第48話 待って、会って、問いかけて
『30分待って』
屋敷に引きこもって会ってくれない茉莉花に『貸しを返せ』というメッセージを送信した。
自分でもどうかと思う書きぶりではあったものの無事に返答があって、勉はホッと胸を撫で下ろした。
彼女がどのような胸中でこのメッセージを送信したかは判断しがたいが、とりあえず一歩前進できた……と思う。
『待てと言うならいつまでだって待つぞ』
やっぱり気が変わったとか言われたら困るとばかりに慌てて送った返信には既読こそついたものの、その後の反応はなかった。
しばらくディスプレイとにらめっこしていた勉は、軽くため息をついてスマートフォンをポケットにしまう。
塀に寄り掛かって腕を組み、空を見上げた。
梅雨の時期にしては珍しく燦燦と輝く太陽が、何だか恨めしく思えてくる。
まとわりついてくる湿気に蒸しあげられるような不快感を覚えたので、ハンカチで首筋を拭いた。
緊張のあまり汗をかいていたと、濡れたハンカチを見て気付かされた。
この冷たい汗は、茉莉花に拒絶される可能性を心のどこかで恐れていた証拠だ。
直接対面しての会話にこぎつけることができて本当によかった。
――待つのは別に構わんからな。
子どもの頃は、ずっとひとりで母を待っていた。
中学2年の頃にいきなりできた義妹にも、何かにつけて待たされることはあった。
状況の差こそあれ、待つことには慣れている。
雨さえ降らなければ――否、雨が降ってもずっとここで待ち続ける。
茉莉花に送信したメッセージに嘘はない。いつまでだって待ってみせる。
これまでの山あり谷ありの人生が、勉に妙な自信を与えていた。
目を閉じると、茉莉花と関わってきたここ最近の記憶が甦る。
職員室で生徒指導との揉め事に割って入ってから、まだひと月ほどしか経っていない。
何だかずいぶん長いこと彼女と行動を共にしているように思えたのだが、そんなことはなかった。
ついでに昨年から収集してきた『RIKA』の画像や、先日遭遇した半裸姿も甦ってきた。
どちらもとても素晴らしいメモリーではあったが、今このタイミングで思い出すことではない。
頭を振って雑念を追い払おうとすると、ちょうど背後で扉が開く音がした。
慌てて目を見開いてそちらに向けてみれば、そこにはずっと追い求めていた姿があった。
『立華 茉莉花』
学園のアイドルにして人気エロ画像投稿者。
表と裏。ふたつの顔を持つ少女。
整い過ぎた顔立ちに、腰まで届くストレートの黒髪。
内側からボンッと押し上げてくる胸元。
キュッとくびれた腰回りを経て、位置の高いお尻から伸びた白くて長い脚。
どこもかしこも見どころだらけの美少女は、最後に目にしたときと同じく学校の制服を纏っていた。
夏服から露出された左右の手首にそっと視線を走らせる。傷ひとつない綺麗なままだった。
――ケガはなさそうだな。
自傷している可能性もあるのではないかと危惧していたが、その心配はなさそうだった。
ただ、雰囲気の方にはいささか問題があるように思えた。
いつもの茉莉花は太陽に似た輝きを纏っているのに、今の彼女は若干くすんで見える。
ブスッとした表情、少し濁った瞳。所々からやさぐれている、あるいはくたびれている印象を受ける。
気にはなる。気にはなるが――
「まぁ、とりあえずは良かった」
「会うなりいきなり何なの?」
「いや、ヤケクソになって手首とかを……その」
「バカみたい、そんなことするわけないじゃん」
刺々しい口調と、うすら寒い眼差し。思わず反駁したくなるところを、ぐっと堪えた。
生徒指導に呼び出されて教室の前に戻ってきた茉莉花の姿は、最悪のシチュエーションを想起できるほどに酷いものだった。
……今ここで指摘しても、彼女の機嫌を損ねるだけだろうが。
「それで、言いたいことって何なの? ひょっとして、それだけ?」
「いや、そんなわけないだろうが」
「じゃあ、何?」
「何って、それはだな……」
ジト目で問われて言葉に詰まる。全然考えていなかった。初手から『それだけ?』とは手厳しい。
『とにかく会わなければならない』という焦燥に駆られて、学校をサボってここまで来たのに。
かつての勉は何を話せばいいのかわからないから、茉莉花と関わろうとはしなかった。
今の勉は何を話せばいいのかわからないけど、茉莉花と関わろうとしている。
間違いだとは思わない。この選択肢は絶対に正しいという根拠のない確信があった。
「それは?」
「ああ、えっと、それは……その……」
頭の中では色々と言葉が渦巻いているのに、どれひとつとして形にならない。
元々口が上手い方ではないと自覚していたが……この有様には思わず頭を抱えたくなった。
これまで不要と切り捨てていた対人能力の不足にとことん苦しめられる。
まごつく勉をじ~っと見つめていた茉莉花は、大げさにため息をついた。
「ま、こんなところで話すのも何だし。入って」
★
大きすぎる立華家の門をくぐる際、得体の知れない緊張感を覚えた。
これはいったいどうしたことかと自問してみたが、すぐに答えが出た。
同年代の女子のお宅にお邪魔するのは、生まれて初めてだった。
子どものころから友人なんてほとんどいなくて、異性ともなると壊滅的。
茉莉花を家に招いた際もかなりの勇気を擁したが、今回はあの時の比ではなかった。
「どうかした?」
「い、いや、何でもないぞ」
尋ねられて声を上擦らせてしまった。
明らかに挙動不審過ぎるのだが……
「ふ~ん、あっそ」
茉莉花の口から出たのは、たったのひと言だけ。
いつもなら、もっとニヤニヤした笑みを浮かべてウザく絡んでくるだろうに。
彼女の素っ気ないひとつひとつの仕草に妙な寂しさを覚えて、すっかり頭が冷えてしまった。所在なさげにあたりを見回してみる。
池付きの広い庭。専門家の手を借りないと手入れできそうにない樹木が生い茂っていた。
門を抜けてから玄関にたどり着くまでにしばらく歩かなければならないなんて……まるでフィクションの世界に迷い込んだと錯覚してしまうレベルの豪邸だ。
しかし――
――なんだ?
歩みを進めるほどに妙な違和感を覚えた。
なぜこんなにも引っかかっているのか、上手く言語化できない。
何かが根本的に誤っている、あるいは噛み合っていないような。
そんな居心地の悪い空気がそこかしこから漂ってくる。
「な、なぁ立華」
「何?」
「いや、今さらこんなことを聞くのもあれなんだが、ご家族はいらっしゃらないのか?」
尋ねてから心の中で呆れてしまった。本当に今さらだった。
金曜日の放課後、茉莉花は『両親は忙しくて迎えに来られない』的なことを口にしていた。
梅雨&台風のコンビネーションを前にしてさえ、そこまで娘に言わしめるほどのご家庭なのだ。
そんな両親が平日の昼間に家にいるとは思えない。少し考えればわかることだろうに。
――待て。ということは、俺と立華だけか?
そこまで思い至って、先ほどとは比べ物にならないほどの重圧がのしかかってきた。
年頃の男女が学校をサボって家族のいない家にふたりきり。ヤバい、ヤバすぎる。
――いやいやいやいや、そうじゃないだろ。俺と立華は友だちなんだから。
もしもふたりが恋人同士だったなら、これはもう、そういうことをするシチュエーションに他ならない。
しかし、今の勉と茉莉花はあくまで友人という間柄。
茉莉花から『友だちになろうよ』と言われて頷いたのは、他ならぬ勉自身だ。
信頼を裏切るようなことがあってはいけない。茉莉花を泊めた日と同じだ。
――ああ……あの日はヤバかったな……
金曜日の晩に茉莉花を押し倒した瞬間の生々しい記憶が甦る。
義妹からの電話がなければどうなっていたか、わかったものではなかった。
自分は理性的な人間だとばかり思っていたが、別にそんな大層な存在ではないと思い知らされた。
魅力的な女性を前にすれば容易に本能が暴れ出す、どこにでもいる男子高校生のひとりに過ぎない。
そう、今も……前を行く茉莉花の脚が白いのだ。長くてスラリとした脚から目が離せない。
脚の上で揺れるお尻、艶やかな黒髪。背後からは見えないが、きっと胸も揺れている。
はだけられたシャツから垣間見た彼女の肢体。立ち昇る芳香。微かな吐息と確かな体温。そのすべてを今でも鮮明に思い出せる。
ダメだダメだと頭から振り払おうとすればするほど余計に意識してしまって、どんどん脳内のイメージがアップデートされていく。
欲望に攻め立てられて煩悶し、ソワソワと眼鏡の位置を直す勉の前から、茉莉花の声が流れてくる。
「家族って……そんなのいるわけないじゃん」
その声は、想像していたものとは違った。エロ妄想にのぼせ上っていた脳内が一瞬で冷却される。
寒々しく乾いた自嘲気味な声。耳にするだけで、背筋が震えあがる。
勉に向けられているはずなのに、勉に向けられていない声。
驚いて頭を上げると、レンズ越しに茉莉花と目が合った。
いつもは新月の夜の湖畔を思わせる漆黒の瞳は、どこまでも空虚だった。




