第44話 急転
第3章最終話です。
朝食を食べて後片付けを終え、勉と茉莉花はテーブルを挟んで向かい合って座っていた。
ふたりの前に置かれたコーヒーカップからは湯気が立ち上っている。
チラリと窓に目を向ければ、カーテンの隙間からは陽光が差し込んでいた。
昨日の大雨がウソのような晴天ではあるものの、スマートフォンで調べた限りでは、やはり天気予報は芳しくない。
この晴れ間は一時的なものに過ぎず、茉莉花に帰るよう促すべきだと勉は理解していた。
そこまでわかっていても、言葉が出ない。ふたりきりのこの状況を惜しんでいるのだと自覚せざるを得ない。
茉莉花は聡い女性だ。状況は把握している。さっさと家に帰るべきだと理解しているはずだ。
しかし、彼女もまた何も言いださない。
勉を見て、時計を見て、窓の外を見て、テーブルのコーヒーを見て。
さっきからずっとその繰り返しだ。
そんな穏やかなようでいて落ち着かない時間が過ぎていく。
「立華、その……」
このままでは良くない。思い切って口火を切った。
……のだが、いざ口を開いてみても、言葉が続かない。
言わなければならないとわかっていても、身体が脳の命令に従わない。
「ん……わかってる」
逡巡する勉の前で、茉莉花はコーヒーカップに口をつけて中身を飲み干していった。
ごくごくと前後する白い喉に勉の目が釘付けになる。
カップから離れた唇の端から零れた雫をペロリと舐める舌も、目を引き寄せてくる。
ひとつひとつの所作が蠱惑的に見えて、なおさらに勉の口を重くする。
対する茉莉花は『うん』と頷いて、そっと立ち上がった。
「……帰るのか?」
「うん。それとも……ずっとここにいていい?」
――また、そういうことを……
頷きかけて、首を横に振る。
この夢のような時間は、もう終わり。
勉も茉莉花も現実に向き合わなければならない。
「そうだね。それじゃ、お世話になりました」
そう言い置いて茉莉花は帰っていった。
最後に見せた笑顔は透明で、儚げで、朧気で、まるで夢か幻かと不安すら覚える。
彼女が何を考えているのか、その顔から窺い知ることはできなかった。
ただ……今にも消えてしまいそうな風情に反して、裏に何かしらの強い意志をみなぎらせているようにも見えた。
どんな表現でも正確に描写することができない表情は、言葉を失ったままの勉の脳裏に強く焼き付いた。
茉莉花が去り、ひとり残された勉が改めて室内を見回すと、何とも言えない寒々しい感覚が込み上げてきた。
「この家、こんなに広かったか?」
これまではずっとひとりだったから、何も違和感を覚えることはなかった。
でも――茉莉花と一夜を共にして、彼女の体温や息遣いを感じて、改めて思い知らされた。
――寂しいもんだ。
自室に戻ってベッドに腰を下ろし、そのまま横たわる。
ソファで眠っていたとはいえ、あまり睡眠の質が良くなかった。
茉莉花に気を遣わせないようにあくびを噛み殺していたが、それも限界が近かった。
アルバイトは夕方から。時計を見ると……まだ時間は十分にある。
「ひと眠りするか」
そのまま目を閉じようとして、ふと気づく。
「昨日は、ここに立華が横になっていたのか」
鼻先を甘い香りが掠めた気がした。
昨晩、ほとんどゼロ距離まで接近した際に味わった、茉莉花の匂い。
触れることなくとも感じた体温。大胆にはだけられたワイシャツから覗いた白い肌。
あの瞬間に垣間見たすべてがここにあったのだと思い知らされて、勉は俄かに興奮を覚えた。
穏やかな眠りにつくまでに、まだしばらくの時間が必要だった。
★
土曜日は二度寝から目覚めてアルバイトに行った。
さほどの時を置くことなく普通の生活サイクルに戻り、日曜日の晩を迎えた。
レンズ越しの視線の先で時計は淡々と時を刻んでいる。
明日は月曜日。普通に学校に行かなければならない。
「……何なんだろうな、これは」
自室のベッドに腰を下ろして独り言ちた。
茉莉花が帰って以来、何をするにも身が入らない。
集中力を欠いてアルバイトでも何度も失敗しかかった。
勉強の方にもまったくといっていいほど手がついていない。
今までにこんな経験はなかったものだから、対処法も思いつかない。
どうしたものかと悩んでいると、スマートフォンが震えた。
電流を流されたかのように身体が跳ね、慌てて手を伸ばす。
「何だ天草か」
表示された名前を見て落胆してしまった。
いったい何を期待していたのか。バカバカしくて笑えて来た。
わざわざ通話する気になれないままぼーっとしていたが、一向に震えが止まらない。
根負けしたようで癪にさわったが、やむなくディスプレイをタップして耳にあてる。
『おお、やっと出たか勉さんや』
「こんな時間に何の用事だ、天草」
『ありゃ、ひょっとして寝てたか?』
「いや、起きてたが」
『じゃあよかった。いや、良くない』
「どっちなんだ?」
否定肯定が入り混じった史郎の言い回しにツッコんでみたが、反応なし。
代わりに返ってきたのは、唐突な質問だった。
『勉……お前さ、うちのクラスのグループチャット見た?』
「見てない。何か連絡事項でもあるのか?」
クラスメートの連絡先は全員分SNSに登録されている。
そしてSNSには登録者同士でチャットする機能がある。
時おり緊急の連絡が入ることもあるから目を通しておくようにとは言われていたものの、入学して以来そんなことは一度もなかった。
現在グループチャットは生徒たちの交流の場として開放されている。放置されているとも言う。
『やべーんだよ、マジでやべーんだよ』
ヤバいヤバいと連呼する史郎。
何がヤバいのかさっぱりわからない。
常日頃は飄々としているこの男が取り乱すのだから、余程のことがあったのだろう。
内容にサッパリ触れてこないので、聞かされる方はやたらとイラつく。
「ヤバいのはわかった。それで、何があったんだ?」
『お、おう。ちっと待て。まずはこれを見てくれ』
「?」
何をと問う前に史郎からメッセージが送られてきた。
画像が添付されている。
「こ、これは……」
絶句した。
柔らかい曲線を描く白い素肌に真紅のビキニ。
水着以外は何も身につけておらず、肢体はそのほとんどが詳らかにされている。
腰まで届く艶やかなストレートの黒髪。
顔は隠されていたが――
「これは……立華か?」
思わず口に出してしまった。
顔がわからなくとも一目瞭然だった。
どう見ても茉莉花の身体で間違いない。見間違えるはずもない。
昨年来ずっと見てきた彼女の裏垢『RIKA』には似たような写真がたくさん投稿されている。
勉はそのすべてを蒐集してきた男である。何の自慢にもならないし、言及もしないが。
『お、わかるのか、勉さんや』
「……まぁな。ところで、これはどうしたんだ?」
『それがさ、さっきいきなりチャットにこの画像が投下されて』
「誰がそんなことをやったんだ」
食い気味に返した声に怒りが滲んだ。
同じクラスの女子の半裸写真をチャットに流すなんて、いじめとしか――
『立華さんだ』
「だから、誰が」
『だ・か・ら、立華さんがやったんだよ』
「は?」
史郎が何を言っているのか、わからなかった。
『立華さんがこの画像を添付して――まぁ、オリジナルはすぐに削除されたんだが……』
「だが?」
『その……画像を見たほかの奴らがツイッターで裏垢みたいなのを見つけてさ。タイムラインに次々エロ画像が貼られて手が付けられねぇ』
発見されてしまった茉莉花の裏垢である『RIKA』のアカウントも大炎上の真っ最中。
面白がったクラスメートの誰かが、茉莉花の顔写真や個人情報を暴露してメチャクチャな状態になっていると史郎は付け加えた。
スマートフォンを持つ手が震えた。動揺と怒り。限界突破した感情に名前は付けられない。
「……」
『それでさ、お前ら最近仲良さそうだったし、大丈夫かな~って』
「……」
最初に画像を投下したのは茉莉花自身。
裏垢に投稿する際に操作を誤ったのだろうか?
しかし――これは致命的だ。
画像はすでに消されているけれど、クラスメートに裏垢の存在が発覚してしまった。
彼らによってインターネット上に茉莉花の顔や個人情報まで晒されてしまったという。
悪ふざけで片づけられる問題ではない。高校生にもなってそんなこともわからないとは思えない。
学園のアイドルとして君臨していた茉莉花だが、裏では色々な不満や不興を買っていたのかもしれない。
彼女に対するネガティブな感情が爆発する兆候があったことは、勉も実際に見聞きしてはいたものの……
――だからと言って、これはシャレにならないだろ!?
一度ネット上に流出した情報を完全に消去するのは不可能だ。
冗談抜きで、このミスは取り返しがつかない類のものだ。
『勉さん? お~い、聞こえてるか?』
史郎の声はすでに遠く、勉の耳には届かなかった。
――立華、どうするつもりだ?
ベッドを見下ろした。
先日彼女が横たわっていたベッドを。
ついで視線を窓に向ける。星が瞬く綺麗な夜空が見えた。
報じられていた荒天は訪れないが、インターネットには大嵐が吹き荒れている。
ゴクリと唾を飲み込む。心臓の鼓動が不規則に響く。背筋に寒気が走った。
「立華……」
裏垢はいつか誰かにバレるかもしれないと思っていた。
でも、それはこんな形ではなかったはずだ。
明日は学校がある。茉莉花は登校してくるのだろうか。
その時、自分はどんな顔をすればいい?
その時、他のクラスメートはどんな顔をする?
昨日まではあんなに平和で平穏だったのに……どうしてこんなことになってしまったのか、訳がわからない。
わからないけど――茉莉花が別れ際に見せたあの笑顔が、ふいに脳裏によぎった。
これにて『ガリ勉君と裏アカさん』第3章は終了です。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
このまま第4章に突入します。詳細は後ほど活動報告にあげる予定です。
切りのいいところまであと一息というところです。
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