第46話 カリスマの失墜 その2
長くなってしまいましたが、分割はしない方向で
「みんな、おはよう」
挨拶と共に教室へ入ってきたのは、すっかり見慣れたひとりの美少女だった。
漆黒の瞳が印象的なパーフェクトフェイスに、腰まで届く艶やかなストレートの黒髪。
大ボリュームのバストからキュッとくびれた腰を経て、校則ギリギリ(違反)の短いスカートから白くて長い脚が伸びている。
学園のアイドルにして教室の太陽『立華 茉莉花』である。
……もっとも、今日に限っては朝から散々噂を囁かれている渦中の人物でもある。
いつもなら即座に快活な挨拶を返す他のクラスメートたちは、互いに顔を見合わせて戸惑い気味に頷くのみ。
茉莉花は可愛らしく小首をかしげて見せるものの、それ以上の変化を表すことはない。
スタスタと歩みを進め、勉の方にやってきた。
「おはよう、狩谷君」
「……ああ、おはよう立華」
挨拶を返すのに、一瞬の間が開いた。
茉莉花は特に気にしたようでもなく、鼻歌交じりで自分の席に向かう。
『おおう、オレがスルーされた件について』などと史郎が呻いていた。
――なんだ?
遠ざかる茉莉花の背中にじっと視線を向けながら、勉は眉を顰めた。
推し裏垢である『RIKA』の正体が彼女であることが発覚して以来ずっと近しく関わってきたが……あんな茉莉花は見たことがなかった。
「立華さん、えらい機嫌がいいな」
「……そう見えるな」
史郎の言葉に頷いた。
そう、勉の目からも茉莉花は上機嫌に見えた。
茉莉花は教室で不快な表情を浮かべることはない。
それはカリスマとしての振る舞いのひとつではあるのだろう。
しかし、心の底から楽しそうにしている姿もあまり見せない。
他の連中が気づいているかはともかく、勉は誤魔化せない。
そんな茉莉花が、鼻歌でも歌いだしそうなほどに浮かれている。
――いや、違うな。そうじゃない。
『機嫌が良い』とは少し違う。
高揚の中に、ほんの微かに緊張が混ざっている。
ひとつひとつの所作にわずかな強張りが見受けられる。
自分ならどういう状況でそんな感情を抱くか考えてみたが……いまいちピンとこない。
「画像流出の件、気づいてないとか?」
「アップした画像は自分で消したんだろう? それはないと思うが」
「だよなぁ。ツイッターめっちゃ炎上してるし、チェックしてないってことは……ダメだ、わけがわからん。勉さんは?」
史郎の問いに首を横に振った。
『立華 茉莉花』という人物は、しばし勉の想像の斜め上を征く。
見た目は完璧すぎるヒロインなのに、エロに対してやけに寛容と言う時点で尋常ではない。
エロに寛容どころか、むしろ誘惑してくることまである。外面と内面の不一致は甚だしい。
眼鏡の位置を直しながら、椅子に腰を下ろしたままの茉莉花を観察する。
周囲のクラスメートが引いて様子を窺っていることに気付いているのかいないのか。
不自然すぎるほどに自然に、茉莉花はいつもどおりに振る舞っている。
……否、見れば見るほどにテンションが高い。間違いない。
まるで今にも踊り出しそうな自分を必死に抑えているかのよう。
――どうなっているんだ?
ガラリと教室のドアが開いた。
姿を現したのは、生徒指導教諭だった。
上下ジャージにメタボ腹。冴えない中年教師の登場に教室は騒めいた。
きっと誰もが裏垢騒動で現在炎上中の茉莉花とかの中年を脳内で結び付けただろう。
しかして――いつもは憎たらしい表情を浮かべている教諭の顔は、名状し難い形に歪んでいた。
「立華、今すぐ生徒指導室に来なさい」
「わかりました」
茉莉花は呼びつけられるなり即応して席を立った。
そのまま軽い足取りで生徒指導教諭に続いて教室を後にする。
勉が呼び止める暇もなく、茉莉花はみんなの前から姿を消した。
ふたりが去った後の教室は――生徒たちの声で爆発した。
『やっぱアレだって!』
『学校側にもバレてたか』
『ヤバいって、これはマジヤバいって!』
『茉莉花終了のお知らせ』
『停学になったりするのかな? まさか退学とか?』
ひそひそと水面下で交わされていた噂が、堂々と教室を飛び回る。
その声を忌々しく思いながらも、茉莉花が弄られていた時のように口を差し挟むことはできなかった。
なぜなら、勉もまた疑問を抱いていたからだ。ただしその内容は飛び交っているものとは若干異なる。
――生徒指導に呼ばれて、あの態度はおかしいだろ。
普通はもっと悄然とするものではないだろうか。
茉莉花のことを深く知っているか否かとか、そういう問題ではない。
今日の彼女は何もかもがチグハグだった。
再び教室のドアが開いた。担任だった。
いつもメイクを決めている若い女性教諭。
入ってくるなりずかずかと教壇に向かい、大きな声を張り上げる。
「みんな、もうチャイム鳴ってるのよ! 静かにしなさい!」
NO威厳で叫んだところで何の効果もなかった。
こういう時に生徒からどのように見られているかがハッキリする。
よく言えば親しまれている、身も蓋もない表現をすれば侮られている担任には、教室を鎮静化させることはできなかった。
自分の扱いに気付いているのかいないのか、担任は再び大声で生徒たちに呼びかけていた。
★
興奮冷めやらぬままに授業に突入し、誰もがソワソワしていた。
「あ、茉莉花」
その声が耳に届いた瞬間、勉は廊下に目をやった。
茉莉花がいた。教室に入ってくる様子はない。
――どうしたんだ?
違和感があった。
登校してきた茉莉花は『今日はお祭り!』と言わんばかりのハイテンションだったのに、今の彼女は顔面蒼白。
漆黒の瞳は輝きを失って虚空を彷徨い、色を失った唇はかすかに震えている。
まさしく急転直下の生きた見本。劇的に過ぎる変化だった。
生徒指導室でこってり絞られたからと考えれば『ない』とまでは言えないものの――
「立華、さっさと中に……って、立華、立華!」
黒板にチョークを走らせていた教師が気付いてドアを開けようと動くと同時に、茉莉花は弾かれたように駆け出した。
あっという間にクラスメートの視界から消えて『立華、廊下を走るな! いや違う、待ちなさい!』という教師の叫び声が空しく響いた。
どう見てもただ事ではない。想像の斜め上を突っ走り気味な彼女だが……文字どおりの意味で突っ走って行かれては、放っておけない。
「勉?」
いてもたってもいられなくなった勉は席を立ち、慌ただしく教室を後にした。
前に座っていた史郎の怪訝な声に返事はしなかった。
途中でいくつもの机にぶつかったが、こちらも謝っている余裕はない。
「あ、こら、狩谷! お前まで授業をサボる気か!」
がなり立てる教師の声を無言でスルー。
廊下に出ると、すでに茉莉花の姿はなかった。
――どこへ行った?
茉莉花が走り去った方向はわかるが、どこへ向かったかがわからない。
それでも走る。すぐに階段にたどり着いた。上か、下か。そのままか。
「下だな」
即座に決断した。
上に逃げてもどこかで捕まってしまうことは容易に想像できる。廊下を走り続けても同じ。
誰にも見つからない場所でひとりになりたいのだとしたら、下に行くしかない。
大股気味に一段飛ばしで階段を駆け下りると、廊下の彼方に黒い髪を靡かせる背中が見えた。
「立華ッ!」
叫んでみたが、走りゆく彼女は振り向かない。
『クソッ』と毒づいて後を追うが――全然距離が縮まらない。むしろ逆に開く一方だ。
茉莉花は昇降口で靴を履き替えることなく外へ出て、そのまま学校を後にした。
勉はその背中を見ていることしかできなかった。
なぜなら――
「ハアッ……はあ……立華、体力ありすぎだろ」
インドア派の勉はもともと運動神経に優れているわけではなく、体力もない。
『ミス・パーフェクト』とも称される茉莉花の後を物理的に追いかけることができなかった。
日頃からもっとまじめに運動しておけばよかったと後悔しても、時すでに遅し。
それにしても、この状況はやはり只事ではないと思い知らされた。
学校の敷地の外に出るのに上履きのままだなんて、余程の何かがあったに違いない。
「どうする……アイツ、明日また学校に来るのか?」
息を荒げながら自答し、心の中で『否』と答えた。
生徒指導室から戻ってきた茉莉花の様子は、明らかにおかしかった。
あれを見た上で『明日でいいだろ』と考えるほど、勉はお気楽な性格ではない。
しかし、茉莉花はすでに学校の外に出てしまった。どこへ行ったかはわからない。
思い当たる場所なんてひとつもない。
「俺は……立華のこと、何も知らないんだな」
歯噛みする。奥歯が割れそうなほどに。
裏垢のことを知ってノートを貸して、一緒に勉強して雨の日に家に泊めて。
色々あった。距離が縮まったと思った。でも――茉莉花のことを何も知らない。
その事実を今さらながらに突き付けられて、胸を掻きむしりたくなる。
「……家、か?」
考えがまとまらないままに、その言葉が口をついて出た。
茉莉花がどこへ行くにしても、最終的には家に戻るのではないかと閃いた。
荷物は教室に置きっぱなしだし、学校にそれほど大金を持っても来ていないはずだ。
近くに頼る友人はいないとも言っていた。可能性としては決して低くないように思える。
「いや、でも……家に戻るか?」
あの尋常でない様子を家族が見たらどう思うだろう?
それは茉莉花にとって不本意なことではないか?
浮かんだアイデアを否定する感情が沸き上がってくる。
それでも……他に彼女が行くところがわからない。
ダメで元々。選択肢をひとつひとつ潰していくほかない。
「……立華の家ってどこだ?」
電車通学だとは聞いていた。問題はそこから先だ。
どこの駅で降りるとか、駅からどれくらい歩くとか。
彼女から、そういう話は何も聞いていない。
教師たちは知っているだろうが……コンプライアンスが叫ばれる昨今、一介の生徒に簡単に教えてくれるとも思えない。
勉は教師からの覚えが悪いし、問題を起こして生徒指導室に呼ばれた茉莉花と最近仲が良いこともバレている。
――誰か、立華のことに詳しそうな奴……ッ!
大雨の中で『友だちなんていない』と自嘲の笑みを浮かべていた茉莉花の顔が脳裏に浮かんだ。
クラスメートにもあまり込み入った話はしていないのではないだろうか。
考えれば考えるほどに、どんどん選択肢が減っていく。
残された手段の中で最も当てになりそうなものと言えば――
「頼むぞ……天草」
勉の数少ない友人にして人気者。
情報通で知られるあの男ならば……
一縷の望みをかけてスマートフォンでメッセージを送る。
返事が戻ってくるまでに靴を履き替えておく。
一瞬が永遠にも感じられる。スマホが震えた。
『ここ』
史郎からのメッセージには、茉莉花の家の場所を示す地図が添付されていた。




