第87話 勉、己が無力に嘆く
「私――学校辞めます!」
キッと勉を睨みつながら瑞穂が言い放った言葉は、矛先を向けられた勉の思考の及ぶ限界を超えていた。ことさらに常識人ぶっているわけでもない勉をして、『無茶苦茶にもほどがある』と怒りを越えて呆れてしまうほどの非常識と言わざるを得ない。
まず基本的な問題として、このご時世で学校をやめると言う選択肢が想像を絶していた。
何らかの理由があってそのような道に進まざるを得ない同年代の人間が存在することを知識として知っていても、そんなレアケースが身近に発生するとまでは考えない。
ましてや辞めた後どうするのか……とてもではないが、眼前で気炎を吐く瑞穂に明確なヴィジョンがあるようには見えない。身も蓋もない言い方をすれば場の空気に煽られて口にしただけにしか見えない。
ふたつ目の問題として、ちょっと勉強すれば回避できるトラブルをどうしてここまで引っ張るのか理解できなかった。単純に合理的でないし、無駄にリスクを引き上げているだけにしか思えない。それほど大した労力ではないはずなのだが、何故に瑞穂がそこまで勉強を厭うのか。考えれば考えるほど、わけがわからなくなっていく。
そして三つ目の問題であり、肝要な部分であるのだが――
「お前が学校を辞めても、義父が許可を出さなかったら意味がないだろう?」
瑞穂が学業の道を捨てることと芸能の道に進むことは、厳密には繋がっていない。
いまだ未成年に過ぎない義妹がアイドルを続けるには、どうあっても父の許可がいる。
そこまで思考を走らせたところで『いや、待てよ』と心の中から声が聞こえた。
――お袋は……どうなんだろうな?
ふと、そんなことを思いついてしまった。
かつての瑞穂の親権者は父親だけだった。だから父の同意を得る他に選択肢がなかった。
でも、その父親が再婚した今なら、義理の母すなわち勉の実母が首を縦に振ってくれれば、あるいはこの問題は解決されてしまうのではなかろうか。
まさか瑞穂はそこまで見通して強硬姿勢を貫いているのではないかという思考が脳裏によぎる。人は見た目に寄らない。おバカと思われていた義妹に足元をすくわれる可能性は否定できない。勉も、そして義父も。
瑞穂と母は仲が良い。勉がひとり暮らしを始めてからの狩谷家に何らかの大きな変化がなければ、きっと両者の関係は良好なまま推移しているはずだ。
――ありうる、のか?
勉は法律の類にそこまで詳しいわけではないから、再婚した義理の母親の権能がこの状況を解決するためにどれほど役に立つのかは判断できなかった。
学校では、こんなことは教えてくれない。
――理屈の上ではイケる気がするが、まぁ無理だろうな。
眼鏡の位置を直し、軽く頭を振る。
母親は生活スタイルこそ破天荒ではあるが、思想信条そのものは常識的な人間である。
無残すぎる義妹の有様を見て、わざわざ夫と反目する選択肢を選ぶとは思えない。
やはり瑞穂は詰んでいる。
素直に義父に頭を下げて目前に迫ったツアーをクリアし、その後はしばらく大人しく勉強に専念するぐらいしか、この状況を解決に導く方法はない。
「そ、それは……」
案の定、勉の指摘に目に見えて狼狽する瑞穂。
あまり深く思考を巡らせている人間の態度ではない。
義理の母親を利用するなんて奇策を思いついているようには見受けられない。
「わかったら大人しく義父に頭を下げてだな」
「嫌です。一度譲ったら、これからも事あるごとに同じように脅されるに決まってます」
言い切る前に瑞穂が言葉を重ねてきた。
義理の兄が知らない実の父娘の口論が、よほど腹に据えかねているらしい。
彼女の中で義父がどのような扱いを受けているのか、なんとなく窺い知れてしまう。
――いくら何でも『脅される』はないだろうに。
義妹の酷すぎる言い草を窘めておくべきか迷った。
自分だって決して良い兄と胸を張れる人間ではない。
高校入学以来、一度も家に帰ったことのない酷薄な義兄なのだ。
ここで義兄ヅラしても説得力なんてまったくない。
それでも、この状況は捨て置けない。
「バカなことを言うな。大体お前が大人しく勉強すれば済む話だろう?」
「だからそれは……もういいです! 義兄さんと話すことなんて、もうありません! 出て行ってください!」
「いや、ここは俺の家なんだが……」
――お前はいったい何を言っているのか。
なんだか物凄く疲れてきた。頭痛がいよいよ酷くなってくる。
瑞穂は激昂のあまり完全に我を忘れてしまっている。
言動は支離滅裂で、所かまわずキレ散らかす。
つまり、勉がよく知るいつもの義妹だった。
「うるさいうるさいうるさいうるさいッ! いちいち揚げ足取らないでくださいッ!」
また『うるさい』の連呼である。
この義妹は都合が悪くなるといつもこのパターンを繰り返す。
その言葉を口にすればするほどに、瑞穂の感情はマイナスの方向に高ぶっているように見えた。
とてもではないが、まともな会話にならない。
この状況そのものが、義父から聞かされていた父娘の対話の相似形でしかない。
義妹を鎮め、義父との関係を修復する。同時に義妹の活動禁止令を解除させるなんて――
――そんな都合のいい解決策があるか!
喉元まで出かかった言葉が口から溢れようとする、ちょうどその時。
横合いから場違いなほどに穏やかな声が差し挟まれた。
「まぁまぁ、ふたりとも落ち着いて」
沈黙を守っていた茉莉花である。
「落ち着いてなんていられますかッ!」
「立華、こいつはさすがにどうしようもないぞ」
仲裁に入った茉莉花に勉と瑞穂の言葉が飛んだ。
特に瑞穂の言葉は相当にキツイ。態度もキツイ。
……にもかかわらず、当の茉莉花は泰然としている。
さすがは元学園のカリスマ『立華 茉莉花』だけのことはある。人間力が違いすぎる。
その余裕を少し分けてほしいと切実に思った。
「このまま話してても拗れるだけだし、今日のところはとりあえず……ね?」
茉莉花は、そう言って瑞穂の肩に手を置いた。
勉の方には片目をつぶって軽く頭を下げてくる。
そういう顔をされると――勉は強く出られない。
どさっとスツールに腰を下ろし、大きく息を吐き出す。
胸の奥からせりあがってくる空気は、必要以上にヒートアップしているように感じられる。
熱気で曇ってしまった眼鏡を外し、コップの麦茶を口に含んだ。
すっかりぬるくなった麦茶でも、ひと呼吸おく程度には役に立った。
時間を置くべき、機会を改めるべきだと理解はできる。
そうしたところで状況が解決するか否かは判断し難く、問題の先送りに過ぎないのではないかという疑念は残るが。
現状で他に取れる選択肢がないことも事実だった。
「……返す返すもすまん、立華」
他に言葉が見つからず、声に力はなかった。
彼女の前で身内の恥をさらしたこと。
普段の自分とはまるで異なる姿を見せたこと。
問題の渦中にある義妹を押し付けてしまうこと。
すべてが情けなくて――
「どういたしまして。高いものにつけるから覚悟しててね、狩谷君」
「……善処する」
素直にお礼を要求されたことが、逆にありがたかった。
下手に善人ぶられるよりも、少しだけ気が楽になる。
怒り心頭の瑞穂を伴って再び部屋を後にする茉莉花の背中に、そっと頭を下げた。
つくづく世話になりっぱなしすぎて、これは彼氏としてどうなのかと泣きが入りそうになる。交際を始めてから茉莉花の役に立った記憶がないおかげで、つらみが増す一方だ。
もう少しカッコいいところを見せたいという程度の感情は、朴念仁呼ばわりされる勉の中にもあると言うのに。
「人間、そうそう上手くはいかないもんだな」
自分の口から漏れた言葉に自分で凹んだ。ここまで上手くいかないのは想定外に過ぎた。
瑞穂をこのまま放置するわけにもいかないという現実から目を背けることはできない。
あのバカもとい義妹は茉莉花のもとにいるのだ。
何とかして問題を解決しないと、今後も祟り続けること間違いなし。
少なくとも現段階で予定していた夏休みのプランは根底から破壊されている。
「……とは言ってもなぁ、こんなのどうすればいいんだ?」
『狩谷 勉』は芸能界には詳しくない。
実家住まいだったころにも瑞穂からその手の話を聞いたことはなかったし(あの義妹は業界や仕事について家で話したがらなかった)、テレビやインターネットの情報は信ぴょう性を描いているように思えた。教室で界隈のスキャンダラスな話題が持ち上がることはあっても、こんな生々しく呆れるようなトラブルが一般人の耳に届くことはない。あったら物凄く困る。
『片桐 瑞稀』は下らないいざこざなんて超越しているかのごとき姿勢を貫いているが、一皮むけばトラブルの塊みたいなアイドルなのだ。普通のアイドルにありがちな恋愛云々の心配はない反面、私生活は破綻しまくっている。
事務所は彼女をどのように扱っているのだろうか。一度相談した方がいいかもしれない。
この場合は『義理の兄』という肩書が、どの程度通用するのかという問題が立ちはだかってくるのだが。
――突破口と言うか、とっかかりがなさすぎる……
義父と義妹の問題に家族として介入あるいは仲裁することに異議はなかった。
ただ、どうすればいいかわからない。
それが最大の問題だった。
人付き合いだの人間関係の機微などは、元来得意分野ではないのだ。
正確に言えば苦手分野である。
「はぁ」
ぐったりと力が抜けてテーブルに突っ伏した。
高校二年生の一学期は勉にとって激動の季節だった。
『立華 茉莉花』の、特に立華家にまつわるアレコレは、それまでの人生観を一変させかねないほどの問題であり、いまだ未熟な高校生として散々無力感に苛まれたものだった。
そして今、あの時とは全く異なる無力感に目の前が真っ暗になっている。
このままではいけないと本能的に理解した。
一時的であっても気晴らしが必要だ。栄養ドリンク的なモノが。
昏い考えに囚われていてはいけない。
気晴らしにスマートフォンに指を滑らせると――日付はまだ夏休み初日のままだった。
普段はまったく興味がわかない学校が、なぜか恋しく懐かしく思えてしまって余計に凹んだ。
深い悲しみのあまり、思わず顔を覆ってしまうほどに。
次回、第2部第1章最終話(の予定)!