦ってもいいことはない』と身構えることが多かったけれど、今回は自分のスタンスをかなぐり捨てざるを得ない。
そして、もちろんこの問題の解決には眼前の義妹の協力が必要不可欠だった。
「どうと言われても……普通にレッスンですが?」
「さっきまで走ってきたのにか?」
『義父との問題は俺に丸投げか?』と愚痴をこぼしかけて、飲み込んだ。
現段階で瑞穂と義父を無理やり同じテーブルにつかせても、解決の糸口が見えない。
たとえ時間がなくとも、ふたりをクールダウンさせる必要がありそうだった。
『急がば回れ』とは正にこのこと。
「ロードワークなんて運動のうちに入りませんよ」
当の瑞穂は勉の心境など気にした様子もない。
今はそれでいい。今は。
勉は自分に言い聞かせつつ、首を捻った。
――まぁ、コイツのこういうところはつくづく理解できんが……
直感か、本能か。
論理の外から正解を選び取る能力。
それを瑞穂はごく自然に備えている。偶然かもしれないが。
「身体は何ともないのか?」
「この程度で何かあるわけないでしょう」
瑞穂の声には呆れがあった。
運動神経がいいわけでもないのに、運動することに嫌悪を持つことがない。
思い返してみれば、中学校の頃から義妹はずっとこんな感じだった。
煌びやかな注目を浴びる今でも、昔と変わらずコツコツと基礎を積み重ねることを苦に感じない性格なのだ。
体力トレーニングなんてやって当たり前。
才能があって努力を惜しまない、そんな瑞穂に――
「うぇ」
サラッと答えた瑞穂のとなりで茉莉花が変な声を上げだ。
(元)学校のアイドル的にダメな声だったが、どちらかというと茉莉花の反応の方が一般的な気がする。
ふたりがどれくらい走ってきたのかはわからないが、当の本人の顔から察するに『ちょっとそこまで』程度でなかったことは想像できる。
「立華?」
「いや、私、瑞穂ちゃんに付いて行くのがやっとだったんだけど……あれを朝飯前みたいに言われると、なんか負けた気がする」
「朝飯前だったのは間違いないが」
「「そういうことは言ってない」」
茉莉花と瑞穂の声がハモり、ふたりは顔を見合わせて――瑞穂はそっぽを向いた。
茉莉花は、そんな瑞穂を見ても機嫌を損ねた様子はなかった。
心なしかふたりの距離が近しくなっているように見えて、少し心が暖かくなる。
「レッスンということは事務所に行くのか。電車代はあるのか?」
「あのですね、義兄さん……私ぐらいになるとマネージャーが迎えに来ますから」
さも当然と言った瑞穂の言葉に驚かされる。
勉が家にいた頃の義妹は電車で通っていたはずなのに。
たった一年と少々で、彼女を取り巻く環境は劇的に変化を遂げていた。
血は繋がっておらずとも形式的には兄妹なわけで、ここまで相手のことがわかっていないとなると些かながら不安を覚える。
――今まで目を背けてきたツケが回ってきてるな……
「マネージャーが迎えに来るって……そうか、今回の件はちゃんと伝えているんだな」
一抹の寂しさを覚えながら、同時にホッと安心した。
報告。
連絡。
相談。
いわゆる社会人の基本だ。
ツイッターとかでよく見かける奴。
まだ高校生な勉たちとは違い、すでに社会に出ている瑞穂にとっては――
「は?」
「は?」
「え?」
眉を寄せる瑞穂に、勉と茉莉花の声が続いた。
勉と茉莉花の間では正常なコミュニケーションが成立している。
話が繋がらないのは――瑞穂ひとりだけだった。
「言うわけないじゃないですか。こんなこと」
何のためにここに来たと思っているのやら。
昨日も言いましたよね。
しれっとそんなことを口にする瑞穂を前に、勉の脳内は疑問符で埋め尽くされた。
なんでこの義妹はここまで平然としていられるのか、それがわからない。
マイペースのひと言では片づけられない断絶すら感じた。
自分のことを棚に上げながら『人として何か間違ってないか?』とさえ思った。
「マネージャーは何も知らないということか?」
「だから言っていないと」
「だったら、マネージャーさんってどこに迎えにくるの?」
「それはもちろん家まで……あ」
横合いからの茉莉花の問いに渋々答える途中で、ようやく瑞穂も思い至ったらしい。
慌ててスマホを手に取って――勉に顔を向けてくる。
すがるような眼差し。微かに震える唇。
さっきまでの取り澄ました顔よりは可愛げはあるが、今はそんな表情をされても困る。
「に、義兄さん、どうすれば……」
「俺に言われてもなぁ」
「そんな……あ、生理、生理が来たことに」
オロオロとバカなことを口にする義妹を見ていると頭痛がしてくる。
さっきまで色々と感心させられていた自分がバカらしくなってきた。
「体育の授業サボるんじゃないんだから、その言い訳はどうなの……」
「しまった、生理はこの前来たことにしたばっかりでした」
「……お前、ほんとにちゃんとアイドルできてるのか?」
少なくとも社会人はできていなさそうだ。
勉はこれ見よがしにため息をついたが――状況は何も解決していない。
ひとつの問題を片付ける前に、新しい問題が降り積もってくる。
つくづくこの世は儘ならないと思わざるを得なかった。




