第79話 招かれざる来客、それは義妹
お待たせいたしました。
『ガリ勉くんと裏アカさん』第2部スタートです!
カチカチと短針が時を刻む音だけが室内に鳴り響いていた。
この部屋だけが世界から切り離されてしまったような、悪夢めいた奇妙な感覚に押し潰されそうになる。頭はキリキリと痛むし、なにより息苦しい。
──どうしてこうなった!?
『狩谷 勉』は口を閉ざしたまま、心の中で繰り返す。
自宅であるマンションのリビング、その床に正座させられたまま。
常日頃は短くカットしている髪は長らく散髪していなかったせいで少し伸び気味になっており、つい先程まで色々あったせいで乱れてしまっていた。率直に言って見苦しかろうことは想像に難くない。それこそ、部屋の空気を悪くしている一因になっているのではないかと思うほどに。
ため息をつこうとして、思いとどまった。
ずり落ちかけた眼鏡の位置を直しつつ、レンズ越しに眼差しをチラリと横に送ると、そこにはひとりの少女がテーブルから引っ張ってきた椅子に腰を下ろしている。
『立華 茉莉花』
腰まで届く艶やかなストレートの黒髪。
煌めく漆黒の瞳がひときわ目立つ整い過ぎた顔立ち。
服を内側から押し上げるド迫力の胸元から、きゅっとくびれたウエストを経て程よく肉がついた長い脚に続くパーフェクトな曲線。
控えめに言って絶世の美少女と称して差し支えない彼女は、今や勉の恋人でもある。夢のような話ではあるが、こちらは錯覚ではなく現実だった。
こちらも先程まで色々あったおかげで、透き通るような白さを誇る肌には赤みが差している。
……ちなみに勉が乱してしまった衣服はきちんと正されている。
自信に満ち溢れて胸を張る姿がデフォルトな茉莉花にしては珍しいことに、頭の角度が俯き気味だった。
わずかに横に逸れた彼女の視線が、ちょうど勉と絡み合う。
目と目で通じ合うなどとロマンチックなセリフを口にしてみたいシチュエーションだったが、茉莉花の目には戸惑いと不信が色濃く見受けられる。
あまり良くない兆候だった。
人の心に疎い勉でも、わざわざ彼女の胸中を勘繰るまでもない。
そして――今この部屋にはもうひとり、勉の正面のソファに腰を降ろしている少女の姿があった。
身長は勉よりも茉莉花よりも低く、背中の中程まで黒髪が伸びている。
全体的にスレンダーな体躯に、雰囲気のある衣装を纏っている。
ズドンと心を貫いてくる凛とした眼差し、ともすれば冷徹に見られがちな美貌。少女は、ただそこにいるだけで凄まじい存在感に溢れていた。街を歩けば声をかけたがる男が後を絶たないだろうが、誰ひとり実行に移すことは叶わないに違いない。そう確信させられるほどの隔絶した美少女だった。
それほどの美少女が勉を睨みつける瞳には──勘違いでなければ、圧倒的なまでの軽蔑の色合いが見受けられる。常人だったら悶死しかねない。
この地獄めいた状況に陥ってから、すでに30分が経過している。
誰ひとり口を開かず、室内の空気は重くなる一方だった。
控えめなエアコンの駆動音だけが耳についた。
ため息ひとつ許されない中、緊張感だけが時を置くごとに高まっていく。
「……忙しい忙しいと言っていたくせに」
ソファに座っていた少女の唇から、呪詛めいた言葉が吐き出された。
美しい声でありながら恨みがましい口ぶり。抑え切れない怒りがあった。
否、彼女は己の心情を抑えようとしていない。
はっきりと憤怒の感情が載せられている。ターゲットはもちろん勉だった。
弁明の必要性をひしひしと感じてはいたものの、この家の主人である勉としてはどうしても確認しておかなければならないことがあった。
「瑞穂……お前、どうやって勝手に家に入ってきた?」
勉の口から漏れた言葉にも、あまり上品とは言い難い感情が滲み出ている。
思春期男子としては、無理もないと主張したい。
生まれてこの方十六年と少々、初めてできた彼女(超絶美少女)とふたりきり。
話の流れはさて置くとして、ムードは悪くなかった。ざるそば食った後だったが。今さらになって、もっとお洒落な献立を選ぶべきだったのではないかという思いが首をもたげてくるが、そばを所望したのは茉莉花だった。
夏休みに入って、気分が盛り上がって、キスして、押し倒して。
さて、いよいよ──というタイミングで、完全に想定外の闖入者に冷や水をぶっかけられたのだ。
たとえ相手が義理の妹であっても、湧き上がる腹立たしい感情は止められない。
……と言いたいところだが、それ以前に疑問があった。
鍵をかけていたはずのドアをどうやって開けたのか、入ってくるならせめてインターホンを鳴らしたらどうなのか。
茉莉花との未遂を置くとしても、ごく単純にセキュリティに不安を覚えずにはいられない。
勉的には当然の問いだったが、目の前でふんぞり返っている義妹は軽く首を傾げただけ。
「どうって、普通に鍵を開けましたが?」
「なんでお前が家の鍵を持っているんだ?」
「なぜと言われましても、お義母さんから預かっておりますので」
義妹──瑞穂は、しれっと言った。
本当にしれっと。
──お、お袋……なんて余計なことをッ!?
勉は心の中で実の母に在らん限りの罵倒を叩きつけた。
記憶にある限りでは、生まれて初めてのことだった。
物心ついた頃には父は既に亡く、母ひとり子ひとりで互いに助け合って暮らしてきた。
母のことは心から尊敬していたし、ましてや悪口の類など一切口にしたこともなかった。
でも──それでも、限度があるだろう。そう思うのだ。胸に渦巻くドロドロとした感情は、今さら遅い反抗期だろうか。疑問に答えてくれる者は、この場に誰もいない。
「インターホンも鳴らしました。義兄さんは他のことに気を取られ過ぎて聴こえていなかったようですけれど」
「……」
詰問じみた声に、勉は不利を悟って視線を逸らせた。
いくら合鍵を持っているからといって、無言で突撃するほどデリカシーを欠落させているわけではない。
瑞穂は言外にそう告げていた。
付け加えるならば、室内でアレコレしていた勉に非があるとも。
「本当に……やれアルバイトだ勉強だと理由をつけて帰ってこないと思えば、家に女性を引っ張り込んで一体何をやっているのやら……」
大げさに過ぎるため息とともに、わざとらしく肩をすくめる。
義妹は淡々としていたが、それだけに怒りもひとしおと言ったところか。
勉の目の前で手元のバッグからスマートフォンを取り出し、ほっそりした指を滑らせ始めた。
猛烈に嫌な予感がした。
「おい」
「通報します」
「おい!」
「間違えました。報告します」
「誰に!」
「もちろんお義母さんにです」
「余計に悪いわ!」
「警察より、ですか? 前から思っていたのですが、義兄さんって、その……」
凍りつくような眼差しに、わずかに呆れの色が混じった。
声に混じる軽蔑の感情が三割り増しになった。
何を言おうとしているのかは予想がついた。
言わせるつもりはなかったので抗弁しかけたところで、それまで沈黙を守っていた茉莉花が口を開いた。
「ねぇ、狩谷君」
耳慣れているはずなのに聞き覚えがない。そんな声だった。
目を向けてみれば、茉莉花は全身をワナワナと震わせている。
『信じられない』と彼女らしくない態度が雄弁に物語っていた。
「どうした、立華?」
「立華さんとおっしゃるのですか、そちらの方は?」
勉と瑞穂から同時に声を向けられた茉莉花は、頭を跳ね上げた。
視線をふたりの間で行ったり来たりさせたのちに、瑞穂を指差した。
瑞穂は軽く眉をひそめた。こっちはこっちで不快感を隠そうともしない。
「なんで『片桐 瑞稀』がここに居るの? 義妹ってどういうこと!?」
茉莉花の声は、もはや絶叫に近かった。
情事を邪魔された怒りを戸惑いが上回っている模様。
眉を寄せていた義妹は、表情を変えないまま義兄に訝しげな視線を向ける。
『何も説明していないのか?』と無言で問いかけてくる。
勉もまた無言で頷き返し、そして口を開いた。
「なんでと言われても、義妹だ。両親の再婚でひとつ年下の義妹ができたと前に話したはずだが」
『驚くのも無理はないな』と思いつつも、ごくごく平静を装って答えた。
勉の態度が癇に障ったか、茉莉花の形の良い眉が急角度で跳ね上がる。
「義妹がアイドルって、聞いてない!」
『狩谷 勉』の義理の妹『狩谷 瑞穂』
またの名を『片桐 瑞稀』
彼女は――現在人気急上昇中のアイドルであった。
お読みいただきありがとうございました。
活動報告にも書こうかと思っておりますが、第2部の更新はスローペースの予定です。
誠に申し訳ございませんが、ご了承いただきますようお願いいたします。