第32話 ウチの風呂場には、ミスコン覇者がいる!
ドアの開く音が空気を震わせ勉の耳朶を打った。ビクリと身体が跳ねる。
ゴクリと唾を飲み込んでから振り向くと――視線の先に茉莉花がいた。
覗かせているのは頭と肩だけ。大半の部分は擦りガラスが仕込まれたドアに遮られている。
肢体の大半はモザイク気味にしか見えないのに、桃色に染まった肩だけがハッキリと輪郭を描いている。
前髪からはポタポタと水滴が落ちて、そのまま柔らかそうな肌を伝って床に垂れている。
脳内妄想をはるかに超越した感動がそこにあった。一瞬で意識が漂白される。
「……あ」
言葉が出なかった。
あまりにもシンプルで強烈すぎる衝撃。
茉莉花の裸身には、それほどの破壊力があった。
しかして――彼女は、まだそのすべてを見せてはいない。
――これは夢なのか?
そんなバカげたことを真剣に考えてしまう。
「狩谷君、ちょっといいかな?」
「な、なんだ?」
違った。現実だった。そうでなければ幻聴を伴った幻覚だ。
否、ここに至るまでの道筋がはっきりしすぎている。言い訳不能の現実だ。
オーバーヒートした脳みそに無理やり再起動をかけて、喉の奥から声を絞り出した。
現実味のなさすぎる現実の侵食がヤバい。
「あのね、私の服なんだけど」
「服?」
「うん。ここに来るまでに濡れちゃったじゃない?」
「……そうだな」
「だから、私が着る服がないじゃない?」
「……そうだな」
狩谷家には乾燥機がない。これまでは不便を感じたことはなかった。
ひとり暮らしを始める際に『必要では?』と何度も親に尋ねられたものの、首を横に振ったのは勉自身だ。
洗濯物なんて普通に乾かしておけばいいだろうと思ったのだ。
母ひとり子ひとりの頃は、ずっとそうしてきたのだから。
……まさかこんな未来が訪れるなんて完全に想像の埒外だった。
今日という日を予知することができていたら、借金してでも買っていた。
「そうだなって……服が乾くまで裸でいろって言うわけ?」
「いや、いやいやいや、そうは言っていない」
今は壁に隠されている茉莉花の裸体、そのすべてが詳らかにされたシチュエーションを幻視した。
大事な部分だけ手で隠した彼女がIN自宅。暖まって桜色に染まった肌を隠すものは何もない。
羞恥のあまり朱が差した頬と潤んだ瞳。今にも泣きそうで、それでいて誘うような眼差しを勉に向けてくるのだ。
そして微かに開かれた唇からは――
想像しただけで鼻血が出そうだ。このままぶっ倒れて意識を失った方が楽な気さえしてくる。
頑張りすぎる己が理性を恨めしく思った。
「つまり、何が言いたいんだ?」
「だから、服を貸してって言ってるの! 察して!」
「……ああ、そういうことか」
察しろというのは無理があるのではないか。
咄嗟に浮かんだ疑問を口にするのはやめた。
せっかく風呂に入って身体を暖めても、着る服がなければ風邪を引いてしまうだろう。
彼女が服を要求してくるのは何もおかしな話ではない。
「ウチに女子の服なんてないぞ」
「え~、なんで?」
「なんでも何も、女性を招く予定なんてなかったに決まってるだろう」
「……そうなんだ、ごめん、変なこと聞いちゃって」
「いや、そんなに本気で謝られても困るんだが」
――おかしいのは俺の方なのか?
ひとり暮らしの高校生男子というものは、いつか家を訪れる女子のために着替えを常備しておくものなのだろうか?
自分で考えてもわからないことは誰かに聞けばいいのだが……幸か不幸か、尋ねる相手はいなかった。
「なんでもいいから適当に見繕って、よろしく!」
そう言うなり茉莉花は再び浴室に引っ込んでしまった。
しばしその場に立ち尽くしていた勉は、ゆっくりゆっくりと彼女の言葉を反芻し、頷いた。
肯定とも否定とも言い難い首の縦運動。それが何を意味しているのかは不明だった。
生まれてこの方、こんな理解不能なリアクションを取った記憶がない。
――適当に見繕えと言われても……なぁ。
ぎこちない手つきで額に手を当て、次いでずり落ちた眼鏡の位置を直す。
勉はそれほどファッションにこだわりを持つ性格ではない。
アルバイトで貯めた金だって、服に使うことはほとんどない。
茉莉花が言うところの『適当』に該当するものとなると、想像もつかない。
それでも、何も用意しないという選択肢もない。
彼女に全裸を強いるわけには行かないし、実際に全裸になられたら勉の勉が喜び過ぎて警察を呼ばれかねない。
「……仕方がないか」
胸の奥に溜まった息を吐き出した。
熱い熱い吐息だった。大きく大きく吐き出した。
『茉莉花のすべてを見たい』という欲求は、あまりにも大きかった。
何回も何回も深呼吸して、それでも収まる様子がない。
窓の外を見た。暗い空から冷たい雨が降っている。
頭からアレを浴びればひょっとして……などとかなり真剣に考えてしまう。
――落ち着け。立華は俺を信頼してくれているんだ。その思いを裏切るような真似はするな。
両の掌で頬を挟み込むように張った。少しだけ正気を取り戻せた気がする。
再び理性がグラつく前に事を終わらせねばならない。
自室に戻って使えそうな服を選び、脱衣所のドアをノック。
浴室から籠った声で『どうぞ』と了承を得てから中に入った。
摺りガラスの向こう側では、白く輝く裸身がくねっている。
――湯船に浸かっててくれないか!
心の中で唸った。
輪郭は明らかにされていない分、妙な生々しさが全身全霊で訴えかけてくる。
幻想的で蠱惑的な水音に理性が溶かされる。口の中はカラカラに渇いている。
全身を駆け巡る血を感じた。本能的欲望がフルスロットルで心臓が爆発しそうだ。
「ど、どれがいいかわからんから、立華が適当に選んでくれ」
「……そうきたか」
浴室から届いた声に込められた思いを窺い知ることはできなかった。
呆れられているように聞こえたのは、きっと気のせいだろう。
「と、とにかく服は用意した。俺は戻るから……あ~、ゆっくりしていってくれ」
「すぐ出るね。狩谷君だってシャワー浴びたいでしょ?」
「いや、別に俺は……ぐしっ」
「ほら、我慢しないで」
「だ、ダメだ! 頼むからすぐには出ないでくれ! 絶対に出てくるなよ!」
薄壁ひとつ隔てたところに全裸の茉莉花がいると思うと、とてもではないが平静ではいられなかった。
さっきのやり取りは彼女なりのジョークなのだろうが……本気で浴室から姿を現す可能性は否定しきれなかった。
『立華 茉莉花』という少女の貞操観念については、いささか疑問がある。
『お礼』とか言って勉に裸を見せつけるなんて……ないはずなのだが、絶対ないとは言い切れない。
逃げ出すように脱衣所を後にした勉の背中からに、クスクスと揶揄うような笑い声が聞こえた気がした。
「はぁ……たまらんな、これは」
まだ帰宅してシャワーを浴びているだけなのに。
今夜一晩泊めると約束をしているのに。
もうすでにこの有様である。朝まで理性がもつとは思えない。
「は~、いいお湯だった。狩谷君。おまたせ」
茉莉花の声。
いつの間に脱衣所から出ていたのだろう?
ドアを開ける音がするはずなのだが、まったく気がつかなかった。
「お~い、ふりむけ~」
「……すまん、心の準備が……ぐしゅ」
「ほら、早くしないと風邪ひくよ」
――クソッ!
『いったい誰のせいだと思っているんだ』
そう叫びたいのを堪えて、振り向いた。
心臓が止まりそうになった。
茉莉花が立っていた。
腰まで届く黒髪をタオルで拭いながら。
お湯で暖まったおかげか、肌は桜色に染まっていた。イメージどおりだった。
整い過ぎた顔に浮かんでいたのは、いつもと変わらない表情……否、揶揄うような目の光が増している。
身に纏っているのは、白いワイシャツだけだった。伸びやかな素足が根元近くまで晒されている。
……足の付け根の部分は、シャツの裾に隠れて見えなかった。




