第80話 兄と義妹と兄の恋人
『狩谷 勉』には両親の再婚によってできた義理の妹が存在する。
ひとつ年下で、何かにつけて口うるさくて、事あるごとに『家に帰って来い』と喚く義理の妹が。
以前に大雨で電車が止まって茉莉花を家に泊めた時も、そして今日いいムードで大人の階段を上ろうとした時も、絶妙のタイミングで邪魔した義妹が存在する。
こうして列挙してみると疫病神の類としか思えないが、義妹であることは間違いない。
茉莉花にも両親が再婚したことや義理の妹ができたことは伝えたはずだったのだが……
「アイドルが義妹って、聞いてない!」
勉の部屋の真ん中で吠えた茉莉花が、えらい剣幕で詰め寄ってきた。
怒るのも無理はないと思うし、怒っている茉莉花もかわいいと思う。
……などと感慨にふけっていたら凄い目で睨まれた。勉の考えていることなどお見通しと言わんばかりの強烈な眼差しだった。
コホンと咳ばらいをひとつ。
眼鏡の位置を直し、しかる後になるたけ平静を装って答える。
「言っていないからな」
「どうしてッ!」
「どうしてと言われてもなぁ。まず第一に信じてもらえないだろうと思った」
「う……それはまぁ、そうかも」
胸ぐらを掴みかからんばかりの勢いで迫ってきた茉莉花だったが、勉の反論に渋々ながらも首を縦に振った。
『実は……俺の義妹はアイドルなんだ』などと真顔で告げられたら、ノータイムで病院に電話をかけかねないと思い至ったのだろう。別に彼女に限った話ではなく、誰であろうと似たり寄ったりの反応が返ってくることは想像に難くない。
単純に現実味がなく、説得力がない。
最大限好意的に解釈してもジョーク扱いが精々と言ったところか。
茉莉花は勉に好意をよせてくれてはいるが、その好意は決して盲目的なものではない。
――まぁ、この件については俺も悪かったか……甘えていたな。
折を見て伝えるつもりではあったが、伝えるタイミングが掴めなかった。
以前にふたりでカラオケに行ったとき、茉莉花は義妹である瑞穂が所属するユニット『WINKLE』の曲を熱唱していた。
よりにもよって『片桐 瑞稀』推しだと言っていた。
だから余計に言いにくかった。彼女の推しが義妹だなんて。
「そうそう好き勝手に言いふらされても困ります」
瑞穂――義妹にしてアイドル『片桐 瑞稀』が口をはさむ。
勉も口を閉ざしたまま頷いた。
テレビに限らずインターネットに限らず、近年の状況を鑑みれば、迂闊に個人情報を漏らすことはトラブルを招きかねないことは明白だ。
ましてやそれがアイドルのプライベートとなれば危険性は格段に跳ね上がる。
ツイッターに投稿した自撮り写真の瞳に移り込んでいた建物のシルエットから住所を特定された芸能人のニュースが界隈を賑わせていたこともある。悪いのはそんな変態じみた才能をろくでもないことに用いる犯人だが、普段から自衛を意識しておかなければならないという点は間違いない。
……というわけで、勉は瑞穂のことを誰にもしゃべっていない。
「……天草君にも?」
「何でそこであいつが出てくるんだ?」
天草こと『天草 史郎』
軽妙なイケメンであり、高校における勉の数少ない友人である。
今頃あいつは何をしているだろうか……と思いを馳せそうになったが、まだ夏休みの初日だった。顔を見なくなってから一日しかたっていない。
「……」
ややウンザリした声が漏れてしまったが、目の前で唸っている茉莉花を鎮めることこそが現状における最優先事項であった。そんなことは考えるまでもない。
「ああ、誰にも言ってない」
「そっか。ま、そういうことならしょうがないか」
茉莉花がおとなしく引き下がってくれて、勉は心の中でほっと息を吐いた。
『立華 茉莉花』は決して物の道理を弁えない少女ではない。
理を尽くし、心を砕いて説得すれば、ちゃんとわかってくれる。
勉にとってはもったいないくらいにできた彼女である。
だからこそ、その彼女といい雰囲気になっていたところに乱入してきた義妹に対する怒りが募るわけだが。
「それで……お前はいったい何しに来たんだ?」
「久しぶりに顔を合わせる義妹に言うことがそれですか?」
義理の兄と妹がにらみ合った。
ひとつ屋根の下で暮らしていた時は、人前でこんな姿を見せることはなかった。
お互いの親に心配をかけたくなかった……と勉は気を遣っていたつもりだ。
思い返してみると、揉めそうになるたびに概ね勉が退いていたので、瑞穂がどう考えていたのかは不明だった。
「ちなみにどれくらい会ってなかったの?」
「どれくらいだったかな?」
横合いから口をはさんできた茉莉花の問いに首を傾げた。
「高校に合格して以来、一度も帰ってきてませんよね?」
とげとげしい瑞穂の声に茉莉花の肩が落ちる。
げんなりした視線を向けられて、思わず身体をのけぞらせる。
彼女にそんな顔をされるのは、きわめて不本意だった。
「狩谷君、それはちょっとひどくない?」
「いや待て立華。こんなことを言っているが、そもそもこいつはほとんど家にいないんだぞ」
弁明すると、瑞穂はプイっと顔を逸らせた。
『お前、都合が悪くなるといつもそれだな』と心の中でぼやいた。
「だって私、忙しいですから」
「自分は家に帰ってこないくせに、俺には帰れ帰れと……義父とふたりだと間が持たないだろうが」
「あれ? えっと……お母さんは?」
「母は仕事が忙しくてな。家にはほとんどいないんだ」
「何してる人なの?」
「雑誌の編集者だな」
何でもないことのように答えながらも、何の答えにもなっていない気がした。
物心ついてから再婚するまで母ひとり子ひとりで暮らしてきたが、編集者という職業がよくわからない。雑誌を作っていることは知っているが、詳細は不明だ。
昔は自分のために朝から晩まで働いてくれているのかと思っていたのだが、再婚してからも母の日常は変らない。自分が盛大な勘違いをしていたのではないかという疑念が湧かなくもない。
「ま、お袋のことは今はいいだろう。それで、お前は何しに来たんだ?」
「顔を見に来たと言いませんでしたか?」
「そうか。顔ならもう十分に見ただろう。帰れ」
ぴしゃりと言ってのけてやったら、瑞穂の眉が跳ね上がった。
「嫌です。帰りません。大体なんですか義兄さん、その言い方!」
「言い方が悪かったか。たまには義父にも顔を見せてやれ」
「……父さんの顔なんて見たくありません」
瑞穂の頑なな態度に違和感を覚え、勉の眉間にしわが寄った。
この義妹は割とファザコン気質だったと記憶していたからだ。
自分が割とマザコン扱いされていることは棚に上げた。
「何かあったのか?」
「……」
「瑞穂」
語意を強めて再度問いかけると、渋々ながら義妹は口を開いた。
「……喧嘩を、その」
「お前が、義父と?」
戸惑い気味に勉が言葉を続けると、瑞穂は首を縦に振った。
話の流れがおかしい。猛烈に嫌な予感が込み上げてきた。
「要するに親子喧嘩して家出してきたってこと?」
訝しげな茉莉花の声に瑞穂の身体がビクリと跳ねた。図星だったらしい。
口元を強張らせた瑞穂のこめかみから、一筋の汗が頬を伝って流れ落ちた。
「喧嘩とか家出とか……穏やかじゃないな、原因は何なんだ?」
「私は悪くありません」
「いや、原因を聞いているんだが」
『悪い奴は大体みんなそう言うんだ』という本音は飲み込んだ。
この状況で瑞穂を暴発させることは、どう考えても得策ではない。
なんだかんだと言ったところで義妹と義父の親子喧嘩は捨て置けない。
血は繋がってなくとも、顔を合わせるのが億劫でも、一応は家族なのだ。
「瑞穂?」
「……やめろって」
「え?」
「アイドル辞めろって、もう許可しないって、そんなの許せないじゃないですか!」
大きな声ではなかった。
しかし、それは確かに絶叫だった。
瑞穂の心が軋む音が勉たちの耳朶を打った。
――とんでもないことになったぞ。
ちらりと視線を横にずらすと茉莉花と目が合った。
初めてできた勉の恋人は、真剣なまなざしで頷いてくれた。
――立華……
胸の奥から込み上げてくるものがあった。目の奥がツンときた。
『海に行きたい』と言っていた。眩しい笑顔が目蓋の裏に焼き付いている。
泳げない勉のためにわざわざプールで特訓に付き合ってくれた。
かなり本気だったと思う。
でも――今この瞬間、茉莉花は瑞穂のことを優先しろと言ってくれる。
口にはしないが、きらめく漆黒の瞳が雄弁に物語っている。
つくづく自分にはできすぎた恋人だと、とてもありがたく思う。
必ず報いなければならないと、強く強く心に刻み込んだ。
「それで……その、できればここに泊めていただければ、と」
「却下」
即答だった。勉が口を差しはさむ暇すらなかった。
先ほどまでの感動を台無しにする、清々しいほどの手のひら返しだった。




