第90話 ドアを開けたら
あとどれくらいで帰ってくるのか具体的な時間を聞きそびれたので再度通話を入れると『はぁ、はぁ』とやたらと色っぽい吐息交じりで『う~ん、30分ぐらいかな』とのこと。
――朝からこれは耳に毒だな……
不埒な思考はさて置いて、『まだ30分も走るのか』と窓の外に目を向けながら、陽光の下で爽やかな(?)汗を流しているであろう茉莉花たちに慄く。
これが彼女のスタンダードだとしたら……いずれ『狩谷君も一緒にどう?』なんて言われたりすることもあるのだろうかと想像してしまい、こちらは冷や汗が出そうだった。
運動は苦手なのだ。
朝からジョギングなんて真っ平御免だ。
「……とにかく、あまり時間がない」
益体ない上に不吉な妄想を振り切って部屋を後にする。
電気をつけなくとも十分に明るいリビングを歩きながら、ひげで少しざらついた顎を指で撫でながら、ワザとらしく呟く。
室内には自分以外は誰もいないとわかっているのに、誰かに聞かせるかの如く。
「アイツ、朝はパンだったか」
記憶にある限り、義妹の瑞穂はパン派の人間だった。朝食限定ではあるが。
パンしか食べないわけではないし、基本的に出されたものに文句は言わない。
そういうところは殊勝というか生真面目というか、何とも可愛げのある義妹だった。
そして勉自身はあまり朝食に拘りはないし、茉莉花は以前に家に泊めた時にはパンを口にしていた気がする。
……となれば、わざわざコメを用意する気にはなれなかった。
昨夜は色々ありすぎて炊飯器を仕掛け忘れていたというのもあった。
酔狂にもランニングに出かけた茉莉花たちではあるまいし、朝からコンビニまでひとっ走りしてレトルトご飯を買うなんて冗談ではないと言うのが最大の理由であることは間違いない。
買い置きの食パンが残っていたことに胸を撫で下ろし、やかんとフライパンをコンロにかけて冷蔵庫から卵と薄切りのハムを取り出す。
朝食のレパートリーはそれほどないが、一日や二日ぐらいならごまかしは効くだろう。
それ以上日にちがかかるようなら、それこそ茉莉花の協力を仰ぐことになりかねないが、それはそれで悪くはない。
――前に泊めたときも、何も言わずに朝食を作ってくれたから大丈夫だろう。
実際そんな状況になったら憶測で動かず本人に相談するつもりだが、茉莉花は案外ふたつ返事でオッケーしてくれる気がした。
「いや、甘えすぎは良くない。そもそもアイツをさっさと追い出す方が建設的だ」
親子喧嘩して家出してきたあの義妹は、いったいいつになったら帰ってくれるのか。
これから起こりうる諸々を想像するだけで、肩に重みが圧し掛かってくる。
やるせない気持ちでため息を吐き、フライパンに薄く油をひいて――
★
「ただいま~」
家の呼び鈴ではなくなぜかスマートフォンに『開けて』とメッセージが入ってきて、首を捻りつつもドアを開けると、家の外には茉莉花と瑞穂がいた。
「……」
「どうかした、狩谷君?」
「……いや、何でもない」
無邪気に問いかけてくる茉莉花に、サラリと返した。
内心では『ふたりとも、元気だな』と驚きを感じていた。
茉莉花も瑞穂も全身汗みずくということもなく、さりとて息を切らせているわけでもない。
付け加えるならば、服が体に張り付いているわけでもなければ透けているわけでもない。
……もちろん、そんなハプニングを期待していたわけではない。
見てくれは『普通』としか表現しようがなかった。
朝からロードワークに出かけていたと聞かされていなければ、起きてきたばかりだと言われても違和感はない。
茉莉花は大きめのシャツにハーフパンツのラフな姿で、白い脚が大胆に露出している。
瑞穂の上は茉莉花と色違いのシャツで、下は足元まであるパンツ。まるでスキがない……と思ったが、サイズが合っていない。
具体的にどこが合っていないのかは、あえて語らない。
「ああ、おはよう。飯の用意できてるぞ」
「やった。帰ってきて、すぐにご飯があると嬉しいよね」
「そっちが催促したんだがな」
「それを言わなきゃ100点満点なんだけど、それを言うのが狩谷君って感じ」
「……」
文句を口にしつつも茉莉花の表情は晴れやかで。
一方で瑞穂の表情は――ない。
上機嫌なわけでも不機嫌なわけでもない。
実家で共に暮らしていた時に、こんな顔をしているところを見た記憶がない。
だから……今この義妹が何を考えているのかサッパリわからない。
『一緒に暮らしていた頃ならわかったのか?』と問われれば、首を横に振るしかない程度の希薄な兄妹関係に過ぎなかったわけだが。
義理の。
――本当の兄妹だったらわかるのか?
心の中で自問して……やはり心の中で首を振る。
横に。
生まれてこの方ずっとひとりっ子だから確信は持てなかったが、血の繋がった兄妹がいたとしても、やはり自分には妹のことなど理解不能だろうと自嘲せざるを得ない。
「どうした、瑞穂?」
火薬庫に手を突っ込むような心持ちではあったが、尋ねないわけにもいかない。
実の兄妹であろうとなかろうと、自分が兄で瑞穂が義妹だ。
歩み寄りの姿勢を見せるのは自分からであるべきだと思った。
たとえ何の根拠もなかったとしても、悪いことではないはずだ。
「……ずいぶんと慣れてますね」
想定外の反応だった。
その声にヒヤッと身が竦んだ。
夜道で首の後ろを冷たい手が撫でてくる、そんな感覚。
歩み寄りがどうこうなんて殊勝な気分は、たったのひと言で吹き飛ばされた。
『触らぬ神に祟りなし』なんてことわざが脳裏によぎったが、一度口を開いてしまったものはどうしようもない。
『覆水盆に返らず』と嘆くよりは『毒食わば皿まで』と開き直った方が幾分マシだ。
……とは言え、
――相変わらず、どう接したらいいのかわからん。
ひと言ひと言、一挙一動に気を遣わされる。
心休まる時がなく、顔を合わせるたびに全身が奇妙に強張る。
思えばこれを一年以上続けていたのだから……昔の自分は割と頑張っていた方だろう。
高校入学と同時に家を出たのも、家を出てから一度も帰らなかったのも判断ミスではなかったとつくづく思わされる。
瑞穂自身に自覚がない(らしい)ところが非常に厄介で、事あるごとに『家に顔を出したらどうか?』などと詰め寄られるが……まぁ、実家に戻る気にはなれなかった。
「家にいた頃も、朝は俺が作っていたはずだが」
「……」
じろりと勉をひと睨みした瑞穂は『そうでしたね』と温度のない声を続けた。
勉は嘘をついてはいなかったが、瑞穂の言葉が『茉莉花と朝食を取ること』に引っかかっていることには気づいていて――あえて触れなかった。
――コイツ……
茉莉花と一緒に食事、特に朝食を食べるのは二回目。
別に慣れているわけでも何でもない。瑞穂に指摘されるまで気づかなかったぐらいなので、そこを責められるのは業腹ではあるのだが……それはそれとして、ちょっと後ろめたい気持ちがあったのは間違いないから反論もしづらい。
昨晩あんな現場に踏み込んでこられたから、勘違いされているのも無理はない。
理屈だけ並べ立ててみれば、瑞穂の態度には十分な根拠があった。
「遅くなりましたが……おはようございます、義兄さん」
「あ、ああ、おはよう」
言葉に詰まっていると、瑞穂から『おはよう』と言われてしまった。
さっきの通話では茉莉花としか会話していなかったので、当たり前と言えば当たり前。
表情に変化はないものの、声色におかしなところはなく滑舌にも問題はない。茉莉花とは異なるタイプではあるが、耳に心地よい声であることに疑義を挟む余地はない。
――さすがアイドルと言ったところか。
ただし……茉莉花とは異なるタイプではあるが整いすぎた顔立ち、その眼差しに訝し気な光が宿っている。
勉の気のせいでなければ。
目と目を合わせたまま、ほんのわずかに声を上擦らせながら挨拶を返すと、瑞穂は軽く肩を竦めて『お邪魔します』と続けた。
「ぐっ」
横を通り過ぎるときに、思いっきり足を踏みつけてきた。
理不尽極まりないと憤るよりも、いかにも瑞穂らしいと納得できてしまった。
別に重くはなかったし痛くもなかったから悲鳴を上げることはなかった。
突然だったから驚いただけだし、声は口の中で抑え込めた。
「……何ですか?」
「ああ、いや……お前、着替え持ってたのか」
「借りものです」
口にしてから『しまった』と思いはしたが、時すでに遅し。
すぐ間近にあった瑞穂の表情が一転している。
思いっきり渋い顔。先ほどまでのすまし顔が嘘のよう。
誰に借りたかは考えるまでもないし、サイズが合っていないことにも納得がいった。
スラリとしたシルエットに引き締まった身体つき。贅肉なんてひとかけらもない。
……具体的なパーツ名は言わないが、スラリとし過ぎている気がしなくもない。
「どこを見ているんですか、義兄さん」
「どこも見てないが」
「ウソ。最低」
何の根拠もないはずの罵倒だったが、返す言葉もない。
――ほんの一瞬だったんだがなぁ……
額を抑えてため息をついているさなかに気づいた。
脇を通り過ぎた義妹から、恋人と同じ匂いがした。




