第28話 ある梅雨の日の放課後に その2
本日2話目の投稿となります。
さっさと帰るのが良いと史郎と語り合ったにもかかわらず、勉はしばらく学校に残っていた。
校内において教室の次に訪れることが多い場所、すなわち図書室で本を探していたのだ。
公立の学校であるにもかかわらず、この学校の図書室は意外と多くの蔵書を抱えている。
単純に冊数だけ見れば市内の図書館の方が多いだろうが、あちらは利用者も多い。
対して学校の図書室は試験前を除けば、それほど多くの生徒が足を運ぶことはない。
年配の司書は真面目な人物のようで、結構まめにベストセラーの書籍が陳列されている。
生徒のひとりである勉にしてみれば、本を借りるなら図書室の方が都合がよかった。
『教師は大したことはないが、図書室には価値がある』というのが学校に対する勉の評価。
受験生向けの学校案内の『生徒の声』の欄には、とてもじゃないが載せられない。
そんな図書室も今日はさっさと店じまいということになっていて、下校時間を待つことなく追い出される羽目になった。
アルバイトもなく急ぎの用事もないとなれば、無料で本が読める図書室は時間つぶしに最適だったのに。
普段はあまり手に取らないジャンルの小説を読もうとしていたのだが、空振りに終わってしまった。
『まぁ、仕方がない』と肩をすくめて昇降口に向かう。あちらの言い分もわかる。
こんな悪天候極まりない日に生徒にダラダラと残っていてほしいはずがない。事故でも起きたらシャレにならない。
教師に対しては反抗的な勉だが、好き好んで揉め事を越したいわけでもない。
「……帰るか」
重い足取りで昇降口に向かうと、チラホラと生徒が残っていた。
誰もが傘を手にしておらず、空を見上げて不満げな表情を浮かべている。
恐らく自宅からの迎えを待っているものと推測された。
電車の運転はかなり危ういだろうが、車の方はどうだろう?
強風にあおられるわ、大雨で前が見えないわで散々な目に遭いそうだ。
――子どものためとはいえ、親は大変だな。
勉だったらこんな日には車に乗りたくはない。免許は持っていないが、持っていても勘弁してほしい。
でも……子どもからヘルプの電話がかかってきたら、親としてはどうにかしてやりたいと思うだろう。
と言うか、学校に放置するという選択肢がないのだから、迎えに行くしかないのだが。
いずれにせよ、徒歩圏内にひとり暮らしの勉には関係ない話ではある。
「あれ、狩谷君?」
「立華?」
下履きに履き替えたところで、背中から声をかけられた。
耳に優しく響く透きとおる声。甘くて爽やかで病みつきになる。
振り向けば、そこには学園のアイドル『立華 茉莉花』の姿があった。
いつもは軽やかに流れる黒髪が、今日は湿気を吸って重そうに見えた。
彼女の顔を目にするだけで、何となく心が浮き立つことを自覚させられる。
脳裏に史郎の顔が浮かんだ。イマジネーション友人曰く『それが友情か?』と尋ねてくる。
意味ありげな笑みを浮かべる脳内フレンドの顔面に、不可視の拳を叩き込んで黙らせた。
「まだ帰ってなかったんだね」
「立華こそ、こんな時間まで何をやっていたんだ?」
「ん~、ちょっと友だちと話し込んでた」
『ちょっと』と言うわりには歯切れが悪い。
あまり詳細に踏み込むべき話題ではなさそうだった。
『友だち』と彼女が口にしたとき、勉の胸に鈍い痛みが走った。
胸を押さえると、痛みはすぐに消えてなくなった。
でも、それはそれとして――
「こんな日にか? そんなことは家に帰ってからSNSでやればよくないか?」
「そう言われると、まぁ、そうなんだけど……直接話したいこともあるじゃん」
カリスマ的存在である茉莉花の元には、しばしば相談事が持ち込まれる……らしい。
彼女の魅力は外見だけに留まることはなく、多くの人間から頼りにされている。
対人関係が壊滅的な勉には思いもよらない世界だ。
「そういうもんか?」
「そういうもんです」
靴を履いた茉莉花は踊るようなステップで出口まで進み、
「雨、凄いなぁ」
「梅雨だからな」
可愛らしいボヤキ声を聞きながら、勉は鞄の中から折り畳みの傘を取り出した。
すぐ隣の茉莉花の瞳が、キラリと輝いた。
「狩谷君にお願いがあります」
「……なんだ?」
いきなりのかしこまった口調、この上もなく胡散臭い。
嫌な予感がした。彼女のストレートなお願いに振り回されてきた記憶が甦る。
周囲の様子を窺うと……かなり人気は減っていたものの、生徒の姿はそこかしこに見受けられる。
粘着質な視線を感じた。『ガリ勉ノート』を巡る一件で、勉は茉莉花にタゲられているという認識が広まっているせいだ。
『今度は狩谷か……』
『よりによってガリ勉かよ』
『いつまで持つかな』
『立華さんも節操ないよね』
恋多きカリスマである茉莉花の新しい彼氏候補として、これまでとは異なるやっかみを受けることが増えた。
正直、かなり煩わしい。慣れない感覚は居心地が悪いし、野次馬に話題を提供してやる必要性も感じなかった。
問題は――もうひとりの当事者がそのあたりをどのように考えているのか、これがわからない。だから迂闊に動けない。
表面上は平静を装っている茉莉花だが……これは男女交際にまつわるトラブルに対する慣れが違うのだろう。
勉のようにバリアを張って拒絶しているのではなく、当たり障りのない程度に上手く躱している。
真似しようと思ってできるものではなさそうだった。そういう自分が上手くイメージできない。
「そんなに身構えなくてもいいと思うなぁ」
茉莉花の声の調子はいつもと変わらない。
勉が身じろぎした原因を自身の『お願い』によるものと認識しているようだ。
観衆が向けてくる興味は問題視していない模様。彼女のメンタルはかなり図太い。
「……これまでの自分の行いを振り返ってみたらどうだ?」
漆黒の瞳に近距離から見つめられると、上手く口が動かなくなる。
どうにかこうにか絞り出した勉の言葉を受けて、茉莉花は豊かに盛り上がった胸元に手を当てて目蓋を閉じた。
白い掌が薄手の夏服に包まれた双丘に柔らかく沈み込む様が、男の劣情を刺激する。
絶対にワザとやっている。さして長い付き合いではないが、それくらいはわかる。
この美少女は勉に対してだけ、やたらとセクハラ的アクションをかましてくる。
動揺に身体を振るわせはしたものの、露骨につられて見せると大喜びされるので沈黙を保った。
レンズ越しにガン見しているが、さすがに目を閉じているからバレていない……はずだ。
しばしの黙考の後、目を開けた茉莉花はニコリとほほ笑んだ。
「というわけで、狩谷君にお願いがあります」
心当たりはない……ことにしたらしい。
つくづく罪づくりな少女だ。
振り回される側の人間は堪ったものではない。
……不快でないからこそ、なおさら堪ったものではない。
「わかった、わかったからさっさと言ってくれ」
「むぅ、そのぞんざいな扱いに抗議したい」
「却下だ。ほら、早く」
催促すると、何故かわざとらしいまでのため息をつかれた。
実に解せない挙動だった。ため息をつきたいのは勉の方なのだが。
「えっとね……駅まで送ってほしい、みたいな?」
首をかしげておねだりしてくる茉莉花。
黒髪がサラリと肩口から流れ落ちる。
案の定、ロクでもないお願いだった。
だって、学校の最寄り駅は勉の家とは反対方向なのだから。
即答を避けて外を見ると相変わらずの雨模様。
これからさらに激しくなるという予報を思い出した。
――送れと言われてもなぁ。
手元の折り畳み傘の軽さが、やけに頼りなく思えてくる。
再び視線を戻すと、期待に輝く茉莉花の瞳に射止められた。息が止まりそうになる。
とてもではないが断れる状況ではない。彼女を見捨てるなんて心情的にも無理な話。
さっさと帰ってゆっくり休むという勉のプランは、根底から崩壊待ったなしだった。




