第55話 ここから始まる恋物語 その1
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『駅まで迎えに来て』
翌日の早朝、勉のスマートフォンに一通のメッセージが送信されてきた。
送り主の名は――茉莉花。
ほとぼりが冷めるまで休んでいてもいいと思うのだが、本人が行くというのなら止めるつもりはない。
もちろん、呼ばれた以上は断るという選択肢など存在しない。
始業ギリギリに教室入りするのんびり加減で学校へ向かう準備をしていた勉は、最優先するべき呼び出しを受けて、慌ただしく家を後にした。
☆
昨日の顛末になるが……結局あの後、茉莉花とは何もなかった。
お互いに口を開くこともなく、茉莉花は勉の肩に頭を預けたまま。
薄暗いリビングで、ただただ緩やかな時間が過ぎていった。
茉莉花はいつしか泣き止んでいたが、勉から離れようとはしなかった。
にもかかわらず、彼女は勉と目を合わせようともしなかった。
堪え切れなくなってチラリと横目で様子を窺おうとすると、サッと勘付いて勉の肩に顔を埋めてくる。確かに視線を感じたのだが。
もどかしく思いつつも『まぁ、これはこれで悪くないかもしれない』と悟りを開きかけた頃合いに、狙いすましたかのように連続してメッセージが飛んできた。
学校に残った史郎、担任教師――このあたりは一瞥してスルーした。茉莉花も何も言わなかった。
しかし、すべての連絡を無視したわけではない。アルバイト先の店長からのメールが来たと告げるなり、茉莉花の気配が一変した。
勉としては『今日ぐらいサボってもいいか』と鷹揚に構えていたのだが――隣で泣いていたはずの少女が、それを許さなかった。
『狩谷君、お仕事なんでしょ? 迷惑かけたらダメだよ』
若干上擦った感じのひと言で、ふたりの時間はお開きになってしまった。
茉莉花をひとり家に置いて行くことに心残りはなかったと言えばウソになる。
でも……勉を叱る彼女の声からは、確かな活力を感じた。
完全復活とはいかないにしても、最悪の危機を脱することはできたという実感はあった。
『ま、また明日、学校でね』
そう言って見送ってくれた笑顔を、疑うつもりはなかった。
……最後まで視線を逸らされたままだったのは、正直ちょっと残念だった。
☆
平日の朝の駅前は喧騒に満ちていた。
職場に向かうサラリーマン、学校に向かう生徒。その他もろもろ。
駅から吐き出されてくる者がいて、駅に吸い込まれていく者がいる。
爛々と瞳を輝かせる者がいて、ゾンビのように瞳を濁らせる者もいる。
彼らを相手に商う商店街やコンビニの面々。路上を埋めるタクシーの運転手や交番。
多種多様な人種でごった返している広場をぼんやり眺めていた勉の視界に、ひと際眩しい輝きが姿を現した。
腰まで届くストレートの黒髪は、遠目に見てもわかるほどに艶やかで。
大粒の黒い瞳が目立つ整い過ぎた顔立ちには、自信に満ちた笑顔が浮かんでいて。
制服を内側から押し上げる大ボリュームの胸を堂々と張って。
キュッとくびれた腰回りから、校則違反の短いスカートに覆われたお尻から脚へ続く曲線が完璧すぎて。
スラリと伸びた白い脚が、リズミカルにステップを刻んでいて。
どこもかしこも見どころだらけで目のやり場に困らなさすぎて困るスーパーヒロインこと『立華 茉莉花』が、そこにいた。
軽く手を振るとあちらも勉に気付いたようで、躊躇う様子を見せずに一直線に向かってくる。
人ごみは勝手に割れて、茉莉花の前に立ちはだかることはない。纏うオーラのなせる業だ。
老若男女を問わず衆目を集め、同時に畏れを抱かせずにはいられない立ち居振る舞いは、これまでと何も変わらない。
「おはよ」
「おはよう、立華」
一夜明けて相まみえた茉莉花は、どこまでも『立華 茉莉花』だった。
『心配ない、心配ない』と自分に言い聞かせながらも内心ずっとヤキモキしていた勉は、颯爽と歩みを進める彼女の姿を目にしてホッと胸を撫で下ろした。
さて、挨拶を交わしても茉莉花は脚を止める様子がない。見惚れていた勉は慌てて横に並んだ。
――大丈夫そうか?
一見した限りでは、昨日見せた不安定な弱々しさはひと欠片も残っていない。
だからと言って、油断することもできない。
昨日の今日でスイッチを切り替えたように、いきなりすべてが変わるわけではない。
茉莉花の中にも弱さが存在する。それを忘れて気軽に崇め奉っていてはいけない。
他の連中はともかく、自分だけは絶対に忘れてはいけない。強く胸に刻み込んだ。
決意を新たにする勉の横を歩いていた茉莉花の唇から、軽やかな声が奏でられる。
「私さぁ」
「ん?」
「私……あの家を出ようと思うんだ」
「そうなのか?」
『唐突だな』と思った。
『それがいい』とも思った。
あの家は見てくれこそ豪華ではあるが、その実情は茉莉花を閉じ込める檻のようなものだ。
『立華家』の健在を知らしめるためだけに存在する、いけにえの祭壇めいた雰囲気すらあった。
言い方は悪いが、あんなところで日々を過ごしていたら気が滅入って仕方がなかろう。
「でも、いいのか? 立華はその……」
「いいのいいの。だってパパが言ったんだもん。『娘を信じています。自主性を尊重します』って。家を出るのも私の自由だよ」
「そうか」
「新しい住まいの家賃も、学費も食費も全部払ってもらうつもり。そうでないと、私が自由にできないからね」
「逞しいな」
『図太いな』とか『厚かましいな』とは言わなかった。
これまでの半生を鑑みれば、茉莉花の要求には妥当性がある。
家族のカタチを取り戻すことはできなかったという現実を受け入れて、無理なく無茶せず彼女なりに前を向いている。
表情は微妙に強張っていて、声には強がりが含まれているように聞こえたが、それでも……茉莉花の心境の変化は、今のところ喜ばしいことであるように思えた。
――今は、な。
立華邸を後にして、中華料理屋でアルバイトに精を出して。
家に帰ってひとり思索に耽ると、勉は自分の不甲斐なさに呆れ果てた。
自分にもっと力があれば、茉莉花と両親の間を取り持つことができたのではないかと言う、忸怩たる思いがある。
思い上がりかもしれないし、余計なお世話かもしれない。
それでも……『今は無理でも、いつかは』と考えてしまう。どんな手段に訴えればいいかもわからないのに。
どうせ子どものころから想い描いていた未来図は失われてしまっていたのだ。新しい目標として掲げるネタとしては悪くなかろう。
気が早すぎるかもしれないが、相手は未来の義父母になるのだ。自分とも無関係というわけではない。
いずれ何らかの形で彼らと相対する予感があった。
同時に、彼らの顔も名前も知らないことに気付かされた。
今の勉にとっては、あまりに遠い存在だった。
閑話休題。
あやふやすぎる未来云々よりも、今は隣を歩く茉莉花のことを考えるべき状況だ。
勉は脳裏に渦巻く思考をサッと切り替えた。
「まぁ、ずっと脛齧りっぱなしってのもカッコ悪いし、自分でお金も稼いだ方がいいな〜とは思ってるけど」
「ふむ……ならばアルバイトでもしてみたらどうだ?」
「中華料理屋で? チャイナドレスとか着ちゃう?」
「それはいいな」
茉莉花の裏垢である『RIKA』がアップしたチャイナドレスの画像が鮮明に思い出されて、口角が吊り上がる。
ほの白く輝く白い脚、その膝の裏に見出したひとつのほくろからすべては始まった……気がする。
ずいぶん前のように感じられたが、あれから2か月も経っていない。
夏休みにすらなっていないどころか、期末考査すら始まっていない。
高校2年生の1学期は、これまでに体験したことがないくらいに濃密だった。
「ね、手を繋いでいい?」
「ああ。俺でよければ」
手を差し出すと、いきなり茉莉花の機嫌が悪くなった。
あまりと言えばあまりに過ぎる豹変。理解不能だ。
「た、立華?」
「もう! 手の繋ぎ方はこう!」
頬を膨らませた茉莉花は勉の手を取って掌を合わせ、白い指を絡めてきた。
すべらかな手触りと、ほっそりした指の感触がダイレクトに伝わってくる。
茉莉花の手は――細かく震えていた。汗をかいていて冷たかった。
「……昨日は『どうでもいい』とか言っちゃったけど。あはは……どうでもよくなかったみたい」
勉の耳にしか届かない、自嘲塗れの呟き。
ふたりがこれから向かう学校には生徒たちがいる。
否、今こうして学校に向かっている最中にも、周りには生徒たちがいる。
茉莉花の場合は学校には多数の友人がいる。勉とは違って。
全員ではないにしても、彼らのうち少なくない人数が茉莉花のエロ画像を目にしているはずだ。
勉に対してやたらとエロに鷹揚だった彼女でさえ尻込みしている。無理もない。
これから向かう先は、もはや自分に性的な欲望を向けてくる、あるいは軽蔑の感情を向けてくる顔見知りの巣窟なのだから。
ツイッター上で『RIKA』として数多のエロ画像を投下していた際には、現実とインターネットの間に立ちはだかる不可視の壁に守られていた。
それはあまりに薄くて頼りなくて、でも無限の距離を隔てる防壁であった。
でも――これからの茉莉花は自分に向けられる奇異の眼差しに生身で立ち向かわなければならない。
たとえそれが自ら引き起こしたトラブルの結果であるとしても、年頃の少女にとって過酷な状況であることは変わらない。
――俺がしっかりしないとな。
掌越しに悟られぬよう、今一度覚悟を決める。
ふと、唐突に茉莉花が口を開いた。
視線は正面に向けたまま。
「ね、昨日言ったこと、本気?」
「本気だが」
「せめてどれのことかぐらい聞きなさい」
「聞いても聞かなくても同じだろう」
「むぅ~~」
ぶんむくれてしまった茉莉花は、すぐに真剣な表情に戻った。
「私みたいなのと一緒にいたら、狩谷君に迷惑が掛かっちゃうよ」
「自分から手を繋いできて言うことか、それ?」
「そ、それは……その、そうなんだけど……」
勉の手を握りしめたまま蠢く茉莉花の手つきが怪しい。
その官能的な指の動きに、思わず生唾を飲み込んでしまう。
「どうでもいい――とは言わない。でもまぁ……心配しなくても、俺は立華の傍にいる。俺が好きでやっていることだから、気にするな」
「ほんと?」
「ああ。立華が俺を必要としなくなるまでは、ずっと傍にいる」
「ばか。そんな日来ないから」
「だろう? ほら、聞いても聞かなくても同じだったじゃないか」
「むぅ~~~~~、狩谷君、何か変なものでも食べたの?」
「どうしてそうなる?」
「だって……カッコいいし」
「褒められて悪い気はしないな」
「あ、うん、そーだねー」
微妙に引っかかる言葉尻ではあったが、温かみのある声色でもあった。
一晩中悩みに悩んだアレコレは杞憂で終わりそうだった。
『立華 茉莉花』は復活した。
彼女と並んで朝の街を歩くこの瞬間が、たまらなく嬉しかった。
次回、本編完結!
多分!




