第34話 一見すると平穏な食後のひと時
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みなさま、ありがとうございます!
水が流れる音。カチャカチャと食器を鳴らす音。
時計の短針が時を刻む音。機嫌よさげな鼻歌。
いよいよ荒々しさを増してきた暴風雨の轟音。
ひとつひとつはごくありふれた音なのに、そのすべてが合わさると、勉を酷く落ち着かない気持ちにさせる。
茉莉花とふたりで夕食を終えてから、リビングでソファに預けたまま、ずっと悶々と時間を持て余していた。
ぐったりして何もする気が起きなかった……というわけではない。今日は色々ありすぎたので、そういう気持ちが全くないとは言わないが。
これでも勉は後片付けのために腰を上げようとしたのだ。汚れた食器の始末は後回しにすればするほど煩わしさが増していく。
生まれてこの方16年と少々の人生で得た貴重な教訓のひとつだった。のだけれど……そこに『待った』の声がかかった。
『ご飯までご馳走になって何もしないわけには行かないし』
そう言って食器を台所に運ぶ茉莉花を止められなかった。
梅雨と台風のタッグに襲われて、駅まで送ることになった。
駅に着いたら電車が運休していたので、自宅に一晩泊めることになった。
お風呂に入って身体を暖め、勉お手製の夕食で腹を満たした。
ここまで世話になりっぱなしだった茉莉花は、今がチャンスと腕をまくった。
「今日の立華はお客さんだから、別に気にしなくても構わんのだが」
「ダメ。ただでさえ狩谷君にはいろいろ借りを作ってばっかりなんだから」
「それとこれとは話が違わないか?」
「違わないし。狩谷君は休んでて」
そこまで言われてしまうと、無理やり仕事を奪うのも忍びない。
茉莉花に食後の水仕事を任せて現在に至る。
――なんだ、この……なんだ?
食後にまったりと休んでいられるのはありがたい。
誰かが自分の代わりに後片付けをしてくれるなんて素晴らしい。
ここ1年ほどのひとり暮らしで、何もかもひとりでやることに慣れていただけに……こんな休息は実に新鮮だった。
そもそも自分以外の人間がこの家にいること自体が初めてのことなのだが。
リビングから台所に視線を向けた。
眼鏡のレンズ越しに、食器を洗う茉莉花が見える。
腰まで届くストレートの黒髪は、頭の後ろでポニーテールに束ねられていて新鮮だった。
身に纏っているのは勉が貸した白のワイシャツのみ。白のワイシャツのみ(ここ大事!)。
ついこの間までまともな接点のなかった学園のアイドルが自宅の台所で家事をしている姿は、やたらと目に眩しかった。
「どうかした、狩谷君?」
「……いや、立華が俺の台所に立っている姿に感動した」
「あっそ」
ジロジロ見つめていたら声をかけられたので、ありのままを答えた。
茉莉花の反応は実に素っ気なかったが、言葉尻が微妙に浮いていた。
鼻歌交じりで皿を洗い続けている。手つきに危うさは感じられない。
――ずいぶん手馴れてるな……
意外な気がしたが、迂闊に口にすると機嫌を損ねそうなので黙っておく。
彼女が周りから向けられる視線に敏感なことは、すでに聞かされている。
今この部屋には勉と茉莉花のふたりしかいないわけで、もはや隠したり誤魔化したりと言ったことはできない。
ならばいっそ堂々と見てやろうというわけで、先ほどから腕を組んで彼女を眺めている。
「……」
「……」
「ねぇ、狩谷君」
「何だ?」
「そんなにじっと見つめられると、やりにくいんだけど」
「わかった。残念だ」
裸ワイシャツの茉莉花はどれだけ見ていても飽きることがない。
本当に、本当に残念だった。さすがに嫌がられているのなら、諦めるしかない。
そんな勉の心情を声色から感じ取ったらしい茉莉花が、呆れた声で提案してくる。
「やることないんだったらテレビでも見てたら?」
「テレビか……」
電源が切られた漆黒の薄型テレビに目を向ける。
テーブルの上にはリモコンが置きっ放しになっていた。
少し手を伸ばすだけでよいのだが、どうにも気が乗らない。
この状況でテレビを見るなんて、勿体ないように思えるのだ。
「まぁ、自分で振っておいてアレだけど、狩谷君がテレビ見てる姿がイメージできない」
「だろうな。ほとんど見ない」
「全然見ないの間違いじゃなくて?」
「失礼な。ニュースや天気予報ぐらいは見るぞ」
勉は基本的にはあまりテレビに興味がない。
調べたいことがあるならば、パソコンやスマートフォンで事足りる世の中だ。
ただ、インターネットに頼った情報収集は積極的に関心を持たないアレコレを排除してしまいがちになってしまう。
世情に取り残されなさすぎないように、空いた時間にテレビを流しっぱなしにしておくのがよい。
……と義父から教わったので一応実践している。大学受験にも時事問題が出るからと自分を納得させながら。
なお、効果があるかどうかは自覚できていない。
「はいはい、他には?」
「……歌番組も、たまに」
「え、嘘? 狩谷君が歌番組? ビックリ過ぎるんですけど……」
茉莉花の目が大きく見開かれた。
声も1オクターブ上がっている。
かなりガチ目に驚かれてしまって、つい憮然とした面持ちになってしまう。
「まぁ、そう思われていても否定できんが。胸を張って自慢できるほどテレビに齧りついているわけでもない」
もともと勉には暇な時間があまり存在しない。
学校に行ってアルバイトに行って、家事を片付けたら予習復習の時間だ。
テレビから流れる騒音は勉強の邪魔になる。だから消す。
義父の教えとは裏腹に、必然的にテレビの出番は少なくなる一方だった。
「ふむ……テレビなぁ」
せっかくなのでリモコンを手に取ってテレビをつける。
室内に新しい音が加わった。騒がしい感じがする。
「狩谷君、食後のコーヒーどう?」
「いただけるとありがたい。って、どこにあるかわかるか?」
「だいたいどこのお家も同じでしょ、そんなの」
呆れた茉莉花の声。
台所をごそごそと漁り、ヤカンに水を入れて火にかける。
インスタントコーヒーと砂糖を難なく探し出して、
「お砂糖どれくらい?」
「砂糖はいらない」
「ミルクは?」
「いらない。ブラックでいい」
「へぇ~、狩谷君はブラックなんだ」
「ああ」
「めんどくさいんだね」
「……」
一方的に決めつけられるのは不本意だったが、茉莉花の答えは的を得ていた。
学校でココアを飲んでいたように、別に勉は甘いものが嫌いなわけではない。
家でコーヒーを飲むときにブラックにするのは、単にめんどくさいだけだ。
そもそもの話、だいたい家では麦茶を飲んでいるので、コーヒー自体あまり飲まない。
もちろん用意するのがめんどくさいからである。今日は切らしているが、パック入りのアイスコーヒーならたまに飲む。
ひとり暮らしは余計な手間を省いてなんぼだと思うのだが、その理屈が茉莉花に通じるかどうかは疑わしいので沈黙を守る。
にやにやと笑う茉莉花の顔を見ていられなくなって、テレビのチャンネルを変える。
天気予報に始まり、大雨の中でリポートするアナウンサーやら気象庁のお偉いさんの会見やら。
どこもかしこも日本全土を覆う梅雨前線と台風の話題で一色で、特に目を惹く番組はなかった。
「何か面白いことあった?」
いつの間にか台所から戻ってきた茉莉花がテーブルにふたり分のホットコーヒーを置き、そのまま隣に腰を下ろした。
何気ない仕草で後ろに束ねていた髪を解くと、ロングストレートの黒髪が見事に流れ落ちる。
彼女が軽く首を振ると髪がきれいに波を打つ。勉の鼻先を甘くて暖かな香りが掠めた。
自宅のソファに学園のアイドルとふたりきり。しかもワイシャツで生脚だ。
あまりにも自然に不自然な状況が形作られて、心臓が不規則に唸り始める。
「いや、何も。明日にならないと天気は回復しないそうだ」
突然の接近に動揺したせいか、声が若干硬くなってしまった。
自分で気づくぐらいだから、茉莉花に気取られていてもおかしくない。
意識しすぎているのかもしれないと思いながらも、どうしてもギクシャクしてしまう。
「ふ~ん、電車もダメっぽい?」
「みたいだな」
テレビに表示されている大都市圏の巨大駅の画像は、勉たちが実際に目にした最寄り駅の光景に似ていた。
窓の外に目をやると、すでに見たとおり真っ暗闇。荒れ狂う雨と風の音が本能的な恐怖を呼び起こしてくる。
遠回りした末にずぶ濡れになりながらではあったが、無事に帰ってこられて何よりだったと、今さらながらに胸を撫で下ろす。
荒天真っ只中の外に比べて……室内の勉たちは、小さく平穏な空間にふたりきり。
否、この状況を平穏と呼んでいいのかどうかは判断に苦しむところだ。
部屋の主である勉の情緒は、さっきから乱降下を繰り返しているというのに。
胸中でハラハラな勉を余所に、隣に座っている茉莉花は、そっとため息をついた。少し頬を膨らませた彼女の漆黒の双眸は、テレビの画面に釘付けのまま。
どうかこれ以上何も起こらないでくれと願わずにはいられない。
ふたりの夜は、まだ始まったばかりであった。




