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第43話 茉莉花と迎える朝


 遠くで水の流れる音がした。

 重さを感じさせない音だった。


――まだ雨が降っているのか?


 そんな疑問が湧いたが、すぐにこれを打ち消した。

 昨晩の嵐とは質が全く違う。あれはもっと暴力的な音だったはず。

 聞き覚えがあるような気はするのだが、どうにも記憶が曖昧で思い出せない。


 頭は重く、目蓋は開かず。

 うすらボケた思考はまとまらず。

 違和感があったが……何がおかしいのか考えることはできなかった。


「ん……」


 意識は柔らかく明滅し、覚醒状態を継続できない。

 さして時を置くことなく、(つとむ)は再び微睡みに落ちた。


「……やくん」


 心地よい声が響く。

 頬が抓られている。痛くはない。

 腕を伸ばすと――柔らかな感触。

 得体は知れない、しかしとても気持ちがいい手触り。

 掌が何かに沈みこみ、ずっと揉み続けたくなる不思議な暖かさに包まれている。


「きゃっ……もう! ワザとやってない!?」


「んぅ、むぅ……」


「こら! 狩谷(かりや)君、起きて!」


「……ぅうむ」


 透き通るような声のトーンが一段高まって、含まれている感情に激しさが増した。

 重たい目蓋をうっすら開けると、ぼやけた視界に頬を真っ赤に染めた可愛らしい少女がいた。

 ……というか、茉莉花(まつりか)だった。ちょっと涙目。距離が近い。


――え……立華?


 ひとり暮らしの自室に同い年のクラスメート、それも飛び切りの美少女がいるという状況に頭が追いつかない。


「うおっ!?」


 勢い込んで上半身を跳ね上げる。

 頭の中も視界もぼんやり霞んで定まらないまま。これでは何もできない。

 手探りで眼鏡をかけると、身体の前で両手をクロスさせた茉莉花と視線がかち合った。

 彼女の姿を視界に収め、まずはひと言。


「制服、乾いたのか」


 茉莉花は制服を身につけていた。

 確か昨日ずぶ濡れになっていたはずなのに。

 魅力的なその姿に、言語化しがたい喪失感を覚えた。


「その前に何か言うことがあるんじゃないの?」


「ん?」


「まだ頭ボケてる? 大丈夫?」


 険の籠った声。

 茉莉花の顔を見て、自分の身体を見下ろして、部屋の中を見回して、昨日の記憶を探る。

 なぜ自分がリビングのソファで眠っているか。なぜ茉莉花がここにいるか。

 なぜ、なぜ、なぜ……脳裏に渦巻く疑問にひとつひとつ答えていくと、現状が確認できた。

 梅雨と台風のタッグに襲われた。電車が運休して茉莉花は家に帰れなくなった。

 仕方がないので勉の家に連れてきた。風呂に入って夕食を食べた。

 茉莉花が挑発してきて、勉が限界突破して――義妹からの電話で踏みとどまった。かなり危なかった。

 それから家族の話をして、眠くなってきて、でもこの家には布団がなくて。

 勉の部屋のベッドを茉莉花に使わせて、自分はリビングで寝た。そして――今。つまり……


「ああ……おはよう、立華(たちばな)


「……はぁ、もういいわ」


 大袈裟なため息。勉の答えはお気に召さなかったらしい。

 首を捻ると――カーテンの隙間から陽光が差し込んでいた。


「雨、止んだのか」


「そうね。いい天気よ」


「そうか」


 確かこの週末は雨という話を誰かから聞いた気がしたのだが。

 スマートフォンを手繰り寄せてディスプレイをタップ。

 電車の状況を調べると、運転が再開されていた。


「電車も動いているみたいだな」


「ええ。そうみたいね」


「だったら……」


 そろそろ帰るのか?

 そう言いかけた勉の視線を受けた茉莉花は、テーブルを指さした。

 焼きたてのパンにサラダ、目玉焼き。ヨーグルト。

 コップにはなみなみと麦茶が注がれている。


「お世話になったから、朝ご飯作ったんだけど」


「おお。別にそこまでしてくれなくても」


「狩谷君、気持ちよさそうに寝てたし。勝手に材料使っちゃってごめんね」


「構わん。どうせ起きたら飯の準備をするつもりだったからな」


「そう? ならよかった」


 朝食はふたり分用意されていた。


「立華も食べるのか?」


「もちろん。朝しっかり食べないと力が出ないよ」


「そうなのか?」


「そうなの」


「ふむ……」


 勉の記憶にある女性――母や義妹とは異なる反応だった。

 母は生活サイクルそのものが不規則だったし、義妹はしばしば朝食を抜いていた。

 教室でもダイエットがどうこうという話を耳にするし、女子は朝食を取らないというイメージがあった。


――まぁ、太ってないしな。


 茉莉花の腹回りをじっと見つめると、おでこに衝撃。


「どこ見てるの」


「腹」


「ハッキリ言うな!」


 もう一発デコピンを貰う。ご褒美だ。

 茉莉花の足取りは軽かった。

 口振りの割に怒ってはいない模様。


「んッ……」


 ソファから立ち上がると、全身が強張っていた。

 身体を伸ばすとバキバキと音がする。

 慣れないところで寝たせいだ。


「立華、身体は大丈夫か?」


「うん。お陰様で私は特に何も。ほら、食べましょう」


「ああ。頂こう」


 ふたりで向かい合ってテーブルについて、両手を合わせて『いただきます』と唱和する。

 献立は目新しいものではないし、味わいが変わるものでもない。

 それでも、勉にとっては新鮮な感覚だった。


「狩谷君、ソース取って」


「ほれ」


「ありがと」


 茉莉花は勉から受け取ったソースを鼻歌交じりに目玉焼きに垂らし始めた。

 かなり多い。あれではソースの味しかしないのではないだろうか。

 彼女が作ったものだから、自分が口を挟むのは筋違いな気がするので黙っていた。

 目玉焼きの食べ方は難しい。実家にいた頃は義妹と言い争いになったこともある。

 個人の流派は尊重すべしと学んだ。余計な論争はせっかくの朝食に申し訳ない。

 

「立華はソース派か」


「うん。狩谷君は?」


「そのまま頂く」


「洗うのメンドクサイんだね?」


「何も言ってないが」


「顔に書いてあるし」


「む」


 顔に手を当てると、正面の茉莉花がクスクスと笑みをこぼす。

 何か言い返してやろうかと思いつつも、何も思いつかなかった。

 ずり落ちた眼鏡を定位置に戻し、焼きたてのパンをちぎって口に放り込む。

 香ばしい香りと味が口中に広がる。いつも食べている食パンなのに、いつもより美味しい気がする。


「……パンにも何もつけないんだ」


「ああ」


「ちなみにサラダも」


「そうだな。ドレッシングは常備してない」


「おう……」


 サラダに伸びていた茉莉花のフォークが止まる。


「マヨネーズかけるか?」


「ううん、このままでいい」


 茉莉花はフォークを伸ばして野菜を口に運んだ。

 瑞々しい野菜が瑞々しい唇に飲み込まれていく。

 じっと見つめるのはデリカシーに欠けるとわかっていても、桃色の唇の動きから目が離せない。

 ごくんと白い喉が前後する。その微細な動きまではっきりと見える。


「なんかバッタになった気分」


「せめてそこはウサギとでも言っておいたらどうだ?」


 呆れつつも脳内の買い物メモにドレッシングを書き込んだ。

 自分ひとりのことだけ考えるならば必要ないものだが、今後誰かを泊める機会があるかもしれない。

 あって困るものではないのだから損にはならない。誰にも聞かれないであろう理屈を適当に組み立てる。


――それにしても……


 不思議な光景だった。

 茉莉花と食卓を囲むのは2回目。1回目は昨晩のこと。

 それほど時間がたっていないのに、違和感がない。

 

「……」


「どうしたの?」


 茉莉花の瞳が揺れている。

 不安と期待が入り混じった繊細な色合い。

 その眼差しを裏切らない答えを求めて、しばし視線を宙に泳がせる。

 そして――


「いや、起きてすぐに食事が用意されているというのは良いものだな」


「狩谷君ひとり暮らしだもんね」


 得心いったように茉莉花が頷いている。

 彼女の言葉どおり、ひとり暮らしの勉の場合、自分で用意しないと食事を摂ることはできない。

 誰かに料理を作ってもらうということ自体、少なくとも1年ぶりであった。

 ひとりで作ってひとりで食べて、ひとりで後片付けをする。

 そうやって飯を食っていると、一回一回の食事がだんだんエネルギー補給のための作業じみてくる。

 でも……こうして茉莉花と卓を囲んでいると、ただそれだけで心が浮き立つ。この食事は、断じて作業ではない。

 知らず知らずのうちに頬をほころばせていた勉を見て、茉莉花もまた穏やかな笑みを浮かべていた。


次回、第3章最終話!

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『あの子が水着に着替えたら』もよろしくお願いします。
こちらは気になるあの子がグラビアアイドルな現実ラブコメ作品となります。
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