第88話 【瑞穂】義兄と義妹と その1
義兄の彼女を自称する『立華 茉莉花』という女は、不自然なほどに静かだった。
義兄である『狩谷 勉』自身があれほど激昂したにもかかわらず。
怒っているようには見えないし、呆れているようにも見えない。
馬鹿にしているようにも見えないし、蔑んでいるようにも見えない。
心中を洞察することが叶わない。すなわち警戒をもってあたるべき人間である。
『狩谷 瑞穂』はそのように結論付けた。口に出さない程度の分別は弁えていた。
それはそれとして。
グチグチとケチをつけられないことはありがたかったし、部屋から放り出されなかったことはとても助かっていることも事実で、見通せない心中と概ね快適な状況の落差にモヤモヤとした思いが募る一方だった。
そんな義兄の彼女(仮)に動きがみられたのは、夜も更けたころ。
瑞穂はベッドに横たわり、茉莉花は床にマットを敷いて寝床としていた。
部屋の電気が消えった漆黒の闇の中、彼女は口を開いた。
『ね、狩谷君の昔のこととか聞きたいなぁ』と。
(しつこいですね)
すでに断ったはずなのに食い下がってくる。
しかも自分のことではなく義兄のことを聞いてくる。
『狩谷 瑞穂』にも『片桐 瑞稀』にも興味がないと言わんばかりに。
「……」
求めに応じる義務はなかったし、義兄のことを思い出すだけでムカムカする。
だから『別に面白いことなんてありませんでしたよ』とだけ答えて口を閉ざした。
芸能人として過酷なスケジュールに身を置くことも珍しくない瑞穂は、どんな状況でも完璧な睡眠をとることができると言う妙な特技を持っていた。いつ身につけたのかは本人も覚えていないが重宝していることは確かであり、この日もまた速やかに夢の世界へ身を投じることができた。
眠る直前に話を振られたせいだろうか。
意識を手放す瞬間、義兄である勉の顔が闇の中から浮かび上がってきた。
★
再婚すると父から打ち明けられた時、瑞穂は『ふぅん、どうぞご自由に』と適当に聞き流した。
あまり興味はなかったし、目前に迫るライブのレッスンに意識を割いていたからだ。
それでも、ふと時間が空いた時に『ずいぶんと物好きだな』と呆れたことを覚えている。
父にとっては妻であり瑞穂にとっては母である女性は、娘の目から見てもよくわからない大人だった。時折父がひとりで『あいつのことを理解できない』と嘆いていたから、きっと大人から見てもよくわからない人物だったのだろう。
芸能界に強い興味を示した自分の背中を押してくれたことには感謝していたが、研究に明け暮れる父と同じく彼女もまた多忙のあまり家にいることは少なく、どちらにせよあまり親という気がしない。
生みの母は、そういう人間だった。
……まぁ、もともと家族が三人とも好き勝手に生きていたという事情もあるが。
両親の離婚が成立した時、瑞穂は躊躇うことなく父についた。
父は娘の芸能活動にいい顔をすることはなかったものの、母はあまりにも得体が知れなさすぎたから。一応家族という体裁で過ごしてきた年月のうちに、『母=ある種の妖怪』的なイメージが頭の中にこびりついていて、そんな女性と家族として一緒に暮らす未来が想像できなかった。
あと、母の周りには常に多くの男の姿があった。
決して不貞行為の類ではないことは頭ではわかっていたが、当時は生理的に受け入れることができなかった。
そんな母と別れた父が再婚すると言う。
恋愛とか結婚とか、それ以前に女性そのものに懲りたのかと思っていたのだが、どうもそう言うわけではなかったらしい。
瑞穂としては、割とどうでもよかった。
再婚相手とやらが自分の邪魔さえしなければ。
既にアイドル『片桐 瑞稀』として世に出ていた自分が気にするべきことは、ただそれだけだった。
ライブが無事に終わってから、新しい義母たちとの顔合わせがあった。
その前日になって初めて『あちらにはお前よりひとつ年上の男の子がいる』等と宣った父を心の中でサンドバックにしたが、時すでに遅し。
初めての顔合わせ、初めての食事会。
心の中はともかくとして、笑顔を保つことは難しくなかった。
笑顔を作るのは得意だったから。もはや業務の一環だったと言っても過言ではない。
そんなこんなで顔を合わせた義理の兄(予定)は――これまた、よくわからない人間だった。
瑞穂を前にした男性、特に同年代の男子は概ね挙動不審に陥る。
それが自身のルックスの影響であることは十四年の人生で十二分に理解していたし、ひそかに誇りに思っていたのだが……新しい義兄である勉には、それらしい兆候が見られなかった。
物静かな佇まいが、妙に癇に障った。
それでも笑顔は崩さなかった。
内心では憤慨していたが。
(なんなんですか、この人は!?)
一見すると、ごく普通の男子だった。
冴えない学生服を身にまとい、髪は短い刈り上げ気味。
眼鏡の奥の目つきは鋭く、総じて生真面目な印象を受けた。
ガリ勉とか委員長なんて言葉が脳裏をよぎり、『自分とは合わないタイプの人間だ』と直感した。
同時に『これは、父と話が合うタイプの人間だろう』とも思った。
それは積極的に話しかけようとする父の態度からも明らかであったが、対する勉は妙に言葉を濁していた。
奇妙だな、と心の中で首を傾げた。
父にとっては好ましい義理の息子であるかもしれないが、息子にとっては望ましい義理の父親ではないのかもしれない。
(よくわかりませんね)
帰りのタクシーの中で父に尋ねられた時の率直な感想だった。
もちろんそのまま口にすることはなく『よい方たちだと思います』などと答えておいた。
再婚は既定路線であり(瑞穂だって反対はしなかった)、今さら揉めてもどうにもならないと思ったから。
なお、義母の方は『なぜ父のような人間と?』と首を捻るような快活でエネルギッシュな女性だった。こちらとは上手くやっていけそうな気がした。
★
初対面の際に義兄が見せた不審な挙動については、ひとつ屋根の下で暮らすようになってすぐ理由が判明した。
義兄は、瑞穂を、アイドル『片桐 瑞稀』を知らなかったのだ。
『片桐 瑞稀』は当時からアイドルユニット『WINKLE』のセンターを務めていたものの、当時はユニットそのものがマイナーであり、少しでも知名度を高めようと四苦八苦していた頃合いだった。
だから、勉が瑞穂のことを知らなかったことは何もおかしなことではないのだが、瑞穂としてはこれがどうしても許しがたいことであった。
事実が明らかになった際の記憶は既に瑞穂の脳内から吹き飛んでいる(おそらくあまり良い思い出ではなかったのだろう)が、しばらくの間、義兄とは顔を合わせようとも思わなかったし、もちろん口など全く聞く気にはなれなかった。
それでも――ひとつ屋根の下に暮らしているのだ。
物凄く気まずかった。
帰宅する際の足取りは重く、飛び出すように家を出る日が増えた。
『どうにかして義兄に目にもの見せてくれよう』
それが瑞穂の強烈なモチベーションとなり、いつしか『片桐 瑞稀』と『WINKLE』はみるみる間に名声を高め、遥かに長くて険しい道のりであるはずのアイドル街道を順調にステップアップしていくことになったのは皮肉と言うべきか何と言うべきか。
とりあえず、瑞穂には勉に感謝しようとなんて気持ちは指の先ほども存在しなかった。
そんなある日のことであった。瑞穂は妙なものを目にしてしまった。
自宅のリビングに放り出されていた一冊の雑誌であった。
瑞穂も掲載されているし、自身でも目を通しているアイドル雑誌である。
ただ、いささか奇妙な点があった。
なぜかベタベタと付箋が貼られている。至る所に蛍光マーカーが引かれている。
ほとんどのページが赤ペンの走り書きらしきもので埋め尽くされていた。
特に『WINKLE』の記事、中でも『片桐 瑞稀』のページの書き込みがやたらと多い。
おおむね好意的なコメントが大半を占めていたが『スタミナが足りないから後半になると息が苦しそう』とか『指先がダレている』だとか『表情に精彩がない。きっと偏食で栄養が足りてないせい』などなど、イラっと来る文面もあった。
口元を引くつかせながらほかのページをめくっていくと、自分以外のアイドルの長所や短所も事細やかに纏められている。
それはさながら――
(参考書でしょうか?)
ほとんど勉強しない自分に縁のない単語が脳裏によぎったのは、義理の兄がやたらとクソ真面目な(第一印象に偽りのない)勉強家だったからだ。時折顔を出す学校のクラスで成績優秀と称される同級生と比較しても、否、比較にならないほどの努力家であった。
何かと気に食わない人間ではあるものの、義兄の美点は認めざるを得ない。
瑞穂は己の才能に疑いを抱いたことはなかったが、努力を軽んじるつもりもなかった。
『狩谷 勉』はアイドルとして上昇気流に乗りつつある自分から見ても間違いなく努力家である。
ふたりの違いは――単に方向性の問題に過ぎない。
(あ)
唐突に気付いた。
この雑誌の持ち主を。
誰がここまで偏執的な書き込みを行ったかを。
自然と口元が緩み――ほぼ同時に鋭敏な耳が足音を捉えた。
瑞穂はそっと雑誌をもとの位置に戻し、気づかれないよう姿を隠した。
物陰から様子を窺っていると――案の定、義理の兄である勉が現れ、きょろきょろと周りを見回してから雑誌を回収し、リビングを後にした。
階段を駆け上がる音から、自室に戻ったことは疑いようがない。
「なるほど、そういう人でしたか」
仏頂面で気難しくて、何を考えているのかよくわからない。
ひとつ屋根の下で暮らす義理の兄妹であるにもかかわらず正体不明。
表面的には父に似ているように見えて、内面は瑞穂の生みの母に似ているように思える。
永らく『狩谷 瑞穂』にとって『狩谷 勉』はそういう人間だった。
どうやら自分は勘違いしているらしいと気づいた。
あの義兄は別にロボットでもなければ宇宙人でもない。もちろん妖怪変化の類でもない。
れっきとした人間であり、実の父とは違い自分に相応の興味と理解を示そうとしている。
それはとても好ましいことだと思った。
(可愛らしい人ですね)
なお、件の雑誌については後日譚がある。
久々に一家四人が揃ったある日の夕食で、義母が大々的に語ってくれてしまった。
義兄は耳まで真っ赤にしながらそっぽを向いていたけれど――ちょっとかわいそうかな、と思った。
久しぶりに、そんな懐かしい夢を見た。
これにて第2部第1章終了となります。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この章は概ね瑞穂の紹介がメインとなっておりました。
物語的には次の章から少しずつ進んでいくことになります。
再開までごゆるりとお待ちいただければ幸いです。




