第89話 それはまるで夢のような
紆余曲折あって交際することとなった『狩谷 勉』と『立華 茉莉花』
何と茉莉花が夏休みの初日に勉の家の隣に引っ越してきた!
ふたりで一緒にソバを食べて、いい雰囲気になって……
大人の階段を登ろうとしたちょうどその時、勉の義妹である『狩谷 瑞穂』に踏み込まれる!
言い訳しつつ義妹の襲撃理由(アイドル活動に精を出しすぎて成績不振、義父と喧嘩して家出)を聞いたり。
せっかくの甘い雰囲気はどこかに吹っ飛んで、結局瑞穂は茉莉花の家に泊まることになって。
そして――
闇に溶けていた勉の意識を凝固させたのは、くぐもった振動だった。
『朝か』と認識するや否や、いつまでも身を任せたくなる微睡みがほどけた。
目蓋を開くと光を感じる。肌には熱気を感じる。安息の時間が終わりを告げる。
「……む」
耳障りな音に起こされた朝は、酷く不愉快だった。
ゆっくりと持ち上げた身体は、粘つく汗にまみれている。
――何か、酷い夢を見ていた気がする……
頭の中に蟠る得体の知れない重みが、とにかく不愉快だった。
ぼんやりしたままの視界は――単に裸眼の視力が悪いだけ。
枕元に転がっていた眼鏡をかけ、ゴキゴキと首を鳴らす。
「さて」
重力に引かれる額を抑えて勉は独り言ちた。胸の奥に溜まった空気を吐き出しながら。
そして先ほどから振動音を鳴らし続ける物体、自分のスマートフォンを見やる。
充電コードが刺さったままの端末がずっと震えて存在を主張している。
「……着信か」
ちらりと時計を見やると――アラームをセットしておいた時間より早かった。
生あくびを漏らし、目じりに溜まった涙をぬぐい、スマホを握って……慌ててタップ。
ディスプレイに表示されていた通話相手は――
『もしもし、狩谷君?』
「立華か」
スマートフォンの彼方にいたのは茉莉花だった。
今や勉の恋人であり隣人でもある茉莉花だった。
『おはよう……ひょっとして寝てた』
「ああ。朝からいきなり何の用だ?」
『何の用って……用がないとかけたらダメなの?』
「いや、ダメということはないが……珍しいと思ってな」
勉と茉莉花が交際を始めたのは6月の下旬。
2年生の1学期、期末考査が始まる直前だった。
恋人(この表現には、我が事ながら驚きを覚える)である茉莉花は、もともと学校のアイドル的存在であり恋多き少女としても知られていた。
恋多き少女――すなわち彼女が交際してきた相手は多かった。
高校に入学してからだけでも、両手の指で数えきれないほど。
多くの男子と付き合って、そのすべての男子と破局してきた。
それが学校の元アイドル『立華 茉莉花』という少女だった。
――俺が初めてなんだよな。
今日は夏休み二日目。
一か月以上もの間、茉莉花と交際を続けてこられたのは自分だけ。
そして、ふたりの関係は非常に順調であり記録を更新し続けることに疑いはない。
もっとも、手を抜いたり状況に胡坐をかいたりするつもりは毛頭なかった。
きっと――茉莉花も同じ気持ちだろう。
兎にも角にも一か月。
つい先日には記念にケーキをふたりで食べた。
その間、何度となく茉莉花と通話を交わしたことはあったが……朝イチは初めてだった。
ひとり暮らしである勉の朝はバタバタしがちだし、よくよく考えてみれば茉莉花だってひとり暮らしであったし、身だしなみに関しては女子の方が手間取ることを考慮に入れれば、この時間帯に連絡を取るのはナンセンス――と、今になって気づいた。
『へへ~、モーニングコール』
「そうか」
『ちょっと狩谷君、感動薄くない? 朝から私の声が聞けることに、もっと反応してほしいな~』
「……」
――さて、何と返したものか。
率直な感想は、嬉しい。
しかし、それをバカ正直に伝えることに抵抗を覚える。
交際を始める前は、もっとズバズバ物を言っていた記憶があるのだが。
それと――それよりも、さっきから気になることがあった。
「立華」
『ん~、なに?』
「なんか、息が荒くないか?」
通話を開始した時から抱いていた違和感。
茉莉花の声に『はっはっ』と吐息が混じっている。
案外規則正しいその音色は、しかし息苦しそうにも聞こえる。
「お前、今どこで何をやっているんだ?」
おかしなことを尋ねていると言う自覚はあった。
茉莉花は昨日勉が借りている部屋の横に引っ越してきた。
ならば、当然今だって隣の部屋にいるはずなのに。
朝起きてやることなんて、そんなにたくさんないはずなのに。
否。
――何か、見落としている気がする。
そう思った。
大切なことを忘れている気がする。
大切なことと言うよりは、忘れたら致命的なことと表現する方が正しい。
そんな何かを。
なんとなくロクでもないことのようにも思える。
頭の奥に鈍痛を覚えた。思い出したくないと本能が訴えているように感じた。
『ふっふっふ。さて問題です。私は何をしているでしょうか?』
「えらくもったいぶるな。わからないから聞いているんだが?」
『それをすぐに答えたら面白くないでしょ。ほら、3,2,1』
「……大掃除か」
『違います』
昨夜訪れた茉莉花の部屋は、いかにも引っ越してきたばかりな散らかりようだった。
正真正銘昨日引っ越してきた彼女の部屋が、そんなに簡単に整うはずがない。
だから、夏休みなのに朝早くから起きて――と考えたのだが。
『正解は……ロードワークです』
「ロードワーク?」
淡々と告げられた答えは、勉の脳内に存在しない単語だった。
ロードワーク。
――ロードワークって……なんだったかな?
眉を寄せて首を傾げる。
ロード=道。
ワーク=仕事。
ならばロードワークとは。
『えっと狩谷君?』
「……」
『狩谷君、お~い』
「……」
『聞いてる、ちょっと返事して!』
「あ、ああ、すまん。その、ロードワークとは何のことだったかと思ってな?」
『え? あ、えっと……瑞穂ちゃんと一緒に走ってるの』
「走ってる?」
『うん』
走る。
また予想外の単語だ。
勉は窓の外に目をやった。
朝も早くから猛威を振るう太陽の光が痛々しかった。
――走る?
こんな中を走る?
ちょっと考えられない。
今は夏だが、冬だってごめんだった。
自分と茉莉花の生活様式の違いをまざまざと見せつけられて、ため息が零れる。
――いや、それより……
「待て、今、瑞穂と走ってる……瑞穂!?」
『そ。体力づくりのために毎日走ってるんだって。だから今日は私も一緒にって』
「そういえばいたな、アイツ」
瑞穂。
『狩谷 瑞穂』
勉の義理の妹。
忌々しい響きだった。
実に忌々しい響きだった。
名前を聞いたら、曖昧にぼやけていた昨夜の記憶が鮮明に甦った。
勉と瑞穂は別に仲が悪いわけではないのだが(言うほど良くもない)……昨日はまるで狙ったかのように最悪のタイミングで勉の部屋を訪れて……
「そうか……夢じゃなかったのか」
『……狩谷君、大丈夫? 昨日のことちゃんと覚えてる? 現実逃避してない? あ、ちょっと待ちなさいって』
「……立華?」
『ごめん、隣の瑞穂ちゃんが荒ぶってて』
「アイツ何やってるんだ……でも、大丈夫なのか?」
『ん?』
「いや、その正体が周りにバレたりはしないかと」
勉の義妹である瑞穂には、もうひとつの顔がある。
人気急上昇中のアイドルユニット『WINKLE』のセンター『片桐 瑞稀』という顔が。
テレビやインターネットで頻繁に目にする美貌を晒してランニングなんて、嫌な予感しかしない。
『さすがに変装してるって。それに、瑞穂ちゃんひとりなら身バレするかもだけど、今日は私も一緒に走ってるから。あ、でも……ふたりの方が余計に目立っちゃうかな。私は変装してないから』
「はいはい、それはわかったから。それで、電話の用はそれだけか?」
自信満々な茉莉花の声に苦笑が漏れる。
彼女もまた瑞穂に匹敵する美貌の持ち主であるし、かつてはカリスマエロ裏垢主『RIKA』としてSNSに君臨していた身だ。
アカウントは削除されて久しいが、一度インターネットを介してバラまかれた茉莉花の画像は――おそらく永久に残り続ける。
いわゆるデジタルタトゥーという奴だ。
彼女にも思惑があっての行動ではあったが、その代償は決して軽くみられるものではない。
紆余曲折はあったものの……勉は茉莉花を支え、ともに歩むと決めた。
自分が気を揉み続けていては彼女を心配させるだけと思う反面、唐突に訪れるかもしれないトラブルに注意を払わないわけにもいかないとも思う。
その二律背反に悩む自分を、あまり茉莉花に気づかれたくはなかった。
だから、ことさらに平静を装った。
『狩谷君のスルーが酷い……えっと、もう少ししたら戻るから、朝ご飯があると嬉しいなって』
「それくらいなら用意しておくが、食べられるのか?」
走りに走って疲労困憊の状態で食事。
勉の脳内には存在しないシチュエーションだった。
……自分だって勉強にアルバイトに家事にと疲れ切っていても、結構普通に食事をとっているのだが。
『え? うん、食べるよ。ふつーに』
「そうなのか? まぁ、アイツの面倒を見てもらっているから、食事ぐらいはどうということはない」
『あと、お風呂沸かしといてほしいな。汗流したいし』
「それは自分の部屋でやってくれ」
『瑞穂ちゃんは?』
「そいつもそっちで」
『はいはい、それじゃ後でね』
「ああ……あ」
『ん?』
「遅くなった。おはよう、立華」
『うん。おはよう、狩谷君』
『遅いよ』とは怒られなかった。
柔らかい声を最後に通話は切れた。
しばらくディスプレイを見つめていた勉は――
「アイツさえいなければなぁ」
茉莉花とともに近くを走っている(であろう)義妹の姿を想像して――朝から重苦しいため息を吐いた。
長らくお待たせしました。
『ガリ勉くん』第2部第2章を開始します。
今のところ、毎週金曜日の19時に1話ずつ更新する予定です。
全10話の予定となっております。




