第81話 義妹の事情
『女』という文字を三つ重ねて『姦しい』と書く。
読み方は『かしましい』だ。
初めてこの文字を目にしたとき、『女性蔑視だと怒られかねない表現だな』と呆れたものである。
それはともかくとして……今この瞬間、勉はこの漢字を考案した過去の人間にどうしても言ってやりたいことがあった。
「あなたには聞いていません。関係ないですよね」
「関係あるし。私、狩谷君の彼女だし。あんたの未来の義姉なんだけど」
「え……まだ高校生なのに未来の義姉とか、キモ」
「はぁ!? もう一遍言ってみなさいよ!」
「キモイ」
「はっきり言った!? ちょっと狩谷君、この子どうなってんの!」
「義兄さんから離れなさい、このッ」
――こっちに話を振らないでもらいたいんだが。
言葉を交わすごとにボルテージが上がっていく茉莉花と瑞穂を前に、勉は大きく大きくため息をついた。
それを見咎めたふたりが揃って眉を跳ね上げる。
よほど癇に障ったらしい。
「狩谷君!」
「義兄さん!」
『息ぴったりだな』と言ってやりたかった。
そんなことを口にすればどうなるかは火を見るよりも明らかだったので口は噤んだ。
『つくづく自分も丸くなったものだな』と見当違いの感慨に耽ってしまう。
とりあえず眼鏡を外してレンズを拭いた。
透明なレンズがきれいになると心が落ち着く。
ふたりが勉を見つめている間だけ、部屋に平穏が戻った。
しかし、それはほんの一瞬に過ぎなくて。
勉が何も言わないでいると、程なくしてお互いに見つめ合い……ではなく睨み合う。
「何よ?」
「何ですか?」
そうして再び口喧嘩が再開される。終わりが見えない。
仲裁することはやぶさかではなかったのだが、兎にも角にも口を挟む暇がない。
茉莉花と瑞穂の間には不可視の火花がバチバチと散らされていて、迂闊に触れればやけどすることは必定。やけどで済まない可能性の方がはるかに高かった。
ふたりの対話もとい口論はエスカレートを続け、留まるところを知らない。
――三人どころか、ふたりで十分すぎるほどに喧しいんだが。
勘弁してくれ。
勉は静かに額を抑え、再びため息をついた。
★
ことり、とテーブルにコップを置いた。三つ。
茉莉花と、瑞穂と、勉自身の分。冷たい麦茶が満たされている。
椅子に腰を下ろして肩で息をしていたふたりはコップを掴んでひと息に呷った。
『色気のかけらもない』と思ったが、黙って椅子に座り麦茶に口をつけてごまかした。
「それで、ええと、何だったかな」
「わ……はぁ、私が父と、おふっ、喧嘩して家を出たから、と、泊めてくださいという話です」
「なんで俺が」
「そ、そうよそうよ」
自前でお代わりを注いで飲み干した茉莉花が合の手を入れてくる。
瑞穂の目つきが劇的に厳しくなった。科学の実験みたいだった。
金属の炎色反応とかあの辺。
「立華、すまんがちょっと抑えてくれ」
「む~」
ひと言ごとに揚げ足を取っていたら話が進まない。
言外にそう訴えると、茉莉花は口を閉ざしてからコップに麦茶を注いだ。3杯目だ。
「でも、それはまずくないか?」
「……何がですか?」
「何がって、それはだな」
ナチュラルに問い返されると、どうにも歯切れが悪くならざるを得ない。
もともと勉が家を出た理由のひとつが、同年代の美少女な義妹と突然同居を強いられるシチュエーションに耐えられなくなったからであった。
誰にも伝えていないが、義父や母はなんとなく察していたと思われる。
こういうことは、あまり自分の口から本人に直接言いたくなかった。
しかも茉莉花の前である。羞恥プレイにしてもひどくはないだろうか?
心の中で慨嘆するも、答えてくれる者は誰もいない。
「血がつながってない男の家に泊めてもらうとか、完全にスキャンダルじゃん」
「そうだな。お前の経歴に傷がつくだろう」
ぼそりと呟かれた茉莉花の言葉に全力で乗っかった。
スキャンダル。それだ。その単語が咄嗟に出てこなかった。
『さすが立華』と快哉を上げた。もちろん声には出さない。
「は? 私と義兄さんはれっきとした家族ですが」
「事情を知ってる者ならわかってくれるだろうが、お前のファンのほとんどは俺のことなんて知らないんじゃないか?」
「これから知ってもらえばいいのでは?」
「あのな、瑞穂」
「そんなに上手くいくわけないし」
「何が言いたいんですか?」
ドスの利いた声と厳しい眼差しで咎められても、茉莉花は一歩も引かなかった。
人気急上昇中の現役アイドルを前に己を貫くなんて、なかなかできることではない。
こういうところは地味にすごいと感心させられる。
瑞穂もまた、茉莉花に対しては露骨に警戒心を見せている。
自分に気圧されない人間。媚びる様子もなければ、平伏なんてもってのほか。
普段はあまり目にしないタイプの人種と認識しているのではないかと推測できた。
――立華は瑞穂のファンなんだがな。
前にカラオケに行ったとき、茉莉花は瑞穂が所属しているユニット『WINKLE』の歌を好んでいた記憶がある。
「世の中は善人ばかりじゃないってこと。狩谷君たちが『義理の兄妹だ、家族だ』って訴えたって、面白がって炎上させる奴がいるに決まってるって話」
茉莉花が息を整えながらしれっと言った。
絶対の確信を込めて。
――さすが経験者と言ったところだな。
やはり言葉にはしなかった。頷くことすら自重したが……『立華 茉莉花』はかつて人気エロ裏垢主『RIKA』としてツイッターで活躍し、挙句の果てに自ら炎上させた女である。あの一件はよく燃えたから、経緯はともかく説得力が段違いだった。
瑞穂は眉を寄せながらも、茉莉花の言葉には耳を傾けている。
現役アイドルとして思い当たるところがあるのだろう。
「じゃあ、どうすればいいんですか?」
「どうって……友達の家に泊めてもらえばいいじゃん」
茉莉花はきれいに整えられた眉を寄せていた。
『友だちの家に泊めてもらう』のくだりを耳にして、あの雨の日のことが思い出された。
あの頃の勉と茉莉花はいまだ友だちの間柄だったのだが……茉莉花は顔色ひとつ変えずに自分のことを棚に上げている。
「そんな人、いません」
「瑞穂、お前……メンバーと上手くいってないのか」
義兄として義妹を気遣う言葉が自然に口をついた。
生命力に満ち溢れたいつもの姿からは想像もつかない声だったから。
なお、勉もまた自分のことを棚に上げていた。
途端に瑞穂の眉が跳ね上がる。今日イチの急角度に。
「何でそうなるんですか! 私たちは物凄く仲いいですから。名誉棄損で訴えますよ!」
「だったらそっちに行けばいいだろうが」
声に呆れが混ざるのを止められない。
言動不一致も甚だしい。
「行けるわけないんですけど!」
「なんで?」
「だって、だって……これ以上迷惑かけられません」
「迷惑?」
瑞穂の言葉に首を傾げた。
親子喧嘩なんて別に珍しくない。友人同士でお泊り会というのも珍しくない……はずだ。
学校でもときおりそういう話題は耳にするし、プチ家出と称して友人の家に泊まり込むなんて話を聞くこともある。
同じユニットとして活動する仲間なら、もっと親密に協力し合うこともできるのではないかと思ったから、瑞穂の反応は意外に感じられた。
「あ~、確かにマズいかも。てゆーか、めちゃくちゃヤバくない、あんた?」
なぜか得心行った風な茉莉花の声に、渋々ながら瑞穂は頷いた。
『率直に言って人生最大のピンチです』と続けた。
大げさな物言いに呆れ――茉莉花がうんうんと首を縦に振っていた。
揺れる黒髪ほかあれこれなパーツに目が引き寄せられがちになるが……彼女の口ぶりから察するに、どうやら本当に大きな問題があるらしい。
「何がまずいんだ?」
「狩谷君、鈍すぎる」
「まぁ、義兄さんですから」
先ほどまであれだけいがみ合っていたふたりが、息を合わせて肩をすくめた。
『なるほど、共通の敵を作ればいいのか』と感心しつつも、勝手にターゲットにされてはたまったものではなかったし、そもそも疑問が解決されていない。
「夏休みよ、狩谷君」
「そうだな」
すっかり頭から飛んでいたが、今日から夏休みだった。
反応がお気に召さなかったのか、茉莉花は再びため息をついた。
「では、にぶにぶな狩谷君に問題です。夏と言えば?」
「暑いな」
「それ、今関係ないよね。正解はツアーです」
「ツアー?」
耳慣れない単語だった。
直訳すれば旅行になるが、特に予定はなかった。
何でもかんでも横文字にすればいいというものではない。
「だから『WINKLE』の全国ツアー、もうすぐ始まるでしょ」
「あ」
呆れ返った茉莉花の声に、勉の脳内に電撃が走った。
未成年である瑞穂は、芸能界で活動するために親の許可を必要としている。
勉がアルバイトを始めるときでさえ親に一筆書いてもらったぐらいだ。
プロである瑞穂なら、もっと厳密な契約が求められるに違いない。
そして義父は今になって娘の活動に制約をかけた。全国ツアーの直前で。
「それ……許可なしでは無理、だよな?」
「未許可で未成年を働かせるとか、それこそ致命傷クラスのスキャンダルになりかねません。ゴシップとか炎上云々どころか、下手したら行政の介入まであるかも」
「でも、今さら延期とか中止とかできないだろ?」
瑞穂は首を縦に振った。
重々しく。静かに。
「個人的な事情でツアー中止だなんて、どれだけのペナルティが発生するか想像することもできません。それに……これはチャンスなんです。このチャンスをふいにしてしまったら、私たちのステップアップがダメになってしまいます。ほかのみんなにも、事務所にも迷惑かけるし、楽しみにしてくれているファンを悲しませるのが……何より……」
握りしめたこぶしが震えている。
俯いていたから表情はわからなかったが……声は怒りと悲しみに震えていた。
「ね、狩谷君、どうにかならない?」
「どうにかと言われても……どうすればいいんだ?」
「それはこれから考えるとして、放ってはおけないでしょ」
「ずいぶん瑞穂の肩を持つな、立華」
えらく親身だなと思った。
先ほどまで、あれほどいがみ合っていたのに。
疑問はあったが、その一方で茉莉花らしいとも思った。
彼女は元来気が強く激しやすいところがあるが、それ以上に情に厚い。
「……まぁ、未来の義妹だし、ツアーのチケットも買っちゃってるし」
図々しく乗り込んできてせっかくのチャンスをぶち壊してくれた瑞穂のことは気に入らない。
でも……それはそれ、これはこれ。
理不尽な困難に苛まれている未来の義妹を捨て置けない。
見苦しい言い争いを繰り広げていたせいか、素直にそう口にするのが恥ずかしいのか。
そっぽを向いてしまった茉莉花の白い頬は、うっすらと朱に色づいていた。
そろそろペースダウンの予定です……




