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第73話 初めてのデート その4


「さて、これから特訓を始めるわけですが、その前に確認しておくことがあります」


 プールサイドで準備運動を終えた茉莉花(まつりか)が、そんなことを言い出した。実にシリアスな口調であった。

 かけてもいない眼鏡の位置を直すジェスチャーは必要なかったと思うが、(つとむ)はあえて何も言わなかった。


「いきなりかしこまってどうした、立華(たちばな)?」


「うん、狩谷(かりや)君が泳げないってのは聞いてたけど、具体的にどれくらいダメなのかなって」


「どれくらいって、普通だと思うが」


 どれくらい泳げないかと聞かれても、なかなか説明が難しい。

『普通に泳げない』と答えたものの、あまり適切な言い回しではないなと内心で首を捻っていた。

 ふんふんと頷いていた茉莉花がおもむろにピンと人差し指を立てる。


「顔を水につけるくらいはできる?」


「問題ない」


「水の中で目を開けることは?」


「ゴーグルつけてるから、大丈夫だ」


「ゴーグルないと開けられない感じ?」


「なくてもなんともない」


 いくらなんでも見くびられすぎてやしないか。

 小学校時代の水泳の授業を思い出して、若干ながら不機嫌が声から滲み出る。

 当時は5メートルも泳げなくて、散々に笑われたものだ。

 

「う〜ん、そこまでできるんだったら、なんで泳げないんだろう?」


 茉莉花は至って真面目に疑問を呈していた。


「そんなこと言われてもな」


 泳げない理由なんてわかるわけがない。

 わかっていたら自分でなんとかしているだろう。

 

「ま、やってみればわかるか。狩谷君、中に入ってここのへり持って」


「……ああ」


 そろりそろりと水に入ると、全身に震えが走った。

 室内プールなので水温は適切に管理されているのだが、なかなか身体は水に慣れてくれない。

 じんわりと染み込んでくる冷たさと浮遊感、まとわりついて動きを阻害する抵抗感に思わず眉を顰めた。


「気持ちいいね」


 後を追うように水に入ってきた茉莉花が微笑みかけてくる。

 ほとんど真逆の感想を持つに至ったわけだが、とりあえず首を縦に振っておいた。


「そんなに嫌な顔しないで。すぐ慣れるでしょ」


「む」


 勉の強がりはお見通しだった。

 軽く肩を叩かれ、剥き出しの腕を茉莉花の白い手が撫でてくる。

 ゴーグルを目に当てると、視界がクリアになった。

 茉莉花の顔が思ったよりも間近にあって驚かされる。

 促されるままにプールのへりに手を掛け、水底から足を離す。

 身体を浮力に任せると、地面と水平に浮かび上がった。


「じゃあバタ足してみて」


「ああ」


 バタ足は学校で習った。できるとは言わないが。

 足を前後させて水を掻くと、派手に飛沫が上がった。

 すぐ傍で様子を見ていた茉莉花が、不意に勉の体を撫でまわし始める。


『狩谷君、肩に力が入りすぎ』


『お腹、下がってるよ』


『足が曲がってる。膝から先しか動いてない』


『水飛沫が上がってるのは、水が掻けてないってことだからね。それは空気掻いてるだけだから』


 反論する間もなく次々と指摘が飛び、控えめに言って小学生レベル未満だった泳ぎ方が矯正されていく。

 彼女の言葉はいちいち正しいのだと思われるが、即座に対応することは難しかった。

 とは言え、もともと運動神経に難ありの自覚があろうといきなり白旗は挙げられない。

 些細なこだわりかもしれないが、勉にだってプライドがある。

 問題は──


──くすぐったいぞ、これは……何なんだ!?


 滑らかな手が教導に合わせて勉の全身を這い回る。

 いつもは服を着ているところも今日はほとんど肌を晒しているのに、茉莉花の手つきに遠慮がなさすぎる。

 泳いでいる真っ最中なのだから当たり前と言えば当たり前なのだが……兎にも角にも落ち着かない。

 ただでさえ動きづらい水の中であることに加えて、プールのへりを掴んでバタ足の練習中である。

 身もフタもないことを言えば逃げ場がなくて、なされるがままであった。

 もちろん茉莉花は完全に親切で指導してくれているに決まっている。

 いかがわしいことなど考えているはずがない……と思う。ニヨニヨした笑顔が凄く気になるが。


──立場が逆だったら完全に犯罪だな。


 泳ぎ方を教えるなんて方便で泳げない彼女の全身を撫で回すとか、絶対にダメなやつだった。


「狩谷君、集中して」


「ああ、すまん」


 余計なことを考えていると、すかさず頭に拳骨が落ちてきた。

 痛くはないが、邪な思いを見透かされているようで視線が泳いでしまう。

 つい肩をすくめようとしたが、両腕を伸ばしたままで動かせない。


──む、むぅ。


 口元をモゴモゴさせながらバタ足の練習をしていたら、ふいに肩を叩かれた。


「はい、ちょっと休憩」


「まだ全然問題ないが」


「ずっと水の中にいると疲れちゃうよ。定期的に休んだほうがいいの」


「そういうものか」


「そういうものです」


 言うなり茉莉花が先にプールから上がった。

 角度的に真後ろからガン見してしまう。


 普段は艶やかな黒髪に隠されている白いうなじ。

 魅惑的な曲線を描く身体に張り付いた競泳水着。

 水に濡れてライトアップされた肌。

 控えめに言って絶景だった。


「えっち、さっさと上がってきなさい」


 頭を踏まれた。

 全くもってその通りだったが、今は水から出られない。

 男には男の事情がある。


「すまん、ちょっと待ってくれ」


「え、何かあった……って、ああ……」


 得心行ったらしい茉莉花の生暖かい視線が、実に居た堪れない。

 いつもの癖で眼鏡を直そうとするも、ゴーグルはしっかり位置をキープしていた。

 空振りする指の行き場がなくて、わざとらしく咳き込んでみた。


「えっち」


 大事なことなのだろう。

 2回言われた。



 ★



 休憩を挟みつつ茉莉花の指導は続く。

 フォームが固まってくると、今度は茉莉花の肩を持って実際に泳ぐことになった。


「いざとなったら私がいるから、狩谷君は泳ぐ方に集中すること」


 などと言われたものの……


──集中なんてできるかッ!


 すぐ目の前に(水着姿の)茉莉花がいて、ちょっと間違いが起きたらぶつかってしまう。

 普通に衝突するだけならともかく、この状態だと彼女の胸に顔を埋めることになるわけで。

 それは実に魅力的な展開であったが、わざとやっているように思われるのは癪に触る。


「もっと勢いつけないとダメだよ」


「わかってはいるんだが、これはどうにも……」


「あのね、何を考えてるか丸わかり。これは練習だから。だいたい、もし想像通りのことになっても別に怒らないし」


「怒る怒らないの問題じゃないんだが」


「せっかくのラッキースケベを自ら捨てるだなんて、狩谷君らしくないなぁ」


「お前の中の俺は、いったいどんな人間になってるんだ?」


「聞きたい?」


「いや、やめておく」


 なんとなく予想はついたので、首を横に振った。

 茉莉花は『ほんと、別にいいんだけど』と微笑んだ。

 しばらく泳いだ後に、肩を掴んでいた手が離れ、茉莉花の両手に握られた。

 ふたりの距離が開くほどに、少しずつ泳げるようになっている気がする。

 そして、また休憩。茉莉花は特訓と称していたが、勉を焦らせたりはしない。


「なぁ、立華」


「何、どうかした?」


「いや、どうしてここまでしてくれるのかと思ってな」


「一緒に海に行きたいからって言ったと思うけど」


「それは聞いたが、ここまでマンツーマンでしっかり付き合ってくれるとまでは想像してなかった」


 プールサイドに腰を下ろして、隣り合わせで肩を擦り寄せて。

 周りに人はいるけどふたりっきりの雰囲気を纏わせて。

 肌と肌が重なり合う感覚が落ち着かなくて、そんなことを尋ねてしまった。

 茉莉花は、しばし無言で水面を眺めて──


「私ってさ、狩谷君に助けてもらってばっかりで何もお返しできてないじゃん」


「別に何かして欲しいわけじゃないが」


「狩谷君はそう言うだろうけど、たまには私も狩谷君に教えてあげたいな〜って。そう思ってたからチャンスだなって」


『迷惑だったら言ってね』

 そんな風に申し訳なさげに付け加えられて、『迷惑だ』なんて正面切って言える男がいるわけがない。

 実際のところ、生まれてこの方まるで泳げる見込みのなかった状態は、今や劇的に改善されている。

 丁寧かつ適切な指導もさることながら、相手が自分の彼女だから真面目に聞こうと思える。

 学校の体育教師に同じ指導を受けたところで、右から入って左から抜けるのが関の山だ。


「迷惑なんて、そんなことがあるはずないんだが。まぁ、手を煩わせてないのなら遠慮なく教わろう」


「うん、そう言ってもらえるのが嬉しいな」


 いい笑顔で立ち上がった茉莉花。

 目の前に太腿が現れて仰け反ると、実に素晴らしい光景が広がっていた。

 彼女の脚は実に魅力的だ。本能に直接訴えかけてくる。


「どこかに行くのか?」


「うん、ビート板もらってくる。どれぐらい泳げるか試してみようよ」


「ああ」


 なかなかスパルタだなとは思ったが、今のところ上手く行っている。

 茉莉花が掲げた目標では夏休みまでに勉を一人前にすることだから、これくらいのペースでいいのかもしれない。

 スタスタと離れていく彼女の背中を見送ってから『復習しておくか』と水に入ってゴーグルを着用し、へりを掴む。


「あれ、ひょっとして狩谷先輩ですか?」


 頭上から降ってきたその声は、唐突だった。

 見上げるとすらりとした脚が伸びている。

 足の付け根で鋭角に切れ上がった競泳水着は白。

 緩やかな曲線の先には、猫を思わせる瞳が煌めいている。


「……汐見(しおみ)?」


 顔に見覚えはあったが身体は見覚えがなかったから、わずかに認識が混乱をきたした。

 数少ない友人のひとり、図書委員『萩原 穂奈美(はぎわら ほなみ)』の後輩。

 気怠げな姿が印象的だった一年生『汐見 雫(しおみ しずく)』がそこにいた。

 軽く首を傾げつつ、濡れたショートカットの黒髪を掻き上げている。


「はい、汐見です」


 そっけない反応と澄ました表情。

 しかし、その顔は柔らかく緩んでいるようにも見えた。

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『あの子が水着に着替えたら』もよろしくお願いします。
こちらは気になるあの子がグラビアアイドルな現実ラブコメ作品となります。
― 新着の感想 ―
[一言] おやおや、プールデートに小悪魔の後輩乱入。 そのまま、はいさようならとはきっと行きませんねえ。 でもそこまでトラブルにはならないかな。
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