第82話 状況と対策
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夏休み初日の夜、高校からほど近いマンションの一室すなわち勉の部屋は微妙な沈黙と緊張感に包まれていた。
勉をはじめとする三人は身じろぎひとつすることなく、クーラーが冷気を吐き出す微かな音と、時計の短針の音だけが室内の空気を揺らしている。
ぴっちりと閉められた窓の外からは何も聞こえてこないが、眼下の景色は活力にあふれ、きらめく人工の明かりが地に満ちていた。
夏の夜は長く、そして熱い。
「目下のところ問題はふたつ、ね」
厳かに言い放ったのは『立華 茉莉花』
誰あろう勉の恋人である。今でも誰かに紹介するときは少し気恥ずかしさを覚える。
前で組まれた茉莉花の白い腕は、豊かに盛り上がった胸元をごく自然に強調している。
彼女は組んでいた右腕をほどき、残るふたりの観衆を前に白く長い指をぴんと立てた。
「ひとつ、瑞穂ちゃんの……ってゆーか狩谷君のお義父さんの説得」
勉は無言で頷いた。
特に意識はしなかったが、頭が無性に重かった。漏れそうなため息は我慢した。
ちらりと見れば勉の義妹である瑞穂ことアイドル『片桐 瑞稀』も神妙な表情を浮かべていた。もともとクールな雰囲気を売りにしているだけあって、口を閉ざしている限りは完璧な美貌が眩しい。
義理の兄としては、できれば当分そのままでいてほしいと切に願わざるを得ない。
「前に聞いたことある気がするんだけど……狩谷君のお義父さんってどんな人なの?」
「理性的で……」
「わからず屋」
勉が説明するより早く、瑞穂が切って捨てた。
白けた空気と沈黙。茉莉花がコホンと咳ばらいをひとつ。
ふたりそろって視線を向けると、瑞穂はプイっと横を向いた。
「……えっと、狩谷君?」
「理性的で、公平な人だと思う。決して話が通じない人ではないはずだ」
「通じません」
「何してる人なのか、聞いていい?」
茉莉花は瑞穂の言葉をスルーした。
耳朶をかすめた義妹の舌打ちは、聞こえなかったことにする。
「義父は大学で教鞭を執っている」
勉も彼女に倣うことにした。
瑞穂の機嫌を窺うのは……まぁ、後で構うまい。
そういうことにしておかないと、いつまでたっての話がまるで進まない。
「大学教授ってこと? すごくない?」
指を追って何かを数えていた茉莉花が感嘆の声を上げた。
おそらく年齢を計算していたのだろうと見て取れた。
「ああ。凄い人だ」
「狩谷君、先生とか大嫌いなのに大丈夫なの?」
心の底から狩谷家の家庭環境を心配しているようにしか聞こえない、気づかわし気な茉莉花の声に、勉の全身から力が抜けた。
「今その話はいいだろう。あと、別に俺と義父は仲が悪いわけじゃない」
「義兄さん、先生が嫌いなんですか?」
「……嫌いだが、それとこれとは話が違う」
キラキラ輝く瞳を向けてくる義妹を手で制する。
勉の中では大学教授と高校以下の教師は完全に別の存在と認識されていたが、その詳細を今この場で瑞穂に説明するつもりはなかった。端的に言えばめんどくさかったし、おそらくこの状況を解決することに何の利をもたらすこともないだろうから。
「義父が大学教授で義妹がアイドルって、えらくまたかけ離れた親子ねぇ」
「別に親と子が似る必要はないと思います」
「それはその通り」
あっさりと瑞穂に頷いている茉莉花を見て、勉の喉元まで言葉が出かかった。親子の確執を抱えているのは瑞穂だけではない。立華家に関する問題は狩谷家にまつわる問題よりも根が深く、そして破滅的だ。
『思わぬところに賛同者が!』と瞳に期待を滲ませる瑞穂にひと言物申してやろうとしたが、その声が形になることはなかった。茉莉花の漆黒の瞳が『言わなくていい』と物語っていたから。
――本当にいいのか?
内心では忸怩たる思いがあった。
でも、茉莉花の心遣いを無視したくはなかった。
彼女の胸中に渦巻く感情はどうあれ、現段階では瑞穂を気遣うだけの余裕がある。
その厚意に甘え続けることは禁物だが……いくつもの案件を解決に向けて同時に進行させるほどキャパシティに余裕があるわけでもない。現実は現実として認めざるを得ない。
「もともと父は私の芸能活動にいい顔はしてませんでした」
「今までは許可されてたんでしょ?」
「それはそうですけど……」
瑞穂の歯切れが悪い。
かなり意外な気がした。
勉の知る限り『狩谷 瑞穂』という少女は、いつでも自信満々で少々喧しい義妹だ。
テレビやインターネットで大活躍なアイドル『片桐 瑞稀』は別として。
うまく言葉にはできなかったが、なんとなく『らしくない』と感じられる。
――ふむ……
両親が再婚する前も再婚してからも、義妹の芸能活動について義父がどのような意見を持っているかなんて聞いたことがなかった。
だから、そのあたりは既に父娘で納得済みだと認識していたし、必要以上に触れようとも思わなかったのだが。
改めて考えてみると……意外というか、違和感がある。
大きな話の流れのど真ん中がぶった切られているような。
あるいは……妙なツギハギ感と言うか、ぎこちなさ的なものが横たわっているような。
「喧嘩したのはもう仕方ないとして、説得はできそうなの?」
勉の黙考をよそに、眼前では茉莉花が瑞穂に問いを重ね続けている。
「わかりません」
「メンバーとか事務所にはどう説明するんだ?」
「それは……現在説得中としか」
頬を膨らませ、視線を逸らす瑞穂。返す返すも状況は捗々しくない。
父の説得はままならず、タイムリミットは目前に迫っている。
現実は非情すぎた。
「でも、もうあまり時間が残ってないぞ。このままだと」
「わかってます! 義兄さんイチイチうるさい!」
「瑞穂、お前な……」
口では呆れながらも、このキレ散らかし具合は自分の知る義妹だと納得してしまった。
『片桐 瑞稀』は知的でクールなキャラで売っているアイドルだが、勉の知る限り『狩谷 瑞穂』は知的でもクールでもない。
何であんなキャラ付けをしたのか、テレビを見るたびに首をかしげるほどに。
どいつもこいつも涼やかな外面に騙されすぎていないか、と。
「狩谷君」
「どうした、立華」
「狩谷君が間に入ってあげたらどうかな?」
「それは……」
茉莉花の提案はもっともなものだ。理性では同意できる。
多分そういう流れになるだろうなとは予想できていた。
反面、感情の方はままならない。
勉が家を出た理由の半分は義妹だが、もう半分は義父だった。
幼いころから掲げてきた『いい仕事をして母を楽にしてやる』という目標を横から掻っ攫われたショックを引きずっている。
我が事ながら『いつまでも小さいことを』と呆れてしまう。理屈では。
そうそう簡単に割り切れないのが現実だった。
蟠っている想いを飲み下すまでに、まだしばらくの時間が欲しい。
それだけに茉莉花の言葉に素直に頷きづらいのだが、
「……まぁ、やるだけやってみる」
茉莉花と瑞穂。
ふたりの美少女に期待に満ちた眼差しを向けられた状態では、首を横に振ることはできなかった。さっきまでいがみ合っていたくせに、こういうタイミングでは絶妙なコンビネーションを見せてくれる。
――仲良くしてくれるなら、別にいいか。
将来のための投資。
そういうことにしておこう。
茉莉花と交際を続ける上で、義妹の援護が得られるならば大きな前進。
いずれ両親に紹介することもあるだろう。いや、ないはずがない。
その時に瑞穂が敵に回るか否かは、かなり大きな問題だ。
だから、これは投資。心の中で自分に言い聞かせる。
茉莉花には(主に義妹が)負担をかけている部分もあるので、ここらで見栄を張っておきたいという気持ちもあった。
「で、もうひとつの問題なんだけど」
「ああ」
「そんなこと言ってましたね」
――何でお前はそんなに他人事口調なんだ?
しれっと言ってのけた瑞穂の後頭部を叩いてやりたい。
その衝動を押さえつけるために、並々ならない努力を要した。
黙って眼鏡の位置を直す勉を見やりつつ、茉莉花は中指を立てた。
「お義父さんを説得するまでの間、瑞穂ちゃんがどこに住むかって話よね」
「だからここに」
「却下」
「あなたの許可は求めてませんが」
「あんたね……」
事ここに及んでなお頑なな瑞穂に、茉莉花がげんなりした表情を向ける。
なまじファンだっただけに現実が辛そうだった。
勉にはどうにもできなかったし、かけるべき言葉も見当たらなかった。
「まず友だちはいない」
「いますけど!?」
「訂正、ピンチに頼れる友だちはいない」
「引っ掛かる言い草ですが、否定はできません」
渋々首を縦に振る瑞穂。
義妹が所属するユニット『WINKLE』は三人組だ。
仲間であるふたりに弱みを見せたくないという彼女の言葉は頷けなくはないものの、同時に水臭いとも思う。
芸能界に詳しくない勉には、義妹たちの距離感が適正か否かは判断できなかった。
「もちろん事務所はあてにできない。この差し迫った状況で解決の見込みが立ってないってバレるのはヤバい」
「ヤバいですね」
「ほかに友だちいないの? 学校とか」
「学校って……そんなのほとんど行ってませんし」
瑞穂は軽く肩を竦めた。実に素っ気ない反応だった。
『芸能活動に勤しむあまり学業が疎かになりがち』
再婚する際に義妹が口にしていたことを、今さらになって思い出した。
家族になってからの瑞穂の日々を見ていると、『なるほど、確かに』と頷かされたものだ。
とてもではないが学校なんて通っている暇はなさそうだったし、もともと学校(と言うか教師)に好意を抱いていなかった義兄としては、義妹を悪しざまに罵る気にもなれなかった。
「それで行き場がなくて狩谷君を頼った、と」
「ご理解いただけましたか?」
「ご理解しました」
「なら!」
「狩谷君、この子、私の家に泊めるわ」
「なんでそうなるんですか!?」「なんでそうなるんだ!?」
図らずも勉と瑞穂の声が重なった。
今の流れで何をどう解釈すると義妹を茉莉花の家に泊めるという話になるのか。
メチャクチャな論理の飛躍があった。瑞穂が何を思ったのかは不明だった。
「立華、お前……」
いったい何を考えているんだ?
そう問いかけようとした勉に向けられた茉莉花の瞳は、どこまでも真剣な光を帯びていた。




